数寄屋にしろ茶室にしろ、遊びの心がないとよさはわからない。もうひとつ時代の心、これも必要だ。
時代の心とは、昔々のある時代へ、時間をこえて遡る能力だ。その時代、人びとはどんな住宅に住み、どんな生活をしていたか、それを考えることのできる心が必要なのだ。
われわれは、現代の感覚でしか昔々のことを考えられない。しかしこれは危険である。たとえば明るさ。夜は現代では想像もできぬほど暗かった。だから、わずかの明かりが有効だった。明かり、光、これを現代人以上に大切にした。これは夜だけの問題ではない。茶室がなぜ光を大切にするか、それは、光が客人に対するごちそうだったからだ。わずかな光を大切にし、光の取り扱いに工夫を擬らし、光の面白さを楽しんだ。これがそのまま遊びの心につながる。
数寄屋も茶室も、そうした遊びの心に支えられて成立した。
時代の心は歴史の心、遊びの心は設計の心。
さて、両者を探しに、茶室や数寄屋を訪ねてみることにしよう。時代の心の中には、当然ながら現代の心も入る。現代の建築家の設計したものの中にも数寄なる心がある。それも念頭に置きつつ、数寄空間を見ていくことにしたい。
まず今回は孤蓬庵忘筌を訪れよう。この茶室は、茶室らしくないところが特色だ。面をしっかり取った太い柱、柱をつなぐ長押、柱と長押の取り合わせ部分に打たれた針隠、そして12畳という広さ、1畳のどっしりした床、これはみな書院造りの意匠で、茶室というより座敷の雰囲気だ。でも、忘筌は茶室である。かの小堀遠州ゆかりの、しかも実に大胆な、斬新なデザインをもつ茶室である。
忘筌に入り、茶室の常道に従って床に向いて座った人は、背後から来る光に気付き、振り返るにちがいない。いや、多くの人は、ここへ入った途端、床の反対側の大胆なデザインに目に奪われるだろう。
縁先に中敷居を入れ、上を障子で隠している。中敷居の下は吹き抜きである。吹き抜きのところが、外を見せる画面になる。画面の大きさは390cm×83cmほど。画面中央近くに石燈籠、その右手前に石の手水鉢、両者の向こうに植込みが見える。外の景色を画面の大きさに切り取って見せている。
燈籠も手水鉢も高さを低く抑えている。画面の中でのおさまり具合を意識してのことだ。中敷居上の障子は、西日を遮る役目も果すが、最大の役目は余分な景色を隠すことだ。客人の視線を下方へ限定するために上を隠す。上を隠して下を見せる。隠すことが見せることにつながる。
この意匠は小堀遠州によるものである。孤蓬庵は、1612年(慶長17)、遠州によって大徳寺龍光院の中に創立され、1640年代はじめ(寛永末年ごろ)、現在の地に建てられた。遠州晩年の作である。世に遠州作とされる建物は多いが、伝承にすぎぬものがほとんどで、これは貸重な例である。もっとも当時の建物は1793年(寛政5)に焼け、現在のものは 1797年(寛政9)の再建だが、焼ける前の様子を忠実に再現したことがわかっている。遠州のデザインをわれわれも見ている。
景色を切り取る画面になるところは、茶室へ外から入る場合の入口にもなっている。中敷居までの高さは土間から139.3cm(4尺6寸)だから、身をかがめなければ入れない。茶室の潜りの趣向である。縁先に置かれた手水鉢は「露結」との文字を刻んだ正面を縁に向けている。縁から見るように、そして縁から使うようになっているが、縁と同じくらいの高さだから、使うときにかがまなければならない。室内から先に述べた画面を見たとき、この高さがふさわしいのだが、同時にまた、使うときに蹲踞の風情になるようにしてもあるわけだ。
外から飛石伝いに導かれ、潜り、あるいは躙口の趣向になっている入口から入り、縁先の蹲踞として手水鉢を使う。すべて草庵風茶室の手法を巧みに取り入れた設計である。室内が座敷風の意匠なのは、禅宗の方丈形式の客殿に接続する一室だからであろうが、客殿から入ったとき異和感がないようにした一方、草庵風茶室の風情も十分に感じられる演出になっているのはさすがである。そしてそのような演出の中で、もっとも傑出している意匠が、景色を切り取り、余分なものは隠すという意匠である。
この意匠は現代にも通用する。黒川紀章が現代建築の中に手水鉢などまでそっくり再現させた(『新建築』8804「朝霞荘」)fig.2のはいわば直喩で、さすがにこの例は少ないが、意匠の精神を受け継ぐ設計は数多く見られる。隠喩を取り上げればきりがないが、安藤忠雄の「小篠邸」(『新建築』8106)fig.3の壁面にあけた低い窓はその優れた例だろう。余分なものは隠し、見せたいところに視線を導く。これは、考えてみれば、デザインでは常套手段のひとつだ。問題は、成功するかどうかである。忘筌は、そのようなデザインの真髄を、現代のわれわれに示している。
(初出:『新建築』9104)