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2021.12.06
Interview

SNSとスマホがもたらした「小さな建築写真」の功罪

大山顕

フィルムからデジタルへ、カメラからスマートフォンへ、雑誌からSNSへ──デバイスやメディアの変化に伴い、建築写真のあり方が変わろうとしています。果たして建築写真が変わることは、建築を語ることにどんな影響を与えるのでしょうか。現代の情報環境と写真の変化について論じてきた写真家の大山顕さんにお話を伺いました。(石神俊大)

情報環境が建築写真を変えた

──大山さんは、建築批評の中心ではなかった「団地」fig.1や「工場」fig.2の写真を20年近く前からインターネット上で発表されてきました。近年は著書『新写真論』(2020年、ゲンロン)fig.3などを通じて、現代の情報環境と写真やイメージの変化の関係について論じられていますが、インターネットやSNS、スマートフォン(以下スマホ)といった情報環境やテクノロジーによる建築の言説の変化についてどのようにとらえられていますか?

僕はいわゆる「建築写真家」ではなく、サブカル的な領域の写真家として1990年代後半から活動を始めました。当時はまだ建築メディアがネットに進出しておらず「ぽむ企画」や「ばかけんちく探偵団」といった個人サイトを中心に、サブカルの文脈の中で建築写真の領域が広がっていったように思います。その後、2000年代後半からSNSやスマホが普及したことで、プロではなく一般の人びとが撮った建築の写真が大量に流通する環境がつくられました。いまやほとんどの人が実物ではなくSNS上の写真を通じて建築を体験するようになっていますよね。こうした環境においては、写真を撮った人の思考を表現するテキストも合わせて発表されることが重要になると思っています。テキストと写真が一体化することで、建築写真として説得力をもつようになっているのではないか、と。

──従来の建築写真は価値中立的でニュートラルなものだととらえられることも多いように思いますが、膨大な量の写真が流通するようになると撮影者の視点や意図が問われるようになるのでしょうか。

1960年代などに撮られた建築写真を見ると、そこには作家性が感じられますし、伝統的な建築写真も決してニュートラルとはいえないでしょう。雑誌メディアに権威があったからこそ特定のスタイルがひとつの標準とされていたものの、SNS以降はイメージの総量が増えたがゆえに、建築写真の正統性が相対化されています。だからこそ、どうしてそのスタイルで撮る/語るのかが問われるようになるわけです。たとえば、SNS上の受容においては、Instagramを中心にこの3〜4年で新たな建築写真のスタイルが確立されています。「インスタ映え」を意識したエモい写真ばかり増えていくことは嘆かわしいと思われるかもしれませんが、結果として建築に興味をもつ人も増えているでしょう。SNSのおかげで建築の裾野はかなり広がったともいえるはずです。

──SNSを通じた新たな写真の登場によって、従来の建築写真のあり方も再考されていくわけですね。

大量のイメージに囲まれることではじめて、写真を見て建築を論じることが「当たり前」ではないことに気付かされるというか。いうまでもなく、写真の誕生以前から人びとは建築を論じていたわけですし、そもそも建築を語るために写真なんていらないのだと考えることだってできるかもしれません。

小さいことはなぜ問題なのか

──建築の体験や語りも多様化しているように感じます。それは建築写真や建築の言説が豊かになっていくことでもあるのでしょうか。

SNSやスマホを通じた建築写真の変化は面白いと思うのですが、総じて写真が小さくなっていることは問題です。SNS上の建築写真は基本的にスマホを通じて体験されるので、建築の体験がスマホのディスプレイによって規定されてしまうわけです。カメラもディスプレイも性能が上がっているのに、みんな手のひらの中で建築を見ていますよね。大きなものはなるべく大きく見ないと全体感とディテールが分からないので、建築雑誌の判型が大きいことは非常に重要でした。しかしスマホのサイズだと複雑な情報を盛り込めないので、ひとつの画像でひとつのことしか伝えられなくなってしまいます。空間全体のボリュームが表現できないので、パターンやテクスチャに寄った写真ばかりが増えてきている。大げさないい方をすれば、SNS上の建築体験が主流になればなるほど建築が「小さくなってしまう」恐れもあります。たとえ計画自体は大きなものであっても、小さくて「映える」要素がモザイク状に集まったものがよいということになってしまう。

──建築写真が小さくなっていくと、言説が扱える対象やその規模も小さくなっていくのでしょうか?

そうですね。キャッチーなディテールだけが注目されることで建築が雑貨化してしまうというか。とくにInstagramのフォーマットはその流れを加速させたといえるでしょう。スマホの縦長な画面は本来人物のポートレート撮影に適していて、建築を撮ることには向いていないのですが、正方形ならば真ん中に要素をひとつ置けば写真として成立する。結果としてシルエットやテクスチャだけをとらえた写真が増えていきます。

──ある面ではスマホによって建築の見られ方や語られ方が狭まってしまっているわけですね。

今後はスマホの写真でとらえられない空間性を動画によって補完する流れが強まるのかもしれません。たとえばTiktokで公開されるような短い動画クリップは、もはや写真の一種ともいえます。僕自身、学生から「なぜ大山さんは映像ではなく写真で団地を撮影したんですか?」と聞かれて、10〜20代の方々は写真と動画を区別していないことを実感させられました。いまやそのふたつはカメラのモードが違うだけであって、本質的に分かれていないんですよね。小さな画面から新たな批評性をもつ建築の撮り方を探るとしたら、動画クリップに大きな可能性があるのではないかと思っています。

──写真と動画で画面の縦横比が変わることで表現方法も変わりそうですし、iPhoneやAndroidといったデバイスの仕様によって現代の建築体験がつくられているわけですね。

恐らくスマホは人間の手のサイズを基準に設計されているので、「手」を中心に建築写真や批評がつくられていくのかもしれません。同時に、撮る体験と見る体験が一致していることもスマホの面白さですね。従来の建築写真は、カメラのファインダーから見えるイメージとプリントされるイメージを正確にコントロールしなければいけないからこそプロの技術が求められてきました。スマホの場合はファインダーではなく画面を見て撮影するし、みんなスマホで撮った写真をスマホで見るので誰もが同じ体験をできる環境がもたらされています。

──量と質の双方においてSNSが建築写真にもたらした影響は大きそうです。伝統的な建築写真の価値も変容してしまうのでしょうか?

伝統的な建築写真が失効するわけではありませんが、写真のあり方が相対化していることに対して自覚的にならなければいけないでしょう。ただ写っているものについて語るだけでなく、「写真を大きく引き伸ばさないと分からないことがある」こと自体についても論じる必要が生じています。他方で、SNSが主流になっているからこそ従来のメディアが価値をもつ側面もあるんじゃないでしょうか。たとえば僕が個人サイトを運営していたころは写真をアーカイブすることが重要でしたが、SNSの発達以降はすべてのイメージが流されていくようになりました。そこで流通する写真の多くは一瞬のインパクトがあって広がるものであって、ストックされていかない。批評の基本は繋がりや比較にあるわけで、きちんとアーカイブをつくっていくことは今なお大きな価値があると思います。

建築写真の広がりと可能性

──近年は写真だけでなくCGのイメージを通じて建築が紹介されることも増えているように思います。

CGの進化は面白いですね。僕は東京の都市開発をまとめた『東京大改造マップ』(日経BP)のために5年ほど工事現場や完成したビルの写真を撮っていたfig.4のですが、もはやそこで掲載される僕の撮った竣工写真とCGの竣工イメージの区別がつかなくなっています。CADがない時代の建築はスケッチ・図面・パース・竣工写真と各フェーズにおいて異なるビジュアルが生まれていましたが、今は計画も見積もりも構造計算もデザインも地域住民への説明も、すべてCGをベースに進んでいます。

──CGデータならさまざまな角度から見たイメージも無限に生成できますし、写真より表現の幅も広がるようにも思えます。

スナップショットだけでなくムービーをCGからつくることも増えていますし、なかにはドローンで撮ったように見せるものもありますからね。これだけ精巧になると、CGデータはただ「建っていない」だけで実際の建築とほとんど相違ないとも言える。多くの人が現地の実物ではなく写真によって建築を体験しているなら、必ずしも実際に建てられていなくてもいいのかもしれません。他方で興味深いのは、藤本壮介さんや隈研吾さんをはじめとする著名な建築家がつくる建築は、竣工CGと一般の人が撮った写真のアングルが重なることが少なくない、ということです。建築家が「ここから見てほしい」と思うアングルが「インスタ映え」とも一致しているわけで、アイコンとなる建築にはそんな視点が織り込まれているようにも思います。インスタ映えを前提とした設計が行われるようになっているとすれば、SNSの下で建築が民主化されているともいえそうです。

──他方でCG技術の発展という意味では、ザハ・ハディド・アーキテクツがゲーム「PUBG」とのパートナーシップを発表するなど、建築とゲームの距離が縮まってもいます。

仮想空間内の建築の可能性は1980年代から語られつづけてきましたが、ついにゲームの中でそれが実現するわけですよね。本当に建てる必要がなくなりつつある。最近は重力などの物理演算もかなり正確ですし、Unreal EngineやUnityといったゲームエンジンは実際に建築の世界でも使われていると聞きます。世界でいちばん多くの人が見た「ザハ建築」がゲーム内の構造物になる日も遠くないかもしれませんし、ゲームの場合は建物の屋上に登ったり梁を使って移動したりこともあるので「あのザハ建築の屋根は登りやすい」といった新たな建築体験の語られ方もあり得るかもしれません。建築がデジタル化され仕事そのものが高度に情報化されていったことで、今後もゲームをはじめさまざまな領域へ建築が広がっていくのでしょう。

──写真やメディアのあり方が更新されていくからこそ、従来のスタイルの価値が新たに発見される可能性もありそうです。

そうですね。情報環境や人びとの体験の仕方だけ見るともはや実際に建てなくても建築は成立するのかもしれませんが、現実的な予算の折衝やスケジュールの調整を経て物理的な構造物を建てることは非常に尊いことだと思っています。台風や地震に耐えられることや、その土地の地形や気候に応じて持続性のある建物をつくることはすごいことですよね。建築業界の人にいわせればそんなことは当たり前なのかもしれませんが、人間がコントロールできない自然に対して折り合いをつけていくことこそが最後まで建築に残る尊さなのだと感じます。建築批評も、自然のままならなさや折り合いのつけ方をもっと語っていいと思うんです。僕自身も、写真家としてはその折り合いをつけるかたちを撮りたいですから。SNSやスマホによって建築の語られ方が変わっていったことは事実ですし、その変化自体は非常に面白いものでもありますが、このままでは建築写真も批評も小さくなってしまう危険性を孕んでいる。物理的に構造物を建てることの身も蓋もなさをとらえなおすことにこそ、新たな建築写真の可能性があるのかもしれません。

(2021年10月22日、オンラインにて。文責:石神俊大)

大山顕

1972年生まれ/写真家・ライター/千葉大学工学部卒業後、松下電器株式会社(現 Panasonic)に入社/シンクタンク部門に10年間勤めた後、写真家として独立/主な著書に『団地の見究』(2008年、東京書籍)『新写真論』(2020年、ゲンロン)『工場萌え』(共著、2007年、東京書籍)『ショッピングモールから考える』(共著、2016年、幻冬舎新書)など

大山顕
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豊成団地(愛知県)/撮影:大山顕

川崎 浮島(神奈川県)/撮影:大山顕

『新写真論』(2020年、ゲンロン)

MIYASHITA PARK(東京都)/撮影:大山顕

fig. 4

fig. 1 (拡大)

fig. 2