新規登録

この記事は下書きです。アクセスするログインしてください。

2022.05.27
Essay

世界の縮図を記述する

小白倉集落のワークショップとロンドンのデザインリサーチを通して

江頭慎(AAスクール)

*本記事は『新建築』2017年12月号に掲載されたものです。

新潟県十日町市白倉地区

十日町市が小国町と接する山間部を流れる渋海川流域に点在する集落には、昔ながらの美しい農村風景が、あたかも昭和のアルバムから一部切り取られたかのように現在でも残っている。白倉地区(5.6km2のエリアに大白倉集落と小白倉集落のふたつの集落がある)はその流域のいちばん北端に位置する。日本海側から国道と県道を通り十日町の市街地に向かう際に、平地に広がる水田風景からスギの木が茂り立つ山の風景に変わるあたりでトンネルを抜け、橋を渡り、最初に現れるのが小白倉集落である。神社を中心に寄り添う中門づくりの民家とその周縁に広がる急な山並みの谷間を縫うように刻まれた棚田の様子が、車窓から垣間見られる。大陸からの砂塵を含む風が日本海の湿気と混ざり、当地の山岳地帯の冷たい空気に触れるこの地域は豪雪地帯として知られ、冬の期間には家や車が潰されないように雪下ろしの作業が必須となる。また当地の土壌は粘土層の上に成り立っているため、かつては手掘りの造成により、切り立った地形の中に水路と棚田、そして横井戸など、言わば稲作の生産システムに基づく手づくりのランドスケープを、数百年の間守り続けてきた歴史もある。豪雪と地滑りなどの厳しい気候と地理条件に逆らわず、時にはそれらを利に変える知恵と技術がこの集落の大地のディテールや建物の細部に見られるのである。住民全員がまるで家族のように共同体として生き生きと暮らす様子を知る者にとって、白倉のコミュニティには、今日頻繁に使われる過疎、あるいは限界集落といった無機質、無責任な現象表記を、何の抵抗もなく無視できるような快活さえ感じさせられる。
しかし実際のところ、人口の縮小に伴う変化とは人が歳を取っていくのと同じようにゆっくりと確実に訪れるものである。小白倉集落のようなところでも、ある時ふと気が付くと、その風景から茅葺き屋根が消えてトタンで覆われ、山の色合いが褪せ、家の数や、畑、棚田が、それこそいつの間にか違う風景に置き換えられているのである。それは身近に空間を共にするもの同士、誰もが生活や経済活動を共有する中で経験される普通なことのようにも取れよう。その一方では、何か大きな力により回避不可能な社会的変容を強いられ、多くの純粋で無防備なものに対する共感ともどかしさのようなものを覚えさせられる。
1996年に新潟県から紹介を受け、旧川西町役場の地域開発課の方たちと渋海川流域のコミュニティを回ったことを機に、このエリアでしかできないユニークなワークショップのあり方を思索し始めた。住民全員が子ども時代を一緒に過ごした白倉小学校が閉校となった1994年からちょうど2年目を迎えた当時、まだ各教室には子ども用の椅子とテーブルが並ぶこの学校を拠点にして、夏のワークショップの活動を開始し、今年で21年目を迎えた(『新建築』0906)。
現在、ロンドンのAAスクールとイギリスおよびヨーロッパの大学の学生たちに加え、世界各国から毎年25名程度の学生が、夏休み期間を利用して8月後半から9月初めまでの3週間、自主参加で集まってくれている。デザインサーベイの作業と並行して、バス停fig.1、展望台fig.2、水飲み場fig.3、東屋fig.4、農村公園、空き家の改修fig.5といった共同制作活動を通じ、地元のコミュニティと活動を共にすることや、既存の場所と空間を応用し地域内外とのコミュニケーションやイベントを計画し実行することも、大切な活動となっているfig.6。毎年、ワークショップの最後の週末に行われる地元の伝統行事である「もみじ引き」という奇祭では、地元の住民と、年齢も肌の色や背丈も異なる学生たちが一緒になって、山から紅葉の木を切り、かつぎ出し、酒、唄、食を共にしながら無礼講に水をかけ合い、集落内を1日中引き回すfig.8fig.9fig.7。その様子は一見不思議であるが、とても自然な風物詩として定着している。現在、集落の人口が100名に満たないが、「夏の時期だけ人口が増えて平均年齢が低くなるね」という具合に住民が冗談を飛ばすことは頻繁である。これまで現地を訪れた延べ600人の参加者の国籍の数は50カ国以上である。

ワークショップ

一般的に「ワークショップ」という言葉が示す手段や目的は、今日とても多様に普及しているが、まずその起源として理解されるコンテクストから、本来の意図を再確認してみたい。建築分野でワークショップという言葉が現れたのは1960年代のアメリカ、サンフランシスコである。そのパイオニアとして挙げられるのは、ランドスケープ・デザイナーのローレンス・ハルプリンと、当時の前衛の舞踏家アナ・ハルプリンである。彼らはカリフォルニア北部にて、職能の枠にとらわれず専門領域を超えることで可能となる実験的共同作業を念頭に、既存の環境に対する創造的新解釈を試みたのである。パフォーマンス、建築、ランドスケープ、環境デザイン、現代美術とのコラボレーションを介するその理念と手法は「RSVP Cycles」というワークショップメソッドの発端に至ったと説明されている。

Resource(資源):プロセスに有効に作用するいかなるものや事象。たとえば、時間、材料、他人、知識、あるいは規定や条件
Scores(総譜):開かれたスケールと閉ざされたスケールの間の調整基準を持った譜面あるいは計画図
Valuaction(価値評価):活用度と応用可能度に応じた価値設定基準
Performance(実行):物事に変容をもたらす、あるいは人の行動を促す契機

RSVPの4つのカテゴリーの中には、入れ子状にサブカテゴリーが含まれ、すべてのカテゴリーの間には特定の順序は存在せず、有機的に継続性を持って繰り返されるサイクルであると説明できよう。
この「RSVP Cycles」が発端となり、ワークショップという言葉は、コミュニティ参加型のデザイン手段、あるいは多様な専門知識が必要とされる社会環境や自然環境に関する調査の方法として一般的に広がっていったのである。一方で、コラボレーションという概念から、アメリカ全域におけるリベラルアートの流れを背景として見ると、東海岸側の実験的な学校として知られたブラック・マウンテン・カレッジから輩出されたロバート・ラウシェンバーグの活動なども興味深い共通点が指摘できよう。またオープンプラットフォームとしての特色を持つワークショップとは対照的に、タリアセン・ウェスト(フランク・ロイド・ライト、1923年~)、アーコサンティ(パオロ・ソレリ、1970年~)などの、砂漠や辺境といった外部から直接の影響を受けない特殊な閉ざされた環境内で、実験的活動を建設の現場と見立てることで、日常から断絶したヘテロトピア的に、ある種の学校を開設した事例も興味深い。いずれにしてもこれらの動きは、当時の建築家やランドスケープ・デザイナーが、その職能の中に社会的な役割や実験性を追求した際、必然的に求められた結果であったとして理解できないだろうか。言葉を変えれば、ワークショップは社会現象の中に隠された事実を、分野を超えて共有するためのデザイン作業と調査が同時進行する現場であり、また一方で実験的な作業に必要な十分な時間と空間、自由な場所、そして道具と知識を共有するための手段とプロセスとしても理解されよう。そこにハルプリンがワークショップの可能性を見たと言えるのではないか。
「ランドスケープ」という言葉は、事象としては地形や自然の景観を、造園や建築計画においては外構や歩道、公園などの緑地のデザインを示すことが多い。しかしハルプリンはさらにそれを、多様な関係性の上に成り立つ環境を総合的に捉えて説明する観念として提唱したのである。その中には、都市、自然、生活様式、経済活動や社会現象なども含まれる。つまりランドスケープとはデザインするものではなく、それ自体を観察し解析して、そこからさまざまな関係性を引き出していく対象として理解できよう。たとえば、自然環境調査、あるいは経済分析、無形文化財的な価値の基準設定作業や、フィールドリサーチや実験的試作といった、時間のかかる仕事を、デザインのプロセスに取り込んでいくこと。それらが今後ますます必要になっていくように感じられる。

白倉をローカルとグローバルなスケールから見る

白倉地区にてワークショップを開始した1996年当時の東京の様子を思い起こす時、それは不自然なほど急速に肥大化した都市の姿として現れる。地価の高騰に伴い乱立する商業建築群に都市が飲み込まれる様子には、現代建築の流れをスタイルとして伝承してきたかのような東京の姿が見て取れよう。アメリカ西海岸のハルプリンやロバート・ヴェンチューリ、デニス・スコット・ブラウン、そしてコーリン・ロウらに呼応したかのように、1970年代の東京において、メタボリズムに疑問を抱いた多くの若い建築家たちは、社会性を強く意識した都市の住宅論や考現学的視点、あるいはバナキュラーなものやシビックスペースを再考をしたのである。しかし当時生まれ出たそれこそ今読んでも価値の高い議論の多くは、その後20数年の間に建築の流れがポストモダン、そしてデコンストラクションへと移行していく中で、いつの間にか消えていくのである。その時代背景には、世界中の都市をネオリベラルな方向へと加速させる、経済のランドスケープが見て取れる。
私は1988年に東京を離れロンドンに渡航し、1980年代後半から1990年代半ばまで続く東京のバブルエコノミーと呼ばれる時期を、それとはまるで反対の不景気な状況にある都市、ロンドンで過ごすこととなった。この時期のロンドンは、建築の実務的物件の稀少さを埋め合わせるかのように、都市に対する興味と議論に溢れていたのである。時折ロンドンから東京を訪れる時に見られる華々しい建築に対して、ある種の羨ましさを感じる一方、多くの疑問も沸いた。余るほどの建築学校が市街地に集中する一方で、なぜ建築家の知識、技術、感性が真に役立つ場所に限って、建築家が学びの場を求めないのか。またコンテクスチュアルな言語とデザインアプローチ、すなわち場所性や社会状況のマッピング、歴史的文脈の解釈や社会現場に直接関わり合うための手段や手法、建築以外のものに働きかけるために真に役立つ知識や経験といったものを当の学校教育で教えていないのではないか、と感じたのである。
1996年、ワークショップを開始するにあたり、私たちなりにもResource(資源)という観点で白倉地区に対する理解を深めることから、Performance(実行)の枠組みと計画内容を考え、建築教育とデザインリサーチの手法、そして小白倉集落とその周辺のランドスケープのRe-Valuaction(価値再評価)を試みるためのScores(総譜)を想定した。
教育環境の大切な役割は、その内部に家族関係や社会関係、さらには世界の構図を模した人間関係を持つモデル環境であることで、人はそこで育成され、外の環境や社会に巣立っていく。ワークショップでの経験は人間関係だけではなく、草の匂いや虫の声、山の色合い、住民の表情などを含めて、参加者の身体に記憶された白倉のランドスケープとして世界中に伝達されるのである。最近ではここでの経験をもとに世界のほかの地域でワークショップを始めた卒業生も少なくない。今後これらのワークショップとも連携したネットワークを形成して、ローカルとグローバルの両側面のスケールを持った活動を実践したいと考えている。そこでは、普段、都会で机上の約束事にこだわりながら、限られた時間内で無駄なく物事を完成させるための建築トレーニングとはまるで正反対の教育活動、すなわち、実際にものの感触を自らの手で確かめ、大地の表面を刻み、丁寧にものを立ち上げる作業や、建物や地面の表層に歴史を読み取るといった作業、また風土や環境の特性の経験や、言葉、年齢、文化のまったく異なる生活環境、風習のきわめて異なるコミュニティとの対話などが可能になる。これらが建築をつくる行為や自由奔放な建築的表現、社会的テーマに基づく実験的活動を意味することを願いたい。

世界各地に共通する都市と地方の構図

グローバルな視点で見ると、白倉地区のように経済変動に大きな影響を受けている集落やコミュニティは、日本のみならず世界中に共通する社会現象としても理解できる。ポルトガルとスペインの国境沿いにあるワインの生産地の農村集落、中国福建省永定地区の客家コミュニティ、東京のニュータウン、上海のアーバンビレッジ、香港のカオルン北部の工場地帯、北アメリカのデトロイト、ニューヨークやブルックリン……など、近年私が関わってきた世界各地のフィールドリサーチでは、一種のじれったさのような共通した感覚、言葉や価値基準や都市が蓄積してきた歴史の差異を超えた、地球規模の大きな波に対しての無力感、さらには一種の危機感さえ持つ。それらは異質なものが消去される際に現れる都市の残像であったり、時として異常なほどに鮮明な社会的コントラストを映すかのような情景である。社会構造の政治的再構築、多国籍企業化する国際経済のシステムなどがもたらす情景だと説明することもできよう。しかし、例に挙げた都市に多く見られる歴史の断片となった下町や工場跡地の風景、都市から隔たりを持って閉ざされがちな残余空間などを、懐古主義的価値観を持って見ることで、都市と地方が共通に抱える根底にある課題を見過ごしてしまうことは避けるべきである。
ここで再び白倉の位置する渋海川流域に戻ってみたい。このエリアの集落のほとんどは、1960年代に始まる第一次の都市への人口集中に伴った人口流失は見られなかったという。それが顕著になるのは、1980年代終わり頃からで、加速し始めたグローバルなシステムへ世界経済の体制が移行する時期と重なる。言わば、社会の大きな変化にさまざまなシステムが対応を試みる中で生じる歪みが視覚化される際に、地方においては過疎化として現れたのである。しかし、それを地方における問題として捉えることは本質的なことから目をそらせることである。都市、地方経済、産業を個別に比較するのではなく、すべてを大きく複雑なシステムの細部として捉えなくてはならない。
これらの末端で起こっているさまざまな事象や現象をありのまま映し出し、巨大な不可視なる世界の動向が社会空間に及ぼす関係性を記述する作業が、建築家の仕事であると解釈する時、私たち建築家が意識を持って関わる対象とはさまざまな歪みの部分である。いわゆる干渉状態にあるような環境にこそ、建築家の役割と建築の意味が見出されるのではないだろうか? 地球規模の環境をハルプリンが言うようなランドスケープとして捉えるには、衛星写真のような大きな視点と、顕微鏡で地球のテクスチュアを探るようなマイクロスケールの視点が役立つのではないか。

均質化へと向かうロンドンの変容

私のAAスクールのユニット(日本で言う研究室にあたる)Diploma Unit 11では、変容を繰り返すロンドンの姿をここ十数年にわたり観察してきた。都市の内部に隠れた生活空間や生産手段、食料や物資の流通パターンなどを身体的な尺度と視点から記録し分析(サンプリング)することで、この都市の新陳代謝の過程を規定しているさまざまな要因を明確なパターンとして理解することや、都市の地下に積層する過去の遺物、建築物の足跡、忘れられたインフラなどを資料をもとに探し当てたり、地上における偶然的に生まれた公共空間や残余空間、都市空間の多くの例外とみなされる事象を記録収集することから、デザインリサーチを行っている。その際に用いるいわゆるトップダウンとボトムアップの両方の視点から思考する手法やそれを表記する方法、および比較対象として収集すべき事象の選定方法は、前述したような世界各地でのフィールドワークやワークショップの経験が生かされる場面が多い。ロンドン市内自体にある世界の縮図と言えるだけの多様さがあることから、これまで携わってきた世界各地と多くの共通点を持った場所や同じ課題に直面しているコミュニティにさまざまな場面で出くわすのである。
ロンドンでのリサーチの目的は、以下4つである。

1:ロンドンの都市空間における多様性や多面性といった魅力を生み出してきた遺伝子を理解すること
2:複雑な内部構造を持った都市が生み出す建築のトポロジーとその中で有効に機能する社会性を持ったプログラムの事例を探すこと
3:不完全性といったものを、ある種ポジティブなものとして理論的にあるいは美しさとしてデザインワークを通して提唱すること
4:現在、既存の地区再開発プロジェクトの条件やマスタープランの内容を規定している多くの要因を理解した上で、それらに変わる建築計画案を想定することからデザインのための新しい手法を探すこと

ロンドンの都市としての魅力は、中世の建造物から今日の現代建築までの歴史を代表するすべての事象があたかも共存を余儀なくされているような混沌とした多様性ではないだろうか。都市構造の中に、その複雑な関係性を必然とする仕組みがあるようだ。建物やオブジェのみならず、生活者の価値観、多彩なる人種と国籍などが混ざり合う様子から見ても、ロンドンは真の意味で国際的都市と呼べるだろう。言い方を変えれば、多様な価値観が共存することから生まれる多くの矛盾をユーモアのセンスを持って“ナンセンス”として容認することに、ある種のプライドを持つような都市のキャラクターがある。
食、音楽、ファッション、ミュージアム、ライブラリー……、どれを取ってもロンドンは多彩で豊かに見えるが、それらは国策や経済政策、あるいは移民、今日に至っては国外からのデベロッパーや証券会社、そしてメディアなど、さまざまなものがイギリス国外から持ち込まれ根付いてきた。それは植民地時代から現代までの歴史を見ても明らかであろう。このような土壌にあるロンドンでは、新しい建築のプロジェクトは予期しなかったような都市の複雑性やコントラストを浮かび上がらせ、時には建築を素晴らしいものにしたりその反面で社会問題を視覚化する媒体として多くの世論を醸し出すのである。たとえばちょうど先月竣工した、フォスター+パートナーズによるマイケル・ブルームバーグ(投資家として知られるニューヨーク元市長)のヨーロッパ拠点として建てられたオフィスビルは、その敷地に埋もれたローマ時代のアーバングリッドに従って建ち上がり、地下空間には基礎工事の際に掘り起こされたミトラス教寺院の遺跡がそのままミュージアムとして保存されている。その一方、地上階には歩道空間がグリッドに重なるように建物の内部を通り抜け、エントランスホールにはオラファー・エリアソンによるインスタレーションをはじめ、多数の現代美術作品が置かれている。新しいものが導入されることで最古のものが呼び起こされるとも言えようか、ロンドンの複雑な都市構造は時として予測できないようなかたちで古いものと新しいものが共存する現象を生み出すのである。歴史建造物として保存の指定を受けている建築のファサードのみが、仮設構造に支えられた壁として孤立し、中身が新しい構造と設備に入れ替えられるのを待っているような様子、あるいはブロック・デベロップメントの際に突然街の中心地にぽっかりと穴が開いて地盤がむき出しになったりする様子は、いたるところで見られている。その一方で、立ち退きを拒むコミュニティが開発側や行政と対立したり、歴史保存や環境保護運動によって再開発が滞るような状態も少なくない。国内の経済状態やポンド価格の上下による海外投資家の不動産の買い渋りなどに起因して、都市中心部の建物の空室化や空洞のような隙間も頻繁に生じている。
リーマンショック(2008年)に続くクレジットクランチ(金融機関が貸し渋りによる景気の収縮)からの回復を図る中、地価の不自然な高騰、交通機関の建設と利潤を共有するブロックデベロップメントと共に高層ビルが建ち上がり、都市就業者のための住宅不足とは裏腹に、デベロッパーの手で公共住宅群などが国際的投資家をターゲットとした高級マンションに置き換えられていく様子は、高度経済成長期終焉の東京の姿を思い起こさせるものがある。

インテリア・アーバニズム

一般に再開発の繰り返しの結果、Gentrification(再開発による地価の高騰)と称される状況が生じ、どこのエリアにも同じ看板を掲げた多国籍企業のチェーン店が軒を連ねる様子は、近年急速に進む都市の均質化を象徴するものだろうか。近年のロンドン独自の都市構造が可能としていた寛容性の存続に危機感を覚える中で、AAのユニットでは均質化に伴い、都市空間から身体性が消失していく現象を問題として取り上げている。その中には、居住環境や古くからあるコミュニティ、公共設備(特に医療と教育)の提供すべき自由な内部空間、低所得者のための都市住宅、小さなスケールの生産業など、都市の大きな変動に対して影響を受けやすく無防備なプログラムやコミュニティに焦点を当てている。
特に国の経済が停滞し始めた現在、EU離脱に伴う予測不能な状況にあって、私たちは現在のロンドンの姿に不信感を募らせるのであるが、一方で興味を持って見ているのは、都市の歪みや干渉状態が建築のディテールやテクスチュアとして視覚化された状態である。私たちが進めているデザインリサーチは、かつて赤瀬川源平がトマソンと称して東京を建築物の細部から記録したように、建築のディテールやテクスチュアに見られる特殊な部分を、一度コンテクストから切り離し建築として理解すること、そしてそれらのサンプルがどのように形成されたか、あるいは成り立つに至ったかに言及していくことから始まる。変化がどのように起きて、どのような過程で都市環境に変容をもたらすのか、そしてそれがどのように人びとの生活空間や生産活動の場や共有領域に影響を及ぼすかを探ることが、デザインリサーチの作業であると認識している。あえて言うならば、私たちの注目する都市の建築は、建築家が直接関与していない、あるいは建築家やデザイナーの手が及ばない部分や仕事として成り立たない部分、公共事業がカバーしきれないこと、そして一般のデベロッパーにとって経済的価値を持たない土地や建物と言ってもよいだろう。
そのようなものに価値を見出す都市の計画理論を確立できないかという思いから、ユニットでは、「インテリア・アーバニズム」という造語をつくり、リサーチを続けている。私たちがデザインリサーチとして意識的に行っている作業の流れは、コンテクストから特異な部分をResource(資源)としてサンプリングし検証し、収集されたResourceの数々をコラージュの手法で既成の構造概念から切り離し、再構成し再解釈を試みるValuation(価値評価)の作業であるfig.10fig.11fig.12。その一方では、仮設のオブジェを設置したり、コミュニケーションプロジェクトのPerformance(実行)といった実際のコンテクストにこちらから働きかけるプロアクティブな手法から、長期的な複数のシナリオをScores(総譜)することで計画案を試作する作業として説明したい。
建築物が都市をつくるのではなく、建築は都市によってつくり出されるものであると仮定すると、建築家は都市によってデザインされるものとして理解できよう。つまり都市デザインとは、建築の知識と技術、空間的な感覚表現を通して、現状の都市やランドスケープをありのまま観察して記述し、隠された構造的体系や細部の持つ有機的な機能性を丁寧にモデル化する作業行為であると理解したい。そして本当に意味のあるロンドンのような都市における本当に意味ある建築スタディの目的とは、問題の解決ではなく、現代性を映し出しながら隠された事実を探り出すこと、それによって異質性と慣習的要素を同時に備えるような都市を成立させるシナリオを、事例を交えて創作していくことである.
インテリア・アーバニズムという言葉で提案するのは、建築家の仕事を再定義することでもある。都市の成長が止まりあるいは縮小を始める時に、無用の長物と化していく都市の構築物や老朽化が進む中で取り壊すことさえも難しくなった建物を活用することは、建築家の大切な仕事となっていくのではないだろうか。また都市におけるソーシャルサステナビリティや、その内部を豊かにする異質性や特異性を持ったプログラムの必要性を訴えることができる。長期的展望を持った寛容な都市の理論として、インテリア・アーバニズムの必然性を解いていきたい。

オープンスクール

両極端に見えるものでも、視点を変えればそれらは切っても切り離せない表裏一体のものとしてある種の共通性が理解できるように、ロンドンの国際性と白倉のローカリティ、多くの意味で別世界として捉えられる両者であるが、そこに生活する自由な人間性が、その場所の魅力に大きく影響を持っていることには通底するようだ。
ここ数年間、小白倉集落では地元の実行委員会と十日町市と共に、ワークショップの将来的展望を明確にしながら、現在、交流施設として位置付けられている旧小学校のより有効な活用方法と運営内容について、構想を作成中である。施設を使いやすくするための改善、改良はもちろんであるが、この施設の魅力的なイメージとアイデンティティ、そしてナラティブをつくり上げていくための長期的展望をつくることも、大切な意味を持っている。コミュ二ティにとって管理や運営体制に可能な限り無理のない継続性を優先することで、住民たちが今まで通りに楽しく過ごしていけること、そして「来るものは拒まず、去るものは引き止めない」という小白倉集落が昔から共有している共同体の態度をひとつの理念として継承することを念頭に、この場所をより広い意味でのデザイン、アート、建築を媒体とした交流と実験活動のためのプラットフォームとして構想している。そして分野、年齢、国籍、都市、地方といった概念の枠を超えた自由なワークショップの活動を推進するために、一般社団法人を設立する準備を進め、その仮称を「オープンスクール」とした。これは産・官・学、すなわちAAスクール、十日町市、東京の建設会社、そして地元住民グループを交えた共同プロジェクトである。国際化に対応する教育プログラムが求められている日本国内の建築系大学、補助金に頼らず経済的に自立した体制づくりを目指す地域団体、環境とコミュニティの変化に遅れることなく対応していく必要のある行政、社会的役割を担う建設事業の推進が期待される企業、これらの必要に応じると同時に、地方、都市、海外から目的や興味を共有する団体や個人とが、短期的ではあるが定期的な住人として誰でも参加できるような開かれた学校の姿を理想に描いている。そしてこの白倉という場所に、ある種世界の縮図のようなワークショップを継続させていくことに、現在、より大切な意味を感じている。



*RSVP Cyclesから見る小白倉集落でのワークショップ
Resource:人材、食料、資材、伝統、農業、雪に関する技能と知識などが挙げられるが、明確なことは食と住である。小白倉の住民は、人柄が明るく、威張らず、新しいものに興味を持ち、賑やかなことが大好きで、ユーモアのセンスがあると同時に、働き者である。この明快で開けた社会だからこそ、夏の期間だけでもコミュニティのメンバーを受け入れることが可能なのではないかと考えた。ワークショップでの食事の多くは地元から供給してもらえる食材をメインに、ローテーションで共同で自炊をする。食事当番は地元の方のレシピを学んだり、あり合わせの材料で自国風のメニューを創作することもある。約30人分の食事を用意するのは1日仕事だが、食を介したコミュニケーションは、学生同士のみならず地元の人たちとの間でも実りが大きい。4年前に制作したピザ釜を用いて、昨年度、地元と一緒にポップアップレストランを開いたfig.13fig.14。ひと晩で集落外から訪れた人数は200人にも達した。
Performance:ワークショップの活動ではすべてがダイナミックに同時進行できるような枠組みが必須である。グループに分かれて作業分担することが多い状況において、共有のために臨機応変に行われるディスカッションと同時に、予定調和を避ける注意深い態度も大切である。必ずしも完成の姿を決定せずに、細部のデザイン、材料と構法の検討などを並行して進めていくうちに、結果として現れてくるものには、予測を超える有意義な結果を生むのである。複数の個人がそれぞれ十分な自由度を持ちながら協調してプロジェクトを進める場合、すべてのメンバーが制作物の一部は自分のアイデアに基づいているものだと確信が持てることも大切である。またチーム構成とコミュニケーションの仕組みは、目的や道具の違いによって、役割を明確にし、構成することが多い。2007年のワークショップでは、映画の制作と木造のシネマスクリーンを制作したが、小白倉ストーリーという短編映画を創作し、集落をロケに撮影から編集までを行うチームと、秋祭りの際に立てるべきシネマスクリーンの設置場所とそのデザインを行うチームに分かれつつ、メンバーは必要に応じて交代しながら作業を進めたfig.15fig.16fig.17
Re-Valuaction:前述のような価値の再評価のプロセスとは、普段見慣れたものに対する見方を変えたり、その使い方を工夫することからまったく新しいものに変えることとも説明ができよう。異なる文化圏から参加する学生たちの視点によって、小白倉にある既存の風景や生活慣習までもが、新鮮なものとして評価されるきっかけとなることも少なくない。観察力とデザイン能力が同じ意味を持つように、ランドスケープをサーベイする際にも、複数の異質な視点があることで、新たな評価を多く発見するのである。同じものを見ていてもそれぞれの者の理解によって異なり、画一な価値基準とその判断といったものは当てにならないと確信することは、とても創造的で楽しい行為だfig.18fig.19fig.20
Scores:課外授業として実験的に開始した当初は、それが21年も継続するとは考えもしなかったのだが、観察と発見および試作と応用の繰り返しや、これまでのランドスケープの記録は、ある意味で総譜として解釈できるかもしれない。またスコアをオーケストラの楽譜にたとえてみれば、それはさまざまなサイクルと周期を持ったイベントであり、これまで手掛けた造作やメンテナンスは、長い時間軸を持ったランドスケープのための計画表のようにも解釈ができよう。ランドスケープや社会環境の変容過程を、音楽にたとえて解釈するならば、それは異なる周期のリズムやスケールや音程が重なり合ったフーガのように、繰り返しの中で徐々に変容するパターンとして理解できるであろう。そしてその譜面の中には、すべてのリズムがシンクロナイズするようなある種の契機や、ひとつのテーマが次のものと折り重なって位相するような現象など、重要なタイミングが常に存在しているのではないだろうか?
小白倉集落におけるワークショップの役割は、この集落とランドスケープの成り立ちを楽譜音にたとえて、そこに奏でられる音楽に耳を傾けながら、ある種の契機や位相のタイミングを計りつつ、必要であれば伴奏でテンポを変えたり即興したりといった効果的な刺激を与えてきたことである。それは、コミュニティとその環境において、継続的な変化を指揮していくことだと理解できよう。

(初出:『新建築』1712 建築論壇)

江頭慎

東京都生まれ/1988年東京芸術大学美術学部建築科卒業/1990年AAスクールディプロマ修了、RIBA Pt2/1991~92年ポストグラジュエートスタディ/1992~96年AAインターミディエートスクールユニットマスター/1996年〜白倉ランドスケープワークショップ主催/1996~現在、AAディプロマスクールユニットマスター(教授)、AAビジティングスクールプログラムディレクター

    江頭慎
    コミュニティ
    新建築
    都市

    RELATED MAGAZINE

    新建築 2017年12月号
    新建築 2009年6月号
    続きを読む

    四季によって外装を変化させる地元のローカルバスの待合所(1997年)。/提供:江頭慎

    もみじ祭りで引き回した木を使って建てた展望台(2003年)。/提供:江頭慎

    バス停脇にある井戸を使ってつくったスイカ冷却所(2000年)。/提供:江頭慎

    住民の談笑の場として使われる東屋(1999年)。/提供:江頭慎

    空家となった築250年の農家を改修した集会所(2007年〜現在)。/提供:江頭慎

    16の構築物を小白倉集落の地図にマッピングしたドローイング。/提供:江頭慎

    100年以上前から伝わる奇祭「もみじ引き」の様子。無病息災、五穀豊穣を願い、山から伐採した巨大なもみじを引き回す。ワークショップの最後にAAスクールの学生も参加し、行われている。/提供:江頭慎

    100年以上前から伝わる奇祭「もみじ引き」の様子。無病息災、五穀豊穣を願い、山から伐採した巨大なもみじを引き回す。ワークショップの最後にAAスクールの学生も参加し、行われている。/提供:江頭慎

    もみじ引きに参加する200人に及ぶ住民たちのための大屋根(2002年)。/提供:江頭慎

    コラージュ制作の様子。/提供:江頭慎

    オブジェを使った街中での都市観察調査風景。/提供:江頭慎

    AAのユニットで制作したグループコラージュ。ロンドン中心部ブルームスベリーとユーストンエリアのサンプルから再構成された都市の断面図。/提供:江頭慎

    小白倉小学校の敷地角に制作したピザ釜(2007年)。/提供:江頭慎

    ピザ釜の制作風景。/提供:江頭慎

    小白倉集落の住民をキャストに作成した映画と上映のためのスクリーン(2004年)。/提供:江頭慎

    小白倉集落の住民をキャストに作成した映画と上映のためのスクリーン(2004年)。/提供:江頭慎

    秋祭りに参加するAAスクールの学生たち。/提供:江頭慎

    お祭りを行う神社に屋根を架けてつくったキャノピー(2006年)。/提供:江頭慎

    2004年新潟地震の翌年に祭りを盛り上げる目的で制作した荷台(2005年)。/提供:江頭慎

    2016年のワークショップで行ったポンプ小屋の改修。/提供:江頭慎

    fig. 20

    fig. 1 (拡大)

    fig. 2