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2021.10.20
Essay

彼自身による彼の文章について──そして、建築について

新建築論考コンペティション2021|佳作

中井茂樹(フリーランス)

関係

本当は「新しい形態」などというものは在りはしないのだし、建築はどんな場合でも形態の問題ではなく形態の関係の問題なのであり、建築を刷新する者のみが建築家たり得るのだ。(a)

彼が以前書いた論考で引用したジョン・サマーソンの言であるが、「関係」という概念が今でも有効であることは確かだろう。「関係」の階層構造を認識し、「関係」の解像度をその都度合わせていくことが「生きる」ことなのである。シャルル・ボードレールによれば、想像力とは「関係」を扱う能力のことであった。創造する人間は、自らの中に持ち得る二律背反とも思える「関係」の葛藤を、自身で体現することの不可能性を承知の上で、想像力に託し、創造行為へと昇華させる。

創造することとは新しい何かを生み出すことではなく、生きつづける“関係”を見出すことなのである。(b)


関係性の時代

彼は昨年執筆した小説家古井由吉(1937〜2020年)に関する評論の中で、見田宗介、大澤真幸の定義を下敷きに、2005〜20年を「関係性の時代」と名づけた。従来の人の関係と言えば、時間と空間を共にするものが主であったが、今は「関係性」さえあればよいのである。「関係性」こそが、私と他者を結びつける。なるほど「関係性」があらわになったことで、私と他者における「必然」の結びつきが可能になったわけであるが、果たしてそれは(都市にとっても)喜ぶべきことなのか。「関係性」のマッチングとフィルタリングが蔓延する中で、「私と他者の問題」が緊急の課題として浮かび上がるのである。
(ここに空間を扱う建築の問題が含まれていることは言うまでもないだろう。私と他者を結びつけるものが空間ではないとしても、建築は、私と他者の「関係性」を継続して築くために存在するからである。)

エッセイズムとは

小説ともエッセイともつかない古井由吉の文章を、古井自身は「エッセイズム」と表している(c)。古井は「ものを書く」という創造行為の初期段階から、自らの表現をこの言葉によって一貫して試行しているのである(建築家はこの事実に刮目せよ)。古井のエッセイズムは、長篇小説『槿』(d)を境にして前期と後期に大別することができる。「前期エッセイズム」の主たるものは、形式としては長篇小説と銘打つ、物語性の強い小説らしい小説のことであり、「後期エッセイズム」は、主に短篇連作のかたちを取り、物語性がきわめて少ないエッセイに近しい小説のことである。
(批評の存在意義とは、対象を体系化し、関係を見出し、論理を構築することにある。)

私と他者の問題

物語は私か他者のものである。では、前期エッセイズムとは「私と他者の問題」の探究だと捉えることができる。小説における「私」は、私から他者へ、他者から私への往復運動であり、その中で「私」の度合いを模索していくのだが、これは小説にとどまる話ではない。「関係性の時代」に、多くの他者をその人の「文章」を通して知ることとなったのは改めて言うまでもなく、私と他者の往復運動はさらに活発化しているのである。私が別の私になって文章を書く、私が「他者」になること。私と他者が接近したことは好ましいことではあるだろう。もはやそこここに他者が存在することを認めざるを得ないのである。
(期せずして、「関係性の時代」後の世界における「私と他者の問題」は大きく転換するだろう。文学においてこの問題が先鋭化して現れるのだとしたら、建築はそれを軽視することができるだろうか。)

建築から文学へ

S・Nが建築から文学へと領域を移行したことには相応の意味がある。建築の領域において、批評が機能していないことに対する疑問からである。ある領域に評論を提示する場が存在しないのなら、生存戦略として適する場所に軸をずらすことは自然な流れである。別の軸に価値を見出すことで、ともすれば批判的にふるまうことさえ可能になるのである。
(ここに今後の世代が考えなければならない問題が含まれている。たとえば、映画を一定数観る時間と費用は、昔とは比較にならないくらい軽減されている。他領域を一定水準以上で会得する人間が次々と現れ、会得しないことには立ち行かなくなるのではないか。建築を美術の価値基準にずらすことは、持続性の観点からひとつの方法ともなるだろう。「芸術を兼ねる」ことが、ひいては建築の領域を強化し、緩やかな組織形態や都市のための協働に繋がるはずである。)

ある、いる、ない

木村敏は「居場所について」(e)という講演において、日本語で「存在」を意味する語、「ある」と「いる」の相違を語っている。人間は「いる」ものであって「ある」ものではないというのが通常の理解であるが、「いる」ことができると同時に「ある」こともできるのではないかと木村は提言する。身体を所有するということは、物体として「ある」ということである。身体を有することによって、「いる」と「ある」の2重構造を生きるのが人間であって、この差異構造が人間の意識に「自」と「他」の観念を生み出すのであると。要するに、「いる」とは私のことであり、「ある」とは他者のことになるだろう。彼は前期エッセイズムの小説の分析を通して、「不在」と「妄想」という概念を抽出した。物語とは、「ない」によって生まれるものなのではないかと仮説を立ててみたのである。私が「いる」ことが基本の状態であるとして、そこから私と他者の距離がもっとも変化するのは私がどうなった場合か。それは私が「いなくなる」ことだろう。つまり「いる」が「ない」になること、「不在」である。逆に、「ない」を「ある」と捉えることは何であるか。現実にないことをあると思い込む想念、「妄想」のことである。「いる」と「ある」では物語は加速せず、「ない」が物語を加速させるのである。
(文学が「ない」から始まるものだと仮定すれば、建築は「ある」を生み出すことから始まるものではないか。)

大地に建てる

建築は、大地に「ある」を存在せしめる営みである。
『新建築住宅特集』2021年1月号の特集「2021年 住宅のこれから」の住宅プロジェクトの解説文の中で、「大地」という言葉が私の目を引いた。「大地の上で暮らす」(西沢立衛)、「大地と快適に過ごす」(渡辺菊眞)、「大地と空間の間に新しい合理性を生み出す建築」(武田清明)。「大地」は、文学的想像力よりも建築的想像力と親和性が高いであろうし、大地という「大きな地」が、住宅という「小さな建築」と対比的に語られていることに重要性を感じたのである。住宅は、私と他者が「いる」ために必要とされ、私と他者の「関係性」を心地よく保つために設計されるものである。言ってしまえば、私と他者だけでも成立してしまう。ましてや「大地」と言っても地図上では起伏がほとんど現れない範囲のことであり、住宅に対する影響関係を考慮することは稀かもしれない。しかし、変化は小ささから生じ始めるものだろう。住宅という小さな営為が「大地」を意識することに小さな希望を見出している。
(「大地」は私でも他者でもないものである。)

「他者性」

彼が後期エッセイズムの小説の分析によって抽出した概念は、以下の通りである。夢、死、病気、老い、時候、自然となる。これらは私ではどうにもならないものたちである。すなわち、私ではない。そして、他者でもない。ただ、私や他者に確かに関わるものである。私や他者を通した「他者性」と言えるだろうか。小説(他者)ともエッセイ(私)ともつかない古井由吉の文章は、「他者性」としての文章なのである。もはや私に限りなく他者が接近しているのが現状であれば、「他者」ではなく、「他者性」こそが(建築や都市にとっても)考察すべき対象なのではないか。それを踏まえた上で、また他者に向かえばよい。先の「大地」は、この「他者性」に含まれるものだろう。(では、「他者性」としての建築は何か?) 感染拡大を助長する過度な経済活動、それによって起こる自然破壊。「他者性」の脅威をことさら強く感じることとなった現在、ひとりひとりが「他者性」と向き合っているという認識と姿勢を忘れてはならないのである。
(他者であれ他者性であれ、私がそれらといかに距離を取るかという「距離の問題」に行き着く。)

彼の手紙から

作品と批評は弁証法的に機能すべきであり、昨今の評論の多くは「よくできた解説」の域を超えていないのではないでしょうか。おそらくこれは、「正しさ」の問題とも関係していると思います。コロナ禍である現在、それを取り巻く政治を鑑みるに、一層「正しさ」が希求される状況ですが、正しさは間違いが存在しなければあえて言う必要がないものです。この部屋で自由に過ごしてくださいと言われれば、正しいこと間違ったことの区別は出てこないでしょう。つまり、「正しさ」とは往々にして、マイナスをゼロに近づけることではないか。評論もこの「正しさ」を伝えることとほとんど同義になってきてはいないでしょうか。正しさを滔々と説くことも大事ですが、ものを書く人間はとりわけ、未来を志向したプラスの提起をすべきではないかという思いが私にはあります。正しさには間違いは含まれず、正しいと思った時点で思考は停止する。片や、プラスの提起には間違いを含む可能性がある。その疑念がさらなる思考を生み出すのではないか。これが真なる「批評」の有すべき役割ではないでしょうか。(f)


社会を考える

彼の中で「言葉」は、対象との距離を図り、そのあいだを繋ぐために存在する。古井は、小説とは本来出来事を出来事たらしめる営みだろうと述べているのだが、出来事それ自体が強度を持つことについて今こそ考えておくべきだろう。古井の場合はそれが空襲体験に当たるのだが、古井はこの時の恐怖を自身の小説において何度も繰り返し描写するのである。なぜか? 言葉はあいだを繋ぐために存在するからである。そこで、S・Nと同世代の作家であるパク・ソルメの小説について記しておかねばならない。強度のある出来事に相対するまなざしと筆致は時に痛々しくもあるが、語り手の繊細な距離の取り方と実直な向き合い方は、誰かに、または誰にというわけでもなく、いや誰にでもないものにさえ言葉を投げかける。なるほどたとえ一言であろうとも、語ることとは社会と関わることなのだ。彼の論考が理論であるなら、彼(あえて彼と書く)の小説はその実践なのではないかと目を疑うほど共振していたのである。
(物語は出来事の連続だと考えるのが一般的である。建築や都市はその出来事が生まれる場所となるだろう。)

文学から建築へ

私が関心を抱いている現代小説に、「遊歩小説」とでも呼ぶべきものがある。遊歩小説では、「一般的な物語に見られるような大事件は起こらず、主人公の身の回りの出来事やそれらに関する観察が綴られる」と、木原善彦は「訳者あとがき」で説明する(g)。移動が制限されたことで、身の回りをより意識するようになったのは確かだろう。都市の移り変わりも急速化し、「多様性」と安易に表されやすい建築言語の更新が望まれる中、多様であることを目的としそこで思考停止するのではなく、多様であることから考え始めなければならない地点にいるのである。人が集まれ「ない」、都市に賑わいが「ない」。だが、建築は「ある」。物語は「ない」から加速するのだとしたら、人が「ない」状態であるからこそ、都市の「ある」を観察する機会ではないだろうか。木村敏によれば「ある」とは他者であったが、ここでエマニュエル・レヴィナスの解釈をさらに用いるなら、「ある」は他者性をも含むものである(h)。自然環境を含めた都市を構成する「ある」を記述すること。その際には、ヴァルター・ベンヤミンの一連の著作が示唆を与えてくれることだろう。
(中でも遊歩者の観察記である『パサージュ論』は、主に引用の断片を繋ぎ合わせた映画的構成を持つ。)

断片性/連続性

映像は「いる」「ある」を記録することであり、映画はその視点を見出し映像の断片を編集することだと言える。古井は、長篇小説(前期)から短篇小説(後期)へと移行したのだが、古井の短篇小説の形式は断片を繋ぎ合わせた構成を取る。この分割傾向は、現代人の心性と馴染みが深い。なぜなら現代の文章を生み出す形式は、断片化されたものが主だからである。同じく映像の断片もあふれ返っている。思えば現代人の日常は、時間によって細かく断片化されている。しかし活動と空間が制限されると、反動として時間の連続性が強く感じられたのも事実である。離れることと集まること。建築や都市は断片と連続で成り立つのだから、そこには映画的想像力が求められる。

詩的な

私はかの女の寝息と寝言をかきわけかの女の匂いからはなれ木炭の棒っ切れを整理整頓するいや木炭の棒っ切れを集めこの密室と同じ回路の迷宮を設計することに努める黒い家具を組み立てることに努める黒い碑文の掃除に勤しむむろん棒っ切れに読み解くような物語はない恋愛の物語もない夢の物語も死の物語もないただ性愛の睦言の断片が読めない文字で書かれているのかもしれないしかしばらばらの破片をもっとばらばらな順列で組み換え不可解な建造物に組み建ててゆくだけの私は玩具の迷宮にまよっているだけだろうか私は玩具の迷宮に閉ざされているだけだろうか(i)


人間と空間

人と人とのあいだに可視化された透明な境界、すり込まれた半径2mの距離感。これらの身体感覚をどのようなスケールの空間に落とし込んでいくのか。空間における人の密と疎、私と他者が近づくのか離れるのかの選択。他者と関わるための空間の構築。私と他者を結びつけるものは時間でも空間でもなく、「関係性」であると先に述べたが、では極端な話、「関係性」さえ享受できれば他者すら必要がないという意見にもうなずけるだろう。机上の空間、つまり広大な電脳空間にさえ繋がっていれば人はひとまず満たされる。しかし、本当にそうだろうか? 古井が後期エッセイズムで扱う夢、死、病気、老いという他者性は、私の内なるところで私の身体に影響を及ぼす微視的な他者性である。前期から後期への移行は、「私と他者の間の距離の問題」から「私と私の間の距離の問題」への変化なのである。それには精神よりもむしろ、身体にこそ自覚的であるべきだ。古井は、微細な感覚を忘れつつある私たちに警鐘を鳴らすかのように、老耄に身をゆだねながら、自らの中における他者性と向き合うのである。机上の空間は精神だけで事足りる。なるほど、オンラインでの関係性には机下の身体は必要ない。身体を満たすことが空間の役割であると仮定するなら、まずは私が「私の空間」に向き合うことではないだろうか。そのためには、微視的に空間を捉えること。空間が私を規定するのではなく、私の特性と美意識が空間(の断片)に表れることが望ましい。それは「関係としての空間」である。そしてそれが、他者との空間、巨視的な他者性に対する空間へと繋がっていくのである。

もっともみすぼらしい住まいでさえも、内部からみれば美しくはないか。(j)

私の空間、他者との空間、巨視的な他者性に対する空間を内包する家の空間の関係を(家とは何であるかに至るまで)再考し、断片の分離と接続をもとに、人が生きることすなわち、仕事と住まいの出来事を柔軟に兼ねる「関係としての空間」の創造が先立って期待される。また彼はそのような観察と実践を期待している。
(批評が存在しないため、緊張感に欠ける状態である。作品をつくって自分で語るだけでは長くは残らないだろう。第三者の存在、批評は不可欠ではないか。)

書くこと

彼の文章の書き方は、彼が学んだ建築の思考方法の反映でもあり、結局のところ断片の分離と接続なのである。現代の文章を生み出す形式は断片化されたものが主であるため、現代人は短文によって思考していると言えるだろう。文章の連続性を意識する必要がないのである。実はそこで失われているものがあるのだが、それは何か。まずは顔文字や絵文字に代わった句点である。そしてそれに付随して、接続詞が失われたのである。古井は後期エッセイズムにおいて、「記憶」という主題を顕著に扱うようになった。2011年の東日本大震災後間もなく書かれた短篇小説では、震災という出来事に自身の「空襲の記憶」を対置させる。強度のある出来事をこの私が乗り越えるために、記憶を私と私を繋ぐ「接続詞」の役割として用いたのである。

出来事を記憶し、想起と忘却を繰り返すことで、ささくれ立った出来事の角が取れ、「接続詞」となった記憶を、しかるべきときに別の出来事に接続することができる(k)

古井の短篇小説は断片的ではあるが、それは昨今の接続詞を使用しない短文志向とは内実が異なる。「接続詞」だけが連続しているのである。すべて何かと繋がっている。古井にとって「書くこと」とは、自らが生きつづけることではなかっただろうか。ならばこうも言えるだろう。文学とは、およそ「接続詞」のような存在であると。
(「接続詞」とは私でも他者でもないものであり、「他者性」の亜種である。では、「他者性」としての建築とは?)

「接続詞」としての建築

ジョン・サマーソンは、建築は形態の問題ではなく形態の関係の問題であると提起した。そして私たちは、本論考を踏まえた上でさらに歩を進めて、建築は関係全般の問題として捉えるべきである。ヒトとモノとコトを繋ぐための関係としての建築。私は、それを「接続詞」としての建築と言い表したい。それは建築物にとどまらず、建築的想像力が込められた「生きつづける関係」のことである。1枚の絵が空間に生気を与えることもあるだろう。柔らかな曲線の屋根が人に安らかさを与えることもあるだろう。多様かつ断片化されたこれからの時代に求められるものは、「断片」の思考ではなく「接続詞」の思考なのである。なお接続詞には、順接や逆接などの種類がある。であれば、「接続詞」の役割の観点から建築を考えることはできないか。これはひとつの見方の提示である。ともあれ、離れてしまったものたちを観察し、そこにどのような「接続詞」が適するのかという大きな問いが目の前には立てられている。建築の保存、改修、再生に関しては、重層される時間を含めて、「接続詞」としての建築として読み解くことができるはずである。都市においては、人と社会を繋ぐ「接続詞」としての公的空間に安全性と充実度が求められ、ランドスケープ的計画または建築の集合体の設計に、新たな形式や関係が生まれてくるのではないか。建築、都市の持続可能性が高まるにつれ、素地としての空間の質はますます問われることになるだろう。建築や都市にまつわる個別の問題に対処するためには、集合知としての研究と対応、そして何より批評が必要である。出来事は不意に訪れる。物語は終わらない。関係は生きつづける。歴史という過去を参照し、現在を記録し記憶しながら、未来への想像力を持ちつづけなければならない。

さてこのあとは?

─何を書く、これから? 君はまだ何か書けるとでも?
─人は自分の欲望によって書く、そして私はまだ欲望しおえてはいないのだ。(l)

私はこれらの問題意識をもって、今後の建築、都市に関する批評をものしていく次第である。


参考文献
a. ジョン・サマーソン『天上の館』(鹿島出版会、1972年)
b. 中井茂樹「ローベル・ブレッソン論ー生きつづける関係」(『traverse 新建築学研究 14』、traverse、2013年)
c. 古井由吉「私のエッセイズム」(『新潮』1969年11月号、新潮社)
d. 古井由吉『槿』(福武書店、1983年)
e. 木村敏「居場所について」(『Anywhere 空間の諸問題』、NTT出版、1994年)
f. 中井茂樹「手紙」(2021年)
g. ベン・ラーナー『10:04』(白水社、2017年)
h. エマニュエル・レヴィナス『存在の彼方へ』(講談社、1999年)
i. 朝吹亮二『密室論』(七月堂、1989年)
j. ガストン・バシュラール『空間の詩学』(思潮社、1969年)
k. 中井茂樹「古井由吉論」(2020年)
l. ロラン・バルト『彼自身によるロラン・バルト』(みすず書房、1979年)



中井茂樹(なかい・しげき)
1985年大阪生まれ/2008年京都大学工学部建築学科卒業/現在フリーランス

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