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2022.09.28
Interview

奥行きのある表層

異色の元建築学生たち6

小野直紀(博報堂)

建築学科を卒業しながら業界を超えて活躍する方たちに、その進路を選ばれた経緯やきっかけを伺う連載企画。第6回は博報堂の小野直紀さんです。(新建築.ONLINE編集部)

──小野さんは京都工芸繊維大学で建築を学んだ後、博報堂に入社し、現在は雑誌『広告』の編集長を務めるほか、社外ではデザインスタジオYOYを主宰されるなど、多彩な活動をされています。まず、建築への興味はいつ芽生えたのか、教えていただけますか?(編)

幼少期はレゴブロックに夢中になっていました。何かをつくっては母に見せ、喜んでくれるのが嬉しかったのです。その延長として、小学校の卒業文集に「将来は建築家になって豪邸を建てる」と書いたことを覚えています。高校生の時、進路を考えるタイミングになっても、その夢は漠然と頭の中に残っていたので、建築家を目指そうと思い、まずは大阪大学工学部に進みました。

──大学ではどのような学生生活を送ったのでしょうか。

当時の大阪大学は、学部1年時の成績と学生の志望をもとに、2年時に各専攻に振り分けられるというカリキュラムでした。1年時は教養科目を履修するのですが、建築の勉強に直接結びつくものではなかったこともあり、あまり熱心に取り組んでいませんでした。その代わり、PhotoshopやAfter Effectsを使ってグラフィックや映像をつくったり、プログラミングを独学して知人の会社のウェブサイトをつくったりしていました。勉学はおろそかになっていたので、学部2年からは第1志望の建築ではなく、船舶海洋工学を専攻することになりました。長年望んでいた建築を学ぶことが叶わなくなり、かなり落ち込みました。
その後も建築の道を諦めきれず、独学で勉強したり、設計事務所にインターンに行ったりしたのですが、大学で学ぶことに先が見えなくなり、学部3年時から、1年間アイルランドの語学学校に通うことにしました。そこには世界各国から大学生や社会人が来ていました。そこでできた友人に「実は建築を勉強したいんだ」と打ち明けると、「ヨーロッパでは専攻を変えたり、社会人になった後も大学に戻ったりすることがよくあるよ」と教えてもらい、その言葉に背中を押してもらえた気がしました。それからすぐに大学を探し、京都工芸繊維大学に編入しました。
編入後は、とにかく設計課題に打ち込みました。建築学科に入る前は、建築家ってかっこいいなとか、建物を見てすごいなと思う程度の漠然とした憧れしかなかったのですが、いざ勉強を始めると、かたちをつくる過程の背後に奥深い思考があることを知り、その面白さにのめり込みました。

──建築への多大な思い入れがあった中で、どうして広告会社に就職したのですか。

京都工芸繊維大学の学部3年時、僕はすでに25歳でした。周りの大半は大学院に進むという環境で、当初は僕も進学しようとしていたのですが、自分の年齢的にそれでいいのか、という思いもありました。試しに就活支援サイトに登録すると、一定の年齢を超えると採用試験を受けられなくなる会社があることを知り、進学して将来の選択肢が狭まるのなら、一度社会勉強も兼ねて就職活動をしてみようと思ったのです。建築をやるなら大学院に行こうと考えていたので、あえて建築以外の業種に絞り、縁があって2008年に博報堂に入社しました。

──博報堂で仕事に取り組まれてきた中で、建築を学んだ経験が生きた点があれば教えてください。

建築学科に進んでいなければ、今の自分はないと思っています。建築学科では、敷地や気候、周辺環境などいろいろな諸条件を取りまとめてひとつのかたちをつくることを学びましたが、雑誌にしても、コピーにしても、プロダクトにしても、それをつくりたいと思っていきなりでき上がるものではなく、なぜそれをつくるのか、それの何が面白いのか、コストはどれくらいかかるかなど、複雑な条件をまとめていく必要があります。学生の時にその一端を学べたことが、後の考え方の基盤になりました。
さらに、世の中がそれを求めているかどうかということだけでなく、社会的な文脈を踏まえながら、「このかたちがいい」という個人のこだわりを追求する姿勢を身につけられました。ものづくりにおいては、そこが最もクリエイティブな部分だと思います。条件の取りまとめという客観的な視点と、個人のこだわりを追求する主観的な視点の両面が学べたことが今の僕のものづくりの姿勢に繋がっています。
そういうフェティッシュな部分にこだわりを持つようになったのは、入社して数年してからのことでした。最初は企業ミュージアムやイベントブースなどの空間プロデュースを担う部署に配属され、空間を介してクライアントのメッセージを発信する仕事をしていました。ただ、働くうちに、社会やクライアントのためにものをつくることが目的として先行し、自分が本当にいいと思うものをつくれているのか、と疑問に思うようになりました。当時、「デザインはソリューションである」ということが盛んに謳われていたのですが、デザインには課題を解決すること以外の目的もあるはずだと思ったのです。たとえば建築学生が挑む卒業設計は、課題解決として提案する人もいますが、大事なのは自分の思いを深めて設計することです。社会に身を置きながら、もう一度その感覚でものをつくりたくなり、2011年に友人とデザインスタジオYOYを立ち上げました。

──YOYではどのようなアプローチでデザインされているのでしょうか。

博報堂での仕事は、社会のニーズという外的な動機に向き合うことから始まりますが、YOYでは、自分が面白いと思うかどうかという内的な動機を根本に据えています。最初の作品「PEEL」(2012年)は、「空間とモノの間」をテーマにデザインしましたfig.1,2,3。壁紙の端がめくれ、そこから光が差し込むように見える壁掛け照明で、モノ単体では何か分からないのですが、壁と一体となることで全体が照明装置になる。デザインするうえでの思想やディテールへこだわりを持ちながら、老若男女が見て純粋に楽しめるような、表層的な側面もしっかりと持たせたかったのです。多くの人びとに訴えかけるデザインには表層も中身も欠かせないものです。
この表層についての考え方は、『広告』での取り組みにも通じています。『広告』は博報堂の広報誌という位置付けで、利益を生むというミッションがないので、いざ価格を決めようとした時、その理由が見当たりませんでした。そこで、僕の最初の担当作となるVol.413(2019年)では、特集である「価値」についての問題提起として、1円で販売することにしましたfig.4,5。多くの人に届く分かりやすさは、得てして薄っぺらい表層になりがちですが、表層に奥行きを持たせることで、その先にある中身へと接続する動線をつくろうと意図しました。
建築を学んでいた時は、表層的な操作はなるべく避けるようにしていました。でも、広告やプロダクトデザインの仕事をするうちに、本質に繋がる、奥行きのある表層が存在するのだと気づきました。

──建築学科で学んだことが、広告会社での経験を経て、今のものづくりの姿勢に統合されているのですね。

広告会社は経済のど真ん中にあり、数値化できるソリューションと共に、クリエイティビティという数値化しづらいものも扱います。これは建築にも同じことがいえます。建築は、経済的な要素と文化的な要素を含みますが、文化的な要素はどう役に立つか言語化しづらいし、一見無駄にさえ見えるかもしれない。でも、それが無駄ではないことはみんななんとなく分かっているはずです。学生時代は、建築の文化的な側面を全力で学べる時期です。今の僕の仕事は、そこで学んだことが大きく影響しました。僕は留学や編入など、人よりも回り道をしましたが、その経験があるからこそ、自分なりのものづくりができていると思っています。建築にしても雑誌にしても、その分野の知識だけではよいものはできません。自分の知らない分野にどんどん飛び込んでいくことで、新しく身につけた知識が吸収され、よりよいものづくりに繋がるのだと思います。

(2022年8月6日、小野氏の事務所にて。 文責:新建築.ONLINE編集部)

小野直紀

1981年生まれ/2008年京都工芸繊維大学工芸学部造形工学科建築コース卒業/2008年〜博報堂/2011年デザインスタジオYOY設立/2015年プロダクト・イノベーション・チームmonom設立/2019年〜『広告』編集長/著書に『会社を使い倒せ!』(小学館集英社プロダクション、2018年)

小野直紀
教育
異色の元建築学生たち
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「PEEL」(2012年)。/撮影:古川泰子

「PEEL」(2012年)。/撮影:古川泰子

「PEEL」(2012年)。/撮影:古川泰子

『広告』Vol.413「特集:価値」(博報堂、2019年)。/撮影:市川森一

『広告』Vol.413「特集:価値」(博報堂、2019年)。/撮影:市川森一

fig. 5

fig. 1 (拡大)

fig. 2