今、大学の建築教育の現場では、どのようなことが起こっているのだろうか。
圧倒的な変化は女子学生の急増現象であろう。たとえば、東京藝術大学建築科の場合、15名定員が、2000年に入り、女子学生の数が急に目に付くようになり、2004年で男女比が10:5、2005年で男女学生がほぼ同数(8:7)、2007年になり男女比が逆転(6:9)した。これは藝大建築科100年にあって未曾有の事態と言ってよい。「建築を学びたい」、「建築と向き合う仕事に就きたい」という女子学生が増えてきたのである。何もこれは藝大だけの現象ではない。多くの建築学科に見られる現象として急速に事態が進行している。こうした女子学生優位の中で、学生の建築を巡るコトバに異変が生じてきている。コトバは発想の根拠になるものだ。
極私的コトバと詩的コトバが横溢しだし、コトバが総体的に軽くなってきた。恐らく、これには心底教師たちは戸惑ったと思われる。明らかに不快と困惑が生じていた。極私的コトバの代表が「力ワイイ」である。このような「軽いコトバ」は教師に対して、学生たちの課題・作品を自らが説明を拒否する絶対言語として映ったに違いない。それまでのコトバは観念的なコトバも使われたにせよ、理性による合意形成型のコミュニケーションに依拠するものだった。ところが、これらの軽いコトバは感覚共有型のコミュニケーションの上に成り立つものなのだ。だからこそズレが生じてくる。建築の理解を支えてきたコミュニケーションが変わり始めてきた。
このあたりの事態を伝える場面がある。江頭慎さん(ロンドンAAスクール ディプロマユニットマスター)は藝大大学院の合同講評会に招かれて驚いた。学生の作品説明のうちから「クエスション」がまったく聞かれなかった。あるいは感じられなかったと言う。それはそうだろう。AAスクールでは社会と建築・都市との関わりの中で、絶えず「ナゼ?」「ドウシテ?」というプロブレムを引き出す建築への基本態度を徹底的に指導している。江頭さんの動揺をよそに、学生たちの対応は「私はこういう建築がつくりたかった」という極私的発想が多かった、と言う。
「デモネ、エガシラ君」と私は言った。「こうした態度が日本の建築を少しでもよい方向に変えていくエネルギーになるかもしれないヨ。」
今の学生たちは、実感を伴わない頭でっかちな発想よりも、身近で身の丈の発想をとる傾向がより強い。「建築」を通して、人と共感し、繋がろうとする可能性を探しているように思える。そうすると、「軽いコトバ」の内に潜む、こうした学生たちの発想に向き合える指導力が必要となってくる。今、問われていることは、カワイイを代表とする「軽いコトバ」の時代の建築教育とはどのようなものなのかということではなかろうか。学生の資質をつぶしてはならない。何よりも学生の資質を社会との繋がりに目を向けさせ、伸ばし、新たな建築なるものへと指導することが建築教育に強く求められてくるのだろう。「軽いコトバ」に教員がむやみに苛立つのではなく、「軽いコトバ」が担保する「重い意味」を感じ取り、育て上げていかなければならない。社会に向き合う場として、都市のサーベイ、建築のワークショップ、地域でのアートワーク、開かれた自主ゼミの実践、インターネットによる建築への関心醸成など、いわば建築の社会化(建築が社会に受け入れられていく道筋づくり)へ学生を自覚的に導くことができる、新しいタイプのプロフェッサーが望まれる時代にきたのは確かなようだ。
(初出:『新建築』0712)