コミュニケーションツールとしての漫画・アニメ
吉村 僕は今後の都市のあり方を考える上で、アカデミズム以外の視点にヒントを求めようとしていて、そのひとつとして漫画やアニメのようなコンテンツに注目しています。庄司さんは情報社会学の専門家でありながら、近年は漫画を切り口としてさまざまな死生観を伝える「END展」の企画に携わるなど、漫画やアニメから学術的な知見を導かれようとしています。そのきっかけは何だったのでしょうか。
庄司 僕は漫画やアニメの専門家というわけではないのですが、HITE-Mediaという研究プロジェクトをきっかけに深く関わるようになりました。新技術を開発し、社会に普及する中ではさまざまな社会課題が発生しますが、そうした技術の研究者や開発者と、社会実装やビジネス化を担う人、その背後にいる市民・消費者との間の溝を埋める場をつくっていくためのプロジェクトです。そのためのコミュニケーションツールとして漫画に着目したことがひとつのきっかけです。
吉村 END展は2021年「死×テクノロジー×未来=?」、2022年「死から問うあなたの人生の物語」fig.1と2回開催されていましたが、僕は両方見に行きました。漫画をフックにしたことで、死を身近な問題としてとらえやすくなっていたように思います。
庄司 2022年は約1万人が来場しましたが、やはり漫画の絵やセリフがもつ力はとても大きいのだと実感しました。
僕の漫画に対する意識が変わった転機になったのは、2019年にHITE-Mediaとして開催した「マンガミライハッカソン」です。漫画家やイラストレーター、編集者、自然科学から経済学・文化人類学などの研究者、ビジネスマンなどさまざまな人たちがチームを組んで参加し、「新たな人間性・未来社会・未来都市」をテーマとした漫画を制作するというイベントです。そのイベントに合わせたシンポジウムで、僕は「漫画は時代や舞台となる場所の設定によって包括的に世界観を与えてくれるものだ」という趣旨の発言をしたのですが、ある編集者さんは、それよりも「その世界の中で人びとの感情の動きを描き、読者の感情を動かす力が漫画にはある」といわれ、感銘を受けました。それ以来、物語の中で具体的に人がどのように生活をして、どのようなドラマが起こることで読者の感情が動くのかというところまで、より深入りするようになりました。
吉村 実は僕も漫画が大好きで、今でも毎週月曜日はジャンプ、水曜日はマガジンを買っています。漫画から人生を学んでいるといっても過言ではありません。人生とは何かを考える上で重要なテキストとして、昔の人は哲学や文学を参照していましたが、現代の日本において、それは漫画に変わったのではないかとすら思っています。漫画は今日の哲学書ともいえるし、あるいは一般教養を与えてくれるものでもあるのではないでしょうか。
庄司 おっしゃる通りです。僕は大学の時、人類学者の中沢新一先生が大好きで、毎年授業を受けていました。中沢先生はよく、神話にはさまざまな知恵が含まれているとおっしゃっていましたが、漫画やアニメにも同じような側面があります。
吉村 日本の神様はいきなり引きこもってしまったり、感情を露にしたりと、よく考えればかなりわがままだったりして、神話はある種のエンタメでもあったと思います。
庄司 ギリシャ神話もそうですよね。神様たちがくっついたり離れたり、戦ったりと、あらゆるドラマが凝縮されています。今の漫画・アニメには神話の物語を焼き直しているものも数多くあり、僕らはエンタメを通じてある知識・知恵を学んでいるといえます。たとえばアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」シリーズ(原作:庵野秀明)はキリスト教をモチーフに物語を構築していますが、ファンはそうした背景の知識から後の展開の考察を楽しんでいます。
吉村 僕がバルセロナに住んでいた時、漫画好きのカタラン人にアマテラス、スサノオ、ツクヨミの関係性について聞かれて非常に驚いたことがありました。しかも、イザナギの左目を洗った際にアマテラスが、右目を洗った際にツクヨミが生まれたとかなり詳細に知っていたのでその理由を聞いてみると、どうやら当時世界的に流行していた『NARUTO』(岸本斉史、集英社、1999〜2014年)に登場するキャラが使用する必殺技から知ったとのことでした。まさに庄司さんが冒頭でおっしゃったように、漫画がコミュニケーションのツールとなっていて、さらにはそこから興味を広げて一般教養を学ぶ入口にもなっている。
都市への想像力を働かせるエンタメ
庄司 アニメや漫画は都市のさまざまなあり方について想像力を働かせるきっかけにもなります。たとえば「マンガミライハッカソン」の大賞受賞作『Her Tastes:味は愛を教える』『Her Tastes:味は愛を教える』(漫画:竹ノ内ひとみ 原作:宮本道人、設定監修:森尾貴広、安藤英由樹、編集:矢代真也)fig.2fig.3は、主人公の女の子の父親が日本人、母親がアフリカ人という設定です。その設定は、日本の少子高齢化とアフリカの人口爆発、活動領域の拡大という近未来の社会像を背景としています。その背景だけでも「おぉ」と思いましたし、あり得る未来を想像するひとつのきっかけになっています。
都市防災という点では、迫り来る使徒からの防衛に特化した「エヴァンゲリオン」の第三新東京市は、いかにして天災へ備えるかということへのひとつのアイデアを描いているように思いますし、また「攻殻機動隊」シリーズをはじめとして、北方領土を経済特区として描く作品は多くあるのですが、そこはしばしばテクノロジーによる監視とコントロールを突き詰めた「スマート社会」からこぼれ落ちたアウトサイダーとして描かれています。それは、都市は自由であるべきだと謳っているようにも思えます。事件は得てしてそういうところで起きるのですが、こうした事例をピックアップして、さまざまな都市のあり方を議論できれば面白いのではないでしょうか。
──これまで見られてきたコンテンツの中で、描かれた都市に興味をもった作品はありますか。
庄司 僕はアニメの中で描かれる技術と都市の関係について興味があります。人は未来都市と聞けば、車が空中を走るような、真鍋博の作品や「ドラえもん」の中で描かれるような世界をよくイメージします。これは技術に支えられた明るい未来ですが、一方で技術革新をディストピアとして描くものも多くあります。映画「ブレードランナー」(監督:リドリー・スコット、1982年)や「AKIRA」(監督、原作:大友克洋、1988年)は高層ビルが乱立する都市を描き、煌々と照らされる空中とは対照的に、足元では薄暗く荒んだ様子が描かれている。また、「PSYCHO-PASS」(総監督:本広克行、2012〜2014年)は人間の心理状態を数値化し、犯罪を未然に防ぐ世界を舞台とするアニメですが、新技術による都市運営とそこから生まれる歪みや暗部をうまく描いています。このように、技術と都市の関係はアニメや漫画の中で度々描かれてきましたが、中でもディストピア的な表象が目立つのは、トロントでサイドウォーク・ラボの試みが頓挫したように、これまで想像の世界にあった技術を実装する際に、壁に突き当たっているという現実の実情をよく現しているように思います。
吉村 僕は今日のスマートシティ政策に対する良質な批判書として漫画版『風の谷のナウシカ』(宮崎駿、徳間書店、1982〜1994年)fig.4fig.5をよく取り上げます。物語の終盤でナウシカは、人間が住めなくなってしまった穢れた大地を浄化して再生させる壮大なプロジェクトを計画した集団と対峙します。生命を操る技術体系など、科学と技術が極限まで進展し、人間さえつくり変えることが可能となった世界です。あらゆるところからデータが集められ、それに基づいて未来を予測した予定調和的な社会、人間は労働や苦しみ、悲しみなどから解放され、「音楽と詩を楽しんでさえいればよい、あとはすべてAIがやってくれる」という世界を描き出しています。それに対してナウシカは、「それは人間にとって本当に幸せなのか?」と問います。楽しいことや綺麗なことだけではなく、苦しいこと、悲しいこと、汚いことなどすべてひっくるめて人間の素晴らしさであると説きます。滅びや穢れ、内なる闇、虚無、死さえも人間の一部であると。都市も同様に、闇や無駄があることこそが魅力なのであり、データによってすべてを最適化してクリーンな空間をつくり出すことだけが大事なことではない、という立場を僕はとっています。
庄司 おっしゃる通りです。市場原理の中では、データは取れるだけ取った方がいいし、使えるだけ使い倒した方がいいと考えてしまうところがあり、計画的にすべてをコントロールしたいという欲が生まれます。そうすると、まさにアニメに描かれるようなディストピアが生まれてしまう。それが本当に人間の幸せなのかは今一度考えなくてはいけません。
人は互いを監視し合うような、いわゆる田舎の社会を嫌って都市に出てきたり、馴染みの店で私生活を根掘り葉掘り聞かれるのが嫌で、現代のコンビニのような施設を求めてきました。現代都市はそうした旧社会的なしがらみからの避難所としての側面を少なからず含んでいるはずですが、今どこにでも監視カメラが設置され、あらゆる場所でアクティビティデータが取られていて、都市こそが監視の最前線になってしまっています。誰にも見られたくない、データを渡したくないという人もいるので、いくら都市が技術によって発展しようとも、そういう人たちのための余地、昔の言葉で言う縁切寺や無縁の世界は残しておくべきだと思います。それをどう実装するか、ということを最近考えています。
吉村 僕が以前審査員を務めた新建築住宅設計競技2022の第3位に選出した作品「──2084年 日本」(道家浩平、石黒翔也、小松航樹)がまさにその問題に取り組んでいたものでした。将来的にわれわれの社会は(多かれ少なかれ)データ収集がどんどんと進んでいく。そんな中においては「あえてデータを取られない空間的な装置がこれまで以上に重要になってくるのでは?」という仮説からの提案でした。建築家やアーバンプランナーの仕事は、ハードのデザインを通して人びとの選択肢を確保することにあると思っています。
未来のプロトタイピング
庄司 最近は「転生したらスライムだった件」(原作:川上泰樹、伏瀬、みっつばー、監督:中山敦史)など、いわゆる「異世界もの」などが定着しました。これは、多数のコミュニティにそれぞれ異なる顔で参加しているSNS全盛の現代社会のわれわれの生活をよく表している気がします。これを「分人」と表現したりしますね。
吉村 一見普通の会社員であっても、実はTwitterでは有名人だったとか、YouTuberだったなんてことは日常茶飯事です。その状況は、異世界に転生し、元の人格を保ったまま暮らしている、そしてそれらの世界がパラレルに複数展開しているという状況と非常によく似ています。つまり、現実の社会のある種のシミュレーションを実行しているのが転生系の漫画・アニメという見方もできるわけです。
庄司 同じような文脈で宇宙系の漫画・アニメも今後のわれわれの社会をよくシミュレーションしていますよね。限られたスペースに食糧、空気などを詰め込んだ状況下でどうやって生きるのか、もしくは限られた資源の星に移住した時に、われわれには一体どんなことが起こるのかなど。
「マンガミライハッカソン」で大賞受賞チームメンバーのひとりだった宮本道人さんは後に、『SFプロトタイピング SFからイノベーションを生み出す新戦略』(早川書房、2021年)という書籍を上梓しました。SFプロトタイピングとは、技術の発展によって訪れる未来を想像し、その未来に向かう道筋を描き出すという考え方で、ビジネスシーンにも定着し始めていますが、アニメや漫画を味わうこともまさに、まだ見ぬ社会像や思想・感情を描き、われわれに視座を与えるものだと思っています。
舞台背景と感性
吉村 庄司さんは冒頭で、漫画やアニメは感情を動かすものだとおっしゃられていましたが、建築・都市の視点でアニメや漫画に言及しているものは、いかに都市を表象するかという描写的な切り口からの批評であることが多い印象をもっています。でも僕は、アニメからまだ見ぬ都市の可能性を見出そうとする時、切り口は必ずしもそれだけではないはずだし、そこで扱われるようなオーセンティックな作品以外からも、何か見出せないかと思っています。
庄司 ここ10年の間に、登場人物の何気ない日常がコミカルに描かれる、いわゆる「日常系」というジャンルが確立しました。SNSなどによってさまざまなしがらみで生きざるを得なくなった今、若者の幸せは立身出世や経済的な成功ではなく、身近な人間関係を大事にし、日常をつつがなく生きることになってきているのではないかと思います。「日常系」はその幸せをよく描いているような気がします。それは特別な技術や社会背景を参照して都市を描いているわけではないですが、その中にも、なぜか懐かしく感じる風景があったり、何気ない夕日を特別に思ったりするような情動があるわけです。人びとの幸せを考えるうえでは、そういう描写にも今後の都市のあり方を描くヒントがあると思っています。
吉村 吉村 前回の久保(川合)南海子さんとの対談でもまさに同じような指摘がありました。推し活をしている人は、赤い水筒が机の上においてあったら、そこから「自分の推しのイメージカラーだ!」と想像を膨らませることができる、日常の些細な風景の中に自分なりの楽しみを見つけることができる、非常にクリエイティブな人たちであると。都市の風景とはそもそもは、そのような何気ない日常生活を「背景として」演出するものであり、些細で日常的なものだからこそ「忘れられないワンシーン」が掛け替えのないものになっていたはずです。それがいつの間にか、観光客を惹きつけるモニュメントをつくることに必死になってしまったり、一過性の話題をつくり出すことだけにフォーカスされるような都市になってしまった感があります。そこにはある種の想像力が欠如しているのです。僕たちはもう一度、「人びとの生活とは何か?」、そのような日常を生きる人々にとって背景となる「都市とは何か、風景とは何か?」ということを根本から考えるべき時期に来ているのかもしれません。その時にこそ、漫画やアニメが、社会構造の上に成り立つ都市としての描写だけでなく、その作品が何を伝えようとするものなのか、そのメッセージに対して何が描かれているのかということに着目することは、感性から都市を捉えるためのひとつのヒントになるのではないでしょうか。
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(2023年8月10日、オンラインにて。/文責:新建築.ONLINE編集部)