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2023.10.16
Interview

ハイパー・パノプティコンを突き抜けた先の都市

大屋雄裕(慶應義塾大学法学部教授)×馬場正尊(OpenA)

寝転べないベンチやボール遊びのできない公園、徹底したデータ管理。近年、さまざま場の秩序を保つために、過剰とも思える規制が施されることが多くあります。その背景には何があるのか、この社会情勢をいかに乗り越えれば、新たな場のあり方を見出すことができるのか。法哲学者の大屋雄裕さんと、数々の公共空間の設計に関わられてきた馬場正尊さんに語っていただきました。(編)

リスクを排除する情報化社会

──近年、たとえば公園でさまざまなアクティビティが禁止されるなど、過剰ともいえる規制の傾向が強まっているように思います。今回はその背景と共に、その傾向をどう乗り越えるか、法哲学、都市・建築的な観点からお話いただきたく思います。(編)

大屋 そうした傾向は近年確実に強まっており、背景には少しのリスクでさえも排除しようとする心理が働いています。たとえば昔は公園の遊具で怪我をしても大きな問題にはなりませんでしたが、今は訴訟事例も増え、かつ情報化社会の中ではそうしたネガティブな情報が拡散しやすくなっているので、特に行政は公園から遊具をなくしてしまったりと、あらかじめリスクを回避するような場づくりに取り組むようになっていますfig.1

馬場 それは実際の設計活動の中でも実感します。そこはさすがに人が落ちることはないだろうというところにも手すりをつけることがしばしば求められるし、また水辺でも、本来人はできるだけ水の近くでくつろぎたいはずなのに、そこから遠ざける配慮が求められることもある。どこまでが危険なのかという境界を見定めるのは難しいので、リスクを根本から排除したいというクライアントの心理は理解できます。しかし、何かあった時に声を上げるのは得てして少数の市民、ラウドマイノリティだったりします。一部の意見のために多数の素直な欲求が排除された結果、失っているものも多くあるでしょう。デザインする際にはラウドマイノリティへの配慮とサイレントマジョリティの利益のジレンマにいつも悩まされます。このリスクを回避する傾向は年々強まっていると感じますが、それでは人が自己責任で判断する意識や力を奪ってしまうのではないかと思います。

大屋 本来リスクはどんな生活からも完全に排除することはできないので、その付き合い方は経験を通じて学んでいくもののはずです。火を扱ったことがなければ、火の危険性を知ることはできないでしょう。今は都市でリスクそのものを知る機会すら奪われているという状況になりつつあります。さらにその多くは、リスクの正確な評価に基づいていません。分かりやすい話でいえば、今は性犯罪前歴がある人が教育に携わることができないようにデータベースをつくろうという流れがあります。ただ、他の犯罪データと比較すると、実は性犯罪者の再犯率は決して高くありません。その根底には、体感治安の悪化があります。犯罪全体でいえば近年は司法統計上明らかに減り続けているのに、体感的な不安だけが膨らんでリスクを排除しようとする向きが強くなっています。

馬場 僕もログ社会の怖さを日々感じていて、たとえば、自分個人の健康状態の情報ログの流出が、会社の経営にも影響することがあるのではないかと懸念させられることもあります。もちろん管理社会にはポジティブな側面もありますが、こうしたリスクを恐れる感覚は建築設計のクライアントが抱えるジレンマにも通ずる気がしてなりません。

大屋 アメリカの憲法学者ローレンス・レッシグは、人びとを取り巻く環境を物理的に操作することで、当事者には自発的と思われる選択の内容を変えることができると指摘しています。このような権力のあり方を「アーキテクチャ」と呼び、さまざまな主体がこうした権力を濫用することを危惧しています。

馬場 僕の事務所のOpenAは、オープン・アーキテクチャの略です。エリック・レイモンドの『伽藍とバザール』で示された、オープンソフトウェアの思想に影響を受けています。LinuxがOSを公開することで、小さな個人、想像の集積が社会をつくっていくような状況に理想を見ました。AppleのiOSにも象徴されるように、それは現実にも有効に働いています。でも、大屋さんがおっしゃるように、アーキテクチャはより強固に閉じた世界も同時にもたらしていますよね。人間は身近な公共空間から世界の秩序に至るまで、その両方の力の狭間に翻弄されているようです。もちろん、僕はその閉じたアーキテクチャをオープンに、柔らかくしていきたいのですが。

冗長性が失われたハイパーログ社会

大屋 昔はどんな帳簿を見ても証拠が残りませんでしたが、デジタル化によって閲覧履歴までもがログとして残るようになりました。そうすると、たとえば大学で成績が低迷している学生を心配して、どんな勉強をしてきたのかなと教務部に履修記録を見せてもらおうとしても、それは個人情報だといって本人の許諾なしには見られなくなるというように、たとえ善意の行為であっても、その裁量が最初からすべて失われてしまう。つまり、現在は情報の管理者もまた監視されているという、ハイパーログ社会になっているのです。

馬場 確かに、社会の冗長性みたいなものによって柔軟に対応できていたことも、今は何重もの管理と監視によって難しくなっている感覚はありますね。

大屋 ハイパーログ社会は不正をなくしたり、安全を確保したりと、ポジティブな面も当然ありますが、やはりわれわれの自由な決断を失ってしまっては、決められた構造の中で生きるしかなくなってしまうという危惧があります。

馬場 自分の決断でリスクをとれないつくりになってしまっていることが今の都市の独特な息苦しさに繋がっている気がします。

冗長性は必要か

大屋 日本はまだ行きすぎた情報化社会とは思いませんが、たとえば中国の一部の都市では街中に交通違反者暴露台というものが設置されています。交差点の防犯カメラで地上を監視し、赤信号で横断歩道を渡った人を検知すれば、その人の名前や顔写真がモニターで晒されます。

馬場 ジョージ・オーウェルの『1984』(1949年)で描かれる社会とそっくりですね。

大屋 交通違反者暴露台は、違反者に罰金を支払うよう通知を送るのですが、それはせいぜい数百円程度です。ただ、過料の小ささの割に被る心理的負担はものすごく大きい。いざ犯罪を犯せば重い罰をかけるようデザインされた日本の刑法とは対照的な措置です。日本の刑法において、たとえば中学生の万引きを捕まえた時、ささいな被害額でその子の人生を大きく変えてしまうと考えると、捕まえた人も躊躇して内々の謝罪で許すみたいなこともあり得ますよね。つまり、あらかじめ重い罰を予告することで、裁量をもった対処の可能性を残している。ところが中国では違反した瞬間に有無をいわさず大々的に晒してしまうので、その余地はまったくないfig.2。こうして評価と改善のサイクルを細かに急速に回すことによって中国の治安は急激によくなっていますが、それも怖い社会ですよね。

馬場 僕も子供の頃は「お天道様は見ているよ」といわれ、やってはいけないことを自己努力で学んできたのですが、今中国では国家という具体的な存在の目が光っているということですよね。そこに冗長性はないのでしょう。
行動規制に冗長性が働いた方がいいのかは分かりませんが、実際の設計でそのジレンマをよく感じる一例として、保健所の審査があります。建築基準法は非常に構造的に法規が定められていますが、保健所は現場の裁量がかなり大きく、自治体ごとに対応が違います。たとえば仙台市では普通の屋台でコーヒーを入れることが許可されますが、別の自治体では三方を壁で囲む必要があったりするfig.3。ちょっとした現場の裁量で、出来上がる風景の質も、かかるお金もまったく違ってきます。自治体ごとに判断がぶれて、個別解になることで計画や予算の見通しが立てにくくなります。そのジレンマをどうとらえればいいか悩んでいます。

大屋 法における厳格性と冗長性については非常に難しい問題で、バランスが大事という答えに留まってしまいます。厳格すぎてはクリエイティビティは生まれにくくなるし、一方で冗長性がありすぎても機能不全に陥る可能性がある。そこは執行機関が評価と改善を健全に繰り返し、最適な法を導くべきです。

システムの更新が冗長性を生む

馬場 今後の社会では、いかに更新システムを担保するかが、法に限らず重要になるでしょう。たとえば僕は都市計画法の用途地域はすでに限界を迎えていると思っています。古い木造の建物が立ち並ぶ地域が商業地域に指定されると、防火・耐火建築である必要が生まれます。そうすると、すでにある建物のほとんどが既存不適格になり、建て直そうとするとかなりのスペックが求められ、収支が合わなくなる。その結果、既存不適格のまま残り続けるか、駐車場になるかの二択になり、都市の空洞化を招く要因となっています。
ただ、個人のレベルでは多くの人がそう思っているでしょうが、いざこれを改正しようとすると大変な労力がかかる。ひとつの法改正で地価が乱高下するので、それが難しいということは理解できます。しかし、結果としてどうしようもないからと放置され続けている。分かっていても変えられない、更新システムが健全に働かないというのは、サイレントマジョリティの声が可視化されないモヤモヤと通じています。

大屋 何かを変えて失敗するのは怖いし、たとえ変革がうまくいったとしても、それは間接的に以前の状態が間違っていたということになる。結局何かを変えることには必ず失敗がつきまとうのです。市民はやはり間違いを嫌いますから、それがシステムの更新を躊躇させるのでしょう。

馬場 以前、『テンポラリーアーキテクチャー 仮設建築と社会実験』(共著、学芸出版社、2020年)という本を書いたのですが、仮設建築や社会実験は、都市の更新システムのひとつの方法なのだと思いました。行政と仕事をする時に、単に公園でこういうことをやりたいといっても硬直しがちなのですが、「社会実験をやりましょう」といい方を変えるだけで、担当者の顔がパッと明るくなることが結構あります(笑)。実験なら失敗はつきものですし、うまくいけば実用に移せばいい。リスクを嫌う社会において建築、都市空間をつくるには、社会実験や仮設建築が実はものすごく有用だと思います。それは社会の更新をサポートするシステムなのだと、改めて思いました。そういうシステムの更新性、失敗を許容するおおらかさが、市民やデザイナーの裁量に冗長性をもたらすのだと思います。

いかに監視を受け入れるか

馬場 今の社会はネガティブな意見が目立ち過ぎ、逆にポジティブな意見は可視化されにくいですよね。それも、過剰防備な都市が生まれた一因だと思います。たとえば団地の並木に対して、一部の人が虫が発生するので伐採しろといっていても、多くの人は美しい景観として誇りに思っているかもしれない。ネガティブな意見は届けられやすいですが、ポジティブな意見も同様に都市政策にフィードバックするシステムがあれば、この社会も随分と変わるのではないかと思います。

大屋 サイレントマジョリティの可視化ですね。その一例として、計算社会科学という分野があります。主にビッグデータやオンライン上の行動ログなどを通し、社会を解析するというものです。たとえばX(旧Twitter)の投稿を大量に解析すれば、ある物事に批判的な人や賛同する人の数や割合が算出できます。

馬場 それはいいですね。

大屋 先ほどおっしゃった馬場さんの例にしても、Instagramの解析を通せば市民が暗黙のうちにいいと思っているものや風景を可視化することができます。一方でこれもやはり、ハイパーログ社会の恩恵なのです。この手法にそこまで倫理的な忌避感を感じないのは、データから導き出した結果が個人の特定に結びついていないからです。最近はデパートや大規模商業施設で利用者の滞在時間や移動経路を分析したりしていますが、それも同じですね。

馬場 それは都市政策の立案の際にほしいエビデンスですね。アンケートだとどうしてもサンプル数が小さくなるし、ラウドマイノリティの声が増長される傾向になる。計算社会科学をしっかりと都市政策に導入できれば、市民の潜在的な欲求がある程度のレベルで定量化できるわけですよね。デザイナーが何となく定義する居心地の良さもエビデンスに基づいて説明することができるようになる。そうすると、都市の風景がポジティブに変わるだろうし、それこそトライアンドエラーがもっとやりやすくなるでしょう。
今は求められる空間もより抽象化しています。僕は居室を動線空間が繋ぐ近代の空間を名詞の平面図と呼んでいますが、最近の事例を見ていると、「話す場所」や「集まる場所」というように、動詞や形容詞で表されるざっくりとした領域で空間が構成されるようになってきています。それに伴って空間での人の移動もより抽象的になっているので、人流解析データは今後の抽象的な空間をうまく構築するうえでも重要になると思います。

大屋 ただ一方で、プライバシー保護の観点から、解析を断念したという事例もあると聞きます。その忌避感は理解できますが、解析を通して混雑を回避できるというメリットを求める人の方が多いはずです。

馬場 技術的にはあらゆる解析が可能になる中で、その目的をどう説明するかが問われそうです。僕はデータと個人と紐づける回路が切れていれば問題ないと思います。

突き抜けた監視の先に

大屋 人はおそらく「見られている」という状態へ原始的な不快感をもっています。でも、見られているからこそ受けられるケアもある。たとえばリゾートホテルのプールでくつろいでいる時だって、ホテルスタッフに見られているはずです。だからこそ上質なサービスが受けられる。監視社会の構造をなくすことはもはやできません。だからこそ、それをいかに健全にガバナンスするかを考える必要があります。

馬場 そうですね。技術・社会の進展に合わせて、僕らの常識も変えていかなければならないのでしょう。監視社会という言葉はなんともネガティブに聞こえてしまいますが、「見られている」と「見守られている」というのは同じようで全然違いますしね。

大屋 私はこの社会をハイパー・パノプティコンと呼んでます。パノプティコンはネガティブにとらえられがちな表現ですが、実はベンサムのオリジナルテキストを読むと、囚人を収監する監獄もまた、社会からの監視を受けることが強調されています。監獄がきちんと運営されていることを確認するために市民もいつでも監獄を見に行っていいことになっているのです。ベンサムは監視に監視を重ねてシステムの健全さを担保し、功利を最大化しようとしていました。

馬場 パノプティコンは究極の監視システムです。それ自体避けられないものだとすると、突き抜けたシステムの先で人の共通感覚をポジティブに変換できれば、都市空間や政策もよりよい方向にドライブしていく気がしています。
fig.4fig.5

(2023年9月11日、新建築社 霞ヶ関オフィスにて。文責:新建築.ONLINE編集部)

大屋雄裕

1974年福井県生まれ/1997年東京大学法学部第二類卒業、同大学大学院法学政治学研究科助手/2001年名古屋大学大学院法学研究科助教授、2013年同教授/2015年慶應義塾大学法学部教授/主な著書に『AIと社会と法 パラダイムシフトは起きるか?』(共著、有斐閣、2020年)、『自由か、さもなくば幸福か?〈21世紀のあり得べき社会〉を問う』(筑摩書房、2014年)

馬場正尊

1968年佐賀県生まれ/1994年早稲田大学大学院建築学科修了後、博報堂入社/ 1998年早稲田大学博士課程 雑誌『A』の編集長/ 2003年Open A設立/同時期に「東京R不動産」を開始/ 2008年~東北芸術工科大学准教授/ 2016年~同大学教授

大屋雄裕
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大屋雄裕氏。

馬場正尊氏。

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