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2021.12.09
Essay

現代都市のための9か条──近代都市の9つの欠陥

第1回(後編)

西沢大良(西沢大良建築設計事務所)

本記事は、『新建築』2011年10月号の建築論壇に掲載されたものです。原文のまま再掲します。(編集部)

近代都市の9つの欠陥

現状の都市形態(近代都市)の欠陥は、次の9つに集約されると考えてよいだろう。これらを解消することが、今後の都市形態にとって必要であり、その意味ではこれらは今後の都市形態のための9か条でもある。

1. 新型スラムの問題
2. 人口流動性の問題 
3. ゾーニングの問題 
4. 食料とエネルギーの問題 
5. 生態系の問題
6. 近代交通の問題
7. セキュリティの問題
8. かいわい性の問題
9. 都市寿命の問題

これだけでは分かりにくいから、ひとつずつ説明していこう。

1. 新型スラムの問題

近代都市の功績のひとつはスラムクリアランス(再開発)に成功したことだ、と常識的には考えられてきた。ただし、そのありさまを外部的・長期的に見ると、近代都市はスラム問題をほとんど解決しておらず、単に解決を先送りにしてきただけである。都市を近代化する過程でスラムクリアランスが成功したように見えるのは、内部的で短期的な錯覚なのである。外部的かつ長期的に見ると、今日の日本でも明らかにスラムは拡大しているのだが、それが気付きにくいのは、今日のスラムがかつてと異なるタイプに進化しているためである。
たとえば国内の最新のスラムの例として、いわゆる年越し派遣村やネットカフェ難民と呼ばれる新型スラムがある。もちろんネカフェや派遣村の人びとは必ずしも不法占拠者ではないが、かつて地方から都市へ吸い寄せられた人びとの末裔であり、都市圏で賃労働を行うほかに、食料とエネルギーを得る手段を持たなくなった人びとである。そのような生存形態は、前近代の農村や漁村における自給自足的な生存形態とは似ても似つかない。ネカフェ難民の発生には、かつてスラム(貧民窟)を発生させたのと同じ力学が働いている。
スラムとは、低賃金労働者が居留せざるを得ない区域や場所を指す(これがスラムの定義)。低賃金の労働形態は、かつては日雇い人夫や季節労働者くらいしかなかったかもしれないが、今日では派遣社員や契約社員、アルバイトやフリーター、就職浪人やプータロー、ニートや引きこもりなどの、多彩なバリエーションを見せている。彼らが居留せざるを得ない場所、それが今日のスラムである。
したがって、スラムと聞いて19世紀の貧民窟のようなものを連想してしまうと、新型スラムの発生を見落とすことになる。今日のスラムは外観から判定できないほどのバリエーションを持つ。中には依然として貧民窟風のものもあれば(東京の山谷地区など)、空調と飲料の完備した快適な個室もある(ネットカフェ)。そうした見かけの違いに惑わされず、その共通性を形式的に掴むことで、初めて新型スラムのありかを嗅ぎ当てることができる。
新型スラムの発生には、たいていの場合、新たな労働手法(雇用形態)の発明と、定住手法の発明が背後に控えている。たとえば平成不況が都内のブルーシート難民をもたらし、派遣法がネットカフェ難民をもたらし、総量規制がリゾート高層マンションのスラム化(ゴーストタウン化)をもたらす、というように。その意味では、私たちがいつも見慣れており、場合によっては住み慣れている場所が、新型スラムに他ならない可能性もある。
最も端的な例として、郊外ニュータウン(ベッドタウン)なるものがある。郊外ニュータウンも、特定の時期における新型スラムである。もちろん郊外ニュータウンの住民も不法占拠者ではないが、かつて農村や漁村から引きはがされて都市圏に吸い寄せられた人びとであり、近代都市が唯一の生存場所となった人びとである。彼らは近代都市で賃労働を行う他に、食料とエネルギーを得る手段を持っていない。賃労働をせずには生きていけない生存形態は、前近代の集落(漁村や農村)にはなかったもので、 19世紀スラムの貧民たちにはじまる生存形態である。もちろん郊外ニュータウンの住民は「中産階級」と呼ばれたが、高度経済成長期における「中産階級」なるものは、他国に対する低賃金労働者のことなのである。彼らはそうした低賃金労働者になる他なかったし、郊外ニュータウン以外のどこにも行けなかった。郊外ニュータウンなるものは、一見してスラムに見えない洗練されたタイプの新型スラムであり、高度経済成長期における「中産階級=低賃金労働者」のための巨大なスラムである。
ちなみに、その後の郊外ニュータウンは、少子高齢化によってスラム化(ゴーストタウン化)してきたと言われる。だがそれは、今になって突然スラム化したというような代物ではなく、本来スラムに過ぎない本性がむき出しになってきたと説明した方が実情に即している。こうした郊外ニュータウンのありさまが、近年では各方面から注目を浴びるようになったが、それは煎じ詰めると新型スラムに対する注目である。それは、とりもなおさず近代都市の長期的・外部的な欠陥に対する注目である。
もうひとつ、若い読者のために記憶に新しい新型スラムを挙げておこう。東日本大地震の発生当日における東京圏の帰宅難民というのも、新型スラムの最新版である。帰宅難民とは、災害などによって都市交通が遮断され、ベッドタウンへの帰路を断たれた賃労働者が、着のみ着のままで駅舎や公共施設に碇泊した状態を指す。彼らも不法占拠者ではないが、賃労働のために毎日近代都市に吸い寄せられている人びとであり、近代都市圏が唯一の生存場所となった人びとである。帰宅難民たちが碇泊した場所は、瞬時に発生したり消滅するという流動性の高い新型スラムである。
このように、近代都市は新型スラムを次々と発明してきたし、今後も発明していくことになる。したがって「近代都市はスラムクリアランスに成功した」という常識的な見解は、短期的で内部的な錯覚である。長期的かつ外部的に見れば、近代都市(および産業資本主義)こそスラムを絶え間なく生み出す原因である。より控えめに言っても、近代都市はつねに新鮮なスラムを必要としてきたし、新型スラムの発生によって発展してきたのである。そうした労働人口の「調整しろ」を持つがゆえに成長する都市形態が、近代都市である。
もちろん筆者は、郊外ニュータウンという世界的に量産された巨大な新型スラムについて、並々ならぬ関心を持っている(*9)。また、ネカフェ難民や帰宅難民といった新型スラムについても、人後に落ちない関心を持っている。そこに近代都市のアキレス腱が現れているからであり、近代都市の欠陥がむき出しになっているからである。
逆に言うと、現状の都市形態がどこまで近代性を克服し、次の都市形態へ移行しつつあるかを見ようとしたら、新型スラムの形式分析がひとつの判定基準になるだろう。その意味で、現在までの新型スラムが少しずつバリエーションを増してきたこと、また少しずつ細分化されつつあること(スラムの総面積は増大しているとしても)、そしてどの新型スラムもおしなべて継続維持が困難になってきたことは、今後の来たるべき都市の姿を示唆している。

ここで仮に、近代都市の次なる都市形態を「現代都市」と呼ぶことにしよう。ただし、筆者の考えでは、現代都市とは空想的な未来都市のようなものではなく、その萌芽は必ず近代都市の欠陥の中にあり、その欠陥によって近代都市がのたうち回ったあげくに現代都市を出現させる、と考えている。その意味で、近代都市と現代都市の違いは、ことスラム問題を巡っては、次のような差異になる。
まず近代都市の歴史とは、スラムの根絶を誓って始まったものの、モグラたたきのように新型スラムを絶え間なく発生させるという歴史であり、ついには新型スラムの発生に依存しながら「成長」し、あるいは「低成長」するという歴史になった。この近代都市の「成長」や「低成長」とは、経済的な意味での成長や低成長とほとんど同義である。つまり経済が高度成長すると巨大な新型スラムが発生し、経済がバブル崩壊すると別種の新型スラムが発生し、経済が微増の低成長をするとまたもや別種の新型スラムが発生するというのが、近代都市ののたうち回りの歴史である。
これに対して現代都市は、いわばポスト低成長時代の都市形態である。それは究極的に、脱資本主義時代に備えた都市形態になっていくだろう。もしくは脱資本主義への移行期における都市形態になるだろう。つまり現代都市は、ことスラム問題に限って言うと、新型スラムのさらなる発生を必要としない都市形態になるだろう。それは低賃金労働者の居留区という「調整しろ」を、これ以上拡大させない都市になる。あるいは定常状態で維持する都市になる。
これを都市計画の手法に即して説明していくと、まず近代都市計画が行ってきたようなスラムクリアランス(再開発)とは、実際には別の新型スラムを発生・拡大させるだけであり、そのような都市計画に希望を見出すことはできない。そうではなく、すでに生じている多様な新型スラムの保存修復の方に可能性があると考えられる。先にその一部をあげたが、国内の歴代スラムに限っても、主なものとして前近代由来の木造町家街(A)、戦後以来の貧民窟ないしバラック街(B)、戦後復興期の町工場付き家屋街および木賃住宅ベルト地帯(C)、高度経済成長期の郊外ニュータウン(D)、平成不況期における高層ゴーストマンション(E)、新自由主義政策期における高層マンション街(F)、都市間競争時代における海外移民の団地街(G)、低成長時代におけるネカフェやマン喫(雑居ビル)(H)、派遣法時代における年越し派遣村(公園や河川)(I)、高齢化社会における老朽木賃アパートエリア(J)、就職難時代におけるルームシェア(老朽マンション)(K)、大災害時の公共施設の転用(L)といった合計12種類前後のスラムエリアがあり、今後も近代都市の命脈が保たれている限り、新たなバリエーションが出てくることになる。ただし、それは必ず有限個のバリエーションに留まる。それは決して無限に増え続けることはない(*10)。仮にそのピークを20種類のスラムバリエーションが出揃った状態だと想定すると、第一に必要なのは、20種類の歴代スラムをクリアランスしようとしないことであり、間違っても近代都市計画(再開発)をしてはならないことである(おそらくその頃にはそうした再開発は無意味化している)。
その逆に、20種類の歴代スラムのバリエーションを保ったまま、個々のスラムエリアを保存修復し続けるのが望ましい。その理由のひとつは、スラムを根絶できないことが近代都市計画史の教える貴重な教訓だからであり、もうひとつの理由は、スラムのバリエーションを保存修復していくと、都市圏全体の冗長性が高くなるからである。冗長性とは、人間にとって意図的に計画できないものだが、唯一それを掌握できるのが、既存の事物を保存しながら転用する時である。この冗長性をどこまで「広く・浅く」保持し得るかが、都市の長期的・外部的な存続にとって決定的になる。特に新型スラムの問題(労働人口問題)が、近代都市をのたうち回らせたあげくに別の都市形態を生み出すというここでの予想からすると、冗長性が都市人口のバッファとしても重要になると考えられる。この場合のマスタープランの役割は、個々のスラムエリアが都市圏全体にとっての異質なサブセット群となるように、位置付け直すことになるだろう。ちょうど近代都市計画のマスタープランが森林や河川などを保存対象としたように、現代都市計画のマスタープランは、20種類の歴代スラムを保存修復地区として設定するのが望ましい(自然公園法の代わりにスラム保存法のようなものが必要)。いわば近代都市計画が先行する自然(緑地)をよくも悪くも絶対視したように、現代都市計画は先行する歴代スラムをよくも悪くも絶対視するというイメージである。そのためには計画思想の転換や、理論的な枠組みの転換が必要になるが、それはすでに各方面で始まっていると考えられる(*11)。そして最後に、これらの多様で冗長なスラムエリア群は、それぞれ小さな公的セクターによって、分散的に維持されるようになっていくだろう。それを成し得るような制度転換や権利譲渡の試行錯誤が、すでに別のところで始まっているからである(*12)。
もちろん都市間競争によって人口が激減した都市や、移民人口や観光人口が増えない都市は状況が異なり、既存のスラムエリアを保存修復地区にするよりも、破壊地区に指定するケースが出てくるだろう。ただしこの破壊地区も、何度も言うように、再開発のための用地ではない。またこの破壊地区は、上述した歴代スラムの保存修復地区とは異なって、次の役目を負うものになる。つまり人口が激減した都市における破壊地区は、逆農地転換を行うためのエリアとして、あるいは逆エネルギー用地転換を行うエリアとして、活用されることになるだろう。それは都市から集落へという転換を促すためのエリアである。この場合のマスタープランの役割は、いわば都市の安楽死を手助けするものになる。都市から集落へという命がけの飛躍を緩和するという意味での都市の安楽死である。その意味では、この破壊地区に対するマスタープランの方が、上述した保存修復地区に対するマスタープランよりも重要であり、現代都市に対する最も長期的・外部的な把握が必要な作業になる。
以上の展望は、冗長で異質なサブセット群として現代都市を捉えたところにポイントがある。ただし、個々のサブセットの内容や、それらの集合のさせ方については、次節以降のほぼすべての問題と関わるため、この続きはあらためて述べる。

*9:郊外ニュータウンについての筆者の論考として「近代都市」参照(『10+1』創刊号、 1994年)。
*10:新型スラムが無限に発生し続けることがあり得ないのは、経済成長が無限に続くことがあり得ないため。また都市人口が無限に増え続けることもあり得ないため。
*11:先述した新型スラム(郊外ニュータウン)に対する各界からの注目のあり方は、スラムを根絶しようという近代的な欲望とは無縁であり、また戦後のスラムに対するダーティーリアリズム的な欲望とも無縁であり、いずれでもない別の価値観へシフトしている。こうした価値転換は、日本以外の旧先進国の都市部において、ほぼ自然発生的に同時に生じている。
*12:文中の「小さな公的セクター」とは、現時点の受皿で言えば自治体よりも市民団体や一般社団法人や宗教法人、NPOやNGOのこと。日本だけでなく旧先進国に共通して、行政から市民団体への業務委託というかたちで、さまざまな施設維持の試行錯誤が始まっている。

2. 人口流動性の問題

近代都市の第2の欠陥は、都市人口を巡る問題である。近代都市計画は、人口流動性を軽視したという欠陥を持っている。その発端は、近代都市が誕生する際に、いわば人口流動性の問題にのたうち回り過ぎたことにある。あまりに激しいのたうち回りから逃れる方策として、近代都市計画がたどり付いた思想が、都市を集落(コミュニティ)のように整備するという思想であり、人口流動性を定着性によって乗り越えようという発想である。だが、都市人口の問題とは必ず人口流動性の問題であり、集落人口の問題(人口定着性)とは異質である。都市(人口流動性)と集落(人口定着性)は完全に別物であり、両者を明瞭に区別しないと、都市に対する誤った介入を繰り返すことになる(*13)。
この問題(人口流動性の軽視)は、モダニストが考えている以上に重大である。また、人口流動性の問題は、今後ますます重要になっていくと考えられる。そこで、ここでは若い読者のために、近代都市が人口流動性の問題にどのように対処してきたか、そのどこに問題があったのか、経緯をたどりながら説明しておこう。
元もと近代都市の誕生は、人類史上希有の「異常な人口流動性」に端を発している。「異常な人口流動性」とは、もちろん19世紀前半にイギリスの諸都市が味わった急激な人口流入・人口膨張のことである。いわゆる産業革命によって軽工業の工場が都市内に乱立し、個々の工場主たちが農村から多量の農民たちをスカウトし、賃労働者とするべく都市へ続々と送り込んだ過程で生じた、異常な人口流動性のことである。フリードリヒ・エンゲルスの『イギリス労働者階級の状態』(1845年)は、 1840年代のマンチェスターやロンドン、エディンバラやグラスゴーにおける異常な人口流動性の顛末を、これでもかとレポートしている。個々の街区がわずか数年で崖から転げ落ちるようにスラム化していくそのありさまは、息をのむような恐ろしさがある。それは今日の新型スラム(年越し派遣村やブルーシート難民)がパラダイスに思えてくるような、激烈なスラムの発生である(資本の原始的蓄積)。中世からさほど構造的に進化していなかった都市に、中小規模の繊維工場がひたひたと進出し、その労働者によって街区全体がいきなりスラム化したようなケースが続々と挙げられていく。街区の中の住居では、わずか12m2程度のワンルームに12人が折り重なって寝起きするといった居住形態や、老人であろうと幼児であろうと労働力として投入されるといった労働形態、また排泄設備がないためフローリングをはがして床下を肥溜めにした豚小屋のような居住環境が常態化したり、そこから得体の知れない疫病が発生したり(チフスやコレラ)といった事例が続々と挙げられる。若きエンゲルスはほとんど怒り狂っているが、そのレポートは正確であり、同時代の宗教団体やイギリス政府による記録と同じく誇張はない。
人口流動性は、産業資本主義の起動と共に生じた不可逆的な変化である。それはひとたび惹起されてしまえば、工場主やイギリス政府が悔い改めたところで停止することはない。また産業資本主義は人類にとって完全に未知のものだったから、かくも後戻り不能の変化を都市と農村にもたらすことになろうとは、資本家もイギリス政府も予測していなかったに違いない。その代わり、それらの都市問題を解消するものとして、近代都市計画の常識がかたちづくられていくことになる。たとえば業務地区と住居地区の分離、上下水道の整備、適正な人口密度の設定といった、さまざまな常識が試行錯誤で練り上げられていくことになる。それらの常識すべての根底を成すのが、スラムに対する敵視と、それをもたらした人口流動性に対する恐怖である。これが後のあらゆる近代都市計画に受け継がれていく。ここまではほぼ問題ない。
19世紀末になると、産業資本主義の主戦場が軽工業から重工業へ移行したため、都市の人口膨張はほぼ定常状態になった。ただし、数十年前の狂ったような人口流入の記憶が生々しかったため、人口流動性は依然として最も恐るべき都市現象のひとつであった。この19世紀末という特殊な時期——人口流動性の嵐が都市から一瞬消えたように見えた産業構造の転換期——に、後に近代都市計画の源流のひとつとなるエべネザー・ハワードの「田園都市」(1898年)が構想されている。もちろん「田園都市」でも人口流動性は警戒されている。たとえば「田園都市」では住民たちが設立する協同組合によって土地所有を一括することになっているが、それは人口流動性を阻止するための制度的な工夫である。つまり今日のような土地私有制のもたらす過度の土地流動性=人口流動性(乱開発のもたらす人口流動性)を阻止しようとしているのである。「田園都市」の外周にグリーンベルトが巡らされているのも、スプロールのもたらす土地流動性=人口流動性を食い止めるためである。ただし、その裏面として、「田園都市」は人口流動性よりも定着性を理想とするものになり、都市というより集落(コミュニティ)を理想とするものとなった。ここに最初の錯覚がある。
元もと社会活動家だったハワードには、都市より集落(コミュニティ)を評価する傾向があり、あたかも都市と集落を交換可能な選択肢のように見ている節がある。つまり人口流動性(都市)と人口定着性(集落)を選択可能なふたつのメニューのごとく捉えているのだが、産業資本主義が起動してしまった都市にとって、そんな選択などあり得ないと言わなくてはならない。人口流動性(都市)と定着性(集落)の間には、不可逆的な変化が横たわっており、それは産業資本主義の起動によってもたらされている。それ以降、いかなる都市も人口流動性から逃れることはできなくなっている。
ハワードの「田園都市」、たとえばレッチワースは、ほぼ100年経った今日でも良好な環境を保っている。ゆえにそれは人口流動性を克服した都市の姿のように見えてしまうかもしれない。ただし、「田園都市」が人口流動性を克服したように見えるのは、単にそれが都市ではないからなのだ。もちろん「田園都市」には業務地域が備わっており、ベッドタウン(住宅街)ではない。ただし、業務地域を備えているからといって都市になるというわけではない。集落にも業務地域はあるからだ(農場・漁場)。都市と集落の区別は、業務地域の有無ではなく、人口流動性の有無によってなされなくてはならない。その意味で「田園都市」は都市ではない。それは近代的な擬似集落である(*14)。
都市と集落を区別すること、言い直すと人口流動性(都市)と定着性(集落)を区別すること、その上で後者でなく前者に取り組むことは、近代都市計画(産業資本主義以降の都市計画)にとっての絶対的な要請であったはずである。ひとたび農地や漁場から解き放たれてしまった人びとを、どのように生存させ得るかという問題、すなわち都市における人口流動性の問題が、近代都市計画の取り組むべき最大の課題だったはずなのだ。だが、近代都市計画の主流は、「田園都市」をひとつの規範としたことに表れているように、人口流動性を定着性に戻って克服しようという考え方になり、もっと端的に言えば、都市(人口流動性)を集落(人口定着性)へ戻そうとするかのような考え方になった。この思想が、20世紀初頭にドイツで建設されたジードルング(*15)を始めとして、20世紀の多くのモダニストに共有されてしまう。だがそれは、人口流動性をなかったことにしようと考えるようなものなのだ。
もちろん「短期的に」であれば、人口流動性がないかのような街区もかろうじて実現できるだろう。だが、その状態を「長期的に」維持することはできないのだ。産業資本主義がひとたび起動してしまった社会において、人口流動性をなかったことになどできるわけがない。人口流動性とは厳然たる事実であり、産業資本主義以降の都市を貫く「長期的・外部的」な現実である。すでに人口流動性と定着性の間には、乗り越え不能の切断線が走っている。
近代都市計画を推進したモダニストたちが、にもかかわらず人口流動性を定着性によって解消できるかのように錯覚したのは、都市を「短期的・内部的」に捉えてしまったことに一因がある。「内部的・短期的」に都市を見ている限り、都市は大きな集落のように見えてきてしまうし、都市(人口流動性)と集落(定着性)の違いも分からなくなってしまう。だが「外部的・長期的」に見れば、集落とは「特殊な土地」(食料生産地・エネルギー生産地)に定着することで生き延びようとする人びとのための生存拠点であり、都市とはそうした「特殊な土地」から引きはがされて生き延びようとする人びとのための生存拠点である。その意味では、近代という時代ほど、都市が集落からほど遠くなった時期はなく、人口流動性(都市)を定着性(集落)に戻せなくなった時期はない。
人口流動性というのは侮れない相手であり、軽視してはならない相手である。だがそのことが、多くのモダニストにはどうしても納得できない。彼らはなんとしても人口流動性(都市)を定着性(集落)に戻って解消しようと考えてしまう。その結果、近代都市計画は、最終的に人口定着性(集落性)を「短期的」にのみ、実現するものになっていく。それは「特殊な土地」(食料生産地とエネルギー生産地)のかわりに代替地(たとえば宅地)に人びとを定着させるものになっていく。だが食料生産もエネルギー生産もできない代替地(宅地)は、「長期的」な生存拠点たり得ない。そのため近代都市計画は,「長期的」には必ず人口流動性に足を掬われるものになっていく。
人口流動性に対する軽視は、先述した20世紀初頭のドイツのモダニストばかりでなく、20世紀前半の北米のモダニスト(プラグマティスト)にも共有されている。クラレンス・ペリーの近隣住区理論がその典型である。近隣住区理論の場合、複数の住居街区によって人口5,000人程度のクラスターを形成し、クラスターの中心に小学校(ないし集会所や教会などのコミュニティ施設)を備え、街区間を基本的に歩行者専用ゾーンとし、クラスター外周部に幹線道路を通し、外周道路沿いに店舗を並べるという構成をとる。計画人口の大きい開発事業の場合はクラスターを増やして全体を構成すればよく、非常に使い勝手のよい計画理論である。ただし、その住区構成と人口構成の手法に表れているように、近隣住区理論も都市というより集落(コミュニティ)を理想とし、人口流動性よりも定着性を理想としている。そのため近隣住区理論によって実現された街は、人口定着性(集落性)が保たれている期間はおおむね良好だが、人口流動性が惹起されると荒廃するという構造的な欠陥を持っている。
その欠陥があらわになったのは、むしろ90年代後半以降の他国においてである。すなわち近隣住区理論をさまざまな条件下で活用していった他国の郊外ニュータウンやベッドタウンのその後の姿においてである。近隣住区理論は、20世紀中頃にはG7諸国の公営のベッドタウンや郊外ニュータウンの計画手法として採用されるようになり、60年代の開発事業にとっての理論的支柱となった(日本では多摩ニュータウンを始めとして住宅・都市整備公団(現都市再生機構)の開発事業の多くを支えた)。どのベッドタウンや郊外ニュータウンも30年間程度は人口定着性が保たれ、おおむね想定内の居住環境が保たれたと言ってよいが、90年代後半以降になって人口流動性・土地流動性が再燃すると共に破綻し始めることになる。
破綻の契機となったのは、主として(1)土地の流動化が契機となって破綻するというパターン。土地私有制(投機制)と新自由主義政策(容積緩和)が契機となり、たとえば周辺地域に高層マンションが乱立することで人口流動性が再燃し、それによる地域の人口密度分布の変化によって近隣住区のコミュニティ性が崩壊するというパターン。(2)物流のロジスティクス革命が契機となって破綻するパターン。たとえば周辺地域にコンビニエンスストアや郊外大型店舗などが乱立し、地域の店舗バランスが激変し、住民の行動圏が変化することにより、近隣住区の店舗比重設定やコミュニティ性が蒸発するというパターン。(3)少子高齢化が契機となって破綻するパターン。少子高齢化がただちに空き家率として現れてしまうといった現象は、前近代の集落(農業共同体・漁業共同体)にはなかったことで、近代都市の居住様式(核家族による持ち家制度)において初めて生じる現象であり、これも人口流動性の別の顔である。そのことが近隣住区の空洞化をもたらしゴーストタウン化に行き着くパターン、などがある。いずれのケースも、人口流動性が呼び覚まされるとともに人口定着性(集落性)が崩壊するという共通点がある。近隣住区理論は、人口定着性(集落性)の「短期的・内部的」な実現に執着したために、「長期的・外部的」な人口流動性の再燃に対して備えていないという脆さを持っている。
その後の近隣住区理論は、G20諸国においても自動的に採用され、今では世界の開発事業の多くを支えるに至っている。そのどれもが人口流動性の再燃については放置しているという、無防備な状況が生まれている。そのため、今のところ良好な状態を「短期的」に保ってきた旧G7諸国の郊外ニュータウンやベッドタウン、またG20諸国の郊外ニュータウンも、「長期的」には人口流動性が覚醒すると共に崩壊する恐れがある。
念のために言うと、崩壊した場合の行き着く先は、郊外ニュータウンやベッドタウンの本性であるところのスラム性の噴出である。スラムとは、 19世紀(貧民窟)の昔から、人口流動性の問題と切っても切れない間柄にある。人口流動性の問題に解答し損ねた時に生じる都市現象が、スラムなのである。そして多くの郊外ニュータウンやベッドタウンの本性が潜在的なスラムであることは、前節で述べた通りである。たとえば中国の延べ600万人を擁する多量の大規模ニュータウンは、ただひとつの例外もなく新型スラムである。ゆえに今後、人口流動性の再燃に何らかの対策が打たれない限り、30年後にはまるごとスラム化したとしても、驚くには当たらない。
だが街の人口が減り、新型スラムの本性がむき出しになればなるほど、やはり街には人口定着性が重要だ、集落化(コミュニティ化)が必要だ、という思考が復活してきてしまう。だがそれは、間違った要求であり、間違った発想なのである。都市(人口流動性)を集落化(定着化)しようと頑張ったとしても、「短期的」にしか成立しないのみならず、その「短期」が終わればスラムとしての本性がむき出しになる。人口流動性が再燃するまで30年なり50年なりしかかからないというのは、都市にとっては「短期的」というより「瞬間的」というべきだろう。人口流動性を定着性に戻そうとする発想に誤りがある。
もちろんモダニストの仕事の中にも、相対的に好ましい事例はある。たとえば1940~60年代に戦後の各国でなされた公営の低所得者専用集合住宅街である。相対的に好ましい理由は、スラムをあくまでスラムとして整えたからであり、低所得者層がつねに一定数残り続けることを覚悟したからである。ゆえにそれは、人口流動性に応える建築型を生み出す可能性を持っていた。ただし、それは政策者サイドや企画者サイドで期待されていたのに、肝心の施設設計者(モダニスト)によってなし崩しにされたという印象がある。おそらく多くのモダニストにとって低所得者専用集合住宅とは、単なる「貧しい集落」にすぎないのだろう。つまり低開発国における過渡的な産物に過ぎないか、経済成長をして欧米のようになれば無縁になるような産物に過ぎないのだろう。あるいは、多くのモダニストにとっての人口流動性とはせいぜい賃貸住宅のことで、人口定着性とは分譲住宅でしかないだろう。だが人口流動性とはそうした「短期的・内部的」な次元の話ではなく、産業資本主義以降の都市である限り、貧しい国でも富める国でも、貧しい者にも富める者にも、借家人にも持家人にも、万人に刻みこまれている生存形態のことである。その上で、もし人口流動性の問題に取り組むのであれば、貧しい者には貧しい者なりの人口流動性があり、富める者には富める者なりの人口流動性があり、富める国には富める国なりの人口流動性があるというように、人口流動性の種別を明らかにするような議論に移行したはずなのだ。あるいは、計画時点の人口流動性はA型であるが、50年後にはB型ないしC型になるだろうといった人口流動性の生成変化を問うような議論に移行したはずなのだ。あるいは、せめて一部の街区でもよいから人口流動性A型に備えた建築型と街区型にしてみようといった試行錯誤が、なされていたはずなのだ。だがそうした感覚が多くのモダニストには見られない(*16)。
このように、近代都市計画は、19世紀前半から21世紀初頭の今日まで、人口流動性に対する取り組みを避け、もっぱら人口定着性にかかずらっており、その過程で膨大な新型スラムを生み出してきた。すなわち近代都市計画の歴史とは、当初は人口流動性に対する底なしの恐怖から始まったものの(19世紀前半)、しばらくして恐怖というより警戒するというレベルになり(19世紀末~20世紀前半)、続いて警戒というより軽視というレベルになり(20世紀中盤)、ついには放置するという最終段階へ移行した(20世紀末~21世紀初頭)。このような足掛け3世紀にわたる人口流動性の黙殺は、近代都市計画にとって取り返しのつかない汚点ではないだろうか。というのも、人口流動性を軽視するなどということは、産業資本主義以降の都市計画にとって、本来あってはならない話なのである。人口流動性を軽視したような計画は、都市計画の名に値しないと言わなくてはならない。
逆に言うと、近代都市の次なる都市形態(現代都市)は、人口流動性の問題に対する3世紀ぶりの取り組みの中から出てくることになると考えられる。つまり人口流動性の問題に対して、近代都市計画とは異質な対処をする作業から、現代都市が出てくることになるだろう。

ここで現代都市にとっての人口流動性の前提を確認しておこう。
今日の都市人口35億人とは、人口流動性を味わった人びとが35億人ということである。この35億人は、前近代の集落のような「特殊な土地」(食料生産地とエネルギー生産地)に定着することで生存し得る人びとではなく、その土地から引きはがされて流動化した人びとである。この35億人のための生存拠点となるのが都市であり、それを企てるのが都市計画である。35億人をすべて「特殊な土地」(食料生産地とエネルギー生産地)に定着させることが不可能である以上、35億人が集落人口になることはあり得ない。近代都市計画の教訓は、彼らを別の代替地(たとえば宅地)に定着させてはみたものの、食料もエネルギーも生産しない代替地では長期的・外部的な生存拠点たり得ず、30年なり50年なり経つと人口流動性が顕在化してしまうということにあった。
したがって現代都市計画にとって、残された道は、人口流動性がそれ自身の自然成長性によって制御されるような方法を、模索することだと考えられる。言い直すと、人口流動性が現にどのような都市現象をもたらしているかに注目し、その傾向や法則性に沿うように、都市の計画目標(現代都市像)を転換し、計画技法を工夫していくことだと考えられる。都市を集落(ないし疑似集落)に戻そうといったモダニストの計画目標は、人口流動性を無視した恣意的な目標設定であった。もっと人口流動性のもたらす都市現象にフィットするように、私たちの目標と手法を変容させていかなくてはならないだろう。
冒頭の「90年代後半以降に生じたこと」で述べたように、現時点での人口流動性には大きく言ってふたつのタイプがある。近代化の初期に現れる人口流動性(農漁村→都市)と、終焉期に現れる人口流動性(都市A→都市B)である。前者は19世紀にイギリスの諸都市が最初に味わい、今日のG20諸国の諸都市が味わっている人口流動性であった。後者は今日の旧G7諸国の諸都市において顕在化している人口流動性である。そして後者の人口流動性は、前者の人口流動性の延長線上に、おおむね自然発生的に生じてきている。したがって後者の人口流動性の中に、現代都市計画の抱くべき都市像が潜んでいると考えてよい。
後者の人口流動性は、90年代後半以降にようやく都市現象として国内外で認知されるようになったもので、その傾向や法則性について十分に解明されたとは言えない。ただし、すでにいくつか分かっている傾向がある。以下の5つの傾向を、なるべく先入観なしで、また恣意的な都市像を抱かずに、事実として注目してみよう。

(A)旧G7諸国では、都市人口が国民数の70%に達するあたりで、後者のタイプの人口流動性が激化したこと。特に海外からの人口流出入(移民や観光)を伴っていること。
(B)後者のタイプの人口流動性は、個々の国内都市同士の人口流出入だけでなく、海外都市からの人口流出入(移民や観光)を伴っていること。
(C)この人口流動性は、一部の都市においては人口集中をもたらし、多くの都市では人口減少をもたらすという、二極化を進行させること。
(D)この二極化のうち、人口集中が生じる都市においては、都市というより広域的な都市圏が形成される傾向があること(すでに東京圏は人口3,000万人を突破した)。
(E)この二極化のうち、人口減少の生じる残りの都市においては、中心部の空洞化が続くと共に周辺部の低密度な開発(低密度なスプロール現象)が進行するという、別の意味での広域的な居住圏が発生すること。

以上の5つである。もちろん今後も上記以外の都市現象が必ず出てくるはずだが、ここでは以上の5つを前提に話を進める。ちなみに、以下では現代都市の計画目標(現代都市像)に絞って説明し、それを実現するためのマスタープランの役割や、個々のエリアの説明についてはあらためて述べる。
これらの二極化しつつある都市圏・居住圏に共通しているのは、中心集約型ではなく広域型・多焦点型の圏域が発生しつつあることだろう。もちろん両者の人口密度は著しく異なり、面積や規模も著しく異なっている。だが広域的・散逸的・多焦点型な圏域が生成しつつある点においては、共通している。
この広域現象を尊重すると、まず肝に命じなくてはならないのは、これらの広域的な都市圏ないし行動圏を、決して中心集約型に戻そうとしてはならないことである。たとえば国交省の言うようなコンパクトシティを目指すことは、基本的にあり得ないだろうと考えられる。これらの人口流動性の現れは、決してコンパクトシティに向かっていない。そうした状況下でコンパクトシティを強引に実現することは、新手のスラムクリアランスをするのと同じであり、新型スラムの再生産に帰結することになる。しかも、コンパクトシティという計画目標(都市像)は、都市人口や国民人口をあいかわらずスタティックな総量として捉えたことに根拠を持っており、依然として都市人口を集落人口のように捉えている。それは人口流動性を必ず定着性に押しとどめようとする発想を呼び覚まし、新型スラムの再生産に行き着くことになる。何度も言うように、人口流動性の問題は都市計画にとって手強い相手であり、侮れない相手である。人口流動性に取り組むのであれば、過去3世紀の常識に不用意に頼ってはならない。
むしろ5つの都市現象から浮上するのは、もっと「多焦点的」で「広域的」な都市像である。それは、どの部分も密度分布が不均一になるような、ポーラス状ないしゼブラ状の広域都市だと言い表すことができる。
「多焦点的」と言うのは、かつてのスプロール現象とその点において違っているためである。かつてのスプロール現象の場合、都心部からの遠心力として郊外スプロールが生じ、おおむね中心は安定しているという構造的な特徴があったが、上述した広域現象の場合、都心部は他の多くの中心のひとつになり、スプロール域も別の中心のひとつになるという、「多焦点的」な構造が生じている。
また「広域化」については、筆者の考えでは、たとえ仮に日本の人口が1億3,000万人から6,000万人に減少したとしても、その総数に合わせて個々の都市面積を縮小させねばならない理由はないと考えている。限界まで二極化(人口集中の生じると都市圏と、人口減少の生じる行動圏の二極化)が続くだろうし、その限界の先に出現するのは、コンパクト化ではなくて、前例のない都市圏構造と行動圏構造だろう。
人類史の都市形態の変遷から分かるのは、明らかに近代という時代が、あらゆる都市面積の実験場であり、あらゆる人口密度と施設密度の実験場であり、あらゆる建築型の実験場であり、あらゆる行動圏の実験場だということである。この実験場は、東京のように広域的で低密度な都市型を成立させたかと思えば、香港のように高密度な都市型も成立させている。より正確に言えば、香港の場合、1,000人/haの街区の隣に200人/haの街区があるという、密度格差の組み合わせの実験場だと見ることもできる。あるいは東京の某エリアの場合、一方には高層マンション街、隣には前近代の木造長屋街があるのに、どちらも同じ800人/haを達成しているという建築型の実験場、ないし施設密度の実験場だと見ることもできる(中央区佃島)。もちろん東京はどこまで広域な都市が成立するか、あるいはどこまで低密度な都市が成立するかという、都市面積と都市密度の実験場でもある。また行動圏の実験場、つまり都市面積と行動圏がどこまでズレられるかという実験場でもある。行動圏が都市面積より大きいケースもあれば、極小のケースもあるが、近代ほどその食い違いの実験を行っている時代はない(原文ママ)こうしたさまざまな都市現象は、必ずや次の都市形態をもたらすことになる。施設密度や人口密度がすべからく不均一に分布する広域都市のためのノウハウが、知らずに試行錯誤されてきたと見るのが妥当だと考える。
ここで前節において述べた「冗長で異質なサブセット群としての現代都市」という展望を噛み合わせると、その「冗長で異質なサブセット群」の中に、人口密度の異なる多くのエリア群が含まれることになるだろう。また、そもそも街区という計画単位も相対化されるだろうと考えられる。街区と建築型ではロジカルタイプが異なるが、それらが同じように都市要素として併置されている状態は、香港においても東京においてもすでに生じている。これらも異なるサブセットとして広域都市に吸収されることになるだろう。また、この冗長な広域都市は、領域的にはきわめて郊外から、かつての中心部までの広大な圏域を含むものになるだろう。ただし、全体として高密度であったり低密度であったりすることはなく、人口密度・施設密度・空地率が不均一になることはほぼ間違いない。さらに、この冗長で不均一な広域都市圏は、ほとんどボ-ダーレスになる可能性も残されている。そのため、場合によっては都市と集落の両者をその不均一な圏域に包摂する可能性も残されている。
ちなみに、ポーラス状ないしゼブラ状の広域都市という場合、すぐさま思い浮かぶ反論として、インフラ維持の不経済性や、エネルギー輸送の損失率や、物流の非効率性などの問題が、若い読者の頭にも思い浮かんだかもしれない。ゆえに広域的な都市を運営するのは不可能だという結論が、思い浮かんだかもしれない。確かに都市の運営を今日の国家なり資本なりが行うという体制を継続しようとしたら、広域的な都市は運営できないと思う。そうした疑問は看過できないものになる。ただし、近代国家や資本によって都市を運営するという発想は、過去3世紀に成立した常識であり、ゆえにその常識の方が間違っている可能性があり得る。その意味では一度はその常識を疑ってみる必要がある。だがこの問題(平たく言えば現代都市の運営主体)については、各節の説明が進んだ時点であらためて述べるが、この文章を最後まで読まれれば疑問は解消されるはずである。
ここで紙幅が尽きた。以降の近代都市の7つの欠陥は次の機会に述べることにする。

*13:本文でいう「人口定着性」「人口流動性」という用語は、社会学や政策学や不動産学における意味内容とは異なっている。ここでの「人口定着性」「人口流動性」とは、都市計画に必要な限りでのそれである。すなわち「人口定着性」とは、食料生産地とエネルギー生産地という「特殊な土地」に定住することによって生存しようとする人びとの生態のことを指す。これに対して「人口流動性」とは、そうした「特殊な土地」から引きはがされた人びとの生態を指す。そして前者の人びとの生存装置として企てられるのが集落であり、後者の人びとの生存装置として企てられるのが都市である。本文中で「都市(人口流動性)」「集落(人口定着性)」と記されている場合、両者の生存戦略の違いが念頭におかれている。
*14:ハワードの「田園都市」が「都市」ではない理由は本文中に述べた通りだが、かといって「集落」とも呼べず、「疑似集落」としか呼べない理由は以下の通り。
「田園都市」は食料生産地(農地や漁場や水源地)とエネルギー生産地(山林や河川)を有していないのに、あたかもその土地に定着すれば生存できるかのように偽装した街である。それは前近代の集落(農業共同体・漁業共同体)における最重要の生存戦略(食料生産地とエネルギー生産地に定住することによって生存するという戦略)を備えていない。ゆえに「田園都市」は集落ではない。単に前近代の集落を偽装した「疑似集落」である。
*15:20世紀初頭(両大戦間)のドイツでジードルング(公営住宅街)を量産したヘルマン・ムテジウスやハインリッヒ・テセナウ、ブルーノ・タウトといったモダニストは、残念ながら「田園都市」に影響を受けている。なお、ドイツのジードルングについては、都市ではなくベッドタウンに過ぎない(業務施設を持たない住宅街に過ぎない)という指摘がなされることがあるが、その指摘は肝心の問題を曖昧にする。もちろん住居地域だけの街よりは業務地域が加わった街の方が望ましい。だが真に直視すべき問題は、業務地域の有無でなく、人口流動性に解答しない限り都市とは言えないこと、せいぜい近代的な疑似集落にしかならないことにある。そして、それが都市でないならば、長期的・外部的な生存拠点たり得ないことにある。
*16:都市の居住施設において、人口流動性を重視した事例として、1930~60年代のニューヨークにおけるグリニッジ・ヴィレッジがある、それは人口流動性を応用ないし善用することによって、既存のスラム街を突然変異させた事例である。ジェイコブスがこだわったように、この時期のグリニッジ・ヴィレッジは、19世紀において事実上スラム街だったものを、個々の入居者たちが部分ごとに、代わる代わる、絶え間なく保存修復していったあげくに生じた突然変異である。この時期のグリニッジ・ヴィレッジにおける知的・文化的な活力は、人口流動性に対する許容力から生じている(ただし、どうすれば第二、第三のグリニッジ・ヴィレッジを生み出せるのかについては、十分に解明されていない。ある規模のメトロポリスにおける自生的なスラム街を立地とすること、周辺街区に大学や商店や文化施設などの多様なエリアが取り巻いていること、街区規模が歩行圏であること、個々の住民たちが保存修復を行うこと、多様な年齢層が住むこと、家賃ないし分譲費が安いこと、といった初歩的な条件までしか分かっていない)。

(初出:『新建築』1110 建築論壇)

西沢大良

1964年東京都生まれ/1987年東京工業大学建築学科卒業/1992年~西沢大良建築設計事務所代表/2013年~芝浦工業大学教授

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