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2021.10.01
Competition

コロナの時代の私たちと建築

新建築論考コンペティション2021 結果発表+審査講評

審査員 青木淳 主催 一般財団法人吉岡文庫育英会 株式会社新建築社

今を書き留め、建築、都市を考え直す論考コンペティションを新しい試みとして開催し、20代から60代まで幅広い層から61本の論考が寄せられました。本年8月に青木淳氏による厳正な審査が行われ、1等から佳作まで9本が選出されました。1等は『新建築』建築論壇に掲載され、10月中旬には全9本を「新建築オンライン」で配信します。


1等(賞金30万円)
夢の中で暮らすことから始まる都市の公共性のこれから──ロックダウンとコロナ禍の閉じた体験が開いた可能性
石田康平(東京大学大学院博士課程)

2等(賞金15万円)
いま、建築を知覚することについて
風間健(KAJIMA DESIGN)

3等(賞金5万円)
箱の中のみかん──共振する移動制限と施設収容
坪内健(北海道大学大学院博士課程)

佳作(登録番号順)
エスクの力
新澤小輔(フリーランス)

電気羊と野生の身体
下田直彦(カナバカリズ)

線に潜む特別な日常──ありのままの、わたしの2020
宮内さくら(千葉工業大学大学院)

感覚的思考の鍛錬へ
岡野愛結美(フリーランス)

彼自身による彼の文章について──そして、建築について
中井茂樹(フリーランス)

私たちが取りうるもうひとつのあいだ──表象のビニルハウス論試論
中島亮二(中島農園)



審査講評

肌身で感じたこと、切実なこと

青木淳(建築家)

切実なこと、のっぴきならないこととして、迫ってくる。そこから逃げることができない。一歩引いて、俯瞰して考えてみる余裕もない。追い込まれた、そんな感覚から発さない思考、行ないは、たいていが薄っぺらい。だからまずは、当事者になるべきだ。それが叶わないなら、わが身の感覚を、当事者の感覚に擬え、同化させるべきだ。人間には、他人の気持ちを自分の気持ちとする能力、想像力が備わっている。そこが人間が他の類人猿と違うところ、と動物行動学者の岡ノ谷一夫さんから聞いたことがある。もちろん、感覚の中に留まっていては、先に進めない。俯瞰すること、抽象化することも必要だ。それでも出発点には、切実さがなければならない。出発点だけでなく、その先もそれが核になっていなければならない。
これは建築を設計する時にも言えること。多くの場合、設計者は当事者ではない。住宅だったら住まい手、商業建築だったらクライアント、公共建築だったらそこにさまざまな立場で、顕在的・潜在的に関わる人びとが当事者である。だから私たち設計者は、想像力をもって、自分の感覚をそれら当事者の感覚に仮託する。その上で、切実さを核として、設計に取り組む。
この行ないは定式化しにくい。なぜなら仮託して得た当事者の感覚は、あくまで想像上の感覚だからだ。実際の当事者と寸分違わぬ感覚ではあり得ないし、そもそも当事者の感覚そのものも揺れ動き、本来的に像を結ぶものではない。しかし設計が創造的であるとすれば、そうした行為ゆえかもしれない。設計を進めるとは、建築物というモノを設計するだけでなく、それと同時に、自分の感覚と相手の感覚を設計することでもある。
課題文でこう書いた。「コロナ禍にあって、あまりに『あたりまえ』すぎて、それまで意識に上ってさえいなかった生や社会の前提や基盤を、私たちが肌身に感じたことも事実。」 そう、肌身で感じたこと、切実なこと、のっぴきならないことが中核になければならない。人ごとではダメ。自分に跳ね返ってくるものだけが大切。それは、設計でも、論考でも同じことだ。コロナの時代を同時代として生きている61組もの人たちから論考が寄せられた。人類の歴史を辿る壮大なものや近代建築全体を視野に入れた野心的なものから、ごくごく身近な身辺を綴ったものまで、千差万別な視点があった。その中から、その先を考えてみたくなった論考をいくつか選んだ。つまり選んだのは、それを延長していくとどこかで私自身の「つくること」とクロスする予感があった論考である。刺激的だった論考、とひと言で言ってもいい。
しかしそれらは、なぜ刺激的なのか? それらが共通して「肌身で感じたこと」を核としているからだと気付いたのは、正直なところ、読んでしばらく経ってのことである。
多くの読者にとっても、それら論考の先を自分で考えてみたくなるものであることを願っている。

1等の石田康平さんの「夢の中で暮らすことから始まる都市の公共性のこれから──ロックダウンとコロナ禍の閉じた体験が開いた可能性」は、具体性と抽象性とのバランスをうまくとりながら、自身のこれまでの都市や建築での経験、コロナ禍にあってほとんどの人が経験したはずのこと、そしてそこから導かれた「調査」と「実験」の間を往還し、建築の側から今こそ考えるべき課題を導き出している。その課題とは、閉じることと開くことの今日的なあり方、ということになるだろうが、それはまた、「開く」とは物理的に開くこと、と幼稚にも勘違いする建築界への批判でもある。
2等の風間健さんの「いま、建築を知覚することについて」は、前半部で、全知覚の中での視覚の専制、またますます解像度を増した視覚情報世界になるだろうという未来予測が記されている。その気付きと指摘は、今回寄せられた論考の多くに共通する視点であるが、それが中立性を保って書かれていることにおいて、それら論考の代表として挙げるにふさわしいと考える。後半部では、物理的建築に代替する高解像度のヴァーチャルとしての建築とは逆に、私たちの想像力がなければ成り立たない低解像度のヴァーチャルとしての建築の可能性が語られている。確かに、光学的リアリティを追求した結果、写真の登場によりその存在意義を失った絵画と、その方向への決別としての近代絵画の成立という図式とパラレルな事態として、これからの「建築」を構想することができるかもしれない。
3等の坪内健さんの「箱の中のみかん──共振する移動制限と施設収容」は、分断についての、それこそ切実な体験にもとづく論考である。箱とは内外を分けるものであると同時に、内外が出会う境界面でもある。コロナ禍にあって、私たちもまた「収容」されているのであって、施設に「収容」された人びとを想像して理解し、彼らと仲間になれる共通の地盤を獲得できるはず、との期待は、現実社会がそうはなっていないことへの叫びとして、また「建築に携わる専門家」へ訴えとして響く。

青木淳

1956年神奈川県生まれ/ 1982年東京大学大学院修士課程修了/ 1991年青木淳建築計画事務所設立(2020年ASに改組)/ 2020年品川雅俊をパートナーに迎えASに改組/ 1997年「S」(『新建築住宅特集』1312)で第13回吉岡賞受賞/ 1999年「潟博物館」(『新建築』9710)で日本建築学会作品賞受賞/ 2004年「ルイ・ヴィトン表参道ビル」(『新建築』0210)でBCS賞(建築業協会賞)受賞/主な著書に『青木淳ノートブック』(平凡社、2013年)『Jun Aoki COMPLETE WORKS 3:2005-2014』(LIXIL出版、2016年)『フラジャイル・コンセプト』(NTT出版、2018年)

青木淳
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