今、行きたい場所は世界中に数えきれないほどあるが、コロナ禍の現在は移動制限が続いているので、旅に出られなくなっている。毎日のようにネットやテレビのニュースで世界各国の一日の感染者数が報道され続けていて、そのニュースに触れれば触れるほど世界が遠のいていく感覚に襲われる。時間をかけてどこかへ行くこと、画面越しではなく直接誰かに会ってその人間性に直に触れることが、これまで以上に大きな生きる力になると思う。そして私が今、コロナ後にもう一度行ってみたいと思いを馳せているのは、学生の頃に行った東北への旅だ。1972年の秋に古い民家を訪ね歩いた建築への旅を、もう一度体験したいという思いが募っている。
1971年、大阪では中之島の開発構想が打ち立てられ、日本銀行・大阪市役所・府立図書館・中央公会堂などを取り壊し、新しい高層建築をつくるということが発表された。私はその計画に反対し、保存運動を仲間と立ち上げた。その市民参加型の保存運動は「中之島まつり」というかたちで今も続いている。そうして中之島は生き残ったのである。
1970年代というのは建物がどんどん建て替えられていく中で、街並みを残していこうと全国的にも保存運動が盛り上がっていた時代だ。私も大学の研究室で宮脇檀さんや伊藤ていじさんの集落実測調査・デザインサーヴェイの図面を何度も何度も見ていた。それと同じく当時私の心を強烈に揺さぶったのは『日本の民家』(二川幸雄 撮影、伊藤ていじ 文、美術出版社)だった。この本は1957年から1959年に出版された全10巻で、これを食い入るように見ていたものだ。それでこの本に載っている民家を自分の眼で時間をかけて見に行くということを私の生きる上での指針と定め、まず訪れたのが東北だったというわけである。
岐阜県大野郡白川村の合掌造りの民家、高山市の日下部家住宅と吉島家住宅、そして足を延ばして福島県会津若松市の会津さざえ堂と新宮熊野神社長床、さらに当時の国鉄会津線に乗り換えて南会津に集落として今も息づいている宿場・大内宿。日程は14日間で、電車とバスを乗り継いでは歩くということを繰り返し、最後に国鉄の周遊券で大阪まで帰ってくる1人旅だった。fig.1,2
旅は目的地に向かって進んで行く途中の行程が醍醐味だと思っている。目的地への道中で衝撃を受けることが大きいほど、自分が変わっていくのが分かる。訪れた場所での体験は、自分にとってのベースとして蓄積されていく。建築であれば、実際に見たか見ないかは、本などで得た知識とは確実に違う。街中での体験もそうだし、自然環境での体験もそう。すべてのことは自分が身体的に経験しなければ、実は真に判ってはいないのである。その場所に立って空気を感じとる、ということから始まるのではないだろうか。
私が圧倒的に惹かれるのはやはり時間の蓄積を内に孕んだ建築だ。新しい建築がもちえない熟成した佇まいは、その場所で生活を重ね季節を繰り返していく間に、木の肌が磨かれそれぞれのテクスチュアがつくり上げられていくことによる。そのような、人びとに使われ続けている建物に強い魅力を感じるのだ。
高知県の「藁工ミュージアム アートゾーン藁工倉庫」(2011年)、広島県の「鞆の津ミュージアム」(2012年)に続く、無有建築工房としては3作目になるアールブリュットの作品を展示する美術館が2014年に開館した「はじまりの美術館」であるfig.3。3館とも地域に古くから建っていた蔵をリノベーションして美術館として再出発した。
2010年、リノベーションするための候補として挙がった蔵は、約120年前に建てられた酒蔵で、桁方向に梁が十八間(約33m)の長さをもっているためfig.4、地域の人びとから「十八間蔵」と呼び親しまれていた。しかし、2011年3月11日の東日本大震災を受け、建物が大きく破損し半壊の状態になってしまったfig.5,6。そこで改修を諦めて蔵が滅びてしまうと震災のダメージという負の感情だけが残り、復興への炎が消えてしまうのではないか、そして瀕死の状態にあるこの蔵は移築するのではなく、どうしても同じ場所で再生する必要があると感じていた。地域に馴染んでいたというのもあるが、建築とはそのものだけでは成り立たず、まず場があり、その土地の材料があり、その土台の上に地域ごとの特徴をもって建ち上がっていくものだからだ。そのためには知恵と技術をもった大工の力を借りる必要があった。そこで請け負ってくれたのが、根本一久氏率いる古来の技術と現代の技術を併せもった会津の大工たちだった。
再生にあたり、前もって交換を要する材の箇所数を調査し、冬期に山から丸太を伐り出して準備した。傷んだ材は一旦取り外して加工場へもち帰り、再利用できるものは金輪継ぎで新しい材を継ぎ足し、仕口の部分を再生して、再度現場で組み上げていき120年前の本来の軸組の姿に再生したfig.7,8。また冬期における美術館の利用や作品保全の必要性から、土壁や土屋根ではなく、気密性を高めるために高性能断熱材を用いた通気工法を採択し、温水式暖房設備と調湿外気処理機による安定した快適な室内環境を構築した。
蔵には沈黙する美がある。新しいものと古いもの、不揃いな素材の「違い」を受け容れ、以前から存在した空間の質、まちの人の想いを受け継ぎ、それらを包み込む大きな物語の中で従来の枠組みを超えた新しい美術館が生まれた。美術と建築が社会の中で必要とされ、何かが「はじまる」ことが復興への第一歩と考えているfig.9。
大阪府南部・堺市から高野山へと続く下高野街道沿いに位置し、残された民家が点在する旧集落の中にこの建物は存在する。築約130年の既存の民家は、生活する人数に応じて時代ごとに度重なる増改築が繰り返され、快適な生活を送るには住みにくい家になっていた。次の世代にこのままの状態で引き渡しをするのではなく、新しい部分と古い部分をうまく組み合わせて、これから先、時代を超えて住み続けることのできる快適な住まいをいかにつくるか。そんな思いからこのリノベーションは始まった。
まず耐震を中心とした建物診断を行い、建物のカルテを作成する。そして増改築部分を減築し、一度もとの状態に建物を戻して耐震補強を施すことにした。母屋の正面に増築された応接間は解体撤去して、元々あった広縁に改修し、後年足された水回りを取り除くことで、建物間の風通りをよくしていくfig.10。柱脚部には耐震補強を施し、屋根瓦の土を取り除いて重量を軽くして瓦の葺き替えをするfig.11,12。それにより、土間・座敷をもつ母屋は耐震性を備えつつ、昔ながらの生活様式を受け継ぐかたちで、民家がもつ本来の構えを取り戻すことができた。そこへ新たに別棟を建てることで、母屋を中心に新しいものと古いものが対峙する中庭をつくった。
古いものと新しいものが同じ時間軸の中で繋がり、時を超えて新しい生活の場を生み出す。ハレとケをもつ新しい住まい方の提案ができたように思っているfig.13。
写真が切り取る情景が強烈であればあるほど、その場所へ行ってみたいと思う気持ちがエスカレートする。私を旅へと向かわせた写真たちとの出会いから20年程が過ぎ、40歳までには掲載されていたもの以外にも日本の代表的な民家をほぼ見終えた。中には何度も訪れたものもある。それらは「見る」という行為を超え、何度も体感することで自分の身体的な感覚に落とし込まれているものもあり、私の設計活動の礎になっている。
それからさらに30年経った今、古い民家は取り壊されたものや焼失したもの、あるいは大きく改造されたり、違う場所に移築されたりしたものが余りにも多く、今一度、現地に赴き時間経過を確かめたい思いが募るばかりだ。時間をかけてつくり上げてきたものが必要とされなくなったとしても、その命を止めることがただひとつの選択肢なのではなく、リノベーションなどの手法を使って生まれ変わらせることを試みる必要性を強く感じている。
民家探訪の旅はその家の文化と歴史に触れることであり、その土地に根付いた空間の質や佇まいといった数値化できない価値を体験させてくれるのだ。
関連著書
『無有』(2007年、学芸出版社)
『いきている長屋──大阪市大モデルの構築』(共著、2013年、大阪公立大学共同出版会)
関連作品
豊崎長屋(2009年)
豊崎長屋(南長屋・北終長屋)(2012年)
北余部の家(2010年)
藁工ミュージアム アートゾーン藁工倉庫(2011年)
鞆の津ミュージアム(2012年)
一保堂茶舗京都本店(2012年)
はじまりの美術館(2014年)
大津百町スタジオ(2016年)
商店街HOTEL 講 大津百町(2018年)
旧古河屋別邸(護松園)保存修理・活性化事業(小浜市)(2022年3月竣工予定)