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2021.12.08
Essay

現代都市のための9か条──近代都市の9つの欠陥

第1回(前編)

西沢大良(西沢大良建築設計事務所)

本記事は、『新建築』2011年10月号の建築論壇に掲載されたものです。原文のまま再掲します。(編集部)

はじめに1──若い読者へ

これから述べるのは、今日の都市の欠陥をめぐる話である。「今日の都市」とはもちろん「近代都市」という意味だが、ここでは1960年代になされた近代都市計画批判「はじめに3 ──1960年代の近代都市批判」で述べる『都市はツリーではない』(クリストファー・アレクザンダー、1965年)や『アメリカ大都市とその生』(ジェイン・ジェイコブス、 1961年)などのこと。とは異質な議論をすることになる。というのも、 60年代には十分に気付かれなかった近代都市の致命的な性質が、90年代後半以降に明らかになったためである。ただしそのことは、今日の建築界ではあまり注目されていない。そればかりか、今日の建築界では現状の都市形態(近代都市)に対する批判的な考察がなされなくなっていて、近代都市の欠陥に対するコンセンサスが胡散霧消している。おそらく読者諸兄の中には、今日の東京が他ならぬ近代都市であることを忘れてしまった人や、60年代よりも90年代後半以降の方が近代都市の時代であったことに気付かなかった人もいるかもしれない。都市と建築の専門家である私たちがそうした健忘症に陥っている限り、今日の都市問題はいつまでたっても解消されることはない。この文章の目的のひとつは、現状の都市形態(近代都市)のどこに欠陥があり、それが今日どのような都市問題をもたらしているかついて、90年代後半以降の都市的事象を前提に、新たにコンセンサスを形成することにある。
もうひとつ目的がある。近代都市の欠陥に対する継続的な追求が途絶えたのは、1970年代初頭である。その後、今日までの40年間近く、現状の都市形態(近代都市)がいかなる限界を持ち、いかなる危機に引き寄せられつつあるかという、最も必要な都市論が提示されていない。そのため、特に70年代以降に生まれた今の20~30代の人びとにとって、自分たちの都市が何らかの危機に直面していること自体、思いも及ばぬことになっているように感じられる。筆者は過去数年間、大学などで現状の都市形態(近代都市)の欠陥について説明してきたが後述する「近代都市の9つの欠陥」について筆者が大学で話した主な機会は次の通り。
・東京理科大学4年前期合同講評会(2009年7月、2010年7月)および特別講義(2010年12月)
・メキシコ国立自治大学講演(2009年7月)
・東洋大学講評会公開トークセッション(2011年7月)
またその一部の内容を活字にしたものは次のとおり。
・「ベルリン」(『旅。建築の歩き方 』建築文化シナジー、彰国社、2006年12月)
・「代々木公園」(『新スケープ──都市の異風景』誠文堂新光社、2007年8月)
・「つくる対象としての都市と建築」(『新建築住宅特集』0909)
・「世界同時不況と建築」(『JA76』1001)
・「東京のマスタープランと建築型」(『新建築』1004)
、基本的な用語や事例が通じないために、時間の多くを初歩的な説明に費やさざるを得なかった。だが90年代後半以降に明らかになったことのひとつは、近代都市の欠陥は60年代に出尽くしたというようなものではなく、今後は想定外の災危を世界中にもたらしていくことで、その尻拭いをするのが他ならぬ若い人びとだということである。今の若い人びとと、これから生まれてくるもっと若い人びとこそ、近代都市の欠陥を誰よりも知り尽くしておくべき立場にある。この文章のもうひとつの目的は、なるべく若い読者に現状の都市形態(近代都市)の把握の仕方を伝えること、その欠陥を解消するための議論や提案を促すこと、そして最終的には近代都市を別の都市形態へ転換するための方法を、筆者の理解した範囲で伝えることにある。

はじめに2──1990年代後半以降

本題に入る前に、90年代後半以降の都市に何が生じたのかを整理しておこう。特に60年代との違いを念頭において説明してみよう。

(1)近代都市の量産 

いわゆるG20諸国の近代化によって、90年代後半以降に近代都市が量産された。特に人口の多いアジア圏における近代都市の量産が著しいこと。インドと中国が開放政策(近代化政策)に転換したのは90年代前半であり(インド1991年、中国1992年)、個々の集落や街区に都市基盤(エネルギー施設・インフラ施設・港湾施設など)が整備され出すのが90年代中頃、続いて近代都市が続々と姿を見せ始めたのが90年代後半以降である。他のG20諸国もおおむねこの時期に近代化へ突入している。90年代後半以降の世界は、人類史上最大の都市建設の時代になっている。特に近代都市にとっては、60年代までとは比較にならないほどの量産期になっている。

(2)都市計画の停滞

G20諸国の近代都市、たとえば中国で量産されている近代都市は、読者諸兄も見た通り典型的な60年代風の計画都市である(新都市型ないしニュータウン型)念のために言うと、「中国で量産されてきた近代都市」とは、あくまで都市計画レベルの話で、個々の建築のスタイルとは関係がない。都市内の建物が狭義の近代主義建築であってもなくても、近代都市は成立する。。計画を行ったのは旧西側諸国(欧米日豪)の都市計画事務所・土木設計事務所・建築設計事務所であり、計画時期は90年代後半以降であるというのに、60年代風の計画内容の繰り返しなのである。欧米日豪の多くの専門家が参与しながら、40年前と同じ都市形態しか実現できなかったという事実は、私たちの持ち合わせている計画技法が、過去40年にわたって1ミリも前進してこなかったことを意味している過去40年間に都市計画手法をかろうじて発展させた数少ない事例としてブラジルのクリチバの都市計画(1993年)がある。。このことは、さらにワンサイクル前の40年間(1920年代末~60年代末)における都市計画技法の絶え間ない前進と比べた時、論証する必要もないだろう。その意味で、過去40年間(1970年代初頭~2010年代初頭)は、都市計画にとっての「失われた40年」と呼ばれるにふさわしい。この「失われた40年」における都市計画技法の停滞ないし放棄は、長らく専門家の間で潜伏しているだけだったが、90年代後半以降は専門家以外の広範な都市生活者や食料生産者などへ影響をもたらしている。

(3)都市人口

都市人口の問題、すなわち人口流動性の問題は、90年代後半以降、次のふたつのタイプの現象として現れるようになった。まず(A)G20諸国の近代化における、従来的な人口流動性がある。これは農村や漁村から近代都市へ移住するという、近代化の初期に必ず生じる人口流動性のことで、旧G7諸国においては60年代までに経験済みであり、それ自体として新しくはないが、その流量が莫大であることが新しい(今日の世界人口69億人のうち都市人口は過半の35億人に達しているが、この35億人・69億人という総量と、50%を超える比率も、人類史上の最高値である)。次に(B)近代化を終えた諸国で生じている人口流動性がある。つまり人口減に悩み始めた旧G7諸国においては、多くの都市が人口減少に苦しむと同時に、一部の都市に人口集中が生じている(いわゆる都市間競争)。これは都市Aから都市Bへという人口の流れを基本(原文ママ)とするもので、自国内だけでなく、海外都市Cから自国都市Bへという流れを伴っている(移民人口や観光人口)。
今日の都市形態(近代都市)は、このふたつのタイプの人口流動性の上に成り立っていて、こうしたタイプがあることも、90年代後半以降に判明した。

(4)資本と国家の影響

今日の都市形態(近代都市)には、(A)都市の建設資本に対する投機市場からの影響と、(B)都市の維持経費に対する国家や自治体からの影響がある。前者は瞬間的な建設資本の増大(およびその直後に必ず生じる極度の減少)という金融市場からの影響で、90年代後半以降の新自由主義政策の全面化・金融工学の発達・不動産債券市場のグローバル化によって激化した。後者は、旧G7諸国における財政赤字の慢性化と税収不足(というより税収上昇率の低下)によって都市の運営維持が容易ではなくなってきている。このふたつの傾向も60年代までにはなかったもので、90年代後半以降に顕著になっている。

(5)情報革命

90年代後半に生じたいわゆる情報革命は、まだ15年程度しか経っていないにもかかわらず、今日の都市に無視できない変化をもたらした。現時点での最も大きな変化をあげると、(A)ロジステクス革命のもたらした都市の変化。物流のロジステクスが過剰に合理化されたことにより、大は港湾地区のコンテナヤードやブラウンフィールドがいきなり無用化して大規模再開発用地となり、小は既存市街地におけるコンビニエンスストアの毛細血管的な乱立が可能になった。もうひとつの大きな変化は(B)通信ネットワークのもたらした都市の変化。その最大のものは北米や北欧における電力網のスマートグリッド化である。
このふたつは、物流とエネルギーという都市の基幹部分に生じた変化である。物流施設とエネルギー施設という都市のハードコアに変化が及んだ以上、情報革命は都市の表層を変えるだけのものではなく、都市の基底的な下部構造を変え得るものであることが、90年代後半以降に判明している。

(6)環境破壊

90年代後半以降の近代都市の量産によってもたらされた最大のものは環境破壊だろう。環境破壊は、近代都市においては、建設段階から運営段階を通じて、都市圏外と都市圏内のふたつのエリアで同時に進行する。つまり(A)都市圏外においては食料農地や漁場、林業地や水源地、エネルギー施設用地とインフラ用地、交通用地や資源採掘地、破棄物処理場や破棄エネルギー処理場等を通して継続的な環境破壊が行われ(原文ママ)、また(B)都市圏内においても港湾用地やエネルギー備蓄基地、都市開発やスプロール地等を通して精力的な破壊が行われる。そして(C)都市圏内における都市気象の悪化(近代生活によるエネルギーの過剰消費)も継続的に進行する。近代都市の特徴は、これらの環境破壊を都市活動の停止する日までもたらし続けることにある。このことも60年代においては一部の専門家の警告に留まっていたが、90年代後半以降は近代都市圏が地球規模に拡大したことにより、衆目の集まるところとなった。

(7)都市災害

90年代後半以降の近代都市は、60年代までになかったタイプの都市災害を経験している。日本の90年代後半は1995年の阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件をもって始まる。一般的には前者は天災(都市型地震)、後者は人災(テロ)というように、原因によって区別されるが、仮に原因ではなく結果の方を見ると、いずれも都市機能の要所が外から破壊されたという共通点を持っている(前者においては高速道路から上下水道までのインフラ設備の脆弱さが、後者においては都市交通(地下鉄)と行政地区(霞ヶ関エリア)の脆弱さが示された)。こうした被害状況を何より重視するのが都市災害・都市防災の重要な役目だが、その意味では2001年のアメリカ同時多発テロ事件や、今年の東日本大震災なども、結果において近代都市の脆さを教えた事件である(前者においては超高層街区という都市の集中利用の危険性が、後者においては都市圏外に原子力発電所を集中配備したことの危険性が、それぞれ示されている)。近代都市は、60年代まではこうした試練にさらされておらず、90年代後半以降に初めて試されることになった。


中国やインドの近代化や、世界人口の増大や、地下鉄サリン事件などは、若い読者もいろいろなところで見聞きしているだろう。だが、それらを基に現状の都市形態(近代都市)の欠陥を把握しようとした議論や、今後の新しい都市形態を考察しようとした議論は、ほとんど聞いたことがないのではないだろうか。とはいえ、若い読者が素朴に考えただけでも、上記の事柄がどれも人類史上初の出来事だったこと、つまり現状の都市形態(近代都市)にとって初めての経験ばかりだったことは、容易に理解できるだろう。なかでも都市人口が世界人口の過半数に達したことや、それを賄う食料とエネルギーの調達問題ならびに破棄問題は、近代都市にとって完全な未体験ゾーンにある。
もちろん筆者は、これらの問題を乗り越える都市形態はあり得る、と考えている。ただし、今日の都市形態(近代都市)がそれらを乗り越えられるとは、すでに考えられなくなっている。むしろ90年代後半以降、現状の都市形態(近代都市)は解決されるべき問題の一部を成しており、解消されるべき害悪のひとつになったことだと考えている。このことも、この文章を最後まで読まれれば納得されるだろう。

はじめに3──1960年代の近代都市批判

本題に入る前にもうひとつ注釈がいる。近代都市の欠陥については60年代になされた有力な議論がある。『都市はツリーではない』(クリストファー・アレクザンダー、1965年)、『アメリカ大都市の死と生』(ジェイン・ジェイコブス、1961年)、『都市の原理』(同前、1969年)などの論文のことである。先述した「失われた40年」、つまり過去40年間にわたる都市計画の停滞ないし放棄は、彼らの論文のインパクトがひとつの契機になっているとも考えられる。彼らの論文の衝撃力が、同時代の専門家の思考停止や思考放棄をもたらしたという意味である。そこで、この「失われた40年」をこれ以上続けないために、ここでは次のふたつのことをはっきりさせたい。

第一に、彼らの論文の使われ方、ないし読まれ方について。
筆者は彼らが間違ったことを主張したとは考えていないが、その後の論者によって、間違った使われ方(ないし読まれ方)をされたと考えている。彼らの論文は、都市計画を放棄することの正当化(言い訳)として使われたし、今でも使われている「アートとアーキテクチャーの交差から見えてくるもの」(2011年)における磯崎新の発言。。だが「都市に計画主体などあり得ない」とか「都市計画はもはや不可能だ」といった主張は、アレクザンダーたちの論文から自動的に出てくる結論ではない。それはアレクザンダーたちの論文がなくとも生じてくるような考えで、おそらく都市の制作過程や計画主体を巡る空想から生じてきたと考えられる。
元もと都市とは、時間的にも空間的にも隔てられた「複数の異質な集団」が、意図せずして共同でつくり上げるような「制作物」である。ケルトの集落が古代ローマの植民都市へ転換された時、あるいは近世スペインの港湾都市が近代都市へ転換された時、もしくは近代都市の内部で都市再生が漸進的に行われる時も、すべからくそうである。これらの都市において、強いて「計画主体」を挙げるとしたら、ケルトのシャーマンと古代ローマ軍が意図せずして合作したとか、その傍らで近世スペインの商隊と近代のモダニストが時代を隔てて合作したというように、「複数の異質な集団」を、長期的かつ外部的に、挙げていくことになるだろう。そうした「計画主体」による「制作」のあり方こそ、都市に固有のものである。ゆえにそれは、近代美術やクラフトにおける制作観や主体観(単一主体による制作)によって成し遂げ得るようなものではない、というのが、おおまかに言ってアレクザンダーやジェイコブスの基本的なスタンスである。したがって彼らは、その誤謬を冒した都市計画に限って批判するのであり、具体的には19世紀末~20世紀中盤のモダニストによる新都市やニュータウン(単一主体によって計画された計画)に限って批判することになった。肝心なことは、アレクザンダーやジェイコブスは、それ以前の都市計画についてはむしろ好意的だということであり、また今後の都市計画についても希望を捨てていないことである。もう一度繰り返すと、彼らの批判はもっぱら19世紀末~20世紀中盤という特殊な時期文中の「19世紀末~20世紀中盤という特殊な時期」とは、旧先進国においてそれぞれのタイミングで経済成長がなされ、その過程で近代都市と近代建築が主流になった時期のこと。なお、ここでの「20世紀中盤」には1960年代も含まれる。
の都市計画に限定されていて、今後の都市計画については否定ではなく改善を促していて、都市計画の放棄や停滞を奨励しているのではない。
都市とは本来、人類の成し遂げる最大の制作物であり、自然が制作したものと著しい対照をなす(よくも悪くも)。したがって、いかなる都市も人類によって企てられたという意味で「計画されたもの」であり、自然界で生成したものではないという意味で「人工的」な「制作物」である。この意味での「計画性」「人工性」「制作物」といった都市の属性は、それがなければ都市ではないというくらいに重要な属性であり、人類史上のあらゆる都市を貫く属性である。もちろんこのことは、アレクザンダーやジェイコブスにとって常識に類する事柄であり、彼らのすべての議論の前提をなしている。だが、この前提がなぜか同時代の読者の頭の中では忘却されていて、まるで都市計画の不可能性を立証した原典のように、あるいは都市のあらゆる計画主体を排撃した教典のように、よりにもよってアレクザンダーたちの議論が使われることになった。
若い読者のために噛み砕いて言うと、アレクザンダーやジェイコブスが言ったのは、「画家がひとりで絵を描くように都市を設計すると、トンデモナイことが起きますよ。そうしなければ、こんなによいことがありますよ」ということである。であれば、今後はそうしないで都市計画をしていきましょう、その方法をみなさんそれぞれ工夫していきましょう、そのヒントはアレクザンダーやジェイコブスの論文にたくさん書いてあるのだし、というのが次のステップになるはずである。だが「ひとりで絵を描けないから都市計画はおしまいだ」というような、不毛なステップに入ってしまって40年が過ぎている。それはあまりに近代的な誤読である。

第二に、彼らの論文の内容について。
アレクザンダーやジェイコブスの議論の内容については、90年代後半以降、ひとつだけ相対化しなくてはならないポイントが出てきている。彼らが疑問視した近代都市の欠陥(計画都市の樹状構造性、計画理念の思弁性、計画街区の均質性、多様性の圧殺、犯罪率の高さ、歩行移動の軽視、ネイバーフッドの軽視など)は、どちらかと言えば都市にとって「内部的」で「短期的」な問題群だったことである。これに対して90年代後半以降の都市が示しているのは、より「外部的」で「長期的」な問題群である。つまり都市が「外部」に対して「長期」にわたってもたらす問題や、都市が「外部」から「長期」にわたって被り続ける問題である。筆者の考えでは、この「外部的・長期的」な問題群にこそ、近代都市の無謀さ・未熟さが激烈に現れる。
G20諸国の近代都市、特に中国で量産されている計画都市は、先述したように典型的な60年代風の近代都市である。それらはアレクザンダーやジェイコブスの論文を読まずに設計してしまったような代物で、したがってジェイコブスたちの警告が、いずれ個々の都市の内部で反復されることになるだろう。ただし、それが問題のすべてではない。近代都市をかくも量産してしまうと、それらの総体が「外部」に対してどんな影響をもたらすのか、また「長期的」にはどんな災危を招くのか、そしてその災危が個々の近代都市へどういう危害を跳ね返すのかといった、「外部的」で「長期的」な問題群が浮上することになる。アレクザンダーやジェイコブスは、こうした問題を考察していない。
もちろんアレクザンダーやジェイコブスはそれぞれ、都市の内部構造について貴重な分析を多くなしており、筆者はいまだにその有効性が意外な場所で実証されるのを見て、感嘆を覚えることが少なくない(たとえば近年の吉祥寺本町2丁目一帯の盛り場の発生は、ジェイコブス・テーゼのひとつ「老朽施設の必要性」の正しさを完全に証明した)。だが、都市をそのように内側から経験しているだけでは見えない「外部的」で「長期的」な問題群が存在する。そして「外部的・長期的」な問題群こそ、都市の「内部的・短期的」な問題を絶え間なく引き起こす原因である。ジェイコブスたちの分析は、近代都市の欠陥を「外部的・長期的」な次元で捉え尽くさなかったという意味で、相対化する必要が出てきている。

したがって現時点では、60年代のアレクザンダーやジェイコブスの議論について、次のように位置付けるのが妥当だろう。「都市はツリーではない」という指摘は全面的に正しいが、仮に計画都市をセミラティスないしリゾーム状につくり得たとしても、その都市が「外部」に対して「長期」にわたってもたらす災危を解消することはできない。あるいは「都市は多様性を持たねばならない」という指摘も全面的に正しいが、仮に多様性を備えたとしても、その都市が「外部」から「長期」にわたって被る災危を阻止することはできない。近代都市の「外部的」で「長期的」な欠陥は、彼らの議論とは別の次元で、対象化される必要がある。

はじめに4──近代化のパッケージ

若い読者のためにもうひとつだけ注釈がいる。近代都市が量産されることについての、予備知識や補足説明を書いておこう。
元もと近代都市なるものは、ある地域や国が近代化の過程(産業資本主義化)に突入すると、いやおうなく出現する都市形態である。というのも「近代化の過程」とは、単純化して言えば、まず前近代の農業や漁業の代わりにエネルギー事業なり鉄鋼業なり交通事業といった「近代産業」を起こし、既存の集落や街を「近代都市」へと転換し、農民や漁民を都市へ移住させて「賃労働者(近代人)」に変身させ、自給自足生活の代わりに「近代生活」を営ませ、そこから巻き上げた税収や民間資本によって広義の「近代建築」を建設し、巻き上げ損ねた給与で広義の「近代住宅」を量産する、という過程だからである。この過程を全うするための必要不可欠なツールが、「近代都市+近代産業+近代生活+近代建築+近代住宅」というパッケージである。そして、ひとたびこのパッケージを導入した地域や国は、他にどうしようもなく近代都市を拡大させることになる。
近代都市と近代生活を享受する人口は、20世紀初頭においては全世界で1億6,000万人(世界人口の約1/10)、20世紀中頃においても6億人程度である(世界人口の約1/5)。その時点では、仮に近代都市に多少の欠陥があったにせよ、大局的には小さな事柄だとまだしも言うことができたかもしれない。だが90年代後半以降、G20諸国が続々と近代化の過程に突入し、21世紀初頭の今日では35 億人が近代都市に居留するようになり(世界人口の約1/2)、今後も数10億人単位の新規参入が予定されている。こうなってくると、近代都市の欠陥は100年前の数十倍の影響をもたらすものとなり、小さな事柄とは言えなくなってくる。たとえば60年代までに疑問視された近代都市の人工性や商業性といった側面は、90年代後半以降、地球規模の環境破壊や資源争奪をもたらす要因と化している。
今後の近代都市と近代生活がもたらす影響について、真に中立的で公正な予測を筆者は今まで見たことがない近代都市の量産がもたらす今後の予測については、さまざまな筋からなされているが、公正で中立な予測はきわめて少ない。最も疑わしいのは、証券会社や銀行の総合研究所による予測、および近代経済学者による予測である。次に疑わしいのは、政府筋の都市計画系の研究所やシンクタンクによる予想、および都市計画コンサルによる予想である。アジア圏において近代都市の量産を理論的に後押ししたのは彼らであり、中立的な予測は望めない。。ただし、若い読者が知っているデータの範囲でも、次のような予測はできるだろう。
日本の高度経済成長期に実現された大規模ニュータウン(業務・商業・住居地域を備えたもの)は、東京郊外に約40万人分(多摩ニュータウン・港北ニュータウン・筑波学園都市)、大阪郊外に約20万人分(千里ニュータウン)であり、設計段階から入居完了までにおおむね30年を要している。つまり日本の高度経済成長期以降の近代化は、平均して年間2万人を近代生活に移行させたことになる(大規模ニュータウンだけの値)。他方、中国の現在の高度経済成長期の場合、30万人クラスの大規模ニュータウン(業務・商業・住居地域を備えたもの)は北京郊外・上海郊外・天津郊外にそれぞれ6~8つずつ、合計20カ所計画されていて、その過半はすでに建設済み・入居済みであり、すべての入居が完了するのは2015年頃である。設計段階から入居完了までの開発速度はおよそ15年である。つまり高度経済成長期以降の中国は、平均して年間40万人を近代生活に移行させつつある(大規模ニュータウンだけの値)。それはかつての日本の20倍の勢いである。したがって、もしこれらの近代都市や近代生活に何らかの欠陥があった場合、それがもたらす影響は、かつて日本で生じたことの20倍程度のものを覚悟せねばならないだろう(たとえば水俣病なり四日市喘息なりの21世紀版が20倍の規模で生じる、など)。もしこの先、中華圏に移住した高名な投資家が推奨するように、世界の都市人口35 億人を60億人まで拡大したとすると、確かに金銭的には潤うだろうが、その金銭を使うための環境も街も本人も娘たちも死滅していることだろう。
近代都市は、60億人を生存させる都市形態としてふさわしくない。そのようなものとして考案されたものでもない。それは1億人から6億人程度を前提に練り上げられた都市形態なのである。しかも6億人から35 億人になるまでの間はまったく改善されなかった都市形態なのである。 90年代後半以降、何の創意工夫もなくひたすら近代都市を量産してしまったこと、よりにもよって人口が多く、環境負荷が高いアジア圏でそれを量産してしまったことは、頭の痛い問題なのだ。

もうひとつ頭の痛い問題がある。先述した近代化のパッケージについてだが、ひとたびそれを導入した国は、自国内で近代都市を量産した後、必ず他国にそれを移植し始めるという問題がある。G20諸国が自国の近代化を今後20年程度で終えた時、彼らは他国に近代都市を移植していくことになる。すでに中国はアフリカで資源基地・エネルギー基地の整備を始めたが、それは中国の自国内の資源確保のためだけでなく(また貿易黒字解消策だけでもなく)、近代都市をアフリカへ移植するための第一歩である。他のG20諸国もこの動きに倣うことになるだろう。21世紀の最大の頭痛の種がここにある。
ただし、この「近代都市の移植問題」については、日本の果たした特殊な役割を、若い読者に知ってもらわなくてはては(原文ママ)ならないだろう。「近代都市の移植」などという大それたことを成し遂げたのは、日本をもって嚆矢とする。よく言われるように、日本は幸か不幸か非欧米圏において初めて近代化に成功し、高度経済成長を成し遂げ、それを模倣したのが中国やインドの近代化政策だと指摘されている。このように、高度経済成長を誰でも実現し得るようにパッケージ化したのが、日本であった。先述した近代化のパッケージとは、高度経済成長を行うためのマニュアルであって、そのマニュアル化を成し遂げたのが日本の60年代である。それはほとんど「誰でもできます高度経済成長」と呼べるようなマニュアルである。かくも実現容易なマニュアルが目の前にぶら下がっていなければ、中国もインドも近代化政策には転換しなかっただろう。
しかも、中国やインドの近代化政策への転換は、彼らが「勝手に」行ったことではなくて、日本によってそそのかされたものでもある。中国やインド、また一部のASEAN諸国のエネルギー施設・インフラ施設は、その多くが日本の出資によって整備されている。初期はいわゆるODA(政府開発援助)により、その後は民間資本によって整備が継続されてきた。ちなみに、日本以外の旧G7諸国によるODAは、災害支援や医療などの人材面・ソフト面での援助が多かったのに対し、日本のODAはアジア圏のエネルギー施設・インフラ施設にひたすら資本を投下するという、尋常ならざる傾向を持っているこの異常な投資についての公的な説明は、次のようなものである。日本は平和憲法を所有しているため、軍事派遣による災害対策や治安維持に貢献することができず、都市のインフラ施設・エネルギー施設を整備することで代替的に災害対策や治安維持に貢献してきたのだ、という説明である(外務省HP)。このもっともらしい説明には、明らかに矛盾がある。というのも、平和憲法を所有していなかった戦前の日本においても、アジア圏のインフラ施設・エネルギー施設に対する執拗な投資が行われたからである。外務省の公的説明は意味を成していない。。もちろんこれらのエネルギー施設・インフラ施設は、近代都市の根幹を成すものである(都市基盤)。つまりそれがなければ近代都市を実現できないし、それができてしまえば近代都市しか出現し得ない。日本は90年代後半以降、アジア圏での近代都市の量産に対して、決定的な貢献を果している。
ようするに、単純化して言うと、アジア圏で近代都市を量産した当事者は、日本である。誰でもできるような高度経済成長のマニュアルを提供し、それを起動するための資金を提供し、近代都市の量産を後押ししたのは、日本なのである。したがって、これらの膨大な近代都市の移植が将来何をもたらすかについて、説明責任や検証責任を負っているのは、日本の専門家だということになる(都市設計者、土木設計者、機械設計者、建築設計者)。この説明と検証を怠った場合、私たちは欠陥商品を大量に売りさばいた悪徳商人の一味として、後世に記憶されることになるだろう。欠陥商品を売りつけられたのは、今の中国人やインド人というよりも、膨大な近代都市の後始末をつけていく後世の人びとだからである(もちろん近代都市の欠陥商品リストの中には、インドやベトナムに売りつけられつつある原子力発電所も含まれる)。
かつて近代都市は、欧米から日本へ移植され、90年代後半以降は日本からアジア圏へと移植されている(もちろん欧米からアジア圏にも移植されている)。そしてそれぞれの移植の際、近代都市の欠陥に対するインフォームド・コンセントは省かれており、ゆえに政府間ではさしたる異論もなく、経済界にも異論はなく、近代都市の移植は円滑に進められた。この悪質なマルチ商法のような事態の進行には、近代都市の欠陥に対するコンセンサス(共通意識)が根本的に欠けている。

仮に近代都市が至福のものであってくれたなら、こうした移植や量産は好ましいものである。だがどうひいき目に見ても、そのような楽観を許さない事柄が多すぎる。近代都市に対する「楽観」とは、何度も言うように、限られた地域・地区だけを見て都市を評価するという「内部的」な都市観のことであり、100年足らずの短いスパンで都市を評価するという「短期的」な都市観のことである。確かに「内部的・短期的」な都市観からすれば、近代生活は伝統生活よりマシかもしれないし、近代都市は利便性・機能性が高いかもしれない。だが都市を評価する時にもっとも無意味な指標が、「内部的・短期的」な評価軸なのである。こと都市という存在に限っては、「外部的・長期的」な評価軸が絶対的に優先されなくては意味がない。「内部的・短期的」な評価はなされてもよいが、あくまで「外部的・長期的」な評価が優先されなくては都市ではない。都市とは本来的に、「外部」からのエネルギー・食料・人・情報・技術の調達なしには成り立たないからであり、その調達と破棄を「長期的」に持続せずには成り立たないからである。
「外部的・長期的」な視野に立てば、近代都市が欠陥だらけであることは、建築と都市の専門家ならば腑に落ちるだろう。また近代都市の量産について、自信を持って肯定できる専門家もいなくなるだろう。政治家や経済学者にはほとんど期待できない。彼らは都市を「短期的・内部的」にしか捉えない。都市と建築をつくってきた専門家しか、近代都市の「長期的・外部的」な欠陥を手に取るように理解し得る人びとはいない。また、それを改良し得る人びともいない。
繰り返すと、近代都市の「外部的・長期的」な欠陥について、コンセンサスを持つことがまず大事である。そしてその欠陥を解消した都市形態を構想していくことが、より重要である。もちろんその構想を少しずつでも実現していくこと、部分的にでも実現していくことが、最も重要である。このことは、近代都市の絶頂期である今日では空疎に響くかもしれないが、長期的に人類は、近代都市に代わる都市形態を必ず実現する。もちろんことが重大であるから、この文章ひとつでコンセンサスが形成されるとは思わないが、以下をたたき台にして、専門家による修正が積み重なっていけば、遠からず真のコンセンサスが形成されるかもしれない。特に筆者が期待しているのは、近代都市の欠陥に幼少期から悩まされてきた、若い読者による修正である。

(初出:『新建築』1110 建築論壇)

西沢大良

1964年東京都生まれ/1987年東京工業大学建築学科卒業/1992年~西沢大良建築設計事務所代表/2013年~芝浦工業大学教授

西沢大良
新建築
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『新建築』1110掲載誌面

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