歩いているのか、それとも歩かされているのか
近年、都市にウォーカブルな空間を生み出すための取り組みがしばしば話題となる。ウォーカブルな空間には、道路を歩道や広場にすることで歩きやすく、居心地よくするだけでなく、都市に対して新たな価値や活力を創出することが求められている。多くの都市が歩道や広場に椅子やテーブルを据えつけ、カフェや店舗を誘致し、イベントの試行錯誤によってにぎわいの創出に取り組んでいる。しかしこうした空間を歩く時、どうも私は誰かに歩かされているのではないかと違和感を感じてしまうのだ。
ウォーカブルとは”walk”と”able”を合わせた造語である。欧米では、自動車が占有してきた道路を人びとが歩いたり、活動したりするために空間を再配置する都市デザインの潮流を指す。一方日本では、歩きたくなる、歩いて楽しい、居心地がよいなど多様な解釈が生み出されてきた。このような解釈による整備行為には、利用者に歩いてもらうという目的が付与されている。このためウォーカブルを謳う空間を歩く時、その魅力を理解してもらうために歩いてほしいという計画側があらかじめ想定したシナリオがどうしても読み取れてしまう。おそらくこれが先に述べた違和感の源泉だろう。もちろん、都市空間を計画する際は具体的なビジョンやシナリオがあって然るべきで、それ自体否定すべきものではない。都市はこうした計画と、あまたの人が紡いできた歴史的な文脈、環境などが複雑に交錯して出来上がるものだ。計画に満ち溢れた現代の日本で、果たしてわれわれは想定されたシナリオだけに溺れることなく、本当の意味で都市を自由に歩くことができるだろうか。
昨夏、インドに行く機会を得た。人びとは公園や立体交差道路を組み合わせてコースをつくり、整備された都市空間に規定されることなく自由に歩き回っていたfig.1。こうした本能的な使い方によって、都市が失いつつある野生的な自由を享受できるのではないだろうか。都市にあらかじめ備えられた機能に盲目的に従えば、そもそもこうした自由の存在にさえ気づくことはないだろう。まずはそれを自覚することが、都市本来の魅力をより享受する体験に繋がるのではないか。
都市における散歩の変遷
都市を自由に歩くという行為の代表が散歩であろう。吉村元男は『空間の生態学』(小学館、1976年)の中で、人間の無目的な散歩と動物の縄張りの徘徊に動物的体臭という共通性を見出した。そして、この本来の意味を損なうことなく都市空間に残すために、散歩とは何かをもう一度問い直す必要性を主張した。つまり、特定の目的のために都市を歩くのではなく、無目的な徘徊、散歩にこそ都市に野生を取り戻す可能性を見出しているのである。ただ同時に、「むだを排除し、一切を目的に対する効率から価値判断を下す現代社会は、散歩のもつ意味さえ、とうてい受け入れることはできないに違いない」と予見した。そこで、冒頭の違和感を出発点とし、吉村による言及を手がかりに、現代の都市空間において無目的に歩く散歩をもう一度問い直すため、都市のふるまいと視座研究会都市の公共空間におけるふるまいに着目し、研究と実践を通じて、視座を変えることで得られる新たな都市生活の可能性を探るユニット。メンバーは筆者のほか、松本邦彦(大阪大学大学院)、石原凌河(龍谷大学)、笹尾和宏(京都大学大学院)、竹岡寛文(タケコマイ)、中野優(iop都市文化研究所)。を立ち上げ、散歩学の体系化を試みているサントリー文化財団研究助成 学問の未来を拓く「散歩学の体系化─都市における歩く文化の復権にむけた試み─」(https://www.suntory.co.jp/sfnd/research/list_jinbun/2022.html)。
この研究会では、散歩がどのように都市空間で変化したかを議論してきた。はじめに、散歩の定義について言及した論文を1967〜2021年の4期に分けて整理した。すると、その定義は無目的、日課、身体活動、養生効果、学習・体験、都市活動、犬の散歩、その他の8つに分類できたfig.2。無目的はその他を除くと2009年までは7編と最多であったが、転換期となったのは2010年以降の第4期である。この時期に無目的な散歩の扱いが減る一方で、散歩の目的を観光体験、まちづくりなどに位置づける都市活動が8編を占めた近藤紀章、松本邦彦、石原凌河、笹尾和宏、竹岡寛文、中野優著「『散歩』研究の拡がりは、都市デザイン・政策にどのような影響を与えたのか?」( 都市計画報告集、20(4)、pp.448-455、2022年)。
もっとも、定義が転換傾向を示した背景には散歩を定量化して把握せざるを得ない現代の経済的、学問的事情があった。なぜなら、歩く目的を都市活動に位置づけることで、歩くという行為そのものを目的を遂行するための手段として捉えることができるからだ。これにより、歩くことで得られる効用を説明するための分析をモデル化でき、それが都市空間を整備するための根拠として用いられる。これらの手続きを経て、人びとがより歩くための都市政策に繋がり、都市に歩くための機能が整備されていく。
都市に飼い慣らされないための身体感覚
効用や機能に従って歩かされていることの最たる例が、観光地であらかじめ用意されたガイドブックのおすすめに従って歩いたり、位置情報を用いたゲームやアプリを楽しむために歩いたりすることだといえる。しかし、研究会の調査では街を歩くゲームやアプリをやめた時、歩く距離や外出頻度そのものが減る傾向にあることが分かった。つまり、歩くことの目的が行為そのものや身体的な欲求によるものではなく、外部から与えられたものに依存しているのだ。
歩くという行為に身体感覚が伴わなければ何が起こるか。たとえば、大学生に講義や演習で地図を描いてもらう機会がある。すると、多くの学生が手描きで地図を描くことは小学生以来だという。地図を見ると、表現の上手い下手よりも、描かれた道路や交差点、主要なランドマークなどの位置関係がうまく捉えきれていないように感じるのだ。デジタル上で座標を中心に場所を認識、共有するためだろう。都市を捉える視座に身体感覚が伴わなければ、その土地の環境の特性や価値を真に理解するのは難しいのだ。
このように、歩くという身体活動が経済合理性やデジタル化によって左右されていると見るならば、われわれは自分たちにとって都合のよい都市のイメージを選択しているに過ぎない。何より、都市で発生しているたくさんの出来事と接触することへの可能性を自ら閉じている。目的以外に都市に関わらなくてもよいというスタンスは、都市に飼い慣らされた状況ともとれる。それはとてももったいないことだろう。
都市との対話によって紡ぐ物語
今、研究会では人が海外の都市でどのように散歩をしているのか聞き集めている。そのひとつとして、イタリア人にイタリア語で散歩を意味するパッセジャータについて聞く機会を得た。その話を要約すると、パッセジャータの定義は人や時代によって違うとしつつも、あらかじめルートを決めず、何人かで気が向くまま面白そうなことを見つけて足を運ぶことだという。そこでは目の前の事象に対して自らがどう感じ、どう行動するかという身体感覚が重要なのだ。つまり、無目的に歩くということは、無意識に周囲の環境と対話することといえる。そこでの判断は頭ではなく身体に委ねられるため、非合理的な選択が含まれる。すなわちそれは、人と都市との対話によって再現性のない物語を紡ぐ行為である。
たとえ普段から通勤で通い慣れた変哲のない道であったとしても、通勤という目的から開放されることでその人の物語となる。ふと道端に目をやることで、そこに広がる花や草木、音や匂いなど見落としてきた風景の移ろいに気がつくだろう。家族や友人、子どもなど誰かと一緒に歩くことで、散歩に組み込まれた情景に気がつくだろうfig.3。そして、一緒に歩くためにはその人と歩調が合うことの大切さに気づくだろうfig.4。こうして身体に蓄積された物語は新たな物語を生む。恋人と歩いている時に鮮やかに見えた景色も、時を経てセピア色の甘酸っぱい景色に変わるという具合に。
このように、ありのままの都市空間を無目的に歩くことにそれ以上の意味を見出すことは難しく、特別な価値を求めることは無粋である。ただ、誰かに与えられたシナリオに沿うだけではなく、それぞれがそれぞれの物語として散歩を楽しみ、そこで得られた視座から現実の都市空間をより豊かに、複雑に享受することができるはずだ。
デジタルツインやメタバースなど都市空間がフィジカルを超えて拡張する中で、散歩について思考することは、都市が失いつつある野生を自らの身体によって取り戻す最後のチャンスとなるかもしれない。その意味を問い続けたい。