解放された振る舞いを許容する場
──SNSなどの普及によって”正しさ”が求められる時代に、盛り場をはじめとする夜の街がもつアジール的な性質は、これからの都市においてより重要になるのではないかと思います。今回は、そうした包摂性をもつ夜の街は人の手によって計画され得るのか、われわれは夜の街とどのように向き合うことができるか、ということについて議論できればと思います。まず、みなさんが夜の街にどのような魅力を感じているか教えていただけますか。(黒瀬)
永野 一言で夜の街といっても、それはとても多様です。すべてを体験しているわけではないので、あくまで限定的な話になりますが、夜の街ではそれぞれの趣味嗜好や人間関係の構築の仕方に合わせて小さな場や関係性が構築され、その無数の集積によって街の雰囲気が醸成されます。昼の街と比較して個人が小さな粒として存在できることは夜の街のひとつの魅力ではないでしょうか。
中島 主体の大きさという意味で、昼と夜は対称的です。昼間の街の主役は企業という大きな主体やそこに勤務する人たちです。一方で、夜の街は個人経営のスナックや昼間の仕事を終えて個に戻った人たちという、小さな主体によってつくられます。永野さんのいう小さな粒としての状態は、昼の肩書きから解放された状態ともいえます。大きな主体から解放された人びとの振る舞いを許容し、それに合わせた空間が現れるということも魅力のひとつです。
五十嵐 磯村栄一は、肩書きから解放されて娯楽や余暇を楽しむ空間を、第1の空間である住居、第2の職場に次ぐ第3の空間と位置付け、そのひとつとして盛り場を挙げています。家族形態や職場環境が流動化する昨今において、第3の空間としての夜がもつ包摂的な魅力の意義はますます大きくなるでしょう。ただ、私にとって夜の街は昼のようにポリティカルコレクトな世界ではなく、欲や感情がむき出しになり、札束や見栄が飛び交う世界でもあり、一口に夜の街といっても永野さんや中島さんとはだいぶ異なるイメージを持っています。そこに解放感を感じたり癒されたりする人もいれば、病んでしまう人もいるし、チャンスを得る人もいれば、すべてを失う人もいる。それを丸ごと肯定すべきこととは一概にはいえませんが、そこに一定のニーズがあるのは事実です。
──永野さんと中島さんが取り組む「アーツ&スナック運動」とはどのような活動なのでしょうか。
永野 東京大学都市デザイン研究室として、2019年から上野と湯島を繋ぐ夜の街、池之端仲町エリアのまちづくりに携わっていますfig.1。池之端仲町はかつて門前町として栄えたエリアです。現在も伝統工芸品や画材を扱う老舗が点在していますが、空きテナントや客引きが増加するなどの課題を抱えていました。そこで、地元のビルオーナーの方がたと月1回の自主勉強会を重ね、空きスナックを街の文化的資源と捉え、ライブパフォーマンスや演劇などを行うアートイベント「アーツ&スナック運動」などの取り組みを通して、街の文化を再発掘しようと試みていますfig.2。また、商店街の街灯に着脱式テーブルを設け、歓楽街の街角でテイクアウトの飲食が楽しめる「ガイトウスタンド」も手がけていますfig.3fig.4。コロナ禍をきっかけに路上に多様な人の目をつくりだしながら、見知らぬ人とも柔らかく空間を共有するような新しい風景を目指しています。
五十嵐 日本の夜の街は欧米と違い、訪れる層が中高年の男性に非常に偏っていると指摘されてきました。「アーツ&スナック運動」は、アートの異化作用を通じ、これまで一部の中高年男性に占められていた利用者層を多様化・リベラル化し、夜の街を開く、ひいては”健全化”していく取り組みとして非常に興味深いです。社会学的に考えると、居住される空間をコミュニティとして捉えがちですが、そこを出入りする人たちまでを含めた相互作用の場として夜を紡いでいくという点で、とても意義深い取り組みだと思います。
永野 東京藝術大学の学生の作品展示、老舗の技巧体験教室、落語などこの土地ならではのアートを空きスナックに展開してきましたfig.5fig.6。学生たちと来場者のアクティビティ調査を毎回実施していますが、若い女性連れや子連れなど、普段は街を訪れもしない層が雑居ビルの中まで入り込み、多様な業種の存在を脇目に見ながら街を回遊したことが分かりました。夜の街の独特な空間性は、そこで何か新しいことや面白いことをしてみたいというインスピレーションを与えるようで、VtuberがママをするVtuberスナックなんていうプログラムも生まれましたfig.7。企画のたびに、また次の企画が持ち込まれるような感覚もあり、まさに固定されていた利用者層を広げる取り組みです。
昼のロジックで夜の街に介入する危うさ
五十嵐 一方で、夜の街にはホストやキャバクラ、風俗店など、昼とはまったく異なるロジックで巨大な資本が動く世界があり、経済規模からいってもそちらこそが夜の街の主役だといえます。もちろん私もそのあり方を全肯定しているわけではありません。今、ホスト業界は現在空前の盛り上がりを見せているといわれていて、歪なかたちではありますが、その意味では中高年男性だけが夜の街の顧客という状況も変わりつつあります。
このような現実の中で、先に話したような夜の街の魅力は、いわばそうした”深い夜”の世界があることで成立している面もあります。そこで、夜の街に「アーツ&スナック運動」のような取り組み、ひいては都市計画など、昼のロジックに基づいた手法で過度に介入してしまうと、この国の”深い夜”に息づいてきた何かをより周縁に追いやってしまわないかと懸念もしています。「アーツ&スナック運動」が昼のロジックでも比較的扱いやすく、夜の街の包摂的側面を象徴するスナック空間を主な活動の場としたのは、プロジェクトの入口としては正しいと思います。ですが、逆にいえばそこは夜のすべてではありません。われわれが”深い夜”にどう介入するのか、そもそも介入して外部に開いていくべきなのかというのは非常に難しい問題で、未だ答えは出せずにいます。そこにはふたつの理由があり、ひとつは”深い夜”を昼のロジックで"健全化"してしまうと、そこに人生を賭けている、あるいは何らかの理由でそこに居場所を求めている人たちの生活の場、生業を奪ってしまうことになりかねないという点です。もうひとつは、”深い夜”を構成する業態をなくしてしまって、果たして夜の街全体の経済や文化を維持できるのかという疑問です。こうした世界に介入する際には非常に繊細な感覚が必要ですし、昼の世界に生きる私たちが夜に関わるプロジェクトを考える際には、この街の夜の深さや全体像はとても見渡せていない、という謙虚さが不可欠だと思います。
永野 「アーツ&スナック運動」で念頭に置いていた夜の街とは、あくまで昼の肩書きを終えた人が集まるアフターファイブ的な街といえばイメージしやすいかもしれません。われわれがその背後にある”深い夜”の世界に向き合えているかといえば、できていないのが現状です。そこには夜の街ならではの特殊な事情があります。というのも、夜の街の賃料はかなり高いのです。そのため、ビルオーナーが事業を存続するためにはテナントを小箱に分け、相対的に需要のある業態を引き込むか、いわゆる夜の業態を入れるかの二択しかありません。コロナ禍も相まって家賃を下げざるを得ない中だとしても、昼のロジックによる”健全化”を企むには、経済的な面でまったく噛み合わないのです。テナントの性質という面では、そう簡単に転換は起こり得ないのだと実感しています。
また、都市計画、まちづくり的な立場に立つことはつまり、昼のロジックを夜に持ち込む姿勢をとることだという指摘も否めません。その代表例が、違法風俗店の摘発や地区計画の施行によって健全化し、アートによるまちづくりを進めている横浜市黄金町の事例だと思っています。「アーツ&スナック運動」の始まりは、上野でも黄金町のようなことができないかと相談を受けたことがきっかけです。もちろん黄金町と上野ではバックグラウンドが違うので横並びで語ることはできませんが、上野では昼のロジックで”深い夜”の世界を一様に排除するのではない、オルタナティブな方法を考えたいと思いました。夜の世界の入口ともいえるスナックを活動の場に選んだのは、昼のロジックを手法としながら、あくまでも間接的に夜の街へと介入できないかと考えたからです。
中島 上野は細かく土地が所有されています。大きな地主がいてトップダウン的に街が動くのではなく、ひとりひとりのオーナーの動きを通して街が変化するのです。風俗店を入居させなければ立ち行かないオーナー側の事情も鑑みると、合意形成を基にした都市計画や地区計画によって街を大きく変化させることは、論理的にも倫理的にも難しいのです。われわれは夜の論理を知らず、昼のロジックで動いていることは確かですが、それでも昼のロジックのど真ん中をかろうじて拒否しつつ、上野で何ができるのか考えてきました。
永野 先ほどから介入という言葉を使ってきましたが、”深い夜”を構成する業態を街からなくしたいという気持ちはまったくありません。ただひとつ、確かに意図していることは、犯罪が起こり得る状況を減らすことです。それは街の旦那衆やビルオーナーの思いと行動がなければ実現しないと考えています。”深い夜”で活動する人びとはあくまで店子なので、長い目で見た時の街の方向性の鍵を握るのは、土地・不動産を所有している人びとです。収益物件化し、不動産業者任せになってしまっては、歯止めのかけようがありません。彼らに街をどうしていきたいのかを問い続けることが、われわれの活動の本質だと思っています。
五十嵐 その通りだと思います。ただ、街はそこに関わる人すべての公共財なので、オーナーだけでなく店子やその街を居場所としている人たちの声を無視していいわけではありません。どういう街を望むかという大きな方向性に対し、多様な意見を集めるためにも、夜の街を開いて可視化する「アーツ&スナック運動」は重要な役割を果たしているのではないかと思います。
夜の営みを可視化する
──都市計画やそれに関わる人びとは、”深い夜”の世界に対してこれまでどのようにアプローチしてきたのでしょうか。
中島 もともとは都市計画が夜の世界の業態を、禁止地区ないし許可地区双方の観点から立地による規制を試みようとしていたのですが、それが叶わなかったというのが歴史的な事実です。これは戦前から議論されてきたことですが、夜の営業が許可され、盛り場ができれば地価が上がるなど、街に大きな変化をもたらすので、そこは警察や風営法によってではなく、都市計画によって主導すべきだという認識がありました。警察署のトップや知事の権限ひとつで許可するのではなく、都市計画委員会という場で、合議的に決定するべきだという考えがあったのです。そうでなければ、利権の巣窟になってしまうという懸念もありました。しかし、現実のポリティクスな世界、ないしは行政の縦割り構造の中ではそこになかなか踏み込めず、風営法に対して都市計画の用途地域で整合性をとりつつも、どこにどういった店を出せるかということは都市計画としては積極的にコントロールできていないのが現状です。
五十嵐 私が昼のロジックで夜の街に介入する先に懸念しているのは、それによって”深い夜”の世界が存在するということ自体を不可視化してしまうことです。たとえば都内では規制によってラブホテルを建てられないような場所でも、無店舗型の風俗店が雑居ビルのワンフロアのレンタルルームという業態でそれを代替し、より不可視な存在になっている実態があります。昼のロジックによって規制を重ねても、”深い夜”の世界はそれを掻い潜るように形態を変え、ますます人の目を離れ、かえって労働者や顧客の危険が高まっていく。こうした傾向は2000年代から徐々に強くなっており、今後より顕著になる可能性があります。一言に”深い夜”といっても、そこには風俗店や遊興飲食店など多様な業態があり、さらにその中にも、ディープなものからライトなものまで、多層のレイヤーが存在します。不可視化を避けるには、まずはこうした構造の認識の解像度を上げておくことが重要です。
──「アーツ&スナック運動」はスナックという一部の人たちには馴染みのない、夜の世界の一部を可視化する取り組みともいえます。
永野 おっしゃる通りです。そこで重要なのは、われわれの認識する世界とは異なる世界が存在するということをまず認識し、まずは無理なく共存、あるいは併存することだと思います。たとえば「ガイトウスタンド」は人の目を点在させて行き過ぎた客引きの横行を牽制する側面ももっていますが、いきなり牽制の姿勢を打ち出してしまうと、余計な衝突を招くことにもなります。私を含めて運営者たちは、事前にこういうイベントをする、ということを彼らにも伝えながら実践しています。街の主体は表も裏もあるわけですが、それぞれが少なからずコミュニケーションチャンネルをもっていることは、”深い夜”の不可視化を避けるという意味では重要だと思います。
五十嵐 街は公共財なので、どんな店や人であれ共存は避けられません。夜の街の店が街に関わる機会は少なく、街の旦那衆によるパトロールがその最初のきっかけとなることが多いと聞きます。パトロールは、規制という昼のロジックの一環といえますが、それ自体がコミュニティの境界を和らげる、コミュニケーションを開く契機になるという側面ももっています。たいていは客引きとのいたちごっこに終わるのですが、それを続けることによって犯罪を牽制しつつ、グレーな状況との境界が緩やかにできていくのです。
永野さんのいう通り、われわれは”深い夜”の世界があることで成り立つ領域があるということを認識しておくべきです。「アーツ&スナック運動」のような活動が、そうした”深い夜”の世界とのコミュニケーションチャンネルを間接的に開き、可視化していくきっかけになることに可能性を見出しています。
時・環境の移ろいを風景化する夕方の世界
──五十嵐さんのいう”深い夜”と、昼のロジックの延長にある”浅い夜”があるとすれば、”浅い夜”がもつ包摂的な魅力を昼の街に持ち込むことは可能なのでしょうか。
中島 夜はわれわれがどうしようともやってくる自然現象です。夜に展開する行為を昼の街で行えば、同じような解放感が得られるかというと、それは難しいでしょう。ただ、夜の包摂性が自然のリズムによってもたらされるものだとすると、そうした環境の移ろいを感じられるような仕掛けを昼に持ち込むことはできるのではないかと考えています。一言に夜といっても、黄昏、夕べ、宵、夜半、夜更けなど、私たちは時間帯によってさまざまな表現を用いているはずです。そうした些細な環境の変化に今一度目を向けることも重要だと思います。
永野 ここ数年はコロナ禍により、都市のオープンエアがこれまで以上に体感され、これまで店の中に留まっていた盛り上がりが外に向けて開くことの可能性や、その魅力を再考する時期でした。星を見て、風を感じながら飲食を楽しんだり、街を歩いたりする時に感じる解放感は、昼にはない魅力ですfig.8。昼の街のデザインを考える際にも、夜のオープンエアがもつ環境の移ろいやそれによって生まれる包摂性・開放感がヒントになる気がします。
五十嵐 夜の魅力のひとつは肩書きから解放され、見知らぬ人とも交流できるような雰囲気があることだとされがちですが、いざ飲食店に入ってしまえば職場の同僚や友人の輪だけで完結してしまいます。その意味では、夜における本当の社交空間はオープンエアといえるのかもしれません。
中島 午後9時過ぎから10時ごろ、ガイトウスタンドの営業の終わりが近づくと、ガイトウスタンドを使う人と客引き、居酒屋で飲み終えて歩く人が混ざり合う時間帯があります。そこで具体的な交流が生まれることはなかなかないのですが、引いた目で見ると、”浅い夜”と”深い夜”が共存する風景が生まれていることに気が付きますfig.9。”深い夜”の世界を可視化するという意味では、こうした人びとが入り混じる汽水域の風景が存在するということ自体が大事なのだと思いました。今回は”浅い夜”と”深い夜”、昼のロジックと夜のロジックと対立的に語ってきましたが、パラレルな世界が時間の移ろいと共に混じり合う瞬間、一種のあわいを目の当たりにすると、それらが自然に共存する状態をひとつのビジョンとして描けるのではないか、そんな想いが湧いてくるのです。
永野 夕陽が沈み、夜が始まり、さらに深い夜がやってくる。そうした時間・環境的な移ろいを楽しむところに、夜の街の文化性の本質があると思います。オープンエアではもちろんですが、たとえばスナックでも、そこで一杯飲んだ後にディープな店に行く人もいれば、逆に飲み直しに来る人もいる。昼とは別に夜の街で面白い事業を始めようする人が飛び込むきっかけにもなる。池之端仲町の活動では、スナックをそのような昼と夜の中間的な領域を象徴的に表す場として捉えています。さまざまな人が混ざり合う”夕方”的な場と言い換えることもできるでしょうか。昼と夜を繋ぎ、多様な人びとが共存する”夕方”のロジックを考えることに、夜の街へのオルタナティブな介入としての可能性が潜んでいるように思います。
fig.10
(2023年2月6日、オンラインにて。文責:新建築.ONLINE編集部)