ヨーロッパの「広場」、日本の「道」
かつてフランスの哲学者ロラン・バルトが『表徴の帝国』(1996年、ちくま学芸文庫)で書いていたように、東京の中心は空虚だといわれますが、ヨーロッパの都市の中心は空間的に充実していて、きまって広場がありますfig.1。そこにはシティホールや教会、カフェなどがあって、宗教や権力、自由、生活などすべてが集まっているんです。だから広場に来れば、都市の中心に来たという感覚を得られます。
ヨーロッパにおいては、古代ギリシャの時代から都市の中で広場が重要な役割を果たしてきました。たとえば劇場(theatre)の語源とされるギリシア語「theatron」は、舞台ではなく客席=人が集まる場所を指す言葉ですfig.2fig.3。舞台そのものより、集まる場所が重要だと考えられていたわけです。特にヨーロッパにおいては、都市の誕生と同時に広場という公共空間も整備されてきました。古代ギリシャにおいては劇場も広場のひとつであり、そこに建築家や舞台美術家が関わっていました。広場という公共空間から都市がつくられていたといえます。
他方で、日本の場合は歴史的に見ても広場はかなり少ないですね。もちろんいくつもの都市で広場をつくるような取り組みが行われてきたのは事実ですが、ヨーロッパのようなかたちで広場が都市の中心となるケースは少ないです。パフォーミングアーツを考えてみても、古代ギリシャでは広場から演劇が始まったのに対し、日本には広場がないので河原や路上のように誰のものでもない場所から芸能が始まっていきました。広場があればそこでマーケットが開かれたりフェスティバルが行われたりしますが、日本は道に市(場)が生まれて街のコアになり、道行きの芸能やお祭り、練り歩きも生まれています。商店街(shopping street)という言葉が道を表すものであると同時に「街」を指しているのも示唆的です。コロナ禍を経て「路上飲み」が話題となったのも、日本の場合は路上が広場のような機能をもっていることを思い起こさせられました。
広場という市民がつくった公共空間で祝祭が行われるヨーロッパに対して、日本はむしろ祝祭が公共空間を生み出しています。日本ではお祭りがあるとさまざまなものが入り乱れるし、しばしば道路も封鎖されますよね。日本の場合は「場所」ではなく「時間」が公共空間を生んでいるのかもしれません。たとえば渋谷のスクランブル交差点を思い起こしてみてもいいでしょうfig.4。あの交差点はハロウィンやサッカーのワールドカップの際に多くの人が集まることで知られていますが、あれこそが広場的な空間といえます。しかしあの交差点が広場になり得るのは、祝祭の時間だけであり、信号が青に変わって歩行者が横断歩道を渡れる時間だけですよね。もっとも、コロナ禍によってイベントが減ってしまったことで、こうした公共的な時間・空間も東京からは失われつつあります。
コロナ禍の公共空間
私は「セノ派」という舞台美術家コレクティブの一員として、2019年からフェスティバル/トーキョーで「移動祝祭商店街」という作品を発表しているのですがfig.5、その制作においても日本の公共空間について考えさせられました。たとえば2019年にパフォーマンスを行なったJR大塚駅の駅前広場・トランパル大塚は市民が10年かけてつくり上げた広場で、一般社団法人「みんなのトランパル大塚」が管理・運営を行うとても公共性が高い場所でした。ここはイベントのために占有できず、広場に集まる人びとを排除しないようなかたちで上演することが前提とされていました。そのため、実際の上演でも時間を区切ってその場を占有するのではなく、豊島区内各地の商店街でスタートする練り歩きのパフォーマンスから緩やかに広場へ人が集まっていくようなかたちで作品を制作することになりました。市民が自ら獲得した広場では、区や市が管理している公園のような場所とは異なるコミュニケーションが生まれることに気付かされました。
他方で、去年は新型コロナウイルスの影響もあり上演形態を変えざるをえませんでしたfig.6。そもそも今の東京では近隣住民とのトラブルが生じる危険性があり、公園のように不特定多数の人が集まる場所でパフォーマンスを行いづらく、劇場やライブハウスのように予め機能が定められた場所を使わざるを得ないことが多いですね。広場のように多目的な公共空間はどんどん減ってきているように感じます。
コロナ禍を経て、この傾向はさらに強まっていきました。感染予防のためには公園のように開放的な屋外の方が好ましいと思われるかもしれませんが、むしろ屋内の方が人数も制限しやすく管理しやすいとされています。結果として公園のような屋外の公共空間は使いづらく、徹底した管理のもと屋内でイベントを行うことが増えています。
ただ、屋内と屋外の境界では変化が起きてもいます。たとえば商業施設や飲食店を見ても、公開空地やテラスのように外と内の境界となるような場所の活用は進んでいますよね。企業や施設のスペースを使っているという意味では「公共」の場とはいえないかもしれませんが、個人が自分の庭を開いてあげるようにして人びとの場所がつくられていくのが、日本の公共空間のあり方だといえそうです。私が関わっている劇場でも、これまで非常に閉鎖的だったロビーを半屋外にすることで、感染対策にもなるし劇場の外と内を繋ごうとする計画が進んでいるなど、劇場のあり方も変わり始めています。
人と人が出会うための空間づくり
そもそも劇場のような公共施設は、コロナ禍以前から街に開かれていくような動きが強まっていて、芝居を観る人だけに閉ざされた場所ではなく、外部の人を呼び込むための仕掛けづくりが進んでいます。たとえば埼玉県富士見市の富士見市民文化会館キラリふじみでは、演出家の多田淳之介さんが芸術監督を務められていた時から、劇場を街に開いていくための取り組みが数多く行われるようになりました。たとえば小学3〜6年生を対象としたワークショップ「夏休みこども劇場」や多田さん自身が参加し子どもと共に演劇的なコミュニケーションを交えた遊びを行う「こどもステーション☆キラリ」、介護と演劇をテーマとしたワークショップなど、老若男女を巻き込むプログラムが多いことが特徴的です。また、劇場のカフェを用いた「ダンスカフェ」や、アーティストだけでなく地域で活動する市民も講師として招いたレクチャーシリーズ「キラリふじみのアトリエ」など、狭義の「劇場」や「舞台」に囚われないプログラムも数多く行われています。こうした動きは今後も盛んになっていくはずです。
広場がさまざまな用途に開かれ予期せぬものに出会える空間として機能しているように、公共空間としての劇場も街に開かれ出会いをもたらす場になっていく必要があります。コロナ禍を経て人が出会う機会が減り、人と人と繋ぐメディアのあり方が変わってきているからこそ、その重要性は高まっています。
歴史を振り返ってみれば、舞台美術家とは、建築や空間を通じて出会いやコミュニケーションを設計していく存在でした。私は「舞台美術家」ではなく「セノグラファー(Scenographer)」という言葉をよく使っているのですが、シーン(Scene)と同じ言葉が使われているとおり、舞台の上のモノではなく景色や情景といった「景」をつくるのが舞台美術家なんです。
シーンをつくるためには、そこで人と人がどう関わるか考えなければいけないし、コミュニケーションデザインの発想も必要となっていきます。たとえばルネサンス期は舞台美術家が軍事要塞の設計も行っていました。これは、単に要塞としての機能を設計するのではなく、それがどう見られるか設計する必要があったからです。あるいはバロック期に活躍したイタリアのジャン・ロレンツォ・ベルニーニは、彫刻家や建築家として知られていますが、若い頃は数多くの舞台美術を手掛けていて、ジャンルを問わず観客と作品、人と人の出会いを設計していたわけです。ルネサンス期やバロック期は現代ほど分業化が進んでおらず、それぞれが何らかの役割を担いながらも領域を超えて空間の設計に携わっていました。
私自身としてもそういった越境性にこそ演劇の原初的な魅力があると思いますし、プロセニアムで舞台と客席がきれいに分かれている「劇場」に囚われない自由な空間こそが、セノグラファーの活躍できる場だと考えています。特に日本においては舞台美術家が劇場の中に閉じこもりがちですが、古代ギリシャやルネサンスを思い起こせば地域や街と関わることは当たり前だったはず。舞台美術家ももっと街へ出ていかなければいけません。公共空間という点でも、日本では広場のような場所が少ないからこそ、既存の空間を街に開いていきながら、舞台美術家も建築家やランドスケープデザイナーと共に人と人が出会うメディア=場のあり方を再設計していく必要があるはずです。
(2021年7月28日、オンラインにて。文責:石神俊大)