1993年7月、夏休みの迫ったある日、高校生だった私は地元の駅の近くの書店で『新建築』を初めて購入した。一般誌の記事を読んで興味をもっていた原広司さんの「梅田スカイビル」(『新建築』9307)fig.1fig.2が表紙になっていたからだ。厳格な雰囲気の建築写真や図面はもとより、建築家独特の言葉遣いや独自の視点を解説するキャプションなど、建築専門誌の雰囲気(当時は今よりずっとストイックな誌面であった)が気に入り、夢中になって原さんのテキストを読んだ。
その後、原さんの個展が開催されていると知り、「GAギャラリー」にも初めて足を踏み入れた。展示されていた模型やドローイングを見て、設計当初、2棟のオフィス棟を連結した超高層ビルは、ホテル棟も含めた3棟を連結する構想であったこと、空中庭園はもっと薄い床としてスケッチされていたことなどを知った。「梅田スカイビル」は、私にとっては雑誌を手に展覧会へ足を運ぶようになったきっかけの建築であった。
それらの少し前だったと思うが、原さんが新聞の紙面に登場し、語っていた内容も強く記憶に残っている。原さんは梅田スカイビルの空中庭園に立ち、「思い切って超高層の外へ出たほうがいいんじゃないか」と説いていた。超高層ビルの屋上は風が強くて過酷な環境だと思っていたので、そこで気持ちよく過ごすことなど想像したことがなかった。「梅田スカイビル」が竣工する直前の1993年4月、「サンシャイン60」が突如屋上の開放を始め、「梅田スカイビル」は日本初の超高層ビルの開放された屋上ではなくなってしまうのだが、「サンシャイン60」の屋上でフェンスに囲まれた機械の隙間のようなところへ出る経験と、空中エレベーター、空中エスカレーターなどでアクセスする空中庭園の経験は根本的に異なるものであったfig.3fig.4。その後も「六本木ヒルズ」(『新建築』0306)や「渋谷スクランブルスクエア」(『新建築』1902)のように、屋上を開放したデザインの超高層ビルは出てきたが、いずれもヘリポートの周囲の空間を活かしたものであり、「梅田スカイビル」のように屋上で2棟を連結し空中庭園として全面的にデザインされた事例はほかに類を見ない。「梅田スカイビル」は、超高層ビルに外に出る気持ちよさという身体性が宿り得ることを教えてくれるきっかけの建築でもあったのだ。
オモロない/オモロい
『新建築』の誌面で印象に残っているいくつかのテキストがある。たとえば、構造家の木村俊彦氏によるテキストの中の「連結超高層は『安普請で、もっとも金のかからない建築』とは違う」「安藤忠雄氏が『そんなことをしたらオモロない』といった一言が効いて、連結案が息を吹き返したと聞いている」などである。
高校生であった私には知る由もなかったのであるが、設計過程において、2棟にすると間のカーテンウォール2面分の工事費が増大するではないか、1棟にまとめたらいいではないか、という議論はバブル経済の最中であったとはいえ、常につきまとっていたのであろう。そんな状況で、建築家の「オモロない」というコメントがプロジェクトの方向性を牽引することがあるのかと当時の私は驚いたのである。
もうひとつは、作品と同時掲載された原さんの論考「空中都市へ」の最後、「もともと、働いているのか遊んでいるのか、建築については区別がつかない私であるが、終始祭りのようであった日々は終わろうとしている」という一節である。進路に迷う高校生にとって、多くの人との協働で「働いているのか遊んでいるのか区別がつかない」「終始祭りのよう」な建築家という職業は、「オモロない」とコメントしてプロジェクトの方向性を牽引することと併せて、なんとも楽しそうに感じられたのである。それは各方面からの要求やコストの調整などプレッシャーにさらされる職業の実態を、原さん流に楽しくいい換えた表現なのだと気づくまでには、もう少し時間が必要であった。
また「ただし、大阪駅辺りから見ると、奇妙な方向に見えるのは、力不足であったか」という一節もなぜか記憶に残っており、今も大阪駅から「梅田スカイビル」を眺めるたびにこの一節を思い出してしまう。自分がいつか超高層ビルを設計することになったら、建築家は単体のデザインだけでなく、遠景の設計も担っているのだということを念頭におくべきだと、この一節から学んだのである。
超高層の時代の終わり
あれから30年が経過した今日、小渕・小泉政権下での改革の中で導入された2002年の都市再生特別措置法による規制緩和をひとつのきっかけとして、東京でも大阪でも、超高層ビルが勢いよく建てられるようになった。今年、東京の歌舞伎町では永山祐子さんが外装デザインを手がけた「東急歌舞伎タワー」や、重松象平さん(OMA)がデザインする「虎ノ門ヒルズステーションタワー」が竣工しようとしている。大都市の高密度化を加速させる巨大開発のあり方には防災面や住環境への負荷の側面などから賛否両論があるが、東京の遠景の中に建築家の作品が混ざるのは同業者として喜ばしい。
ただし、超高層ビルのデザインのあり方は連結超高層による「梅田スカイビル」やメガストラクチャーによる開放的な内部空間を内包した丹下健三氏の「東京都新庁舎」(『新建築』9105)が実現した1990年代と現代では大きく異なっている。2000年代後半になると超高層ビルの建設そのものがコモディティ(一般)化してしまい、建築家の構想力や想像力は構造や意匠上の実験というよりは、ファサードや足元の商業空間など近景の差別化のために限定的に用いられている(永山さんや重松さんはそのような状況を回避して領域を最大限拡張しているように見える)ばかりか、さらに近年は設計者の知見が活かされるというよりは、施工者の経験によって前例をブラッシュアップすること(デザインビルド)が主流となっている。
20世紀は大きな資本投下によって、物理的に高密度な環境を生み出し経済効果を得る「大都市(Metropolis)」の時代であった。そして、そんな大都市を成立させるために建築分野で発明されたのが、超高層ビルと大空間という、ひとつの場所に多くの人を集めることのできる巨大建築であった。
原さんは短い間に超高層「梅田スカイビル」と大空間「札幌ドーム」(『新建築』0107)を手がけることで「大都市」の時代にコミットした建築家であった。原さんの長いキャリアの中でも、それらを集中的に手がけることとなった1990年代は「終始祭りのような」日々だったのであろう。
21世紀に入り情報ネットワーク環境の実装が進み、さらに2019年より3年以上にわたりコロナ禍が全世界を襲ったことによって、より多くの人が集まることを基本的な原理として駆動してきた大都市の時代はいよいよ終わりを告げようとしている。代わりに、現代はインターネットのように、集まること(密)と離れること(疎)が切り替え可能な「離散」を原理とする時代になっている。原さんはかねてよりその離散的な空間の原型を集落の中に発見し、磯崎新氏はそのような離散的な空間をベースにした都市の類型を「超都市(Hyper Village)」と呼んで次の時代に備えた。
超高層の外へ出よ
今思えば「梅田スカイビル」は、「大都市の時代」の最後の輝きを放ち、その時代の終わりを告げるきっかけの建築でもあったのだ。原さんが「思い切って外に出る」といって「梅田スカイビル」の空中庭園に立ったあの時、一方で超高層の可能性を広げるためビル同士をネットワークし、屋上空間に身体性を導入することで手応えを感じると同時に、他方では限界も感じていたのではないだろうか。実際、原さんが2000年代以後発表した「実験住宅モンテビデオ」(2004年)をはじめとする一連のプロジェクトは、人と人が付かず離れず共存できる離散的な空間によって構成される「超都市」の建築家の試行錯誤を先取りしたもののようにも見える。
原さんが超高層ビルの外へ出ることの可能性を示唆したのは、超高層ビルの時代の次の時代を構想せよ、という意味だったのかもしれない。ポスト超高層の時代を生きるこれからの世代には、大都市の時代と超都市の時代の端境期を経た原さんの予言を念頭に、来るべき超都市の時代を象徴する離散的な空間を内包する建築とは何かを考え、その姿を描くことが期待されているのだと思う。その先に私たちならではの「祭りのような」日々が待っているのであろう。