──大学在籍中に発表された「ネットワーキング・アーバニズム試論」(『新建築』1408)をはじめ、数多くの本や記事を執筆されている連勇太朗さん。今回は、建築の実践と言葉の関係について、連さんの活動や経験からお話を伺いたいと思います。執筆されるのと同時に数多くの本や記事を読まれてきたと思いますが、知識を得るうえで大切にされていることはありますか?
文章を読む上では、量を読むことも大事ですが、質のいいテキストを繰り返し読むことが重要だと思います。僕は学生時代にクリストファー・アレグザンダーの考え方や理論が面白いと思い、彼の文章を隅から隅まで読み込みましたし、菊竹清訓の『代謝建築論──か・かた・かたち』(彰国社、1969年)も何度も繰り返し読みました。1回読んだだけでは十分に理解することはできないので、直感的に大事だなと思った文章や面白いなと思った人の言葉を、まずはきちんと自分の血肉にしていくことが大事だと思います。読む時期や年齢が変われば、違う気づきを得ることもできます。また、建築以外の本だとウンベルト・マトゥラーナ、フランシスコ・バレーラの『知恵の樹──生きている世界はどのようにして生まれるのか』(朝日出版社、1987年)や金子郁容の『ボランティア──もうひとつの情報社会』(岩波書店、1992年)は何度も繰り返し読みました。
──数多くの本が出版され、記事が公開されている中で、自分の活動や理論に繋がるような文章にはどうやって出会ったのですか?そしてその文章は、ご自身の活動にどのような影響を与えてましたか?
これに関しては、具体的な人間関係の中での出会いが大きいと思います。
たとえば、僕が学生の時に、藤原徹平さん、倉方俊輔さん、勝矢武之さんがメンターとして参加し、403architectureが中心となって勉強会を行う「現在建築史研究会」という活動がありました。その活動の中で、当時発表された西沢大良さんの「現代都市のための9箇条」(『新建築』1110、1205)について、ご本人を囲んで議論したことがありました。403architectureのメンバーやほかの学生やメンターの人たち、そして西沢さん本人など、そこにいた具体的な人間関係の配置の中で、その文章がどう読まれどう議論されたのか、深く記憶に残っています。テキスト自体が単体として存在するのではなく、そういった自分自身の置かれている人間関係の中で、テキストと出会い、読解するという体験が大事な気がします。
また、北山恒さんが2012年に「木密から」(『新建築』1208)を発表されました。この文章については誰かと議論したわけではありませんが、N.J.ハブラーケンの論考「あなたには〈普通〉はデザインできない」(1971年)を引用しながら、建築家の実践の最先端というのは、ある種の作品主義的な建築を建てることではなく、たとえば木密のように人びとの日常と都市の残余空間にあるんだ!ということをはっきりと宣言したことにとても勇気付けられた記憶があります。
どちらの文章も、自分の小さい実践が社会の見取り図のどこかに位置付けられるんだと思わせてくれ、また、実践の可能性を展開していく時の思考の羅針盤になったという意味で記憶に残っています。
もっと遡ると、そもそも僕が建築家になりたいと思ったのは、高校生の時に薦められて読んだレム・コールハースの『錯乱のニューヨーク』(筑摩書房、1995年)が衝撃的だったからです。建築家なのに社会を批評的に観察し、資本主義のロジックでできたマンハッタンという都市のゴーストライターとして、フィクションのようでノンフィクションのような、理論書のような、ルポルタージュのような、レムの批評性とアイロニーも詰まった一般的なジャーナリズムとは異なる魅力を感じたのを強く覚えています。建築家の文章は理論になってないといわれることがありますよね。特にレムがそうだったというのもありますが、僕にはむしろそういう文章のスタイルが魅力的に見えました。
──建築の表現に言葉は必須だとお考えですか?
制作や実践が、個人の表現の範囲であれば必ずしも言葉は必要ないのかもしれません。ただ、建築の概念が拡張していく中で、現代社会の複雑性を引き受け、建築を通して社会の状況をよりよく変えたいという思いがあった場合に、建築を社会技術的な枠組みでとらえる必要が出てきます。社会構造を理解し、歴史的な枠組みの中で物事を俯瞰してとらえないと、状況を変えるための正しい戦略や最適なアプローチを取ることが難しい。その時に言葉が必要になる。小さくても何らかの理論的な枠組みがあると、仮説を立てて検証することができます。また、優れた理論や思考方法を獲得することで、個人の才能やひらめきを超えたレベルの挑戦ができることもあります。
──この10年でSNSによって個人が自由に発信できる社会になりました。そして、コロナ禍でオンラインでの情報収集やコミュニティ形成が加速し、今、さまざまな形式や規模のメディアが存在します。今後、建築を取り巻くメディアは何を求められ、どう展開していくと思いますか?
たとえば思想家の東浩紀さんが「知の観客をつくる」というテーマで続けているゲンロンカフェもそうですが、単に発信するのではなく、発信することと同時に受け取る人たちとのコミュニケーションが重要だと思います。それには、メディア単体ではなくメディアを受容する環境そのものをどうやって包括的にデザインするかが鍵になるのではないでしょうか。一方で建築の実践も多様化しているので、人によって潜在的に求めている言葉や理論も異なり、興味が細分化していることにより言説のコミュニティ自体をつくることが難しくなってきている時代でもあります。言葉によって繋がるコミュニティが必要だという前提がありつつも、規模感を含めてどう扱うのかは難しい課題で、あらゆるメディアがその課題に直面してる状況だと思います。
大前提として、メディアが多様化するのはよいことですが、それがきちんとプラットフォームになっているかが問題です。情報環境の発達によって媒体が増え、個人が発信できるようになったわけですが、それではただコンテンツ量が増えただけにすぎません。そこに、ディスクールといえるような、ある言葉とか概念を共有している人びとの繋がりと、その持続的な更新や成長をつくれるかどうか。それがメディアが言説のプラットフォームになるための条件だと思います。もっと単純ないい方をすれば、読者ひとりひとりの顔が見えているかどうか。その人たちの人的配置の中で、メディアをプラットフォームとして運営できているかどうか。それができなくなって、単にコンテンツの生成装置になってしまった時にメディアは終わっていくのではないでしょうか。
2010年代はSNSがすごく発達して情報環境が大きく変化し、それによってメディアの置かれる環境も変わりました。コミュニケーションの容態が大きく変化したのでさまざまな媒体がこの10年間、どのように振る舞えばいいのか戸惑ってきたわけです。でも今のわれわれは、人びとが現在の社会状況の中でSNSによって言葉をどう受容し、どうコミュニケーションを取るかということについての一定の知見やノウハウを得たはずです。2020年代は、そうした知見を踏まえ、新しい媒体や挑戦が増え、言葉がもう少し面白くなってくる時代になるのではないかという予感があります。
──モクチン企画や@カマタでの活動と並行して執筆活動をされていますが、連さんにとって実践と言葉はどのような関係にあるのですか?
建築だけにかかわらず、ビジネスや作品制作など、なんらかの実践をやっているとその方向性に不安を感じたり、確信がもてない状況に置かれることって誰でもあると思うんです。その時、言葉や概念は、自分の直感を後押ししてくれたり、かたちを与えてくれたり、前に進むための力になることがあります。僕が文章を書くのは、他の人の挑戦を応援し後押しするきっかけを提供したいという思いもあるし、かたちのない概念や思いを言葉を通して実体化していくことが、自分自身の日々の活動の推進力にもなるからです。その循環が大事だと思います。建築をある種の思考方法であったり、概念的な構築物として考えることが、建築を学び始めた時から自分にとっての重要なアジェンダだったので、そういう意味で書くことと実践することは僕の中では切れない関係にあります。面白い文章を書くために実践している側面もあるし、面白い実践にしていくために書いている感覚もある。
──最近取り組まれている、出版準備中の新著に合わせて、執筆中の原稿を共有し議論する「自主ゼミ」の活動についてお聞かせください。
今、新しく『社会変革としての建築(仮題)』という本を書いています。以前出版した『モクチンメソッド──都市を変える木賃アパート改修戦略』(共著、学芸出版社、2017年)は、モクチン企画の活動や方法論について書いた本ですが、今回は、自分自身の実践というより、もう少し今の建築の置かれている状況を俯瞰的にとらえ、他の建築家が自分の実践を位置付け戦略を立てるために必要な思考のフレームを提供するために本を書いています。その鍵概念になるのがタイトルにも入っている「社会変革」と「建築」の関係を考えることです。
執筆と並行して「自主ゼミ」をやることになったのは、現代の情報化社会で、単に本や文章を書いて世に送り出すという出版のプロセスに限界を感じるようになったからです。新著の内容とも若干関係するのですが、メッセージ自体をどう届けるのか、その手段や方法が問われている時代だと思うんです。そこで編集者の富井雄太郎さん(millegraph)と相談して、「自主ゼミ」というかたちで執筆中の原稿を有志の参加者とゲスト講師に共有し、出版前からフィードバックのサイクルをつくっていくことにしました。
ゲストを呼んで議論した内容がそのまま本に収録されるということではなく、原稿を読んでもらい、意味が分からないところや、誤解を招いているところ、あるいは僕自身が気づいていない可能性を指摘してもらうことで、文章を少しずつ推敲していきます。執筆中の原稿にフィードバックをもらうので、理論や概念が深まるきっかけにもなるし、議論のプロセスそのものがこの本を求めている読者にきちんと届く仕組みになっています。また、ゼミの様子は毎回、僕より若く既に自分でメディアや媒体をもっている若手の建築家や研究者の方にお願いし、議論の内容とそれに対する批評をレポート記事として書いてもらい、それをnoteで公開しています。
文責:新建築.ONLINE編集部