新規登録

この記事は下書きです。アクセスするログインしてください。

2021.06.01
Essay

第10回:空間制御のアップデート「境界の制御とインタラクション」

コンピュテーションが生む創造的思考

浜田晶則/AHA 浜田晶則建築設計事務所、teamLab Architectsパートナー

炉は最初のそして最重要のもので、建築芸術の倫理的要素である。その周りに3つの要素が集まっている。それらは炉の火を脅かす3つの自然の力に対する防御として、いわば、保護しつつ拒否するもの、すなわち、屋根、囲い、土台である。
(ゴットフリート・ゼムパー著『建築芸術の四要素』より)

ドイツの建築家であるゴットフリート・ゼムパーは、「囲い」に対する原初の例として遊牧民のテント張りのカテナリー屋根と、絨毯による垂直の壁面を挙げたが、そのイメージはどちらも布のような軽やかなもので囲いをつくる建築のエレメントであった。囲いや覆いによって暗くなった室内に対して、光や風を採り入れるための窓をつくり、さらに蝋燭やランプなどを用いて室内を道具によって明るく照らし、日が暮れても活動できる室内環境をつくった。それらはガスや電気によって近代化・機械化され、室内環境を容易かつ人工的に制御できるようになった。レイナー・バンハムが「『人工気候』という言葉が空気調和過程の最終産物を言い表している」(『環境としての建築』より)と述べたように、人工的に気候を調整し、さらに自然を再現し、それらを建築と調和する形で統合することが、建築家が関わるべき空間や環境の制御といえるだろう。

建築のスケールが大規模化し、工場や学校、ショッピングモールなどの施設型建築の空気環境や光環境を制御するために、機械化は必然だった。見方によっては、機械化が進んだことによって巨大な建築を利用することが可能になったともいえる。機械化が十分に浸透した現代においては、情報技術によってさらに高度な空間制御ができるようになってきた。ならばわれわれは、これから何を目的として空間を制御するのだろうか?

日本の住居の形式の一つである「地方続き間」型の住宅で育った筆者にとって、引戸としての建具は軽く交換可能な囲いであった。障子の和紙を破っては張り替え、続き間の襖を動かして部屋に隠れ、ガラス戸の手前に吊られているレースのカーテンを動かして光と戯れていた。日本建築の特徴の一つに、建具の開閉によって生まれるグラデーショナルな境界の制御がある。それによって、物理的に人や動物が内に入ることを防ぎ、採り入れる光の量を調節し、風を通したり気密を確保したりすることで年間を通して快適な環境を保とうとしてきた。建築の多くのエレメントは動かない。そのため風土によって、夏に涼しい家や冬に暖かい家など、どちらかの季節に比重を合わせることも多かった。しかし、われわれの身体を守る第一の境界である衣服の素材を季節に合わせて変え、重ねることによって環境に適応してきたように、建築もそのように軽やかに制御可能なものになるべきであると筆者は考えている。その主題に取り組んだ作品がAHAで設計した「綾瀬の基板工場」である。fig.1

計画は常に変更され更新されるものである。設計時も、利用時も当初の計画が変わらないことはない。たとえばコンピュータ上のソフトウェアやWebサイトなどのデジタルデータで制作したものは、物理的に大きなものを動かすのではなくデータを変更していくため、変更が比較的容易である。計画時と利用時に両方でそれが可能となるための、システムをまず設計しようとした。互換性のある建具の幅から正方形グリッドの軸線が決まり、動かしやすく外しやすい軽やかさをつくるために高さや素材が決定された。ルイス・カーンはペンシルベニア大学リチャーズ医学研究棟で、「奉仕する空間」と「奉仕される空間」に分けて計画したが、ここでは人が建具や家具に触れて動かすための、能動的に「制御する空間」と、高窓や膜天井などの建築的エレメントと機械設備によって、受動的に「制御される空間」に断面を分けて計画した。fig.2

異なる色を二つ重ねることで様々な意味が生まれる「かさねの色目」という日本の服飾文化がある。本コラムを執筆している現在の初夏をあらわす色は、二藍と萌黄で「杜若」となり、二藍と青で「桔梗」となる。「綾瀬の基板工場」では、縦格子の外部建具、ガラスの木サッシ、不透明な木建具、光を透過する障子と重層的に建具を配置し、その組み合わせを季節や利用シーンに応じてユーザーが常に制御できる。コンピュータ上でソフトウェアを操作するかのように、物理的な建築を操作する「オペレーティブな建築」をめざした。fig.3fig.4

ゼムパーが定義したように建築の初源的なイメージのひとつに「囲い」があると述べたが、一方で塊に穴をあけることによって生まれる洞窟のような空間もその一例であるだろう。例えば蟻の巣のように、空間を仕切りで囲うのではなく、境界そのものが人に合わせて変化していくような、物と人が動的に一体となる空間のあり方は考えられないだろうか。

アートコレクティブのteamLabの作品「Floating Flower Garden: 花と我と同根、庭と我と一体」は、生きているランの花が空間に充填され、近づいた人の周りにガウス曲線の回転体で規定される3次元的な境界が、人を中心に生成されて動いていく。空気中の水分によって空中で生き続けるランと人とが作品内で共生し、人の動きにゆっくりと合わせながら一体となる。fig.5

花々が、立体的に埋め尽くされた花の塊であり、庭園。

花は人がいる場所では、上に上がっていき、人がいなくなればまた下がっていく。空間は花々で埋め尽くされているが、花が上がっていくことで、人がいる場所に空間が生まれる。そのため、人々は、花で埋め尽くされた立体の塊の中を、自由な方向にゆっくりと歩き回ることができる。作品の中で、他者と出会うと、それぞれの空間はつながり、1つの空間になる。

禅の庭園は、山の中で大自然と一体化するように修行を行っていた禅僧が集団で修行をするための場として、生まれてきたとも言われている。
中国の禅の公案に「南泉一株花(なんせんいっちゅうか)」というのがある。むかし、陸亘大夫という人がいた。陸亘大夫は、筆法師の『筆論』の有名な句「天地と我と同根 万物と我と一体也」を「也甚だ奇怪なり」と南泉和尚に問うた。南泉和尚は「時の人この一株の花を見ること夢の如く相似たり」と、言ったという。
本作は、人々が花々の中に埋没し、花と一体化する庭園である。人は花と一体化したとき、人が花を見ると、花もまた人を見る。そのとき人は、はじめて花を見ていることになるのかもしれない。

(teamLab「Floating Flower Garden: 花と我と同根、庭と我と一体」より抜粋)

今後も人が担ってきたサービスを機械がより多く代替していき、ロボティクスと建築の融合が更に進むだろう。これまでの機械は人の手で操作することを前提とした道具であったが、ロボティクスは「駆動・知覚・知能」の3つの要素によって成立し、あらかじめプログラムされた機械が自律制御によって、アダプティブに目的を遂行する。そうした技術が浸透し社会に実装されたとき、建築は機械から生命のように進化すると筆者は考えている。

われわれは、何を次なる目的として空間を制御するのであろうか?この冒頭に挙げた問いに対する一つの答えは、境界が常にやわらかく変化していくことによってより自由な境界をつくること、もしくは境界のない世界をめざすことではないだろうか。

かつての遊牧民が囲いに使った絨毯のように、軽やかで自由に制御可能な境界が、未来の建築のエレメントになるだろう。ならば建築は、空飛ぶ絨毯のように人間と自然環境に寄り添い、空間を自律的に制御する有機体をめざせるのではないだろうか。そんな、生命のような建築の夢を描いていきたい。

浜田晶則

1984年富山県生まれ/2012年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻修士課程修了/2014年AHA 浜田晶則建築設計事務所設立/同年〜teamLab Architectsパートナー/日本女子大学非常勤講師、明治大学兼任講師

浜田晶則
コンピュテーションが生む創造的思考

RELATED MAGAZINE

新建築 2017年3月号
続きを読む

「綾瀬の基板工場」(『新建築』2017年3月号)/撮影:新建築社写真部

撮影:Kenta Hasegawa

fig. 5

fig. 1 (拡大)

fig. 2