2022年10月30日、8大学9研究室による合同ゼミ「GDZ2022」GDZは合同ゼミの略。本来はゼミの頭文字はSが正しいが、間違えてZが使われ、それが定着したとのこと。慶應義塾大学松川昌平研究室・東京大学川添善行研究室・東京藝術大学藤村龍至研究室・東京理科大学西田司研究室・東洋大学伊藤暁研究室・日本大学古澤大輔研究室・明治大学門脇耕三研究室・明治大学南後由和ゼミ・早稲田大学吉村靖孝研究室が参加した。が、明治大学中野キャンパスにて開催された。「映像レトリックを用いて、建築を表現せよ」という課題をもとに、7組の建築家による建築作品を撮影対象とし、A〜J班に分かれた学生たちが映像制作を行った。当日、講評会を兼ねて作品が上映された。建築映像の制作を教育の場で取り入れている事例は日本ではまだまだ少ないが、こうしたワークショップが開催される背景には、近年建築映像による作品のプレゼンテーションの機会が増えていることがあるのだろう。
課題文にある「レトリックを用いて」という言葉に従った結果か、出品作品の半数以上を構造主義映画のような映像が占めていた(A、B、D、G、H、I班の作品が該当する)。構造主義映画とは、ショット間の関係やフレーム内での要素の置き方などにある構造をつくり出し、それによって意味を伝えようとするものだショットはカットインからカットアウトまでの連続するひとつの映像素材を指す。。こうした映像の全体を重視した作品に対し、ショット単体の印象が目立つ作品もあった(C、F、J班の作品が該当する)。
今回出品された構造主義映画のような作品においては、構造が映像を支配するルールとして機能するものが多く、ショットはあくまで全体を構成するための一要素として扱われていた構造主義映画が必ずそのようにショットを扱うわけではない。たとえば、構造主義映画の代表的な作家のひとりであるジェームズ・ベニングの長編「11×14」(1977年)では映画を構成するすべてのショットが素材としてではなく、交換不可能な詩の言葉のように登場する。それらは撮影対象であるアメリカ中西部の風景への作者の愛着と悲哀を感じさせる。。構造と共に映像を捉えるのは、関係性を規定するルールに従って全体を構築する建築設計を学ぶ学生にとって、自然なことだったのかもしれない。
ただし、撮影現場においては構造に意識を向けすぎると、撮影対象を見る目を曇らせてしまうことにもなる。ショット単体の印象が目立った作品にも映像全体を統合するためのシステムは存在しているが、それらを成立させることに終始せず、現場での直感に身を預けたことで、人物の動きや環境音が(時にノイズにもなりながら)周辺環境や建築の雰囲気といった言語化できない情報を有機的に伝える映像となっていた。
構造が制作者の意図によって構築されるものであるのに対し、ショットは編集によって事後的に介入できない領域である。特別なショットには、コンテクストから切り離されても見るものを引きつけてやまない魅力がある。瞬間瞬間の興味が持続し、次のショットへとバトンが渡される。全体の理屈ではなく部分の理屈によって編集が行われ、部分から生まれた興味が最後まで持続して走り抜けていくような全体のつくり方も存在する。実際には、編集によって全体をコントロールしようと部分に介入する意志と単一のショットの主張が拮抗し、全体と部分が同時に作用し合う複合体として映像が現れる。学生たちによる映像作品を見返すと、構造とショットのせめぎあいにさまざまな塩梅があることを改めて実感した。fig.1
出品作品一覧
A班「WAKU」/I班「境界」|「母の家」(RFA、『新建築住宅特集』2204)
B班「ニメン」/D班「間を歩く」|「ニシイケバレイ」(須藤剛建築設計事務所、『新建築』2108)
C班「浅草アサクサ」|「茶室ニゴウ」(G architects studio、2022年)
F班「古澤邸」|「古澤邸」(リライト_D+日本大学理工学部古澤研究室、『新建築住宅特集』1905)
G班「Rooms」|「東京大学総合図書館」{東京大学キャンパス計画室(野城智也・川添善行)・同施設部(設計監修)、香山壽夫建築研究所(実施設計)、『新建築』2103}
H班「DANCing FLOOR」|「DANCE FLOOR」(アーキディヴィジョン、2022年)
J班「Mountain Rerreat in Nasu from insect’s angle」|「那須の山荘」(miya akiko architecture atelier、『新建築』9907)