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2021.10.20
Essay

エスクの⼒

新建築論考コンペティション2021|佳作

新澤小輔(フリーランス)

14世紀に⻄欧全⼟を襲ったペスト菌の⼤流⾏の際には、貴⽅たちの誰もが世界の終わりを想像したことでしょう。数年おきに繰り返される感染拡⼤は数⼗年にわたって断続的に発⽣し、貴⽅たちの世界を圧縮していきました。事実、15世紀中頃の⻄欧の⼈⼝は、13世紀末に⽐べて3/4以下になってしまいました。この⼀連の出来事は⿊死病として知られていますが、これが旧世界における初めての感染爆発ではありません。中世を遡って古代の時代を⾒ても、同じ病気がまったく同じように貴⽅たちを襲い、⻄欧を圧縮しました。ユスティニアヌスのペストとして知られるパンデミックでは、東ローマ帝国の⾸都コンスタンティノープルの⼈⼝が、半数近くまで縮減されてしまいました。また、時代を下った近世においてもペスト菌は再度、数回にわたって猛威を振るいました。例えばマルセイユの⼤ペストは、市内⼈⼝の四割以上の命を奪いました。さらに近代では、スペイン⾵邪によって想像を絶する数の命が消えていきました。
そして不思議なことに、この疫病による圧縮作⽤と前後するかたちで、貴⽅たちは必ず⾃ら争いを起こします。疫病という外的要因による縮減に呼応するかのように、内発的に圧縮現象に参加していくのです。古代では、ペスト第⼀波に先⽴つかたちでゲルマン⺠族が侵略を⾏ない、⻄ローマ帝国を滅亡させました。そしてパンデミック後も、複数の⺠族が侵略、劫掠を⻑年にわたり繰り返し、古代ローマを廃墟化させていきました。また中世では、ペスト第⼆派のパンデミックに重ねるかたちで、フランス王国とイングランド王国の間で100年もの⻑い期間に渡って戦争を繰り返し、国⼟を疲弊させましたし、タイミングを合わせるようにオスマン帝国は東ローマ帝国を崩壊させました。近世においては、ペストの再流行を経て、フランス⾰命が勃発し、たくさんの⾎が流されました。近代においては、スペイン⾵邪による未曽有の事態を挟み込むようにして、地球規模でふたつの⼤戦を展開し、世界のかたちを変えてしまったのは、貴⽅たちの記憶にも新しいことだと思います。
そして、これら疫病と争いという⼤圧縮の作⽤を経て、貴⽅たちは決まって、理性的で平等な世界を獲得してきました。古代ローマにおいては、富裕層の⼀握りの貴族がローマ世界全域に散らばる⼟地を所有していました。彼らは、地⽅から富を吸収し、国の収益に匹敵する年間所得を⼿に⼊れ、宮殿のような邸宅を構えていました。しかし、第⼀波⽬のペストとパンデミック後の内戦や異⺠族による⼤劫掠が、これら⼤富豪たちを解体し、結果的に貧困層へ物質的な幸福を与えました。中世においても、病と争いによる⼈⼝縮減が労働⼒不⾜を引き起こし、貴族階級は危機に⾯しました。彼らの農地で収穫される農作物の価格が下がり、⼟地⾃体の価値も下落し、財産は縮⼩していきました。反対に、労働者の賃⾦は急上昇して庶⺠の⾷⽣活が改善されていきました。そして愛国精神の芽⽣えからナショナリズムが形成され、国境や⼈権という概念が構築されていきました。その結果、貴⽅たちは古代ローマの荘厳さ、厳格さを規範とした、ルネサンスという理性的な時代を築いたのです。芸術家という概念が確⽴されたのもこの時代でした。そして近世では、今度は⾰命という闘争の⼿段を⽤いて、貴⽅たちは宗教的権威に守られた旧体制(アンシャンレジーム)を解体し、⼈権宣⾔を⾏ないました。⼈間の⾃由と権利の平等、国⺠主権の価値を標榜する世界へと歩み始めたのです。そして再び、かつて存在していただろう古代という理想郷に憧憬の念を募らせ、啓蒙思想を奮い⽴たせた教条的な新古典主義という時代を残しました。近代においては、疫病を挟んだふたつの⼤戦によって、富裕層が保有する資本資産の価値を奪い、⻑年にわたり横たわっていた貧富の格差を縮めました。世界中の先進国の所得と富を劇的に分散させたのです。そして、これからの社会にふさわしいとされる建築・都市像を、合理性と機能性に求め、今もなお影響⼒を保持するモダニズムという⾔葉を残しました。
貴⽅たち⼈間を取り巻く外的・内的な要因が引き起こす圧縮作⽤と、この破壊によって世界を理性化させる作⽤を、私たちは〈⻘い⼒〉と呼ぶのです。


繰り返し押し寄せる〈⻘い⼒〉の波の後に、あなた⽅は必ず⾃らの技術を急速に⾰新していきます。そしてこの技術⾰新とともに⼈⼝を増加させてきました。古代ローマ時代における〈⻘い⼒〉の第⼀波の後には、農業技術の急速な発展が起こりました。三圃制農法を導⼊し、新たな農具を⽤いて収穫⾼を急増させていきました。当時のフランスやイギリスは、1100年頃から1300年頃までの200年で収穫⾼を2倍に増やす⼀⽅で、⼈⼝は3倍に急増されています。あなた⽅はさらなる⾷糧確保の必要に迫られ次々と森林を開墾していきました。それでも⾷いぶちが得られない⼈たちが都市部に流⼊し、都市が構築されていきました。開拓される外部と⼈⼝が流⼊する内部、この内と外の構図は現在にも連綿と引き継がれているのです。そしてあなた⽅は、都市に流⼊してきた⼈たちの⼼の拠り所として教会を建造し、異教徒をキリスト教化していきました。その後、⾼位聖職者たちの権威欲、虚栄⼼、競争⼼によって、きわめて短期間のうちにあなた⽅の建物は⾼層化します。これも現在に共通する現象です。1144年に完成したサン・ドニ⼤聖堂の⾼さは約20mであるのに対し、約80年後に起⼯したボーヴェ⼤聖堂では約50mと、2.5倍の⾼さにまで⾼層化されています。こうして、古代ローマの理性的な世界から逸脱し、⾮理性的で動的なゴシックという様式へ昇華させ、ひとつの時代を築いたのです。
このような〈⻘い⼒〉の後に⽴ち起こる⾮理性的な現象は、その後も繰り返されます。中世における⻘い⼒の第⼆波の後には、活版印刷の技術が発明され、書物による知の共有が急速に図られていきます。なかでも1543年に発刊された『天体の回転について』では、天動説から地動説への劇的な転回が起こり、あなた⽅の世界観は相対化されました。〈⻘い⼒〉によって誘導された真円を正とする理知的で厳格な世界に対し、楕円というもうひとつの焦点を付加したのです。こうして、古代への憧憬の念を打ち破り、そこから逸脱した新たなるバロックという時代様式を刻んだのです。近世における〈⻘い⼒〉第三波の際には、あなた⽅は産業⾰命を実現させ、鉄・ガラス・コンクリートというまったく新しい素材を⼿に⼊れました。エッフェル塔にまつわる当時の論争が物語るように、地上から上空へと⾶翔するようにして、この時も、〈⻘い⼒〉によって⽴ち現れた古典的で理性的な世界を、新素材という武器を⼿に取り打ち崩していったのです。近代における強⼤な〈⻘い⼒〉第四波に対しては、インターネットをはじめとする情報技術⾰命によって、都市が巨⼤化していったことはよくご存じかと思います。
〈⻘い⼒〉という圧縮作⽤の後に、あなた⽅⼈間が⾃発的に理性の世界から⾶び⽴っていくこの膨張作⽤を、私たちは〈⾚い⼒〉と呼ぶのです。


貴⽅たちは、〈⻘い⼒〉を受け⼊れるのです。
あなた⽅は、〈⾚い⼒〉を発動させるのです。


確かに私たち⼈間は、あなたたちが⾔うように、〈⻘い⼒〉の受容と〈⾚い⼒〉の発動を繰り返し、その波形の周期を早めながら今⽇に⾄っている。しかし、私たちは時代の様式を⽣み出すために⼒の受容や発動を繰り返して来たわけではない。歴史はその波のかたちからわかるように、ひとつの運動体である。従って、様式は運動の過程を⽰すものであって、固定化された産出物のようなものではない。ゴシックやルネサンス、バロックという名称は、⾶翔体の⾼低速度が低下した時に可視化される影にすぎず、物体が減速したときに観測される残像のようなものだ。また、あなたたちが⽤いた近代という⾔葉も、私たちはもう少し異なる視点で捉えている。近代とはある時代区分を指し⽰すのみではない。私たちを理性的な世界に連れ戻そうとする引き潮のような⼒の質のことを指している。つまり近代とは〈⻘い⼒〉そのものの質である。そして、私たちが⽣み出す創造の⼒、〈⾚い⼒〉は技術⾰新が原動⼒となっているわけではない。より正確に⾔えば、上昇に初速を与えるのは、技術⾰新という明瞭な⼒の背後に隠れたもっと曖昧な⼒なのだ。これらのことは、残念ながら、あなたたちだけでなく私たち同⼠の間でも誤解され続けている。
この曖昧な⼒は、私たちが〈⾒ているもの〉と〈⾒ていると思っているもの〉、つまり〈視覚の対象〉と〈知覚する概念〉の間に取り結ばれる関係を「疑う」ことが動機となって発動される。この両者は、〈形態〉と〈内容〉、あるいは〈客体〉と〈主体〉と⾔い換えてもよい。そして、両者の関係を疑うこととは、両者の安定的な同⼀性を否定し、異質なものを許容するということである。私たちはこれまで、この曖昧な⼒によって、異質なものとの同居を繰り返し試みてきたのである。
異質なものとは何か。それは、死である。死こそがすべての⼈間に等しく与えられたものであり、そして絶対に共有することが出来ない最も異質なものである。10世紀に時を巻き戻そう。⻑期間にわたる強⼤な〈⻘い⼒〉が過ぎ去った後、眼前には廃墟と化したローマの光景が広がっていた。当時の私たちはこの古代ローマの理性的な⾯影を失った、死んだローマの異質な雰囲気を受け⼊れ、⾃分たちのための聖堂を再建していった。古代ローマのバシリカを転⽤し、ミサのための鐘塔や翼廊、魔除けの彫刻などを付加していった。バシリカという理性的に安定していた形態は逸脱され、古代ローマ⾵の「何か」がつくられていった。また、異教徒という異質な存在を受け⼊れ、聖堂内では異教の信仰⽅法である供犠も頻繁に⾏なわれた。⽣贄となる動物が死ぬ時の鳴き声が響きわたり、まるで屠殺場のような異様な雰囲気は、⼈びとを⾼揚させ、聖堂に引き寄せ、⻑い時間をかけて異教徒たちはキリスト教へと回⼼していった。この異質なものを受け⼊れるローマ⾵の聖堂は、その後の農業技術の⾰新によって、⼈⼝が農村部から都市部へ流⼊していくなかで、ますますその異質さを増⼤させていった。後に私たちは、この異質さが増⼤した現象のことをゴシックと呼ぶようになった。そして、この異質現象に初動を与えたローマ⾵な何かをロマネスクと名付けたのである。
英語や仏語において「esque」を名詞の語尾に付ければ、「〇〇⾵の」という形容詞に変換される。その名詞の本来の性質が改変され、しかし未だその性質が幾分か残っているような状態を⽰している。「〇〇であって〇〇ではない」曖昧な状態である。本来の〇〇は死んだけれど、別の時間、異なる空間を⽣きているということだ。「esque」は事物を変質させる⼒を持っているのだ。従って、⾒ている形態(視覚対象)と⾒ていると思っている内容(知覚概念)との安定的な関係を疑い、異質なものを許容する曖昧な⼒とは、この「esque」が引き起こす〈エスクの⼒〉のことなのである。そして、〈⾚い⼒〉とは、技術⾰新による明瞭な⼒と曖昧な〈エスクの⼒〉が表裏⼀体となった⼆重の⼒なのだ。こうして私たちは10世紀から12世紀にかけて、ロマネスクと農業技術⾰新という⼆重の⼒をもってして⾶翔を開始したのである。
15世紀の〈⾚い⼒〉においても〈エスクの⼒〉が発動した。当時の強⼤な〈⻘い⼒〉の後に訪れたルネサンスという理性的な世界では、宗教改⾰によりプロテスタンティズムが台頭し、無駄な消費や理不尽な⾏動は極⼒斥けられていた。労働する者としない者、聖書を読める者と読めない者の間に明快な線が引かれ、⾮理性的な者は排除されていった。曖昧だった両者の境界線が確定されてしまった。だからこそ、その境界に揺らぎを与えようとする試みとして〈エスクの⼒〉が要請されたのである。〈視覚対象〉と〈知覚概念〉の関係を疑うための⼿⽴てとして、ここでも廃墟が導⼊された。レオナルド・ダヴィンチやミケランジェロは他のどの芸術家より早く解剖画に取り組んだ。⼈間の動的な仕草や異様な動きのメカニズムを解き明かし、それを芸術として表現する為に、解剖画が必要とされた。解剖画とは⼈体の廃墟画である。彼らの解剖画で描かれた⼈間は、腑分けされ断⽚化しているのにも関わらず⽣命⼒を宿している。いやむしろ断⽚化しているからこそ、断⽚たちが互いに連関し合い、新たなる時間が流れ始める。死んでいるのに死んでいない両義的な異様さを醸し出している。⼈間のような「何か」である。このエスク的な異質さへの願望は、形態の変形と歪曲という表現へと変質し、その異様さを増⼤させていった。後に私たちはこの現象のことをバロックと命名している。そしてこの⼀連の動きに初速を与えたのがマニエリスムという〈エスクの⼒〉なのである。解剖図において⼈間が断⽚化しているのと同様に、マニエリスムは形態を断⽚化させる。⾔い換えれば、マニエリスムは変形させられた形態の断⽚から曖昧にしか知覚し得ないのだ。その知覚された断⽚を通じて、私たちは空間的な揺らぎ、時間的な動きを想起するのだ。
19世紀においてもまったく同様なかたちで、理性的な世界への疑いの⽬として〈エスクの⼒〉が要請された。正しくは、18世紀中ごろから〈⻘い⼒〉に重なるかたちで〈エスクの⼒〉は発現していた。この時はこれまで以上に直接的に廃墟が導⼊されている。当時の私たちを廃墟へと誘ったのは「崇⾼美(サブライム)」という概念だ。⼈間を超越する圧倒的なものが醸し出す美しさ。それを私たちは⾃然の中に求めた。⾃然は時として災害というかたちで私たちの世界を圧倒的な⼒で無慈悲に破壊する。突発的な猛威の前では私たち⼈間はきわめて無⼒な存在なのだ。だからこそ、この時⽴ち現れる崇⾼さを、安全なかたちで経験したいという欲求が⽣まれたのである。この破壊的な崇⾼性に基づいた⾃然美への願望は、廃墟への憧憬に直接的に重ね合わされ、古代都市の廃墟が醸し出す崇⾼さを誇張した廃墟画が描かれた。そして、こうした崇⾼な廃墟の⾵景を現実のものにして、安全に体験したいという想いから、⼈⼯的な廃墟を配した庭園がつくられていった。さらに、その廃墟の庭園を崇⾼にしたいという欲求から、廃墟の庭園画が描かれた。あたかも絵と庭を循環するようにして崇⾼美の探求が⾏なわれたのである。それにしても、なぜ私たちは繰り返し〈⻘い⼒〉による圧縮作⽤の後に厳格で理性的な古代を想起し、逆に〈⾚い⼒〉を発動する時には廃墟を想起し続けてきたのか。おそらくそれは、古代ローマがきわめて⻑い時間をかけて完成体から廃墟体へと崩壊していったことに関係している。私たちにとって古代とは、完成体と廃墟体、理性と⾮理性とが重ね合わされた両義的な存在であり、その両者が憧憬の念を抱く対象なのだ。いずれにせよ、18世紀の〈⻘い⼒〉によって再度到来した教条的で安定的な理性の世界を脱却するために、この破壊的な崇⾼美が必要とされたのである。その後の私たちは産業⾰命により新素材を⼿に⼊れ、この崇⾼さの表現を増⼤させていったことは記憶に新しいことだろう。19世紀中頃から⾏われ始めた万国博覧会では、動⼒を⽣み出す巨⼤な機械が展⽰され、⼈間の⼿を超越した膨⼤なエネルギーの崇⾼さが当時の私たちを魅了した。こうした世界観を表現し、包み込むような巨⼤な建築が新素材によって短期間で博覧会会場につくられていった。そして、⼈間世界を圧倒する崇⾼さの実体化は、世界を⾒渡すエッフェル塔として帰着したのである。私たちは、この⼀連の崇⾼さへの探求に初動を与えた〈エスクの⼒〉をピクチャレスクと名付けている。⽬の前に広がるこの⾵景は、はたして現実なのかそれとも絵なのか。「まるで絵のような何か」としか例えようのない崇⾼な⾵景という意味を込めて命名されたものである。
最後に、20世紀の強靭な〈⻘い⼒〉が過ぎ去った後、つまり、世界が再び廃墟と化してしまった直後に〈エスクの⼒〉を発動させようとした試み、フォルマリズムについても触れておこう。フォルマリズムは、私たちが⾒ている〈形態〉とそれが想起させる〈内容〉との癒着した関係を分離させ、両者を結び付けていた形式(フォーム)それ⾃体の強度を視覚的に提⽰しようとする運動だった。あらゆる事柄から離脱し⾃律した形式は、視覚的には「〇〇のような」としか⾔い表せない何かであり、いやむしろ形容すらできない異質なものであるがゆえ、まさに〈エスクの⼒〉を直接的に発動させる試みだった。
当初この試みは主に建築以外の分野で⾏なわれていたが、20世紀後半になると建築にも導⼊され、形態に対する視覚的な変形操作によって異質さを増⼤させていった。そして、こうした異質さが次第に嫌悪されるようになり、フォルマリズムによる試みがポストモダン建築、あるいはモストモダニズムと呼ばれるようになっていく。しかし本来フォルマリズムは、ピクチャレスクやマニエリスム、そしてロマネスクと同様に、〈視覚対象〉と〈知覚概念〉の癒着を解きほぐし、異質なものを許容する際に要請される⼒のことであり、事物を変質させる〈エスクの⼒〉である。従って、どこかの時代区分に固定化されるものではなく、変容する時代様式それぞれを縦断するものだ。残念ながらこれらのことは私たちの間でも誤解され続けている。上昇下降を繰り返す⾶翔体は、⾼低速度が加速する時、その姿を⾒定めにくいのである。
これまで私たちが発動してきた〈⾚い⼒〉は、その背後に潜んだ曖昧な⼒〈エスクの⼒〉によって、初動が与えられてきた。重⼒のように働く〈⻘い⼒〉に抗い、歴史の振り⼦はこの⼒によって振動を回復して来た。私たちはこの振り⼦を⽌めてはならない。近い将来に到来するだろうさらなる技術⾰新を後ろ盾として、新たなる〈エスクの⼒〉と共に⾶翔するのだ。fig.2


これまであなたが述べられたことはすべて⻄欧の歴史だ。あなたにとって⼈間とは⻄欧⼈のことであって、僕は⻄欧⼈ではない。いや、しかし僕らも19世紀後半からの理性的な近代の質を享受しているし、20世紀後半からはじまったグローバル化によって、⻄欧の価値観に同化してしまっている。だから正確には僕は「⻄欧⼈であって⻄欧⼈ではない」。今僕らを呑み込んでいる新型コロナウイルスという〈⻘い⼒〉は、またしても近代の質を纏うのか? 〈モダン〉という概念が⽣まれたルネサンス以降、⻘と⾚のふたつの⼒の出現周期がどんどん早まっている。その次に現れるであろう〈⾚い⼒〉は僕らをどこに連れていこうとしているのか。そしてまたその後に近代の質が再起動するのか? かつてミノル・ヤマサキは2回警鐘を鳴らしたはずだ。1972年の「プルーイット・アイゴー」と2001年の「ワールド・トレード・センター」の爆破によって。廃墟化したこのふたつの建築によって、⻄洋⼈であって⻄洋⼈ではない彼は⽰唆した。⻄欧から離れたアメリカという地において。〈モダン〉という⻄欧のシステムそのものが限界にきていることを。メソポタミアから始まったとされる僕らの⽂明は、エジプト、インダス、中国、そしてギリシア・ローマと、その中⼼地を東⻄にわたり振動させてきたが、アメリカを通り越して、今度はどこに中⼼を向かわせようとしているのか。そして新たに到来する地においても、僕らは理性と⾮理性の世界をせわしく⾏き交うだけなのだろうか。いや、そもそもなぜ同居できないのか。本来〈エスクの⼒〉は事物の同⼀性を疑う⼒のはずなのに、なぜどちらか⼀⽅の世界に同定してしまうのか。なぜ異質なものを許容できないのか。そしてそれを持続できないのか。いや、しかし僕らは本当に異質なものを許容する真の世界を⽣きたことが、はたしてあっただろうか?

真に異質なもの、それは⾃⼰です。僕の⽬の前に永久不変な物質があったとしても、僕が⾒ているこの物質が、他⼈も⾒ているその物質と同⼀かどうかは誰も証明できません。それどころか、⾃分が⾒ているこの物質が、かつての⾃分が⾒ていただろう同⼀の物質、未来の⾃分が⾒るだろう同⼀の物質と正しく同⼀かどうか証明できません。細胞レベルにおいても、かつての⾃分は今の⾃分とは他なるものであり、未来の⾃分も他なるものです。僕の胃の粘膜は3⽇ですべて⼊れ替わり、⽪膚は1カ⽉ですべて⼊れ替わり、半年もすればすべての⾎液が⼊れ替わります。⾻も、筋⾁も、脳も……。僕は常にまったく異なる物質を⾝に纏い、それを僕だと同⼀視して、そう思い込んで瞬間を⽣きているのです。真に異質なもの、それは⾃⼰という主体の中に潜んでいるのです。

確かに僕らは主体という僕ら⾃⾝の⾃⼰同⼀性を保ちながら⽣きている。いや、⽣きなければならない。⾃⼰とは何なのかという問いを括弧にくくり固定化して暮らしている。誰しもが⾃⼰の中に絶対に⾒られたくない異質な部分を持っているにも関わらず、その異質さは⾮理性的な〈闇〉、つまり〈⿊⼦〉だから開⽰されてはいけない。⾃⼰の⿊⼦を押し隠してアイデンティティを確定しようとする。そして、⼈間の主体性を掲げれば掲げるほど争いが導かれていく。
かつての〈エスクの⼒〉の発動は、対象という客体と、概念という主体との間の癒着を解き放ち、〇〇のような何かとしか例えようのない異質さを受け⼊れる改変の試⾏だった。しかし結局は、客体のみの改変操作に偏っていってしまっていたのだ。「癒着から⾶翔せよ」と声⾼に掲げる彼らの主体は、理性を保った教条的な主体として固定化されていたのである。客体と主体の双⽅が改変、つまり異質化を迫られる最中、主体は依然として温存している。だから、主体か客体か、理性か⾮理性かという⼆項対⽴的な⽔掛け論になってしまうのだ。振り⼦の振動の正体は、単なる⽔の掛け合いによる遊びでしかなかった。本来〈エスクの⼒〉は⾃⼰という主体⾃⾝にも差し向けてられているのだ。僕は僕であって僕ではない。⾃分は⾃分のような何かとしか例えようのないものなのだ。
⾃⼰同⼀性に縛られた主体を解き放つ世界への⽷⼝を、僕は⼈形浄瑠璃に⾒い出す。物語を紡いでいく⼈形が⿊⼦によって操られる。⿊⼦は⾃⾝をひた隠すつもりはない。むしろ⿊⼦の主遣いはその顔の表情を僕らへと⼒強く伝えてくる。存在が不在とされる彼らの表情は、⼈形のそれより陰影が深い。僕たち受け⼿は、⼈形を⾒ているのか、はたまた主遣いの熟練した技と表情を⾒ているのか同定できない。主体と客体が⽬まぐるしく⼊れ替わる。【⼈形─物語性】【⿊⼦─不在性】が【⼈形─不在性】【⿊⼦─物語性】として、本来相容れないふたつの世界が瞬時に、そして繰り返し相互に⽴ち現れながら持続的な時間が経過していく。相容れないはずの〈対象〉と〈概念〉が溶け合って反転し合う。なんて寛容で美しい表現世界なのか!

⾃分とは本来的に確定し得ないものなのです。⾃分を構成している素粒⼦ひと粒ひと粒が、本来的に確定し得ない確率論的な量⼦の世界に存在しているのと同じように。

⾃⼰同⼀性を強固にすればするほど僕らは再び⼤きな戦争を起こすのかもしれない。疫病と争いという強靭な〈⻘い⼒〉に圧縮され、さらなる⾃⼰同⼀化が求められる理性的で教条的な世界へと突⼊していくのかもしれない。既に、政治的に正しい理性の⾔葉が次々に開発されている。例えば最近ではSDGsなる語彙が地球環境への捉え⽅を規範化し、僕たちを同⼀化している。地球に対する概念が固定化されていく。そしてその規範から逸れたものは斥けられる。これに限らず、こうした政治的正しさの規範に沿っているか否かを、⼈と⼈とが監視し合う極めて不寛容な時代になりつつある。そして、その監視による不寛容さを最新テクノロジーが後押ししている。技術によって僕らは監視し合い、⾃⼰同⼀性の脅迫にさらされている。世界が変質させられる前に僕らは疑わなければならない、⾃らの同⼀性を。⾃⼰同⼀性を疑い⾃⼰を〈迂回〉させないといけない。でも僕たちは本来迂回しながら⽣きているはずだ。⽇常⽣活に⽬を向ければ、よりよい⽇を過ごそうとして、今⽇という1⽇の⾏動を予め想い描くことは誰しもが経験のあることだと思う。だけど、その計画⽴てた予定通りに⼨分違わずに1⽇を過ごしてある種の達成感を得たとしても、それが最⾼に豊かだとは思えない。むしろ当初の予定には⼊っていなかった想定外の出来事が、新たなる出会いを誘起させたり、或いはその場に応じた咄嗟の⾝体的動作を創発させたりして、⽣きるための知恵の発露を実感しながら⽇々が充実していく。予定が予め定まっていることを希望しつつも、定まっていないことを願う僕たちは、⽭盾した両義的存在なのだ。しかし、これから到来するAI技術の⾰新は、この迂回を妨げる⽅向に進もうとしているではないか。そうではなく、むしろ⾃⼰の迂回を助⻑し、⽬の前にある〈対象〉とそれが想起させる〈概念〉を⼀義的に結び付けない世界に対して⾰新技術が活⽤されることを僕は強く望む。先回りする飼い慣らされた⼀義的な情報ではなく、想定外で豊かな経験を担保し得る世界に対して。〈対象〉と〈概念〉が反転し合う世界へ。迂回しながら⽣きることが許容される世界に。異質なものを美しいと思える世界を!

今回のコロナウイルスによって僕の肺が侵され、酸素が継続的に供給されなくなると当然ながら僕は死に⾄ります。それどころか僕は酸素がなければ瞬時に意識を失います。それだけ酸素とは⾃分にとってかけがえのない貴重な物質なのです。しかし酸素とは、あらゆるものを酸化させる猛毒な物質です。僕らは酸素の異質な正体を知っています。誰しもが理科の実験で、爆発的に燃え上がる酸素の光を⾒ています。僕らはそんな酸素を体内に取り込み、細胞を爆発させて⽣きるのです。だから僕らを含め動物たちはみな短命なのです。酸素がなければ物質は⻑期間にわたって安定した状態を保ちます。しかし、⻘く輝く美しい僕らの地球は、このかけがえのない猛毒に包まれているからこそ美しいのです。

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