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2022.01.31
Essay

映像は建築を変えるか

瀬尾憲司

はじめに

近年のハード/ソフト両面での技術革新は映像に大きな変化をもたらした。その影響を受けたのはプロフェッショナルの映像制作者たちだけではない。これまで映像をつくる機会のなかった大勢の人びとが映像を制作するようになった。この変化は、スマートフォンやミラーレスカメラの発達によって撮影が容易になったことや、編集ソフトが身近になったことに起因する。また、それと並んで重要な要因は、インターネットやSNSの発達によって、制作者と鑑賞者を隔てていた壁が少しずつなくなりつつあることだろう。
「見る」ことは、「つくる」ことの根底に影響を与えうる。建築を描くツールとして、新たに映像を迎え入れようとすれば、建築も少なからず影響を受けるだろう。建築とメディアはそれぞれが自意識をもった互いの鏡像であり、一方の変化はもう一方へ無自覚にも影響を与えてしまう。
建築の映像を専門につくる映像作家(私はそれを「建築映像作家」と呼称している)として2017年から活動を行なってきた者として、建築映像の分野の発展およびそれが建築に与え得る影響について考察する。

建築メディアとしての映像

とはいえ、建築の映像は今に始まった話ではない。建築を対象とした記録映画や文化映画は、世界各国で映画の黎明期よりつくられてきた。しかし、こうした映像は国家やテレビ会社、映画会社などが主導で制作したケースが多く、建築家が主導で自身の作品を記録・発表する媒体として映像を用いるケースは少なかった。例外的に、チャールズ&レイ・イームズやアーキグラムのように映像を用いて作品やその思想を表現した建築家は存在するが、映像が建築の一般的な表現手法であったとはいいがたい。
近年の建築映像のムーブメントでは、建築の映像には記録性以上に作品性が求められる傾向があるように思う。建築展が以前より活発に行われるようになり、それまでは主にツールとして認識されていた建築模型に、作品としての価値が認められるようになっていったことにも関係があるかもしれない。建築家が主導で映像を制作したり、映像制作者に依頼する事例が増えたことで、映像にはその建築で撮影を行わなけらば撮れない何かが求められるようになってきている。建築映像にはまだ明確な方法論が確立されておらず、また建築を専門とする映像制作者も少ないため、発注者も制作者も手探りでさまざまな挑戦を行っている状態といえるだろう。
建築メディアには紙媒体の上で培われた文章・図面・写真による建築表現がすでに確立されている。ウェブメディアの発展に伴い、映像が建築メディアに登場する頻度が増えた今、それら3つとは異なる表現手法として何を伝えることができるのか、という問いについて考えなければならない。

建築の変化を捉える

「映画とは何か」というとても大きな問いフランスの映画批評家であるアンドレ・バザン(1918〜58年)は、この問いについて4巻に渡る書籍『Qu’est-ce que le cinéma?』(1958〜62年、Éditions du Cerf)を著している。(翻訳書:『映画とは何か』(上・下)(2015年、岩波文庫))に答えることは容易ではないが、映像表現は多かれ少なかれ、変化を描くために用いられる。多くのフィクション映画では主人公の心境の変化や、登場人物たちの関係性の変化として顕れる。しかし、建築は人間と比べて一般的に、重く、硬く、動かない、モノである。そう考えると、建築と映像の表現は一見相容れないものに思えてしまう。
しかし、見方を変えると建築は大きな変化を纏った撮影対象といえる。たとえば、建設・改修・増築・解体といった建築の誕生や成長、死に関わる物語はどの建築にも存在する。窓の開閉やエレベーターの移動といった建築機構の生む活劇、そしてそれによって生じる空間の変容は映像の見所になるだろうfig.1。時には移動する建築のような愉快な撮影対象さえ存在する。こうした建築を主体とした変化を能動的な建築の変化と呼ぶならば、受動的な建築の変化をテーマに建築を描くことも可能だ。たとえば、環境の変化(1日や1年を通した周期的な環境の移り変わり、都市・インフラなどの周辺環境の不可逆な発展・衰退)と変わらず佇む建築を対比的に描くこともできる。建築に対する人間の関わり方の工夫によって建築を描き出すような方法fig.2も存在する。こうしたいくつかの変化のパターンを組み合わせたり、その建築物固有の背景を組み込んでいくことで、その建築でしか撮ることができない映像をつくることができると考えている。
その中でも建築と人間の関わりを描くことは、今後建築映像がひとつのジャンルとして発展していくうえでは重要な課題になっていくだろう。映像の中で人間がどの程度主張する存在として登場するのか、その人間がどのような動き方をするのか、といった議論はより演劇的・映画的な演出の問題へと接続する。現在の建築写真やパースの中に登場する人間のあり方は、ニュートラルで個人の個性・表情などが印象に残らないようにつくられる傾向にあるが、建築写真の歴史を振り返ると、それはあくまで一時的な流行のようにも思える。イワン・バーンの建築写真の中に時折人物にフォーカスした写真が登場するように、ドキュメンタリーのニュアンスが強まると、人物がイメージの中で果たす役割も強くなる。この問題は映像に限らず、建築のイメージ全般に関わる普遍的な問いだ。

いつ誰が撮るのか

前述した建築映像の方向性では、竣工写真のようなある一瞬の完結した建築を表現することとは異なる建築の側面を表現することになる。そうした映像を撮るには、撮影の時期を竣工の直後に限定せず、さまざまなタイミングへと広げる必要がある。設計過程、工事中、竣工直後、使われている間、廃墟になった後、解体の風景、ひとつの建築に無限に撮影すべきタイミングが存在している。写真にもファウンドフォトファウンドフォトとは、芸術家によって発見された写真(その多くは作者不明である)を再構成することによって、作品化する手法。映画ではキャメラマンと監督(=作家)が同一でないケースが多いが、ここで述べられているケースは、作品的意図を持たない撮影者によって撮影された映像を、編集や構成によって作品化していく方法についてである。例えば、Netflix映画『アメリカン・マーダー:一家殺害事件の実録』(2020年)は、既存の映像資料の編集だけで作成された映画である。素材となった映像は、殺人事件の被害者のFacebookに投稿された映像や、現場に駆けつけた警察官らが身につけているウェアラブルカメラの映像、そして取調室や裁判所での記録映像などで、追加のインタビュー撮影や再現映像などは使われていない。のような手法が存在するように、設計者や施工者が現場記録のために回した映像や、建主が作品的な意図を持たず撮影した日常的な映像を編集することで映像作品が生まれるかもしれない。
変化を主題としたことで、撮影が1日や2日では終わらない、より長い期間の撮影を前提とした映像作品の可能性が期待される。特別な目的がなくとも、その場所で長い時間を過ごす人物だからこそ撮ることができる映像があるだろう。特別な技術をもったカメラマンの撮影によるクオリティの高い画づくりにも価値はあるが、一方で特別な撮影技術は使われていなくても、空間認識のセンスや建築的知識、その建築への思い入れなどによって裏付けられた視点によっても素晴らしい建築映像はつくり得る。従来の竣工写真的なスケジュール感や金銭のやり取りでは、到達し得ない建築映像の領域があり、そうした映像をいかにして恒常的に制作可能にしていくか、ということが今後の課題のように感じている。それは、映像制作を専門で行う者がより長い時間制作に費やせるようになることで達成されるかもしれないし、建築映像の制作がより多くの人にとって身近になることで可能になっていくことなのかもしれない。建主や建築家、写真家や映画監督などさまざまな人が建築映像をつくり、それぞれがある種DIY的に創意工夫をして、生まれる多様性に期待を抱いている。

上映空間と内容

制作された映像がどのような場所で上映もしくは配信されるのかという想定と、その映像の内容には関連性がある。1.5時間のドキュメンタリー映画と15分の短編の映像、1カットしかないGIFのようなものでは、つくり方や見せ方が異なってくる。
ウェブメディアやSNSだけでなく、展示での映像の利用も近年増えてきている。展示会場でゆっくり座って鑑賞するような場所がない場合、2、3分ほどの短い映像でないのであれば、明確な始まりと終わりのないようにしておいた方が、会場を回遊する鑑賞者には都合がよいだろうfig.3。一方で展示の中でも上映時間を明確に設定し、映画館のように身体を拘束することが可能ならば、始まりと終わりを明確につくる意義が生まれる。TOTOギャラリー・間で行われた「中山英之展 ,and then」(2019年)や「Ensamble Studio展 Architecture of The Earth」(2021年)では、上階部分をまるまる映画館のような空間に設定し、模型などのインスタレーションと映像上映を切り分ける方法が採用されている。
コロナ禍で、美術家などを支援する活動の一環やリモートでの美術鑑賞として、映像のウェブ配信を行う事例があったが、こうした映像配信に対して、展示目的に制作された映像がウェブ上での視聴には耐えられないという指摘が散見された。展示会場では、映像展示の周辺のさまざまな要素によって、映像と触れ合う鑑賞者の身体に影響を与えることが可能だが、SNSやYouTubeなどのオンラインプラットフォームでは、映像は単体で鑑賞者と対峙するため、鑑賞者の受け入れる姿勢がまったく異なっている。実際にInstagramやTikTokでは、短く、誤解が生まれにくく、好感を持ちやすい映像が溢れている。こうした現象は建築映像にとって無視できない側面である。
しかし、一方で建築にはじっと時間をかけて受け止めないと感じられないことを伝えていきたいという発信者の希望と、そうした活動を受け止めていこうという受け手の意欲がまだ残っているように感じている。そうした受け手の辛抱を助けるために映画館のような空間は、以前にも増して必要になってきているのではないだろうか。建築映像制作という活動を行ってきて、徐々にそうした需要が一般化してきた現在、私ひとりでは考えきれないこの領域について、さまざまな知見を持った識者との対話や鑑賞体験を通じて、この分野について語る言葉を増やしていきたい。そのために、建築映画祭のようなものが実現できればと考えている
fig.4

映像は建築を変えるか

本記事執筆にあたっていただいたいくつかのテーマのうち「映像は設計に還元しうるのか」という問いは、私の活動のテーマと大きく重なっていた。長期的に見れば、近年加速する映像の利用は建築に無自覚にも影響を与えていくことは間違いないだろう。たとえば、大型のコンペティションではCG映像が用いられることが多くなってきたように、設計のプロセスに映像が入り込むことで与える変化もあるはずだ。しかし、こうした状況を踏まえてより積極的に建築と映像が互いに影響を与えていくような活動ができないか、と長年考えてきた。
そうした背景もあり、2020年頃から、建築家の小田切駿とセノグラファーの渡辺瑞帆と私の3人でガラージュというアーキテクト・コレクティブを結成し、活動を始めた。コレクティブの面々はそれぞれ建築教育を受けた背景を起点に、パフォーミングアーツを通して場を興す活動fig.5、建築設計やアーカイブ・編集などを行ってきた。まだ活動を始めて間もないため手探りの部分も多いが、設計を行う際にはそれぞれの専門領域の知識経験がベースになるため、自ずと設計のプロセスに映像・演劇・編集的手法が混ざり込んでくる。
建築が始まる前から竣工以後まで、その建築を見守る立場になることで、これまでつくることができなかった建築の映像をつくることが可能になる。他方で、建築の変化のあり方を設計することで、映画・映像を誘発する空間を設計していくことも考えられる。映画・映像を誘発する建築が、必ずしも良い建築であることと同義であるとは考えていない。しかし、これまで写真を誘発する建築が設計されてきたように、映画・映像を誘発する建築を設計することで、建築の価値のオルタナティブをつくりたいと考えている。

瀬尾憲司

1991年高知県生まれ/建築映像作家・建築家/2017年に建築映像作家として独立/2020年~早稲田大学非常勤講師/2021年~合同会社ガラージュ代表/主な仕事に『Transition of Kikugetsutei』(監督・撮影、2015年) 、「菊竹清訓のこころと手の記憶」(展示内映像制作、島根県立美術館 、2021年)、「謳う建築」(展示内映像制作、寺田倉庫建築倉庫WHATミュージアム 、2020年)、「構造展 ─構造家のデザインと思考─」(展示内映像制作、寺田倉庫建築倉庫ミュージアム 2019年) など

瀬尾憲司
デザイン
展覧会
演劇
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「Transition of Kikugetsutei」(2018年)/映像制作:瀬尾憲司

「謳う建築」(建築倉庫企画、WHAT MUSEUM、2020年)展示映像より抜粋。/映像制作:瀬尾憲司

「構造展 ─構造家のデザインと思考─」(建築倉庫ミュージアム、 2019年)展示会場風景。26人の構造家に対して行ったインタビュー映像を、1、2分の短いステイトメントへと切り分け、話題が持続するように繋ぎ合わせた。展示鑑賞者に入り口が沢山与えられることで、映像の前で立ち止まる人も多かった。/撮影:瀬尾憲司

2018年ロッテルダム建築映画祭に参加した際の会場風景。/撮影:瀬尾憲司

渡辺瑞帆がキュレーション・会場構成を行なった「喜楽座の復活祭」(奈良・町家の芸術祭 はならぁと 2019年) でのパフォーマンス風景。築100年を越え廃墟となった元芝居小屋/映画館の桟敷席でパフォーマンスを行うAokid氏。/撮影:瀬尾憲司

fig. 5

fig. 1

fig. 2