ガラスでできた温室が巧みな設計によって建築や付属屋として取り上げられることはあっても、その亜種とでも言えるビニルハウスが建築の文脈で語られることはない。言うまでもなく、人の生を支える環境としてはあまりに頼りないからだ。ビニルは肌ほどに脆く、パイプは手首よりも細い。しかし、そのビニルハウスが映画に現れる時、親密な男女と彼らの脆くはかない関係性を捉える空間となる。それはなぜか。
親密さなしの接触
他者に触れることが都市をつくり発展させてきた。そして誰かに具体的に触れるとは、そこに広がる何らかの「あいだ」を取り除くことに他ならない。「あいだ」の除去は都市の原理であり命題であり、発展し続けるための目的ともなった。目的化した接触は「あいだ」を意味あるものとないものとに分けた。意味ある「あいだ」には壁や屋根が与えられ、目的の障壁となる「あいだ」はあらかじめ取り除かれた。都市空間は接触の欲望によって分別されたものだ。と、ひとまずは大雑把に言える。そしてその分別は、たとえば交通によって達成される。私たちは、都市から都市、建築から建築、ここからあそこへと苦もなく移動することができるようになった。
しかし、哲学者のジャン=ピエール・デュピュイは、イヴァン・イリイチの「逆生産性」概念を用いつつ、私たちにこの接触をもたらしてくれるはずの交通による「意味を欠いた空間」の抹消が「世界と他者への接触のための自律的能力」を破壊することもあると指摘する(a)。デュピュイによれば、ここでの「自律的能力」とは、「これからも絶えず経験することになるきわめて内的な一連の脅威に対して意識的で自律的な仕方で対峙する能力」のことであり「人間の拒否する能力」のことだと言う。
皮肉なことに、過剰に接触フレンドリーな世界では、誰も他者に触れられなくなっていく。というのは大げさにしろ、「自律的能力」を失った人間はどうなるのだろうか。具体的に、ひとりの人間同士のあいだで捉えてみると、触れられないで諦められるならまだしも、接触の希求は暴力的に達成されてしまうのではないか。暴力とは、デュピュイの言葉を借りれば、それ自体が「一連の脅威」であるだけでなく、「一連の脅威」を二者の力で乗り越えられないときに生じる様態のことなのではないか。暴力とは親密さなしの接触である。
いや、そんなことは皆が分かっている。そもそも、私たちは元から何らかの暴力を一切含まずに他者と出会い親密な関係を結ぶことなどあり得なかったのだから(b)。露骨なまでに、他者が致死性の存在であると見せつけたコロナ禍が「自律的能力」の破壊の帰結を一段飛ばしで顕在化させただけのことなのだとしたら、それは他でもなく「意味を欠いた空間」の抹消がもたらしたことであったのではないか。
では、取り除かれず必要とされた意味ある「あいだ」についてはどうだろう。「あいだ」をつくることが要請されるとき、「余白」や「バッファー」などと意味付けられた字義通りの空間を設けることはひとつの常套手段となっている。しかし、先の議論を受ければ、これもまた別の「意味を欠いた空間」の抹消なのではないか。いきすぎた「意味付け」もある側面では暴力を助長しうるのならば「意味付け」そのものを問い直さなければならないのではないか。それはあまりに大きな問いではあるが、コロナ禍がもたらした問いかけではある。私たちはどのようにしてもう一度触れ合えるのか。「意味を欠いた空間」を抹消せず、自律的能力を疎外しない空間とはどのようなものなのか。
温室文学/ビニルハウス映画
ひとつの足場として、文学/映画の中の温室/ビニルハウスについて論じたい。これまで、作家は文学作品の中で、温室空間を親密な男女とともに描いてきた。平野恵は、木下杢太郎「温室」(『和泉屋染物店』、東雲堂、1912年)や菊池寛『火華』(大阪毎日新聞社ほか、1922年)をもとに「温室=あいびきの場」との性向を指摘する(c)。またほかにも、ガラスハウスの内部で起こる謎の女と美青年、貴族の放蕩息子の3者による破滅的な恋模様を描く国枝史郎『温室の恋』(1924年)、ふたりきりで暮らす兄妹の報われない恋を描く岸田國士『温室の前』(『屋上庭園 : 戯曲集』、第一書房、1927年)があるが、いずれも温室が主要な舞台として描かれる。このとき温室は、単に舞台背景であることを超え、物語世界をかたちづくる場となっている。
本来は出会えなかったり、悲劇をひきうけていたり、踏み越えてはいけない関係であったり、こうした規範から締め出された人物らの親密さを描く点でそれらは共通する。ふたりのあいだが消え親密になる瞬間が温室の内部で発生する。まるで温室がなければふたりは触れられないかのように。
そして、このことは現代に至って温室の分化と言えるビニルハウスにあっても、また映画作品の中であっても、同様にかたちを変えつつ引き継がれていく。なぜ温室/ビニルハウスは、親密さに至る空間のモデルとなりえるのか。なぜこうした機微を捉える表象でありえるのだろうか。その表象はつくり手と受け手に何を了解させているのか。
このことについて、映画監督がどのようにビニルハウス空間を描いてきたかを見ていきたい。
そこで明らかになるのは、映画の中のビニルハウスは、その特質によって、人が他者に触れようとするなかで、否応無く生じる暴力と親密さの抜き差しならない関係を前景化する領域の表象であることだ。しかし、ここで試みるのは、ひとつのビルディングタイプについてその特異性を論じることでも、その空間を称揚することでもない。そうではなくて、2者が触れ合うと同時に触れ合わないとでも言うような「あいだを取る」ことの両義性を引き受ける空間について考察することである。まず、温室がこのような表象となる端緒がどこにあるのかを概観したい。
抹消の空間としての温室
1851年、ロンドン万博で披露された巨大な温室空間、通称クリスタル・パレス(水晶宮)はどちらかと言えば「意味を欠いた空間」の抹消を象徴する空間であるように見える。会場に集められる世界中の品物すべてをひとつの空間の内部に陳列すること。温室技師のジョゼフ・パクストンは、コストや工期、世論などの面で問題が噴出するなか、そのすべてを鮮やかに解決して見せた。諸外国からの必要面積の申請を調整し割り出された面積的要求に加え、伐採に対して世論から反対の声が高まっていた「ニレの木」を囲いこむため、「袖廊の高さ」が定められた(d)。理論上、無限に続くこともできる温室は、内部からの制約によってとりあえず途切れるだけの空間として適切だった。実現されたガラス温室には世界中から集められた10万点にも及ぶ数の展示品が分類別に所狭しと並べられた。ゆえに、世界のあいだに横たわる「意味を欠いた空間」の抹消という理想の宣言であるかのようだ。と、やや強引ながら言える。
そしてこの性質は、貴族に普及した温室にも引き継がれた。「明治30年代から華族や実業家の別荘や洋館の建築ラッシュ」に伴い「西洋風の温室」が付設された(e)。温室は、居間や応接間と同程度に重要視されていた。たとえば大隈重信邸にあった温室は、社交と啓蒙の場であったとされる(f)。こうして温室は他者と出会い触れ合う場となっていく。しかし建設技術の発展により、大規模な空間の実現は温室の特権的地位ではなくなった。ガラスの温室技術は近代建築へ引き継がれたが、他方で人間ではなく植物中心の空間としても分化した。ビニルハウスである。ビニルの大量生産が可能となった1947年以降、ビニルハウスは広く日本国内にも普及した(g)。かつて世界のすべてを内包しあいだの抹消を実現したはずの温室は、ビニルハウスに分化すると都市からの退場を命じられ、周縁部で野菜の生産に用いられることとなる。
さて、話を映画の中のビニルハウスに繋げたい。この建築の類縁にあたるビニルハウスが映画に登場すると、そこにはたいてい親密な男女がいるのだった。映画監督がどのように温室空間を描いてきたかを確認する。
根岸吉太郎の場合
根岸吉太郎監督『遠雷』(1981年)は、隣接するビニルハウスとマンションを対比的に映し出すことで、都市化によって失われつつある「村」の共同体への郷愁と、その中で結ばれる男女、溢れ落ちる男女を対照的に、かつ紙一重のものとして描いた(h)。ビニルハウスで男女は肌を重ね、男同士は殴り合う。劇中、人物の関係の多くがハウスを中心に描かれる。たとえば、主人公の満夫が関係を持つことになるマンションに住む女は、「トマトを売ってくれ」と訪ねてくる。また、実は婚姻関係を解消していなかった女の旦那が不気味な笑みを浮かべて脅しにくる。さらに、その女を「寝取られた」と立腹した親友は、ビニルハウスの側面を強引に押し上げて侵入し、行為の最中の満夫と殴り合いになる。
原作者の立松和平は、自身の来歴と重ねつつ「都市が病的に肥大していく近代日本の現実は、都市近郊農村に奇形となって集約してくる」と言う(i)。さらに、「ビニールハウスの農業は、狭い土地に元手も手間暇も集約的にかけ、まるで工場のようだ。(中略)だが、そんな人間の状況にもかかわらず、赤く輝くトマトは美しい。生命力をたたえたトマトは内側から発光するようで、エロチックですらある。」と続ける。立松−根岸は、周縁の外部に位置付けられ「奇形」が集約されたビニルハウスにおいてもなお消えない生命の美しさを描いたのだ。
しかし、現代的な視点に立てば、その周縁はさらに外部を生み出していることに目を向けざるを得ない。この周縁のビニルハウスへと集約し続けた運動は、その内部に居る人間、特に登場するすべての女性へとさらに「集約」されている。品定めされ満夫のもとに嫁ぐヒロイン。神経質な旦那から逃げるように満夫や親友と関係を持ち、ついに親友に殺害されることを選ぶ女。あるいは、満夫の父が家庭の外で交際し依存し振り回される女。暴力は、周縁の外部を生み出していく運動のそこここで起きる。このようにビニルハウス映画が排除される女性を映し出す傾向は以降に取り上げる2作品においても共通する。ビニルハウスは周縁の際に置かれたことで、図らずも同じく周縁の外部に置かれた人間を描き出す。『遠雷』のビニルハウスは男性中心主義的な社会にあって疎外される人間を描き出す場となっている。
イ・チャンドンの場合
黒煙をあげ凶暴に燃え盛るビニルハウスの前に立ちすくむ少年がいる。村上春樹「納屋を焼く」(『螢・納屋を焼く・その他の短編』、新潮社、1984年)を原作に映画化されたイ・チャンドン監督『バーニング劇場版』(2018年)は、「意味を欠いた空間」としてのビニルハウスを映し、その抹消までを描く。物語は韓国に暮らし作家を志すジョンス、彼が想いを寄せる幼馴染ヘミ、そして彼女が旅先の空港で出会い親しくなる裕福なベンの3者による奇妙な男女関係を描く。ある日、ベンはヘミを連れて高級車でジョンスの実家に訪れる。親しげなヘミの様子に苦々しい表情を浮かべつつも楽しい時間を過ごす3人。ヘミが酔いつぶれ、ジョンスとふたりきりになったベンは「ビニルハウスを焼く趣味がある」と告げる。その翌日からヘミは姿を消す。
ベンは裕福ではあるが、接触の確からしさを求めつつも充たされない思いを抱える人物として描かれる。彼は「汚いビニルハウスが韓国にはたくさんあります」と言う。疑念を持ちベンの自宅を訪ねたジョンスが、サニタリーにある多くの女性もののアクセサリーが収められた小箱のなかにヘミのものを発見する。ビニルハウスがヘミをはじめとする女性らの隠喩であることが明示される。
なぜ、ベンはビニルハウスを焼くのか。山根由美恵は村上の原作について、改稿の観点から、納屋を焼くとは「自分自身を維持するために無意識の領域にある闇の部分を消去する」行為であり、「説明し過ぎ」な改稿後の〈全作品版〉は曖昧さを排して物語へと舵を切ったことの証左として分析する(j)。これを受ければ、イ・チャンドンによるサスペンスを強調した映画化は、原作の延長に位置付けられると言える。
しかし、ではなぜ納屋ではなく、ビニルハウスでなければならなかったのだろうか。納屋と思しき建物は劇中にも確認でき、ほかに積極的な理由があるように思われる。夏目深雪は、ふたりの作家を、「ファルス中心主義」に対する態度の違いから論じる(k)。これまで権力に抵抗する側を自身の作品で描いてきたイ・チャンドンに対して、村上春樹を「女性に犠牲を負わせ、その罪悪感と鎮魂のなかで生きていく男性の主人公」を描いてきた作家として批判的に捉える。そして、次のように分析する。
『バーニング』は(貧乏でも)こぎれいな格好をし一見平等に見える3人が、どこまでも平野が続く大地を見ながら(表面的には)穏やかに酒を飲む──しかしそこには分断と破局の萌芽が内包されている──そんな現代的な「地獄」を描いた。
重要なのは「一見平等に見える」点であり、それが「現代的」な「倫理の暗がり」であるのだ。実際の納屋はあまりに多種多様で個性的である。映像化に際して、個人が凡庸な連続としか認識されていないことを示すためにビニルハウスでなければならなかったのだ。さらにいえば、ジョンスがヘミを求めて探し回るビニルハウスの多くは、生産施設としてのそれというよりも荒れ果てたものばかりである。より限定された粗雑きわまりなく見える凡庸さなのだ。
ビニルハウスはそのことによって、現代的な人間を描く表象となり得ている。しかし、これだけではビニルハウスの特性を論じたことにはならない。よりその空間に踏み込んだ作品についても論じるべきだろう。
井口奈巳の場合
物語において重要な役割を担う空間であるだけでなく、建築の一部に組み込まれたビニルハウスを映す映画がある。ここでのビニルハウスは、より人物の表象として機能するだけでなく、男女のままならない親密さの動きのなかで、他者から押し付けられる規範が固定化されない様を鑑賞者が捉える支えとなる。
19歳のみるめと39歳のユリの恋模様を描く『人のセックスを笑うな』(2008年)は、山崎ナオコーラの同名小説(河出書房新社、2004年)を井口奈己が映画化したものであり、年齢差や社会的性差として現れる規範それ自体を揺さぶる作品である。
ビニルハウスはユリのアトリエにある。アトリエは東京近郊の静かな街の果樹園か植木畑かと思しき木立の脇にある木造平屋建の小さな住宅で、頂部で半分に割られたビニルハウスが庭に面する掃き出し窓を覆うようして取り付けられている。
この設定は原作にはなく、映画化に伴い新たに加えられたものである。そのやや風変わりな形状で、シーンの多くを占めることから強く印象を残す。また井口は長回し撮影によって俳優の「自然体」な演技を引き出すことを企図していることが指摘されており(l)、この空間がつくり手の明確な意図を含み、映画美術として用意された空間であると考えられる。そのため、前の2作品とは異なり、設計対象として見る視点も導入できるだろう。
ユリは手慣れた手つきで、鍵を取り出してビニルハウスを開けて入る。内部に入ると建物の床と同じ高さのデッキがあり、そこには椅子が一脚と小さなランプが吊るされ、中央には白く半球状に膨らんだオブジェが置かれている。このオブジェは、「前の住人が置いていった」ものであるとユリから明かされるものの、誰かがいていなくなったことのみがみるめの意識を霞めるだけだ。建具は外され、建物内部とビニルハウスは一体として使用されている。そこで、ユリは制作にふけり、同時にみるめがなし崩し的にヌードモデルをする空間であり、ふたりが愛し合う空間でもある。意味深な不在を横目にしつつも、ふたりは抱き合う。ビニルハウスの内部に言及する部分は少ないものの、行為を重ねるたびに、ビニルハウス(と内部のオブジェ)は象徴的に画面を占有し、鑑賞者にここがなにか特別な場所であることを印象付ける。
ところで、先のアプローチの仕方によって、この建物は、いわゆる「リビングアクセス」と呼べるだろう。しかし、本来目指されるような内部が表情として表に出ることはない。表から見えるのは乳白色の不透明なビニルで覆われたビニルハウスだからだ。内部は、最も秘密にされるべき空間であるにも関わらず、外部から遮断するのはビニルという薄皮1枚の膜であり、無機質で内側を透かしもする「表情」なのだ。そこにユリという人間を見てとることは容易である。
先へ移ろう。真っ暗なアトリエにふたりで再訪するシーンでは、ビニルハウス内部にあるオブジェだけが怪しく発光し、過去の存在の「不在」が強調された空間を背にすることで、ふたりの存在と親密さがより際立せられる。何度かの逢瀬を経たふたりであったが、その関係の終わりはユリが大学を辞めたことによって突然訪れる。
ユリはみるめの前から消え、ビニルハウスの役割は反転する。ユリを求めて、みるめはアトリエを訪れる。建物の前でみるめは、アトリエの前を所在無く行ったり来たりするが、そこにユリはいない。ビニルハウスは閉ざされており、中に入ることはできない。ビニルは非常に脆く、突けば破け侵入することもできる。しかし、乳白色のぼやけたビニルは内部への視線を跳ね返すのみである。ここでは、他ならない親密の空間を支えていたものが、不在(=接触の不可能性)としての空間へ反転している。
たしかにそこは、ふたりの秘密を内包する場所ではあったが、はじめから「不在」も内包されていた。今度はユリの「不在」でしかない「無意味」がみるめの前に現れ、秘密が「不在」を象徴する無意味によって隔てられている。というよりむしろ、秘密がほとんど無意味と同化する。この空間は、性愛の成就や婚姻関係をゴールとせず、一見冷徹で破綻しても見えるが傷つきやすくもあるユリという人物とみるめの関係を十全に表す。ビニルハウスはその表象なのだ。
あいだを取る
表象のビニルハウスは、あいだの抹消と同時に、人間の暴力性と親密さを露わにする。映画の中の温室から、他者に触れる際の「あいだを取る」ことの両義性について論じた。
婚姻と破滅という対照的な結末が「男の友情」を分かち、「近代日本の現実」が「奇形となって」集約する周縁に位置付けられたことで、その外部にいる女性の排除を露わにしたビニルハウス(『遠雷』)。暴力によってしか他者へと触れ得なくなった人物が、その倫理の暗がりを押し付け焼却される凡庸さとしてのビニルハウス(『バーニング 劇場版』)。秘密と不在のかたちをした無意味を同化させることで、人物とその関係を表象するビニルハウス(『人のセックスを笑うな』)。
親密さの有無を前提とした不明瞭なライン上で、いくつかの映画に立ち上がるこうしたビニルハウスは、ふたつの矛盾する領域が危うく交錯する場の形象なのであった。中央的な権力が薄れ、ただふたりで埋めるしかない「意味を欠いた空間」の表象としてビニルハウスはある。衝突のなかで意味が宙吊りにされ、人が親密さと暴力性とに揺れる空間なのだ。
ビニルハウスこそが新たな建築像を提示するなどと言いたいわけではないし言えるわけでもない。しかし触れ合うことに挫折し、大きく社会の前提が問われると同時にその忘却さえ望まれつつある今、もう一度、近代建築の端緒であった温室の片割れから捉え直してみることも、まったく無駄なこととは思えないのである。コロナ禍に「終わり」があるのだとしても、応急的に生じさせたソーシャル・ディスタンスやアクリルパーテーションをただ取り去ることで、終焉を言祝ぐべきではない。
参考文献
a. ジャン=ピエール・デュピュイ『ありえないことが現実になるとき──賢明な破局論にむけて』「運命、リスク、責任」(筑摩書房、2012年)
b. 斎藤環「人は人と出会うべきなのか」(2020年5月30日、最終アクセス2021年7月15日)
精神科医の斎藤環は「臨場性」を暴力の観点から論じた。
c. 平野恵『ものと人間の文化史152 温室』「第九章 文学に見る温室」(法政大学出版局、2010年)
d. 松浦昌家『水晶宮物語──ロンドン万国博覧会1851』「3. 設計の危機──そしてジョゼフ・パクストンの登場」(リブロボート、1986年)
e,f. 前掲c「第Ⅲ部 身近な温室へ」
g. 小澤行雄・内藤文男『園芸施設学入門 改訂増補版』「1. 施設園芸の意義と沿革」(川島書店、1993年)
h. 長島明夫+結城秀勇『映画空間400選』「234 遠雷」(LIXIL出版、2011年)
i. 立松和平『遠雷』「遠雷の風景」(河出書房新社、1983年)
j. 山根(田野)由美恵「二つの納屋を焼くー同時存在の世界から『物語』へー」(広島大学大学院研究科論集 第69巻)
k. 夏目深雪「イ・チャンドン『バーニング 劇場版』と村上春樹──「韓国映画らしさ」とグローバリズム」(ユリイカ2020年5月号 no.758 vol.52-6 特集 韓国映画の最前線、青土社)
l. 高木和真「長回し撮影と同時録音から生まれる井口奈己監督の「自然体」」(大阪市立大学表現文化学専修・表現文化コース査読誌『表現文化』7巻、2013年)
中島亮二(なかしま・りょうじ)
1992年岐阜県生まれ/2016年新潟大学大学院修了/同年〜東海林健建築設計事務所/現在は家業である農家として働きながら設計・制作活動を続ける