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2022.05.25
Essay

住宅は終わらない

石山修武(STUDIO GAYA) インタビュアー:家成俊勝(ドットアーキテクツ)

*本記事は『新建築住宅特集』2019年1月号に掲載されたものです。

幻庵とは何か

──今日「幻庵」(『新建築』7506)fig.1fig.2fig.3fig.4に来て、この建築をつくり上げる意志と気迫を目の当たりにしました。僕は大阪に拠点を置いて、いろいろなところに出かけて行っては設計したものをできるところまで自分たちでつくり上げることを続けています。27歳でこの幻庵をつくった当時、どんな思いでこの建築に向き合っていたのですか。(家成俊勝)

大学で勉強していた頃、何か飽きたらなかったんでしょう。当時の僕は就職なんていう道はまったく考えられなかった。しかし自立しないといけなかったから、浅田孝のところにいた先輩に勧められて、豊橋の川合健二のところに行ったんです。それが運の尽き。10年通うことになったけれど、最初の3年はマンツーマンでたくさんの話を聞いて、物理、化学、自然科学を付きっ切りで教えてもらいました。あの人は本物の天才です。科学では死んでもかなわないという圧倒的な不可能の壁が立ってしまった。でも何とかこの人を乗り越えたい、この人から自由になりたくなったんです。それが幻庵です。高所恐怖症の川合さんはこのブリッジは渡れなかったけれど、正面から見て「石山くん、これは芸術になっちゃったな」と言われました。「ああ、しめた!」と思ました。僕はこっちの方にいったら、何とか凌げるかもしれないとね。
建主の榎本基純さんとは、最初は川合さんの家で会ったんです。その後に渥美半島の田原町で約30mのコルゲートパイプで石屋のショールームを建設していた時に現場に来てくれて、「これは下手っぴだけど、もうひとつつくらせたら面白いものができるんじゃないか」と思ったらしい。榎本さんは、大きな繊維問屋のオーナー社長なのに平社員の名刺をもってくるような人で、「失敗したら別の人に何かつくらせるから」と具体的な要望は何も言わなかった。悔しいから絶対に建ててやると思いましたよね。最初榎本さんと想定した総工費は500万円、設計料45万円で始めました。最終的には1,000万円くらいになったと聞いたけれど、安いでしょ。そして幻庵ができた後、建主の人生が変わったように思います。小銭を稼ぐバカバカしさに気が付いたのか植木屋さんになった。ものすごくセンスのよい人だったけど、「ぼーっとしてるのが好きだ」とよく言っていました。13年前に亡くなって、それから初めて今日ここへ来ました。

──僕はよく木を使います。日本の現在の林業は山が急峻すぎて、木を切って製材するのにコストがかかりすぎて、輸入した方が断然安いです。でも木を使って循環させないと困っているところが日本にはたくさんあるので、なんとかしないとという思いです。石山さんは鉄を選ばれて使い続けているのはなぜですか。

木は植林からやると面白いですよ。僕は20代の頃材木屋をやっていたから、木の流通や値段のことは分かっているけれど、アメリカやカナダの50年単位で大規模に続けている植林や流通と比べたら日本はまるでかなわないし、1等材は輸出しないんですよね。家成さんの仕事を雑誌で見たけれど、とてもいいことをやっていると思う。でももっと原理を追求しないと続けることはできないですよ。
なぜ僕は鉄を選んだかですが、鉄は師匠である川合健二譲りではあるけれど、信頼すべき材料であることは分かっていました。幻庵は川合さんから教えられた鉄板曲げものでつくった建築の7番目のトライアルです。コルゲートパイプは下水管などインフラに使われていて、世界中の地面の中に潜っているものだから何しろ安くて安定していて強い。そして川合さんは物と流通が一度に見える人で、物質と価格の深い関係を知っていたから「鉄は100年経ってもくず鉄で売れるよ」と教えられました。幻庵の鉄は当時1t=12万7千円。全部で70~80万円の鉄でできています。これはカルテル価格で日本のどの製鉄会社から買おうが同じ値段です。アメリカではその1/3で買えて、船底に積んで運べば1t=6万2千円だと川合さんに言われました。鉄といってもその組成で大きく違いがあります。ポルシェやメルセデスベンツ、ボルボなどの自動車の素材になっている薄板の鉄板がいちばん高級でした。そして同じコルゲートパイプでも、「世田谷村」(『JA』37、73)の地下で使ったコルゲートパイプと幻庵のものとでは組成が違うんです。その違いは鉄をつくった溶鉱炉に入ってみないと分からないことだけど、材料っていうものはそこまでやれば面白い。それから、川合さんの自邸は一部溶接だけど、幻庵は鉄板を重ねて、ボルトと穴にチオコール(多硫化ゴム)を巻きつけて接合しています。アメリカの土木工学会でもこの強度は解析できないと言われたけれど、経験上ものすごく高い強度が出ています。土木工事では圧倒的にメジャーな使われ方だけど、建築にももっと使われてよいはずです。150年はビクともしない今でも廃れない技術だけど、これを薄板でつくれるようになったら面白いし、人工衛星のカプセルをつくっている波板も強くて安い面白い素材です。

──このおむすび型の形状はどうやって考えついたのですか。

本当は潜水艦や兵器のようにシリンダー型がいちばん強いけど、人が使うものだから少し曲げようと思って、水滴が葉っぱから落ちる時に表面張力でおむすび型になる形からとったんです。本当はもっと土の中に埋める予定だったけれど、掘っていったら岩盤が出てきてダイナマイトで崩そうかと思ったのだけど途中でやめました。ここで重要なのが、この建築は基礎をもたないから建築基準法の第1章に接続していないこと。建築物というものは土地に定着していなければいけないけど、これはしていないから何物ともいえないものです。つくるのは「表現の自由」だから保証されているけれど、法規というものは建築家の頭よりもずっと緻密で、建築物として認められないからと車輪をつけると道路交通法に引っかかる。国と闘うのは怖いしそんな大げさなことは僕にはできないです。しかし原理的なものは法律に抵触していく。そこが面白いし大変です。

──幻庵は技術を合理的に組み合わせたものとは明らかに違う石山さんのデザインがあります。どういうことを考えてつくったのですか。

こういうインタビューを受けるのはもうあまりないと思うから話すけれど、最近になって分かったことがあるんです。大学には時々いい先生がいるもので、僕が早稲田大学にいた頃、渡辺保忠という歴史家に教わったんです。当時、大学の他の設計意匠を教える先生たちの方針に文句を言って、じゃあやってみろと自分で設計の授業をもつことになった渡辺先生が、初期のバウハウスの低学年向けのカリキュラムを研究して、僕たちの2年生前期の課題を出したんです。20人しか教えないというところを、生意気な僕たちが民主主義じゃないとか言って受けさせてもらって、みんなでワクワクしていると「このプログラムはバウハウスというところの、モホリ=ナジ・ラースローやそのほかの芸術家たちがつくったカリキュラムだ」と渡辺先生はそこから説明を始めたんです。大学2年生でもきちんとした理論があると、すごいことなんだと幼いながら思ったものです。その課題は「色光の体験」というもので、275mm角の箱の1面を開けて、そこに自分が思う光を入れて色の光を楽しみなさいという課題でした。そのほかにも紙をくしゃっと丸めて、その中に入りなさいという課題もあって本当に面白かった。今思うと、幻庵はこの授業に影響されていたことを最近になってはじめて気がついたんです。幻庵のステンドグラスの色は、ブルーはパウル・クレー、真ん中の朱色は密教の5大色や曼荼羅とか、当時自分なりに意味づけしてつくったと思っていたのだけど、大学2年生のあの教育に影響されていた。建築を含めた芸術、そして人間は必ず何かに影響された産物です。自分で発想したんじゃない。デザインというのは模倣を土台にしているんです。しかし、朱色のガラスはほかに比べてものすごく高くて、黄色がいちばん安くて、青もその次に安い。値段のことが分かると、神々しく見えるでしょ。

──大学教育も捨てたもんじゃないですね。

僕も教師もやっていたけれど、世の中ですごい人に出会うと、大学にはそんなに大した教師はいないと思ってきました。でも何年かに一度、ものすごい言葉に出会えるんですね。それはいろいろなことが終わってみてから、何十年も経って分かってくることです。耳にこびりついているんですから。

安藤忠雄という人

──渡辺保忠さんや川合健二さん以外に、教わった人というのはいらっしゃいますか。

安藤忠雄さんもそうだなあ。安藤さんは教えるのがとても上手くて、僕にも大事なことを若い時からたくさん教えてくれました。「住宅をつくったらその後も所員を連れて掃除に行くんやで」とか「細かく分割して設計料をもらって事務所を運営するんやで」とか。掃除はすごいと思って、僕も一度だけ真似して掃除しに行ったけど一度で終わってしまいました。でも安藤さんは今でも続けていますよ。そんなことを教えてくれる建築家はあの人だけです。デザイン以前の、大学では絶対に教えてもらえない大事なことです。
安藤さんは大学を出ていないのにあれだけの仕事をして成功しているから、嫉妬されることも多いけれど、あの人は天才です。それは根本的に安藤さんが大工棟梁の血を繋いでいるからです。そろばん勘定に長けていて、物事を円滑に進める下準備ができ、並大抵ではない努力を続けられる。それはすべて日本建築を継承する大工棟梁の気質です。
そもそも、「建築家でござい」なんて偉そうにする建築家はアホですよ。総工費を握っているのはゼネコン。数パーセントのすごく小さな予算だけでわれわれは動きます。建築家も総工費を握ってつくったらいいけど、それができないのは保険の問題です。必ず失敗したり建主ともめてトラブルに遭うこともあるから、予算を保険につけてかけておけばいいけれど、僕も含めてその度胸がない。だから優秀な学生には、地方の工務店の社長をやったらいいと言っていました。ひとりでもいいから始めて、足りない能力を雇えばいいと。しかしそれも、安藤さんから教わったことかな。

日本を脱出するのはなぜか

──石山さんは今、そしてこれからどんなことにチャレンジすることを考えているんですか。

僕は今、世界でネパールがいちばん面白いと思っていて、そこに出かけて行って仕事をしています。岡倉天心は、ヒマヤラ山脈という背骨に支えられたインドと中国が巨大な文化と宗教によって二大勢力になるだろうと言っていた。その間に挟まれたネパールは大変だけど、将来世界に大事な国になります。世田谷村をつくって、僕は日本ではもう面白いことができないと思っていて、もっと言えばやり切ったと感じていて、同じことを繰り返してもつまらない。賢い人にインフレの国で稼いでデフレの国で使う方がよいと教えてもらって、たまたま建築家をやっているんだから建築でそれをやります。ネパールの都心のダーバースクエア真近でビルを日本の1/10の値段で自分たちで買って、自分たちでリノベーションして売るということをまずは3件やってみます。その仕事でも頼りになるのは、設計をする人じゃなくて工務店の社長。資金も建築家よりあるし、お金の流れが分かっています。家成さんも設計だけじゃなくて、設計施工を突き詰めた方がいいと思いますよ。
それから日本を出て思うのは、日本人はひとりのビジネスの力は弱いということは世界でバレていて、設計者も同じだということ。それはある時から若い人の自己防衛本能が弱くなって弱体化して、今や右へ倣えでみんな同じように見えます。自分と違う人を避けてしまうけど、みんなと仲良くしているだけの人から突出して面白いことができる人が出てくるわけがなくて、変な人の中から出てくる。だから日本を出て仕事をしようと思ったんです。残りの人生、最後はやりたいことをやろうと思いますからね。
それから、お金儲けのうまい人というのは金に欲張りなんだと思うけど、家成さんや僕も含めて建築家はお金に欲張りじゃない。だけど、これからは少しは欲張りのフリでもした方がいいと思いますね。

今、若い建築家がやるべきこと

──欲張りになることに繋がるか分かりませんが、僕も建築の仕事とは別に副業として、バーの経営と、最近解体した建築の古材を売る商売を始めました。バーはそこそこなのですが、古材の販売の方がうまくいかなくて足を引っ張っているんですよ(笑)

そんな顔しているよね(笑)。しかし建築家は副業をもった方がいいです。教師は副業じゃないですよ。住宅や小さな建築では稼げないんだから、何かやっている人の方が生き残りますよ。今、学生を見ていると親の縮小再生産になってしまっていて、チャレンジしてみる人が少なくて、しかもこういうことは大学では教えてくれないから難しいのでしょう。

──設計者同様、建主にも面白い人がいなくなっていると感じますか?

面白い人というのは必ずいる。建築家の嗅覚が鈍っているだけです。自分と考えや境遇が似た付き合いやすい人としか会わなくなるから面白い人を探し出す力がなくなっているだけで、面白い人は絶対います。

──建築家が右へ倣えではなく嗅覚を身につけるには、僕たちはどうしたらよいのでしょうか。

建築史を学ぶべきです。日本の歴史には転機、大チャンスがいくつかあったんです。近いところだと第2次世界大戦に敗戦した時が最大の転機、その前が明治維新、その前は鎌倉時代、そして仏教渡来の奈良時代。今は敗戦後のアメリカ資本によるグローバリズムの真っ只中にいるけれど、仏教が伝来した時もグローバリズムの只中にいたんです。昔からそういう時がいくつかあって、その時に芸術を含めた建築の中に傑出した作家や傑作がボコボコ出ています。それを「転形期」と呼ぶ人もいて、日本には革命がないけれど、転形期と言える時が必ずある。そして、今がそうなんです。オリンピック以降経済がどん底になるだけでなく、生まれる人より死ぬ人が多い時代。目に見えないものが動いていて、今が何者であるかを知るべきです。それには本を読んで、賢い人に会って話を聞いて学ぶことです。それから、今の日本の建築界は縮こまってしまっているから展開力が小さいです。海外に出るなら、建築の中心であるヨーロッパに行くんじゃなくて、エネルギーが満タンにあり世の中を動かしている中国や、気力体力のある人ばかりいるインドに行った方がいいです。そして、均質化する勢力とは断固闘っていくべきです。建築はお金を動かせるし、ある程度物体も大きいから力をもっている。設計図は物品の値段も決めている。それを自覚するかどうかです。経済というものは魔物になっていて、ブラックボックス。それに目を伏せていてはいけません。そして、徹底してひとりになるべきです。昔川合さんに「いわしのように群れるな」と言われたけれど、みんな川合さんみたいに強くないし、集まってエネルギーや食料の問題などを考えざるを得ないところはある。しかし建築の線をひく時はひとり。個人が厳然としてあるということは大事なことです。

原理の中に人間は住めない

──幻庵の後に世田谷村を体験して、工業製品でできていて鉄という共通点もあり一貫した意志も感じましたが、全く違うものも感じました。幻庵では内向的というか強い精神性を感じたのに対し、世田谷村はもっと技術をオープンにしていく、人に手渡して行くことを考えていたと思いますfig.5fig.6fig.7

世田谷村は、家成さんのやっているやり方と似ていますよ。明るい民主主義みたいな感じでね。僕の中で世田谷村は極めて普通の家。他と違うのは造船職人とつくったことです。船は建築と違って、鉄を熱して冷まして熱して冷ましてを繰り返してつくっていきます。4本の鋼管支柱が屋根と屋上庭園を支え、2、3階の床を吊り下げている構造です。バックミンスター・フラーを手本に、最小鉄量で最大のヴォリュームを目指しました。高く浮いているのは、もともと妻の母がつくった木造平屋があって、建て替えるのに引っ越しするのが嫌だというからそこに住みながらつくったんです。でも木造だったから、築60年くらいになって寿命が尽きて撤去したので今は下が空っぽになっています。家具や扉などの内装は学生がつくったもので、間仕切りは釘を使わず木の楔で止めているから、猫2匹と夫婦だけになったから、間仕切りを取って大きな空間にすることもすぐできます。
藤森照信さんが「これは寝殿造りだな」とうまいことを言ってましたよ。それから安藤さんからは「床はスギの足場板を使うと安くていいで」と教えてもらってこの家の床に使いました。ここはいろいろな実験の場所でもあって、たとえば屋上菜園をしようと今も生ゴミを運んで土をつくっているけれど、冬は地上よりもずっと気温が下がってなかなかうまくいかない。韓国製の4,500円のベンチレーターを買って風力発電しようと思ったんだけど、素人考えで弱すぎた。周辺からはあの家は変なものが回っていると訝しがられるし、地下室にたまっている水をポンプでくみ上げていたら、あの家は地下でウドを栽培していると税務署がきたこともありますよ。しかし、この住宅の鉄の工事は1,400万くらいでできています。価格破壊とまではいかないけれど、既存の生産システムをちょっとずらしてみるといいんです。デザインで苦しんでいる人はいないけれど、住宅ローンで苦しんでいる人はものすごくたくさんいるのだから。

── 一方で、幻庵は石山さんの中で原点と言えるものなのでしょうか。

幻庵は7つ目のトライアルだと言ったけれど、最初はコルゲートを半分土の中に埋めた、長野県の治部坂につくったキャビンです。コルゲート以外の部品図を全部書いて東京の鉄工所でつくって、それを運んで建主が素人でも単能工で組み立てられるようにしました。全部で47万円。しかしジョイントに失敗したから地下に埋めるために塗っていたコールタールが漏れてきて「寝ていると口の中にコールタールが落ちてくる」と建主に言われました。それを止めるチオコールを開発したり、まさに実験。それからこの建主とは渥美半島で『ドームクックブック』(1968年)の本の通りにフラードームをふたつつくって繋げることもやりました。ひとつのドームが当時8万円。ジョイントが多すぎるから雨がジャージャー漏るんです。僕は建主と傘をさして呆然として、編集者のロイド・カーンに手紙を書いたら「雨を楽しみなさい」と返事がきた。苦労して雨を止めて、それから10年以上経って建主に「娘が結婚できない」と言われました。あの丸い変な家に住んでいるから有名になって、どうもそれが理由だというんです。そもそもドームにはタンスも入らない。その時分かったのは、フラーの数理でできたフラードームはきれいな原理でできていて、その純粋な理論の中に住めるほど人間は利口ではないということです。生物としての人間の家は、論理なんか愛していない。夫婦でのんびりしたいとか、健全な保守性というものがあるんです。70を過ぎてから改めて分かったことです。

──原理の中に人間は住めないということは、幻庵にどのように繋がっていくのでしょうか。

幻庵も生産論的にはとても原理的なものです。技術を手渡していく開放系技術は当時から「ひろしまハウス」(『新建築』9702)そして世田谷村に至るまで考えていて、それの元になっているのは東京大学出身の剣持昤の「規格構成材方式」です。彼はそれを「バカチョン工法」と呼んで、オープン部品によってプロも素人も誰もが部品を同じ値段で買って住宅をつくれるようになろうと提唱していた。アメリカの日曜大工センターの考え方です。日本の部品は二重にも三重にも価格が膨らんでいて、ものすごく高い。怪しい値段のものは美しくないんです。川合さんが幻庵を「芸術になっちゃった」と評したのは、そういうことも含めてでしょう。でも川合さんは変なところがあって、運転もできないのにポルシェをもっていて、エンジンの音がいいと言っていた。最後はポルシェが腐ってアオダイショウが住んでいて、そこには物体を超えた生命力のようなものを感じていたのだと思います。それがアニミズムでしょう。鉄の家が本当に腐ったら「土に埋めてお酒をかけてやりなさい」と言っていた。うちにも下にカルマンギアがあるけれど壊れて動かない。でも手放したくないんですよ。

どん底の時ほど面白いものが生まれる

──プロも素人も同じ値段で部品を買って住宅をつくることができる、オープンな社会を理想とするのはとても共感しますが、現在でもそれはなかなか実現できないですよね。

それは人間は商売をして利鞘を稼がないと生きていけない人がいるからです。それを認めないといけないのと共に、設計者は利鞘が少なすぎる。僕は『住宅道楽――自分の家は自分で建てる』(講談社、1997年)に書いたけれど、設計図に書いているすべての線は、部品を決定していることです。その自覚がないと、部品の販売を握って統括しているゼネコンだけが強くなります。オリンピック以降は、建築家はそこを本格的に攻めていかないといけませんよ。

──部品のことについて知らないといけないということは、建築家はエンジニアに詳しくないといけなくなる。そうすると、住宅の健全な保守性と離れていってしまうでしょうか。

建築家もマーケットを知らないといけないということです。技術者だけになって精密で精緻を突き詰めていくというのは危険です。値段も高くなるしね。昔「現代住宅の保守的側面」(『新建築』7602)という論文を書いたけれど、現代の日本の住宅は坪単価や平米単価という悪しき常識が今でも通用してしまっている。家成さんがやっているような、建築のつくり方や枠組みを変えることでこれを変えていくべきです。でもそれはタダじゃダメで、きちんと報酬をもらわなければいけません。もうどんどん始まっているけれど、さらに経済がどん底になっていった時、若い人の課題はデザインじゃないと今あえて言っている。最終的にはデザインであり、それが幻庵なんですけどね。まず今はもう少し価格のことを勉強しなければいけないでしょう。

──石山さんが日本を脱出してネパールに行くのは、現代社会の経済の動きがもっとも先鋭化しているところに身を置くことで、世界のお金の動きを掴みながら建築をつくろうと思うことなのですか。

そうです。それからネパールという国が自分の身体に合っているんです。それは、僕が幼い時に見ていた家や街の風景とよく似ているからです。そして、ネパールでは女性が子供を健やかに育てていて、子供が子供の面倒をみている。だからか子供たちが素晴らしい。設計をやっていると、どうもノスタルジーやセンチメンタリズムを嫌う傾向にあるけれど、本来人間は大好きなものです。でも特に僕は、若い時はいつも何かをひっくり返すようなことをいつも考えていたし、革新ということが大好きだった。でも70を過ぎるとちょっとまずいなと思うようになるんです。もっと保守的でないといけないと。

──その住宅に置ける保守性というものは、日常の暮らしや家庭のことを指しているのですか。それとも近代以前の日本の住宅がもっていたものでしょうか。

突き詰めれば民家でしょうね。本当は民家がもっている伝統的なもの、保守的なものが人間に必要であることは分かっていたんだけど、僕の個性がそれを嫌ったんです。僕にはそれができないことを分かっていたんです。だから幻庵みたいなものをやるしかなかったんです。生まれついての捨てられない個性としかいえない。それから、昔から今も着目しているのが擬洋風というものです。あれは大工や棟梁が自分たちで考えてつくっていったもので、日本の様式の本流だったのではないかと思います。江戸時代末期の大工は世界一の技術をもっていて、1枚のパリの写真からその中の建築を全部つくれたといいます。それが擬洋風の大元。なんとなくインチキなものに聞こえるかもしれないけれど、とんでもない。僕はできなかったけれど、いちばん近かったのが「伊豆の長八美術館」(『新建築』8409)です。もっと正当な擬洋風建築は、松本の旧開智学校や山形の済生館です。つまりそれは大工棟梁が考えたものです。われわれが学んできた建築は、ジョサイア・コンドルがもってきたものが最初でそれは洋風。同時に擬洋風があったことをみんなもっと知るべきです。

建築は必ず復活する

──若い建築家も小さな住宅やリノベーションにも個人の特異性を表現しようとしていますが、これからも住宅にそれは必要でしょうか。

住宅は建築の原点です。それは僕の学生時代から聞いていたこと。大工棟梁の系譜の先にゼネコンが生まれてから、20世紀はオフィスビルの時代。でも本格的にどん底になったオリンピック以降、住宅は絶対に復活します。ポイントは、建築の原点であると言い切れる若い建築家が出てくるかどうかです。今住宅をつくっている建築家で、大きいものがつくりたくて、成り上がりたいという考えがあってやっているならそれはお粗末です。住宅を主業にできるかどうかを考えなくてはいけない。チャンスがあればしっかり利益を出して、そんな覚悟を持った新しい大工棟梁が生まれてきたら面白いです。僕はできないけどね(笑)。
小さい建築が建築の主たるものであることは、建築史家の鈴木博之さんも「パルテノン神殿よりもシチリアの小さな聖堂に建築の本質がある。でも大学でそれは言えないな」と言っていました。それから、1933年に亡命してきたブルーノ・タウトは、来日してすぐ桂離宮を見た後に船で横浜に戻ってそこから群馬まで車で行った短い時間で、「日本の住宅は世界で一番素晴らしい」と言ったんです。これは達見です。タウトが評価したのはまず安いこと。ドイツで何万軒と住宅をつくってきた人が見て、日本の住宅は家庭の年収の1.8倍以内でおさまっていた。そして住宅をつくるテクノロジーが平準化されていること。テクノロジーは金持ちや権力をもっているところにいきやすいのに、その頃の日本では別のところにもあった。そしてその家が集まった姿、街並みが美しい。ブルーノ・タウトが素晴らしいといったあの時の道をそのまま進めたら、日本は今でも素晴らしい住宅地ができていたはずです。住宅が産業としてクローズになっておらず、日常品であったんです。
今、戸建て住宅ひとつの中で完結する問題は熟しきっています。だからこれからは群で考えることが重要になリます。

群を意識せよ

──群で建つことを意識するメリットは何でしょう。

こう考えたらどうだろう。ひとつの住宅でできることは何もないと、一度割り切ってみる。でもそれは捨てきれない人もたくさんいるでしょう。自分のキャリアとして、自分の才能として、何よりもひとつの住宅をつくることが好きであることで。だったら、たとえばその住宅の建つ街路に木を植えることで、連なりを意識したらよいです。1軒つくったら隣家を設計したっていい。隣り合うことを意識して厚かましくやってしまったらいい。もっと勇気がある人は行政に掛け合ってその街の何かを僕にやらせろと言える人も出てくるといい。建築家の力は風景をつくれることもあるはず。住宅をつくることになったからってそこだけをつくっていては、自分から関係を切断していることと同じです、家並み、風景を意識する当たり前のことを、もっと実践することです。そして、建築家は建主に「頼まれて設計する」という意識は捨てるべきです。自分から建てたいと動く勇気はいつまでももっていないといけないです。

──日本の建築家が普通の民家を設計できない後ろめたさがあります。

工務店の方ができていますよね。民家は農家の副業として少し余裕があった人が半農半大工をしてあれだけのものができた。百姓のもっている高度なテクノロジーが民家をあれほどのものにしました。でも僕は百姓の粘り強さがないから農村は向いてなくて、新しいもの好きだから漁村の方が向いています。みんながみんな同じじゃなくていいですからね。

愛情をもつこと

──石山さんは一貫した思想をもたれているうえで、70を過ぎて気がつかれたことがあると率直におっしゃることがいくつかあったことが印象的です。

僕は今、民俗学にとても興味があります。民俗学は愛情の研究と言える。ものに対する愛情、人に対する愛情、生活や動物に対する愛情です。若い頃、民俗学者の宮本常一さんとお会いしました。ある時川合健二さんと宮本常一さんと僕の鼎談の企画があって、間違えてその話を受けてしまったら、川合さんと宮本さんは僕をよそにふたりでずっと林と林業の話だけをしていました。どんなことでも民俗学者の発言は新鮮で鋭い。だからいつも注意深く耳を傾けています。レヴィ=ストロースは日本と日本文化にとても関心のあった人だけど、「神社の横にオフィスビルがあることが素晴らしい」と言ったりする。何言ってるのかと思うけれど『悲しき熱帯』(1955年)は哀切に満ちたすばらしい本ですよ。
それから、僕は世田谷村で孔雀とか鶏を飼いたいとずっと思っているんです。鶏は朝鳴くから近所迷惑だと言われて今は実現していないけど、いつかやりたい。本当は馬も飼いたいんです。

──他の生物と一緒に暮らすことで、人間にどんな変化があるのでしょうか。

自分の中にある愛情に目覚めるということですね。歳をとってそこに気がついてきています。先日島原で出会ったカフェをやっている若者が、そこで馬と山羊を数頭飼っていて、本当にいい風景なんです。そして「開拓者の家」(『新建築住宅特集』8610)の建主は山羊を飼っていて、スモモの木に結んで生活していた。その風景が忘れられないです。人間ではない、他の生物がいる風景はとてもすばらしいものです。住宅って人間が住むものだと思っているけれど、それだけじゃないですよね。そこから住宅を考えると、また面白いはずです。
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(2018年11月13日、幻庵と世田谷村にて。文責:新建築住宅特集編集部)

石山修武

1944年生まれ/1966年早稲田大学建築学科卒業/1968年同大学大学院修了、同年建築設計事務所開設/1988〜2014年早稲田大学建築学科教授/2014年〜早稲田大学名誉教授、同年STUDIO GAYA設立/1985年「伊豆の長八美術館」で吉田五十八賞/1995年「リアス・アーク美術館」(『新建築』9410)で日本建築学会賞作品賞/1996年ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展金獅子賞/1998年日本文化デザイン賞/1999年織部賞/2002年「世田谷村」(『新建築』9609)で芸術選奨文部科学大臣賞

    家成俊勝

    1974年兵庫県生まれ/1998年関西大学法学部法律学科卒業/2000年大阪工業技術専門学校卒業/2004年~ドットアーキテクツ共同主宰/現在、京都芸術大学教授

    石山修武
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    1975年の竣工から43年経った「幻庵」。/撮影:新建築社写真部

    撮影:新建築社写真部

    撮影:新建築社写真部

    撮影:新建築社写真部

    2018年現在の「世田谷村」夜景。/撮影:新建築社写真部

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    「幻庵」でのインタビュー風景。/撮影:新建築社写真部

    「世田谷村」でのインタビュー風景。/撮影:新建築社写真部

    fig. 9

    fig. 1 (拡大)

    fig. 2