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2021.10.20
Essay

箱の中のみかん──共振する移動制限と施設収容

新建築論考コンペティション2021|3等

坪内健(北海道大学大学院博士課程)

コロナ禍で経験する安堵と息苦しさ

緊急事態宣⾔が居住地である札幌と実家の愛知県で発令された時、どこかほっとしている⾃分がいた。統合失調症を患い、医療保護⼊院となっていた兄の⾒舞いを断る格好の⾔い訳ができたと思ったからだ(*1)。私は札幌に住んでおり、不定期に実施される医者との⾯談の際にたびたび⾶⾏機で愛知に戻り、実家に住む⺟と⾯談に参加していた。当時、兄は幻聴と孤⽴感に苛まれ、「何で⾃分を助けてくれないんだ!お前は使えない」と遠⽅からたまにしか様⼦を⾒に来ない私を厳しく叱責した。もともと両親の喧嘩が絶えない家庭環境を過ごし、⼤学進学を理由に家族から逃げるように札幌へ移り住んだ私にとって、突如突きつけられたコロナ禍とそれに伴う移動制限は、家族と距離を置く明快でこの上ない理由を⾔い渡されたように思えたのだった。それは、私にはいつもどこかで感じていたケアが必要な家族と離れて暮らすことへの罪悪感から解放されるようで、とてもありがたく救われる気分だった。
⼀⽅で、不要不急の外出や移動が制限された⽇々を過ごしていると、だんだんと息苦しさを感じるようにもなった。私は6畳の狭いワンルームに住む貧乏学⽣だ。⼤学が閉鎖されると研究室で使っている27インチのiMacを部屋に持ち込んだ。ほとんど⾷事のためにしか使っていない⼩さな机の上にデスクトップPCを置いてみると、ひどくアンバランスで窮屈だった。ただでさえ⾐⾷住が無理やり詰め込まれていたにも関わらず、職(学)までが⼊り込んだワンルームにゆとりや余⽩はまったくなく、私は唯⼀の居場所となった部屋の中でも⾝動きが取れなくなってしまい、しばらくの間怠けた⽇々を過ごした。そして、13インチのMacBook Airが適していたワンルームにもうひとつリンゴが持ち込まれ⽣活がすさんでいくこの状況は、まるで中学校に不良⽣徒が転校したことをきっかけにストーリーが始まる⾦⼋先⽣の「腐ったみかんの⽅程式」のエピソードのようだと⽪⾁っぽく思った。

世界の質を変える施設という箱

ほどなくして幸いなことに兄が退院した。私は退院祝いに電話をかけてみると、兄はこう問いかけてきた。「『あるみかん』の上にあるものは何だと思う?」
私はダジャレを聞かれているのかと思い、「みかんかな」と答えると、兄はそれを否定した。
「ちがうよ、沼だよ。みかんの先には沼が広がっているんだよ。」
みかんの上にあるものを聞いてきたのに、その先について⾔及した兄の⾔葉に⼀瞬虚をつかれたものの、私はちょうど「腐ったみかんの⽅程式」のエピソードを思い出していたこともあり、兄の⾔葉が頭から離れなかった。この⾔葉は、兄が⾃分なりに⼊院を経た現在の⾃⾝を取り巻く⽣活世界のことを表現したものだと思えたからだ。
話は少し逸れるが、ここで⾦⼋先⽣の「腐ったみかんの⽅程式」の顛末を紹介しておきたい(a,b)。時代は1980年、学校は荒れ、⾮⾏や校内暴⼒が深刻な社会問題となっていた頃の話だ。ある⽇、⾦⼋先⽣のクラスに札付きの不良⽣徒が転校してきて、転校初⽇からクラスの番⻑と⼤喧嘩をしてしまう。騒動に学校中が⼤騒ぎとなり、次第に事態は学校と不良⽣徒の周囲にいた荒くれ者たちとの対⽴へと発展していく。⾦⼋先⽣は不良⽣徒との接し⽅に悩み、⽣徒の家の前で⽴ちすくんでいると、その夜、⾦⼋先⽣の前にかつて不良⽣徒を受け持った担任が現れ、学校の⽅針で少年を退学に追い込んでしまったことへの後悔を打ち明ける。その学校では、問題のある⽣徒はすぐに退学処分とする⽅針をとっており、それがこのエピソードのタイトルにもなっている「腐ったみかんの⽅程式」であり、箱の中のみかんがひとつ腐り始めると他のみかんも腐ってしまう、腐ったみかんは早く箱から取り除かなければならないというものだった。⾦⼋先⽣は現場で悩みながらも教育の現場に⽴ち続けた担任に深い共感を抱きながら、⾃⾝の教師としての矜持を再確認していく。そして、⾃⾝の学校で経営や運営を⼼配する校⻑と教頭に向かって真っ向から対峙する。「われわれは機械やみかんをつくっているんじゃない、⼈間をつくっているんです。⼈間の精神が腐りきるなどということは絶対にないんです! それを防ぐのがわれわれじゃないんですか。」
このエピソードの⾯⽩さは、学校の維持や存続のために教師が縛られているのと同じように、学校を⽑嫌いする不良⽣徒や荒くれ者たちも多分に学校に縛られている点にある。不良⽣徒と荒くれ者たちは⾔う。「俺が教室にいることを迷惑がる⽅がよっぽど間違ってんだ。早いか遅いかいずれお前(⾦⼋先⽣)だって同じ⾯をするに決まってんだよ、先公は全部そうに決まってんだよ。」「ガキより始末が悪いのは(教師が)権⼒を持ってるってことだ。教師の⾔うことを聞けないやつは即悪いやつだっていう決めつけは、俺は納得できねえよ。」⾦⼋先⽣は教師と荒くれ者たちの間で真摯に対話を重ね、ついに学校という施設のしがらみを乗り越えていく。私はこのエピソードを知った時、施設は箱の中でのみ機能しているのではなく、箱の内外の境界においてこそ機能していることを学んだ。そして、このエピソードと退院後に兄が発した「みかんの先には沼が広がっている」という⾔及は、内外を分断する施設の問題を共有しているように思えた。
私は兄の病棟を訪れた時、そこでの⽣活に愕然とした。病棟は40年以上も昔に公開された映画「カッコーの巣の上で」で描かれた精神科病棟そのものだったからだ(c)。兄の病棟のフロアは病室と廊下と⾷堂で構成されており、フロアの⼿前は2重に施錠されていた。私たち家族が中に⼊るためにはドアの前にあるチャイムを鳴らさなくてはならず、チャイムを鳴らすと看護師が束ねられた鍵の中から該当するものを探し当ててドアを開けてくれた。兄は看護師のいるフロア内では⾃由に移動ができたものの1階にある売店などフロア外に出ることは禁⽌され、わずか20歩ほどしかない⾷堂と⾃室を⾏き来するしかなかった。散歩などとてもじゃないができない。私は管理と制限が⾏き届き閉鎖的なこの空間の中では、兄の症状などよくなるはずがないと思った。1年近くが経ち、素⼈⽬では兄の症状が改善したとは決して思えなかったが、何度かの医師と家族との⾯談の末に兄は退院することができた。そして、退院後に兄が発した「沼」という⾔葉は、映画の中で秩序の⾏き届いた精神科病棟の中に外の世界の無秩序を持ち込んで事件を起こした結果、病院側の⼀⽅的な治療が施され、果てに廃⼈となってしまうジャック・ニコルソン演じるマクマーフィーと幾分重なって⾒えるのだった。つまり、兄は病院という閉じた箱の中での⼊院⽣活が続いた結果、⾃活⼒が奪われ、箱の外の世界が沼のように泥深く⾝動きの取れない環境に変わってしまったと訴えているように私には思えた。ただ、⼊院する前の兄は社会⽣活を送ることができず度々問題を起こしていたから、医療保護⼊院という措置を取らざるを得ないと感じることも多かった。しかし、施設の中に⽣活が押し込まれる事態が依然として続いていることに建築に携わる者としての反省や責任を感じた。⾃責の念にひとしきり駆られた後、私は⼀⽅で違う思いが沸き起こってくるのを感じた。兄が感じた「みかんの先の沼」の感覚は、私がコロナ禍で経験した安堵や息苦しさの感覚と程度の差こそあれ相似しているのではないか。

脱施設化は仲間と共に

建築計画では、上記に述べた施設に内在する問題は、障がい者施設や⾼齢者施設、精神科病棟などを対象に、施設が内外の境界をつくり出すというその存在意義を果たすために利⽤者に管理や統制を強いていき、その結果、利⽤者の活⼒や主体性を損失させてしまう現象を「Institutionalism」として古くから取り上げてきた。その上で、そうした施設・制度(Institution)に内在する問題を取り除く脱施設化(Deinstitutionalization)の取り組みが求められることを理論として提⽰する。そして実際に、脱施設化の取り組みを施設から地域での⽣活へと移⾏していく地域移⾏の実践として担っていったのは、当事者の周りにいた隣⼈たちだった。具体例を精神科病棟で挙げれば、北海道浦河町の「べてるの家」をはじめとした取り組みがユニークだ。彼らは、「⾃分の苦労を取り戻す」をモットーに掲げ、「当事者⾃⾝がみずからのかかえるさまざまな⽣きづらさを『研究テーマ』として⽰し、仲間や関係者と連携しながらユニークな理解や対処法のアイデアを⾒出して、現実の⽣活に活かしていこうとする」当事者研究に取り組んできた(d)。病棟での⽣活から地域の中での⽣活へ移⾏する脱施設化は、そうした「⾃分の苦労を取り戻す」取り組みの先の⾃然な流れとしてあった。⾨外漢の筆者にその詳細を述べる能⼒はないが、脱施設化を⽀えた仲間たちは、医師や看護師、ソーシャルワーカーといった当事者の周囲にいた専⾨家だけではなく、むしろ地域ですでに⽣活を始めていた精神疾患を患う当事者たちが⼤きな役割を果たした。⾯⽩いのは、浦河町で脱施設化の契機となったのは、過疎地の中で経営に⾏き詰まった病院側の経営の都合で始まったことだ。浦河町で多くの患者たちを担当していた川村医師は、病床削減を⾏う上で島流しとも⾔える地域外への望まない転院をさせないことにこだわり、その時⽀えになったのは同じ精神疾患を患う当事者たちだった。「たくさんの退院者が、実は退院に向けてさまざまな苦労をし、現在もどういう苦労をしていて、その苦労は何もマイナスのことじゃないんだっていうこと。逆に⾔えば苦労しながらもこういうふうにやってるよっていう、そこには退院した⼈たちの、先⾏く仲間の知恵がいっぱいあるんですよ。(中略)『友達がいないと退院できないよ』って、退院した仲間が⼊院してる⼈たちに⾔った⾔葉の重みは僕は⼤きいと思います」(e)。
こうした仲間たちの存在は、私の兄のように「みかんの先が沼」となった者、つまり⻑年の病棟での⽣活に慣れ、退院を拒んでいた者たちの態度も徐々に変えていった。川村医師は⾔う。「急に退院したらさ、過疎地に⾏ったみたいなもんだよ(笑)。だって⼈が安⼼できるための要素は、病院はみんなそろってるんですもん。⼀晩中、24時間看護師さんがいます、必要であれば医者も呼べます、っていうあまりにも安⼼できるようなやり⽅に、逆にそれが普通になっちゃったんです。だから今、仲間に対する必要性ってのは、⼊院してた時にただ⼈がそばにいてくれるっていう、そういう意味での仲間よりも、現実的に⾔葉で伝えていく。きちんと⾃分の⾯倒⾒ようとしないと、⼈がただいてもダメなんですよ」(f)。退院を拒んでいた者たちの思いを変えていったのは、意外にも仲間からのラーメンの誘いといったものだったという。もちろん、こうした脱施設化の動きに苦労や失敗がなかったわけではなく、むしろそれらの連続だった。しかし、当事者たちは問題に直⾯した時も彼らはあくまで「⾃分の苦労を取り戻す」姿勢を⼀貫し、「今⽇も、明⽇も、明後⽇も、ずっと問題だらけ、それで順調!」と苦労や問題を決して投げ出さず、失敗も含めて⾃分たちの貴重な経験として扱い続けた(g)。こういった姿勢は、脱施設化の上で課題とされる地域住⺠の理解についても同様だった。彼らは地域で⽣活する際、精神疾患を抱える者としてではなく、あくまで同じ地域に住む住⺠としての出会いを重ねていく。「偏⾒?ああ、あたりまえです。差別?みんなそうなんですよ。誤解?誤解もよくあることです。病気をした私たちでさえ、この病気になったらもうおしまいなどという誤解をして、慣れるまでけっこう時間がかかりました。ですから、みなさん⼤丈夫です。あまり無理して誤解や偏⾒をもたないように努⼒したり、⾃分を責めたりもしないほうがいいんです。体をこわしますから」(h)。
このようにして、1990年には130床まで増加していた浦河町の精神科病棟は、2001年に1年をかけて60床に、2014年にはついに精神科病棟を閉鎖し病床を0床とするまでに⾄った(e)(*2)。そこには、「《医療→「囲」療》、《看護→「管」護》、《福祉→「服」祉》」と、囲い込みと管理と服従を強いる施設・制度(Institution)の問題への強烈な批判と、それを乗り越えるための実践に裏付けられた知恵があった(i)。「べてるの家」の取り組みは、私には内外を分断する施設の問題がその存在を忘れるほど鮮やかに乗り越えられているように感じた。⾦⼋先⽣が施設のしがらみを⼈間同⼠の真摯な対話によって乗り越えていったように、脱施設化の上で重要なことは、必ずしも箱をなくすことではなく、箱に囚われない仲間をつくることだった。

それでも、箱は仲間づくりを阻⽌する

しかし、施設・制度(Institution)が定着しきった現代において、私たちが箱に囚われることなく仲間をつくるのは⼀⽅で難しいことも事実だ。そのことを考える際に決して忘れてはならないのが、2016年7⽉26⽇に神奈川県相模原市「津久井やまゆり園」で起きた障がい者施設殺傷事件と、その後の建て替え計画だろう。元施設職員の犯⾏によって知的障がい者が標的とされた凄惨な事件は、都市部から遠く離れた⼤規模収容施設で起きた。それは、かつて知的障がい者を地域社会から隔絶させることを⽬的としたコロニー(社会福祉施設)であり、まさに社会との分断を⽬的とする箱だった(*3)。この事件は、優⽣思想的な犯⼈の動機に加え、犯⼈が精神保健上の理由から措置⼊院の経験があったため(*1)、事件は犯⼈が退院さえしていなければ未然に防げたのではないかという声が当初あちこちから出た。それは、脱施設化の流れを再び施設化へと引き戻し、内外の分断を強固なものにしていくことを意味した。私たちは犯⼈の優⽣思想を真っ向から否定すべきにも関わらず、ややもするとそれを肯定しかねない状況に陥り、気付けば仲間どころではなくなっていた。再発防⽌策検討チームが提出した報告書には、関係団体へのヒアリングで出された意⾒が記されている。
「『容疑者の思い込みによる偏った価値観が、報道などにより拡⼤再⽣産され、多くの⽅が不安を強く抱き、今も感じている』ため、容疑者の間違った発⾔を徹底的に払拭すること」(j)。確かに犯⼈の思想はまったく受け⼊れがたいものだ。しかし、私たちが⽬指していたものは、偏った考えをそれがなかったかのように「徹底的に払拭する」姿勢だっただろうか。重要なのは、箱に囚われない仲間をつくることではなかったか。
また、遺族の意向により犠牲となった施設⼊居者の名前は公表されなかった。都内で開かれた追悼会で遺族が述べた⾔葉からは、施設に入れられた⼈びとが仲間をつくることの難しさが、またしても滲み出ていた。「この国には、優⽣思想的な⾵潮が根強くありますし、すべての命は存在するだけで価値があるということが当たり前ではないので、とても公表することはできません。(中略)今回の事件の加害者と同じ思想をもつ⼈間がどれだけ潜んでいるのだろうと考えると怖くなります」(k)。
さらに事件後、施設の建て替え計画が浮上すると、現地での全⾯的な建て替えと地域移⾏を前提とした⼩規模分散化を巡って議論がなされ、ここでも仲間づくりの難しさが浮き彫りになる。当初、利⽤者の家族会と施設の指定管理者が提出した要望書を受け、県が提⽰した再建⽅針は現地建て替えを前提としたものだった(l)。しかし、当事者を含む関係団体から、⼤規模施設を建設することは地域移⾏を重視する今⽇の考え⽅と逆⾏するとして計画の⾒直しを訴える声が挙がり、それを受けて新たに設置された部会での検討がなされた。最終的に、県は現地の施設を⼩規模化した上で、利⽤者の仮居住地だった地区に新たに園舎を建設する⼩規模分散化の案を提⽰する(m)。加えて、構想では地域のグループホームなどへの移⾏も選択肢として提供することも提⽰された。ただ、決着までには施設のあり⽅を巡るさまざまな対⽴意⾒が出た。中には、脱施設化の現状に触れる機会がないまま、「園でしか⽣活できない⼈がいることを知ってほしい」と当初は⼩規模分散化に反発していた利⽤者の家族もいた(n)。私たちは、事件の顛末を通して、施設という箱が仲間づくりを依然として阻⽌し続けていることをこれでもかと認識させられた。
そうして頭を悩ませている最中、気分転換にテレビを⾒ていると、連⽇報道される本⽇のコロナ感染者数の発表の後、ふいに相模原障がい者施設殺傷事件から5年が経過したことを特集し、現在の取り組みを取材した報道が差し込まれた(o,p)。それは、事件後にアパート暮らしを始めたかつての施設⼊居者の⽣活ぶりや、事件後に新設された福祉事業所が地域社会との交流を模索する様⼦を取材したものだった。そこには、当事者たちが地域に根付こうとする⼀⽅で、隣⼈から苦情が寄せられたり、挨拶に出向くと住⺠から「うるさいな。出ていきなさいよ、もう」と嫌悪感を⽰され突っぱねられたりする姿が映し出されていた。取材はコロナ禍の中で⾏われており、人びとはマスクをしていた。そして、私には障がい者との間に壁をつくり苦情や嫌悪感を⽰す⼈びとが、むしろ箱の中に閉じこもり収容されているように映った。そう感じた時、⾃ら壁をつくり箱に閉じこもる⼈たち、⼊院した兄、さらにコロナ禍を過ごす私の三者が、収容というひとつの同じ経験で繋がったような気がしてハッとした。

みんな箱に入れられた⼈間

私たちは、コロナ禍を経験し、移動制限のもとで不要不急の外出が禁じられ、箱に収容される当事者となった。多くの⼈が、私が安堵と息苦しさの双⽅を感じたのと同じように、アンビバレントな感情を抱いたことだろう。毎⽇の満員電⾞のストレスから解放された⼀⽅、プライベートな居場所である⾃室に職場が⼊り込んでくる不安。オンライン会議によって効率的に議論が捗るものの、余談や雑談がなくなってしまって感じる⼀抹の寂しさ。閉塞感の著しいロックダウンの中、アパートのバルコニーで合唱し安らぎと連帯を感じるひととき。エッセンシャルワーカーへの感謝と、これまでその役割の重みを認識してこなかったことへの反省。⼈間は、突如訪れた新興感染症下での⽣活に対しさまざまな知恵や⼯夫を駆使し、驚くほど柔軟に適応していった。こうした人びとの適応は、これまでゆっくりと進んでいた社会変化を加速化させ、今後も私たちのライフスタイルをより⼀層変えていくだろう。ただ、建築に携わる私たちが想像⼒を働かせるべきなのは、依然として箱に囚われ、収容され続ける人びとに向けるものではないだろうか。私たちがコロナ禍の経験を通じて真に⼤切にすべきことは、コロナ禍に伴う社会変化に先んじて訪れた⼀連の収容経験や、それによって私たちが実感したアンビバレントな感情にこそあるのではないか。それらの経験は極めて個⼈的なものだが、箱を巡る共通の経験だ。だからこそ、今もなお収容され続ける人びとに対する想像⼒や共感の契機になり得るはずだ。
私たちがコロナ禍に伴う移動制限によって共通して得たのは、箱に入れられるという⼀種の収容経験だった。それは、依然として施設に収容され続ける人びととの間に共通の基盤をつくり出す。つまり、私たちはコロナ禍を経験したことで、箱を介して人びとと仲間になるチャンスを得たのだ。それは、箱に囚われない⽅法で⾏う脱施設化の取り組みとは異なるアプローチで脱施設化を実践する機会を世界中の人びとが得たことを意味する。私は兄に⾔いたい。「この前⾔っていた『みかんの先の沼』の感覚が分かったよ。おれも同じような経験をコロナ禍でしたんだ。」障がい者に嫌悪感を⽰していた住⺠にはこう⾔ってやろう。「僕、実は気づいたことがあるんです。彼らが施設に収容される時の⽣活って、コロナで⾊々なことが制限されたあの時の⽣活と似ているんですよ。でも、確かにうるさい時はイラっともしますよね。」「べてるの家」の人びとには収容の経験を乗り切るコツを聞いてみたい。「⼊院している時は⼀体どうやって息苦しさをやり過ごしているんですか? 実は私、コロナで引きこもりの⽣活が続いたとき苦労したんですよ。」
今、私たちはみんな箱に入れられた存在だ。しかし、私たちはみかんではない。私たちは、コロナ禍を通じて得られた⾃⾝の経験をもとに、今もなお箱に囚われる⼈びとのために想像⼒を働かせることができる。私たちは、コロナ禍の中での経験を語り合い、箱を介して仲間になることができる。私たち建築に携わる専⾨家は、他者の箱を巡る経験を想像し、⾃らの箱を巡る経験とともに語り合うことができる⼈間なのだから──そう思った時、⾦⼋先⽣が涙ながらに叫んだあの⾔葉が少しかたちを変え、特徴的な台詞回しはそのままに再び脳裏をよぎった。「われわれは機械やみかんではない、⼈間なんです。⼈間の精神が建築によって腐りきるなどということは絶対にないんです! それを防ぐのがわれわれじゃないんですか。」




*1:統合失調症は、精神機能の統合が乱れ、幻聴や妄想、興奮状態などの症状が現れる精神疾患のひとつ。医療保護⼊院は、精神疾患の症状が激しくなっているものの当事者が治療の必要性を認めない場合に、精神保健指定医の判断と家族等の同意によって⼊院の措置を⾏うもの。後述する措置⼊院は、⾃傷他害の恐れがある場合に、2名の精神保健指定医が診察のもとで⼊院の措置を⾏うもの。⼊院先となる精神科病棟では、精神保健福祉法によって⾏動制限が認められる。
*2:精神科病棟の閉鎖ののち川村医師は「浦河ひがし町診療所」を開業し、地域の中で継続して治療にあたっている。ー斎藤道雄 著『治したくない──ひがし町診療所の⽇々』(みすず書房、2020年)
*3:コロニー(社会福祉施設)は、保護、治療、訓練などのため地域社会から隔絶された⼈たちの施設の総称。⽇本では1960年代の障がい者福祉政策の課題として建設が取り上げられるようになった。1971年には、親の死亡後の重度知的障がい者のための施設を求める動きにこたえ、群⾺県⾼崎市に国⽴コロニー「のぞみの園」が建設され、これを契機に都道府県が開設する地⽅コロニーが構想されるようになった。ー岩永理恵「コロニー社会福祉施設コロニー(社会福祉施設)」(⽇本⼤百科全書(ニッポニカ)、参照:2021年7月30日)


参考文献
a. ⼩⼭内美江⼦ 脚本、⽵之下寛次 演出「腐ったみかんの⽅程式・その1、3年B組⾦⼋先⽣第2シリーズ、第5話」(TBSテレビ、1980年10月31日)
b. ⼩⼭内美江⼦ 脚本、⽵之下寛次 演出「腐ったみかんの⽅程式・その2、3年B組⾦⼋先⽣第2シリーズ、第6話」(TBSテレビ、1980年11月7日)
c. ミロス・フォアマン 監督「カッコーの巣の上で」(ユナイテッド・アーティスツ、1976年)
d. 向⾕地⽣良 著『技法以前──べてるの家のつくりかた』(医学書院、p.90、2009年)
e. 川村敏明・向⾕地⽣良 監修『退院⽀援、べてる式。』(医学書院、pp.86-87、2008年)
f. 前掲e、pp.107-108
g. 向⾕地⽣良 編著『⽇めくり まいにちべてる』(いのちのことば社、p.1、2018年)
h. 浦河べてるの家 著『べてるの家の「⾮」援助論──そのままでいいと思えるための25章』(医学書院、p.53、2002年)
i. 前掲h、p.42
j. 相模原市の障害者⽀援施設における事件の検証及び再発防⽌策検討チーム「報告書~再発防⽌策の提⾔~」、(厚⽣労働省、p.5、2016年12月、参照:2021年7月30日)
k.「相模原障害者施設殺傷事件 第1回追悼集会に寄せられたメッセージ」(NHK福祉情報サイト ハートネット、2016年8月29日、参照:2021年7月30日)
l.「津久井やまゆり園の再⽣に向けた⼤きな⽅向性について」(神奈川県、2016年9月23日、参照:2021年7月30日)
m. 神奈川県「津久井やまゆり園再⽣基本構想」(神奈川県、2017年10月14日、参照:2021年7月30日)
n. 神宮司実玲、岩堀滋「やまゆり園か地域か ⽣活の場、⾃分で選ぶ 事件3年」(朝⽇新聞デジタル、2019年7月24日、参照:2021年7月30日)
o. 「事件から5年 被害者 地域の中で⽣きる選択」(日本放送協会、おはよう⽇本・ニュースウォッチ9放送「19のいのち─障害者殺傷事」、2021年7月15日、参照:2021年7月30日)
p. 「ある福祉事業所の“歩み”」(日本放送協会、おはよう⽇本・ニュースウォッチ9放送「19のいのち─障害者殺傷事件─」、2021年7月15日、参照:2021年7月30日)



坪内健(つぼうち・けん)
1991年愛知県尾西市(現・一宮市)生まれ/北海道大学大学院工学院建築都市空間デザイン専攻博士後期課程/建築計画/宮城県気仙沼市小泉地区を対象に、東日本大震災によるコミュニティ移転の調査・研究に従事

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