今から約20年前の2003年、パートナーの松本尚子と木村松本建築設計事務所を設立した。当時の自宅であった賃貸マンションの一室が最初の事務所だ。パソコンとプリンターを揃え、仕事用のデスクや本棚、名刺を自作した。プロジェクトをもって独立したわけではなかった僕たちにとって、事務所を立ち上げること自体が大きなプロジェクトだったため、事務所らしき場所が出来上がりとても幸せな気分だった。しかし、せっかくできた自分たちの場所でやる仕事はなく、知り合いの設計事務所に挨拶まわりをし、図面描きの手伝い(下請け)をさせてもらい過ごした。友人の知り合いが店舗設計をしてくれる人を探していると紹介され、徹夜で案を考え提案したものの、その後連絡はなく、しばらくして様子を見に行くと既に誰かの案が出来上がっていたこともあった(案外そういうものだ)。
それから、大学時代の友人などから徐々にローコストの店舗内装や住宅リノベーションの設計を依頼されるようになって、やっと設計事務所らしくなった。その後、新築住宅設計のチャンスがやってきたのだがとても困った。というのも、僕が前職で担当していたのは、鉄骨造の寺や非住宅用途の建築で、これまでに住宅の設計をしたことがなかったからだ。手当たり次第に本を読み漁り、松本とふたりでなんとか完成させた。
それからは年に1〜2件ほどの住宅設計の仕事をコンスタントに受けることができたが、どこかモヤモヤした気分が続いていた。設計がなぜそうでなければならないのかという決め手が見つけ出せずにいたからだ。たとえば階段の設計ひとつをとっても、コストやさまざまな条件のもとで数多の選択肢があるが、何を基準にそのすべてを決定をするのか。もちろん慣習的に、作法的に、あるいは名作建築を参照元にそれらを決めることも可能ではあるが、僕たちは曲がりなりにも自前の根拠で、建築の思考を含めた全体から部分まで、そのすべてを決定したかった。それが建築をつくることへの責任なのだと無根拠に考えていたし、またそれを引き受けたかった。「これが僕たちの建築です」といいたかったのだ。
全体から部分までを貫く理論
ある時、20代の頃になんとなく惹かれて手に取り、時折読み返していた『建築文化』1999年3月号の北山恒の特集号を改めて開いてみた。すると、そのモヤモヤとした霧が晴れるような感覚に見舞われた。単体の建築の全体に、都市から構成へ、そして部分や素材へと至る、社会と密接に接続する理論が貫いていた。かつて何度も読んだはずの文章や図面、写真が別々のものとしてあるのではなく、連続して存在して見え、僕たちの目指していた全体から部分までの一貫性とはこういうことではないか、と思ったのだ。
中でも「F3 HOUSE」(『新建築住宅特集』9509)fig.1fig.2fig.3は図面と写真を何度も行き来した。およそ住宅とは呼べそうにないその建築は、実体的にも工法的にも、どこまでもあっけらかんとしていて、突き抜けたオープンさがある。普通の暮らしを支える建築ではないし、住宅というよりも道具のようだ。だが、人間が生きるために選び取る環境のイメージは実に多様であるということ示し、また個の領域から公に向け、そのイメージを広く発信することができるという可能性が提示されている。またそれらの先で「建築は人間の動機を促す存在である」ということが根底に流れる設計者のメッセージだと想像すると、その延床面積約130m2の個人領域はそのメッセージを社会全体へと激しく問いかけているのだろう。
今、僕たちがその地点に立てているかどうかは分からないが、建築とは思考から実体までがある種の自己相似性を有した物体であるという建築観を携え、日々設計に向き合っている。