同一化への抵抗、非同一性への離脱
今回僕が取り上げるのは、岡﨑乾二郎氏の『ルネサンス 経験の条件』(以下、本書)である。造形作家として、そして批評家として幾多の業績を持つ氏の紹介は必要ないだろう。本書の意義はとてもひとことでいい表せないという前提に立ちつつ、乱暴にいってしまえば、僕たち人間は極めて多様な感覚能力を持っているという事実と、その能力の可能性に改めて気づかせてくれる点にある。今僕たちを取り巻く社会は、ある特定の概念へと同一化させようとする不寛容な状況になりつつある。本来あらゆる事物は両義的性質を持っているにもかかわらず、どちらか一方の側面に同一化させようとする理性的な力学が働いている。唐突に卑近な例を出せば、疫病克服の特効薬といわれるワクチン。薬の語源である古代ギリシア語の「パルマコン」は、良薬であると同時に毒薬という意味を持つにもかかわらず、道徳的に正しいとされる世論の声に同調しなければならない空気が漂っている。その声に同調できない者は排除されるような世界になりつつある。こうした状況の中だからこそ、本書は再読されるべきだと僕は考える。本書に通底するテーマは、こうした同一化させる理性的な声への抵抗、あるいは非同一性への離脱である。
よく知られるように、西欧形而上学は声を比喩として理解することが可能だ。世界の究極的な真理とは何かを追求する形而上学において、音声は実体としてゆるぎなく確実に存在し、理性的な意味を充実させているものと考えられてきた。近代哲学の出発点となったルネ・デカルト(1596〜1650)の有名な命題、「我思う、故に我あり」は、自分の意識は疑いようがない確実なものであるという認識を示しており、これは、人間の理性が世界の真理の基盤に据えられることを意味する。それゆえ、自分が発した声は、直接自分に届けられていると信じられ、聞いている声(聴覚の対象)と、聞いていると思っている声(知覚する概念)は、理性的に緊結された同一のものと見なされたのである。なお、フランス語で声を意味する「voix」は、投票の意味も持っているように、声の同一性という教条的な価値観は、今現在僕らが生きる社会にも連綿と受け継がれている。一方で、人間を理性的な存在として位置づけようとする形而上学のこうした傾向に対して、これまでさまざまな批判が繰り返されてきたわけであるが、ここで少しだけその流れを簡単に振り返りたい。かつてイマヌエル・カント(1724〜1804)は、理性的な働きに疑いの目を向け、むしろ理性こそが先入観に満ちた見せかけへと同一化させる力学、つまり「仮象」を生じさせるとし、理性の欺瞞的な本性を暴こうとした。たとえばその昔、理性的な世界像として天動説が真剣に信じ込まれていたように、真理の最高決定機関であるはずの理性が、実際には人間を欺く二枚舌を持っていることを示そうとしたのである。また、マルティン・ハイデガー(1889〜1976)は、意識的な理性の声の背後には、声にならない無意識な声(良心の呼び声)があるとし、むしろこの自分自身の意図や予測に反して発せられる呼び声が、自己の内なる良心を目覚めさせる契機となることを説いた。聴覚対象と知覚概念が直接的かつ瞬間的に結びつくデカルト的思考を否定したのである。そして、その意を受け継いだジャック・デリダ(1930〜2004)は、郵便のメタファーを用いて、声の不確定性・非同一性を暴いた。理性から発せられた(とされる)声は、まるで郵便物の手紙のように循環し、遅れて届いたり誤配されたりする可能性を潜在的に持っている。つまり、確かなものとされた(思い込まれていた)ものの核には、不確かなものが内在していることを示したのであるが、アポリア(困惑・矛盾)の暴露に留まらず、矛盾の境界線をもう一度引き直し、感覚対象と知覚概念の新たなる結びつきへと目を向けさせたのである。
こうした形而上学に対する批判の流れは、確実に本書にも共鳴している。岡﨑は本書を通じて、この理性的な声に対して抗う議論を、絵画という視覚芸術の領域から鮮やかに展開する。本書で明らかになるのは、人間の代表的な感覚である視覚が、時空を超えて多種多様な知覚概念を想起させる錯乱的な力を本来持っているという事実である。
誤解された透視図法
ルネサンス期に確立した透視図法は、フィリッポ・ブルネレスキ(1377〜1446)が考案しレオン・バッティスタ・アルベルティ(1404〜1472)が理論化したとされているが、今僕たちが理解する透視図法はアルベルティ的図法であって、それはブルネルスキを完全に誤解したものだったと、岡﨑は本書の中で繰り返し指摘する。確かに僕らは、目の前に広がる風景などの三次元の視覚情報を、二次元に正確に再現する技術として透視図法を理解している。すべての線を消失点へ収束させることで、遠いものと近いもの、大きいと小さい、上下左右といった視覚情報を定量化し、画面を固定させるこのアルベルティ的図法を、正確なものとして捉えている。しかし考えてみれば、これこそ見ているもの(視覚対象、つまり客体)と見ていると思っているもの(知覚概念、つまり主体)の安易的な同一化作用にほかならないことに気づかされる。岡﨑にいわせれば、本来ブルネルスキの考案した透視図法とは、視覚の錯乱性を活性化させるようなものだったにもかかわらず、アルベルティのそれはまったく逆で、動的な人間の視覚能力を静的なものへと押し殺しているという。僕らは自らの感覚を作図法の方に合わせて、記録写真的な画面を実際に見ているのだと思い込んでいるような状態なのだ。
本来の透視図法とは何であったかを考察するうえで岡﨑が着目するのは、ブルネレスキが透視図法を検証する際に用いたとされる実験装置だ。詳しくは本書をあたっていただきたいが、2枚の手鏡(銀箔を貼ったパネル)を向かい合わせにして鏡像反射をつくり出す簡単な装置である。ぜひ「ブルネレスキ 鏡像装置」で画像検索してみてほしい。1枚目のパネルには建物の絵が透視図法で描かれており、建物以外の地の部分には銀箔が貼られている。建物の消失点には小さな覗き穴が空けられている。2枚目のパネルは銀箔のみだ。覗き穴を通して2枚目のパネルに映った鏡像を見ると、建物の絵とその周囲に映り込んだ実際の空や雲の光景が融合し、パネルの背後の風景とも一体化しながら、あたかも現実の世界に建物の絵が存在しているように見える仕組みである。なるほど、描かれた絵が正確(記録写真的な意味での正確)かどうかを手軽に検証できる極めて実用的な装置である。しかし、この実用性ゆえに、アルベルティは誤解することになった。この装置の概略図は一見すると一点透視図法の解説図のように見える。しかし、異なるのは、アルベルティ的透視図法の考え方では、「消失点を見る自分」という画面から外在化した視点を生み出すのに対して、ブルネルスキの鏡像装置は、「消失点から見る自分」という画面に内在化する視点を獲得する。この消失点“を”見るのと“から”見るのでは圧倒的な差異がある。前者の外在化した視点では、消失点が対象という客体に結ばれているのに対して、後者の内在化した視点では、消失点は自分という主体に結ばれる。つまり前者では、対象の世界と自分の世界は別々であり、主客の関係は固定化、すなわち同一化されている。一方後者では、対象の世界に自分が入り込み、画面の中を自在に動き回れる視点が獲得される。この時、画面として組織されるのは自分側の世界であって、主体が客体であったはずの絵画に参入することになる。つまり、主客の関係が瞬時に反転するのである。僕らが世界を正確に記述する理性的な技術だと思っていた透視図法は、実は記録写真的な画面へと、自らの感覚を同一化させてしまうものであり、まやかしの術であった。その真逆の正体は、むしろ人間の主体そのものを非同一的に変動させるものであったのだ。
時空を超えて想起すること
この“逆”遠近法ともいうべき透視図法の効用を、ルネサンスよりはるか時代を遡ったビサンチン美術にも見出せると岡﨑は論じる。いつの時代も、神という無限の存在を有限の存在である人間がいかにして描けるのかという問題があったわけだが、ルネサンスのアルベルティ的透視図法では、消失点に対象が結ばれるため、当然ながら神を遠くに配せばその姿は小さくなる。また、画面の中はあくまで客体として固定しているため、必然的に神は単なる対象物となってしまう。その神への冒涜ともいえる矛盾の解消法をビサンチンの人びとはすでに理解していたという。確かにビサンチンの絵画を見れば、正対するイエスの顔から視線がまっすぐと向けられていて、その消失点は僕らに結ばれる。神の視線の前では僕らの方が小さくなっていくのである。これは、今まで見ていた対象の世界に対して、僕ら自らを見られている対象として参入させ直すというブルネレスキの装置と同形だ。つまり、主客が反転する消失点を入り口として、僕ら自らが神の世界へと参入していくのである。この参入のことを岡﨑は「想起」と呼び、自分が経験したことのないような出来事や、まったく時空を超えた事物を想起することこそが芸術が持っている可能性なのだと指摘する。絵画に限らず建築も、時空を超える想起媒体であり得ることを踏まえると、これは極めて重要な指摘である。そもそも本書のタイトルに用いられたルネサンスとは、古代の想起、つまり古代ローマの寂れた廃墟という視覚対象から、遠い過去への憧憬という知覚概念に、当時の人々を時空を超えて参入させ直す壮大な実験だったのだから。
同一化された既成概念を解き放ち、相容れないであろう対象と概念を新たな仕方で結び付け直すこと、つまり想起が発動された事例を、本書ではこれ以外にも数多く取り扱っている。ここでは詳しく紹介する余裕はないが、特にブランカッチ礼拝堂に描かれた壁画が、時空を超えた画家たちの想起の作業であったという発見は特筆に値する。それぞれ異なる時代様式に参入しあった痕跡を数学的に精緻に証明していく論述は実にエキサイティングだ。また、これ以外にも、今僕たちが一般的に理解している音楽というものは、主旋律に和音が伴奏されたホモフォニー(和声法)であるが、これはポリフォニー(多声法)からの派生であって、メロディの錯乱的な複数性が単調に統制されたものであったという指摘も極めて興味深い。視覚のみならず、聴覚においてもアルベルティ的変形がなされていたというのだ。このようにして、僕たちが本来持っている感覚の動的な錯乱性が、押し殺されてきたという同一化の事実を、岡﨑は知的に暴いていく。
経験、迂回、感覚の梯子
この原稿を書き始めようとした時、ふらっと立ち寄った展覧会で見た作品が、岡﨑が伝えようとしている世界観と強く共鳴しているように感じたのは、はたして偶然だろうか。それは、アーティストの百瀬文氏による「聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと」という映像作品で、百瀬と建築計画学者の木下知威氏の対談形式をとった作品だった。木下はろう者で耳が先天的に聞こえないが、ふたりは手話を介さずに対話を進める。木下は、百瀬が発話する口の形から読唇術で意味を読み取り、発話によって返答する。もちろん木下が発話した自分の声は、木下自身には届かない。百瀬はその不確かな声を受けとめ、声で返す。そしてその口の形を木下は受け止め対話が続いていく。木下は「口の形が声」に感じるという。しかし、口の形から意味をひとつには特定できない。例えば「たまご」と「たばこ」は同じ口の形であって、文脈からしか想像するしかないそうだ。木下はこれを「穴のあいた手紙」に喩える。ここで僕たちは気づかされる。不確かな意味の束から内容を想像で選び取り、相手に返すといった一連の行為は、僕たちが日常的に行なっている会話とまったく同じであることに。対話という理性的な社会的行為の核には、不確かさが確実に内在しているからこそ、木下の世界と僕たちの世界は想起しあうことが出来るのだ。さらに重要なのは、木下は口の形を声として「聞いている」という事実だ。この木下の認識プロセスを記述すれば以下のようになるだろうfig.2。
①「口の形」という視覚対象(見ているもの)から「穴のあいた手紙」という概念的な意味を知覚する(見えていると思う)。
②その手紙を想像しながら読むことで声という聴覚対象(聞いているもの)に変換される。
③本来聞こえないはずの声から意味内容が知覚される(聞こえていると思う)。
④事後的に、異なる世界の感覚対象と知覚概念が結びつく。
このように、まったく聞こえないはずの木下が、聴覚の世界に参入したと捉えれば、これこそが岡﨑のいう想起の発動であろう。想起とは、まるで感覚の世界に架け渡された梯子(図中④の青い矢印)を上るようなものなのかもしれない。もちろん梯子は、視覚と聴覚といった明確に異なった世界間だけでなく、視覚や聴覚(あるいは触覚など)それぞれの世界の中でも架けられている。なぜならば、視覚だけを見ても、時空を超えた異なる世界で満たされているのだから。対象と概念の間を揺れ動きながら、梯子を迂回するように上っていくプロセス(図中の①~③の赤い矢印)では、主体と客体の二項対立的な境界は融解する。この時、岡﨑は、芸術の「経験」とは、主客それぞれが揺れ動く境界面で組織されるものであり、作品はこの境界面に立ち現れるという。だからこそ、僕は作品を通じて木下の世界を疑似体験、つまり想起出来たのであろう。
他者への開け
今僕たちの世界における対話は、SNS上で発信元が不明な情報が飛び交い、対面上ではマスクによって顔の一部が覆われている。まさに「穴のあいた手紙」に満ちている。しかし、不確かな穴があいているからこそ、そこに注釈を流し込み、迂回しながら新たなる解釈へと到達することが出来るはずだ。問題なのは、見えない(あるいは聞こえない)ことではなく、「見ようとしていない」ことなのだ。なぜ見ようとしないのかは、主体と客体それぞれが同一化しているからにほかならない。このような状況だからこそ、時空を超えた異なる世界(=他者)を想起し、“他者への開け”へと向かうことが必要だ。あいた穴を創作の動機へと転化し、本来錯乱的であった感覚の、動的に想起する力を信じること。その時、本書が水先案内としての役割を果たすのは疑う余地がないのである。