住工分離による生産の場の不可視化
──近代都市計画は、産業革命を経て都市に人口が集中する中で、工場と住宅が混在することによる環境悪化への対処として始まりました。こうして住宅と工場を空間として分離することが、今どういう問題を引き起こしているのか。まずは住まいと工場の関係についての考えを教えてください。(黒瀬)
野原 用途地域をはじめとする、都市の要素を分けて整理するという概念は、産業革命以降に生まれた、過密や汚染、衛生問題などの都市問題に対処する中で生まれました。特に日本の黎明期の用途地域を見返すと、工業地域には用途制限が設けられていない一方で、住居地域には厳しい制限がかかっていました。それを考慮すると、大雑把にいえば、用途地域という制度はよい環境の住宅地をつくるために生まれたきたのではないかと思います。そもそも労働から分離された「家」という概念は近代以降の産物で、それ以前の日本では暮らしと営みが連動していました。農家は働く場所と住む場所が同じですし、炭鉱住宅はもはや働く場所に住んでいるという状態でした。住んでいる場所で働くのではなく、働く場所に住むという感覚だったのでしょう。作業場としての土間と路地が地続きにあり、本来家と都市は混ざり合った空間でした。
──近代都市計画は、純粋住宅地を生み出したともいえるのですね。
野原 工業が生まれるのに伴い、生産を担う労働者が均等かつ上質に供給されるために、休みにも配慮した上質な住宅が必要になり、一方で、デスクワークが最大限効率的に運用されるべく、業務専門のオフィスも生まれてきました。こうして生活と労働の場は、効率化を図るために分離されてきました。また、工業、特に煙などを排出する製造業は人間の生活とはそぐわないということで隔離され、生産側も、効率を上げるためには工場を集積させた方がいいということで、双方向から生産と生活の関係が切れてしまったのが近代化の実態です。
──野原さんは大田区でまちづくりに携わられていますが、大田区での工場と住宅の関係は現在どのような状態にあり、どのような課題を抱えているのでしょうか。
野原 大田区のものづくりの歴史はほかの街と比較して新しく、戦前から始まり、戦時中の軍需産業で栄え、その後に重工業や自動車に置き換わった際の下請け業を中心とした町工場が発展してきました。多くの町工場は小規模零細で工場と住宅が一体となっており、当初から住工混在の状態が続き、においや騒音などが社会課題として受け止められていました。その対策として大田区が最初に手をつけたのは、臨海部を埋め立て、工場を集積させる方法です。城南島や京浜島を工業専用地域として工場を移設しようとしましたが、一気にまとめて移るわけではないので、大きな解決には繋がりませんでした。続いて、工場アパートというものを手がけますfig.1。最大で50軒ほどの工場が入居できるアパートをつくり、集約しようというものです。スラブはぶ厚くて階高も高く、フォークリフトも直接入ることができる、工場用につくられたビルですが、区内の工場は全体で3500社以上あるので、こちらも住工混在の根本的な解消には繋がっていません。そうこうしている間にリーマンショックや東日本大震災が起こって工場自体が減り、結果的に住工混在が緩和されようとしているのが現在までの状況です。それは決して、工場や住宅にとって環境がよくなったということではありません。
──工場の敷地面積はマンションの建設にちょうどよい広さであることも多く、工場が廃業するとすぐにマンションや住宅が入ってくると聞きます。
野原 その通りです。大田区では工場跡地にミニ戸建てやアパート、マンションがすぐに建ちます。人口が増えるのは悪いことではありませんが、土地の細分化が進み、再分譲できないような小ささになっていけば、中長期的に見た時にその街の価値が下がってしまいます。大きい敷地がマンションに変わって若者も増え、活気も生まれている。それ自体は歓迎されるべきことですが、住工混在による根本的な課題を据え置いてしまうと、町工場にとってはどんどん肩身が狭い場所になっていきます。
一方で、町工場側としてもこうした生活の場を意識しており、操業を続けるためにかなり周辺に配慮しています。作業場の1階の扉を閉め、音やにおいが外に出ないようにする所もあります。その配慮の結果、周辺住民から見ると、中で何をしているか分からない、もはや工場かどうかも分からないという状態になっています。それは都市のあり方として健全ではないでしょう。そこで、ものづくりを介して新たな繋がりを生む緩やかなエリアコンバージョンができないかということを考えてきました。生活の場としての住宅地には、いってしまえば消費しかありませんが、それに対する都市は、価値を生産する場であると考えています。大田区の場合は、ものづくりで培ってきたリソースがその価値の源泉になります。その大切さを都市の中で再認識するためにも、「おおたオープンファクトリー」を始めました。
生活と生産の場を繋ぐオープンファクトリー
──そもそも、オープンファクトリーとはどのような取り組みなのでしょうか。
野原 普段は閉じられている町工場を、数日間一斉に公開し、ものづくりなどを体験できるイベントです。台東区で開催されていた、問屋や工場を開く「モノマチ」というイベントも参考に、2012年に第1回を開催しましたfig.2。やはり、自分が知らないものは応援できないし、トラブルの元にもなりかねないので、まずはものづくりの現場が街の中にあることを知ってもらうために、工場を開いて見せることから始めようとしました。取り組みを続けるうち、たとえば、世界的な服飾ブランドのファスナーにブランド名を刻印する町工場の職人がおり、見た目は普通の方で、小さな戸建ての土間のような場所で作業していますが、世界に活躍する職人がいると知った途端、みんなが驚き、応援してくれるようになりました。
──「知らないものは応援できない」、「開かれた場で顔見知りになる」というのは、これからの都市を考えるうえで重要な観点な気がします。
野原 生産の場が生活の場から切り離されたのに伴い、ものがつくられる過程もブラックボックス化しました。少し前に工場見学が流行ったのも、そこにその過程を取り戻す喜びがあるからではないかと思います。身近な街にものづくりを担い、活躍している人たちがいることが知れると、少しくらい音が出ても許容してくれたり、安心して応援できるのではないでしょうか。町工場がオープンファクトリーに参加してくれる背景には、自分たちの取り組みを知ってもらうことで、近隣との関係を構築できるという側面もあります。オープンファクトリーは、ものづくりの現場が生活に寄り添って生きていくための潤滑剤としての取り組みです。
──ものづくりの背景やモノに込められたストーリーまでを理解できると、周辺住民以外の新しく大田区を訪れた人たちにも「この街いいかも」と思ってもらえるきっかけになりそうです。
野原 シビックプライドとまでいうといい過ぎかもしれませんが、そういう価値のひとつとしてものづくりを捉え直してもいいのだと思います。オープンファクトリーを開催する地域はその後、50カ所ほどにまで広がりました。その中で、イベントを通じて街のハードまでイノベートされた事例もあります。BtoCの産業が盛んな地域ではイベントによるレバレッジが大きく、たとえば刃物や金物・洋食器で有名な新潟県の燕・三条は、オープンファクトリー(「工場の祭典」)の際には海外から食器などを買い付けに来る人もいるそうですfig.3。爪切り製造で有名な諏訪田製作所は2020年、誰でも自由に見学できる新工場「SUWADA OPEN FACTORY」を建設し、ギャラリーやショップも備えましたfig.4。福井県鯖江市・越前市・越前町(丹南エリア)では、オープンファクトリー(「RENEW」)を機に、30ほどの会社が自社のものを売る場所を増築・新築したそうです。厳密にいうことは難しいですが、町工場の環境も昔と比較すればよくなっています。今は職人さんといっても機械で作業するので、仕事そのものは少しずつクリーンになっていて、住宅地に寄り添いやすくなっています。
小さな拠点から生まれる新たなコミュニティ
──工場そのものも変化し、実は住宅と共存できるようになってきているのに、ルールや制度、社会のイメージは更新されず、町工場はそのギャップに苦しんできたのだと思います。工業の変化に合わせて、都市計画もアップデートしていくべきではないでしょうか。
野原 理想としてはそうなのですが、実際はものづくりの現場も変化には慎重で、そこまで変われていないのが実情です。ただ、世の中のあり方としてはそうならなくてはいけないし、ものづくりの本質は維持しながらも、新しいものと融合して次の世代に受け渡していく必要があります。これから持続型の社会をつくっていくうえでは、コミュニティを固定させるのではなく、ある程度循環させることが大事です。戦後に郊外住宅地をたくさんつくった時は、何もないところに新しい街をつくらなくてはいけなかったので、コミュニティ形成が喫緊の課題でした。そのために中庭をつくったりと、プランニング的な工夫が行われてきましたが、それを突き詰めすぎると、かえって次の世代が入りにくくなってしまいます。住み続けてもらうことは大事ですが、ある程度循環しないとそれは継続しません。町工場にも同じことがいえ、基本は家族経営なので、子供世代が後を継がなければ廃業してしまいます。そういう意味でも、どうやってコミュニティを開くかというのは重要な課題です。連綿と続く文化を尊重しながら、そこに新しい血が流れ込むようなかたちをつくらなくてはならない。オープン・ファクトリーを始めてからここ10年で、大田区ではさまざまなクリエイターが活動するようになり、それが実現しそうな過渡期にあります。
──大田区に新たに入ってきた人たちは具体的に、どういう場で活動しているのですか。
野原 たとえば、京浜急行電鉄と@カマタが協働し、連続立体交差事業によって生まれた梅屋敷の高架下に設けた「KOCA」(『新建築』1911)fig.5 というコワーキングスペースや、東横インが城南島の倉庫を転用した「ART FACTORY 城南島」などがあります。私はおおたクリエイティブタウンセンターとして、「くりらぼ多摩川」という小さな拠点の運営に携わっていますfig.6fig.7。近年京浜エリアではこうしたクリエイティブ施設が点在するようになりました。そこでの気づきとして、施設利用者の多くは拠点をはしごして使っているということです。人数としてはまだ少ないですが、こちらが意図しないうちに利用者側が独自にコミュニティを育み、大田区にクリエイティブを介した新たな人的ネットワークが生まれつつあります。
──イノベーションというと、大きな企業の研究所や大学など大きな主体を中心に引き起こされるものというイメージでしたが、大田区の場合は小さな拠点から新しい動きが生まれているのですね。「くりらぼ多摩川」のウェブサイトを見る限り、かなりの頻度で利用されているようです。
野原 「くりらぼ多摩川」を運営しているうちに、普通に企業に勤めたり子育てをしたりしながら副業的にアート・クリエイティブ活動をしている人たちがいるということに気がつきました。そういう自由に使える場所を求めている方がたに無料で施設を使ってもらう代わりに、施設の窓口をお願いしたことで、うまく回るようになりました。都市部には案外、こうして仕事と創作の間を楽しむ人がいるのだと驚きましたfig.8。
──店を構えるほど時間もないけど、週に何回かはそういう場所で活動したいという人は多そうですね。冒頭の話に戻ると、純粋に住むという機能しかない住宅地をつくってきた中で、抑圧されてきた趣味の延長としての創作が、小さなクリエイティブ拠点によって花開いたという感じでしょうか。
野原 働くとは企業に勤めることだ、という認識が緩やかに変化してきているのだと思います。自らのスキルで副業的に仕事をするという可能性が広がっている中で、「くりらぼ多摩川」はそのためのインフラとして機能している気がします。
──ものづくりという接点があれば、コミュニティの外の人も入ってきやすいですよね。テーマ型コミュニティのチャンネルのひとつとして、ものづくりの場には大きな可能性がありそうです。
野原 小さな拠点からの盛り上がりを街の中にまで浸透させるために、オープンファクトリーのような取組みが必要になります。まだこの人的ネットワークが既存のものづくりの場と完全に噛み合っているわけではないですが、こうした自生的な繋がりを育む先に可能性を感じています。そういう広い範囲からのアプローチで、ものづくりの場と人びとの生活の場の繋がりを再生できればと思っています。
fig.9
(2023年4月19日、オンラインにて。文責:新建築.ONLINE編集部)