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2022.05.20
Interview

孤立から始める

石山修武(STUDIO GAYA) ×中谷礼仁(早稲田大学) ×中山英之(中山英之建築設計事務所) ×藤村龍至(RFA)

*本記事は『新建築住宅特集』2022年1月号に掲載されたものです。

生きる柔軟さを求める孤立

石山 これから、住宅がまだ生き生きと輝くには、建築家が人が生きる場所、住宅を建てる場所を提案できるかということが生命線だと思います。クライアントと設計者という脆弱なビジネス関係によって住宅をつくっていても未来はない。つくる場所を与えられるだけでは、人がどこでどう生きるかを土台にした住宅はできないからです。今、社会の余剰生産は度を越していることが、このコロナ禍で証明された。移動をし過ぎ、ものをつくり過ぎていた。そう考えてこれからの建築家像を考えると、建築家が人が生きる場所から設計していくべきだと思います。
今回、中谷礼仁さんの自邸「高床の家」(『新建築住宅特集』2106)に行って、彼が建築家の福島加津也さんと協働かつオペレーションしてつくった住宅だから当然だけど、自分の暮らす場所、仕事をする場所、ものを考える場所を強い意志で選んだ住宅であることが印象的でした。車窓が市街地からトンネルを抜けて急に農村に変わる地点、『雪国』(1937年、川端康成)の冒頭のようなシーンの、古墳の足元の集落の中に嵌め込まれたように建っていた。そこに、機能が分化して解体された、もはや家ではない大きさのものが浮いていた。全部がバラバラに散逸した構造になって、それを受け入れているから、すべて2階で完結できて1階がなくなった。家というより浮いた部屋ですfig.1fig.2fig.3
僕が自分の家として「世田谷村」(『新建築住宅特集』9609、『JA』73)をつくった時、赤瀬川原平さんたちが来て、「これからの面白い家は、玄関が杉並にあって、茶の間は鎌倉にあって、台所は新宿にあるものじゃないかな。そんな家がこれから出てくると思うよ」といわれたfig.4fig.5fig.6fig.7fig.8。僕にはそれは少しショックで、当時はまだよく分からなかったけど、赤瀬川さんは家の機能が分化していく未来を諭したのだと思います。世田谷村で僕が想定したのは、昔の民家の大きさです。中谷さんの家は総合的に生活としては成り立っているのだろうけど、はっきりと家とはいえない。そこに赤瀬川さんのいった先見を思い出しました。

中山 今年できた高床の家と25年前にできた世田谷村を1日で巡ってふと、さらに25年ほど遡った、『ホール・アース・カタログ』(1968年創刊)が編まれた時代を思い浮かべていました。一方的な政治権力や大資本的な消費社会からどうやって人生を自分の手に取り戻すのか。恐らくそのことを初めて自覚的に扱ったのがこのカタログだったなら、石山さんの世田谷村もまた、25年前の社会の中で同じことをしようとされたのではないか、と。実際石山さんは、イタリアのキャンピングカーのハッチから韓国の風力換気装置まで、世界中のカタログを自ら編集して、建築としての『ホール・アース・カタログ』を組み上げてしまった。本家アメリカのヒッピーたちはその後、ポップカルチャーとして消費され、あるいはAppleのような一大企業として商業主義化を遂げるに至ったわけですが、石山さんはほぼ独りで、それゆえ実に軽やかに人生を自分の手に取り戻す方法を実践されてきた。そんなふうに思えたのです。コミューン的連携に寄ることもなく、造船技術のような建築の流通には乗っていないモノや手を全国、全世界から取り寄せることで、市場原理が再生産するシステムから建築を解放した。『ホール・アース・カタログ』は表紙が地球でしたが、世田谷村も小さいけれど、地球というスケールをもち出さなければとらえられないような建築ですよね。
現代の住宅を巡る言説の多くが、近接関係のありように焦点を置いていることを思うと、問題意識の置き場所が違いますね。どちらかというとむしろ、現に所属している社会から少し距離を置くために、建築が地面から距離を取って、そこから世界をフラットに見つめているような。高床の家も僕にはそういう建築に見えました。『ホール・アース・カタログ』の編集チームにはバックミンスター・フラーの教え子がいましたが、何というか、「宇宙船地球号」のコックピットのようなもの、というのか。そんな想像が浮かびました。

中谷 中山さんが指摘された「宇宙船地球号のコックピット」は、私が密かにもっていたモチーフのひとつだったので、ギクっとしました。フラー、そして石山さんから学んだのは孤立を恐れない、孤立して当たり前ということです。石山さんの処女著作『バラック浄土』(1982年、相模書房)は、僕が大学に入って2冊目に読んだ建築の本で、衝撃を受けました。建築をつくることがこんなにも孤独で大変なものなのかと絶望的になった。こんなこと僕にはできるのだろうかと思いました。だんだん学ぶにつれて、石山さんの姿勢は異例中の異例であることが分かったけれど、その異例さは常に本質的な問いを突きつけてきた。当時の石山さんの孤立は相当に大変なものだったけれど、今の孤立は少し違う。川合健二の自邸「コルゲートパイプの家」(1966年)、「世田谷村」、私の孤立へ向かうにつれ、社会で生まれつつあるさまざまな事物や出来事が、その孤立を、多少和らげて実現させてくれていると思います。都心と隔絶する完全孤立もあるけれど、それはやめようと思いました。一地方で生きるけど、都心に通えて、かつ古い村でも駅まで歩けるところを探そうと思いました。
ただ都市の生活からは離れようと思いました。それが自由になる道だったからです。たとえば設計士は、建築基準法を守るという職能を背負わされている、それは実は彼らが都市化の先兵であるということですよね。彼らは伝統的社会を定常的に維持するような職業ではないわけです。建築家が入った時点でそこは都市化されるよう日本の社会がプログラムしている。それは私が所属している大学の建築学科でも同じことです。しかし幸いに、市街化調整区域という原則建設行為ができない場所で、新築し住むことのできる法的制度(区域指定制度)を発見できました。場所によって微妙に違うのですが、私の場合でのその制度の条件は、集落の維持への協力と住民票を移す定住でした。別荘はだめなんですね。こういう場所を探すことは僕のような建主がやらなくても、設計士が生きる場所を提供するようなビジョンをもって動いてみてもよいわけですよね。設計士が都市化の先兵だとしても、一方で趣味として非都市化の相談者になれるはずです。では、その両面がなぜできないのか。それは建築家は都市に住んでいないとリアルではないと思い込んでいるからです。その思い込みを捨て、ハイブリッドして、両方に跨る自由が生まれたと思います。

石山 僕は、ここには建てられないといわれるとどうしても建てたくなっちゃうから、ずいぶん調べたことがありましたが、農業者も市街化調整区域には住宅を建てられるんです。だから、建築家も畑を耕したらいいんだ。農業者であり建築家であることは、これから大きなチャンスかもしれない。そして、僕が孤立してきたのは、自分で自覚しつつも、人に簡単には理解されまい、同意されまいとしてつくってきたことにあると思う。最近に限らずある時から皆、分かってほしい、こうしたら分かってくれるのではと建築をつくる。僕の場合は反対だから孤立するのです。

虚構を現実が超えていく時代

藤村 私は今回おふたりの自邸を見て、「村性 Village-ness」とでもいえるようなことを感じました。
高床の家を訪ねた時、家の前にたまたま宅急便のトラックが停まっていて、中谷さんが「これに頼ってますよ」といっていて象徴的だと思いました。赤瀬川原平さんがいったような現代の住宅が都市空間の中で解体されて、部屋が離散配置されたようになってくるのは、それらをネットワークする通信や物流の汎用的なシステムが普及したからであるといえますが、集落の中に部屋だけが浮いている状況は村のコミュニティとネットワークの双方に距離を取っているように感じました。
世田谷村も同じく大都市の町並みから大きく浮かび上がることで距離を取る一方、竣工した1995年はインターネット元年で、設計時にはネットが普及していないことを考えると、にも関わらず世界中から物を調達して住宅をつくるのはインターネット以前からインターネット的に「地球村 Global Village」の家として設計されているという点が興味深かったです。
磯崎新さんが今から10年ほど前、19世紀のパリのような計画に基づく「都市」、20世紀のニューヨークのような不動産投機による「大都市」の後に、ネットワーク技術を背景とした「超都市 Hyper Village」が新たな都市形態として現れるのではないかといっています。両者ともローカルな距離空間の近傍で建設される通常の住宅のネットワークのスケールを超えて、ネットワークされた村の家という意味で超都市的な住宅として解釈できるのではないかと思いました。

石山 20年前のアメリカ同時多発テロ事件のように、現実の映像が物体を超えてしまった時代なんです。そういうふうに世の中は進んでいってしまっている。そして、建築をつくらせる資本の問題がある。20世紀はオフィスビルの時代で、巨万の富を抱えた先にはその象徴にビルをつくりたかった。今やかたちのない会社を売るのがいちばん商売になるんだからね。そして、全部歴史の中に載せて考えられる時代になってしまいました。アメリカ同時多発テロ事件以降も、僕らはとんでもない災害に遭遇している。コロナウイルスも含め、現実はフィクションで固められたようなものをはるかに超えてしまったことを認めて考えると、歴史の中に並列して置けるように溶融してしまったと思うんです。自らも歴史の中に位置付けなければ先に進めない。でもそれは、そこから等しく考えるチャンスがあるということですよ。

藤村 大澤真幸が1970年以後を「フィクション(虚構)の時代」と呼び、東浩紀が1995年以後を「動物の時代」と呼びましたね。
先ほど石山さんが、自分の意志で土地を選ぶことの重要性をいっていましたが、2010年代に入った頃から地方都市や、あるいは東京という大都市の中でも、事業として古いビルや空き家を買ってリノベーションして、ひとつの地域にたくさん不動産を増やすことで村のような小さな経済圏をつくろうとする若い建築家が出てくるようになりました。1995年に石山さんが自邸を「世田谷村」と名付けられた時の「村」から比較すると、より現実的な生活圏、経済圏としての「村」を志向する動きが派生してきたといえるのかなと思います。

垂直的人間と建築

中山 バーカウンターで偶然隣り合った哲学者に、人類がつくった究極の建築はバベルの塔か万里の長城かと質問されたことがあります。曰く、万里の長城はどこまでも延びていって最後に世界を獲得し終えると存在意義が消滅するけど、バベルの塔は真っ直ぐ伸びていって成層圏を越えると鉛直力が遠心力に変わって、宇宙エレベータという次の次元の可能性に行き着くから、究極なのはバベルの塔だ、と(笑)。
そこで水平の人間と垂直の人間がいるという話になりました。万里の長城は陣地的発想だから、これは水平の人間の方であると。先ほども少し触れましたが、建築雑誌の主たる言説はほとんどがこの水平の人間にまつわる物語のように思います。隣地境界線、プライベートとパブリック、経済的なことなどですね。一方で垂直の人間はというと、あまり言葉が浮かんできませんね。そして世田谷村と高床の家は、僕は垂直の人間にまつわる建築のように思えるのですよね。

中谷 たしかに今の住宅は、たとえ複数階でも水平的に設計されていることが多いですね。たとえば高層マンションでの層は水平的なものが反復して重なっているだけです。そもそも世の中が水平的ですから、高さのヒエラルキーは不要になったのです。
一方で、かつての日本の民家は家畜や畑のある大地に繋がる土間の高さから少し離れて人が暮らす生活面があり、さらにその上の小屋裏は囲炉裏の煙で燻されながら先祖を祀る何か闇のようなものを携えていた。またインドネシア諸島やカンボジアの高床住居ではその垂直性はさらに明瞭でした。1階に家畜がいたり、さらに台所として使ってもくもく煙や湯気が湧いている。その上の2階は家族が寝るところで、彼らの持ち物も溢れている。そして、小屋裏に先祖の形見が祀られている。それらは簡単に融合しちゃいけないものだから、垂直に層状になっている。この層状の構成は水平的生活では普段は見えないけれど、普遍的なものだと思ったんです。だから水平的世界を2階に浮かせて、その下の1階に社会が直接入り込むような抜けのよい空間、さらに2階の上の小屋裏には霊的な空間をちゃんとつくってみたいと思いました。小屋裏からは、吉阪隆正愛用だった虎の張り子が私たちを睥睨しています。

石山 世田谷村と高床の家、その共通の切り口は民家でしょう。バウハウスがヒトラーの号令のもとつくろうとした国民住宅「フォルクス・ハウス」や、若くして没した剣持昤が「H邸」(1967年)でオープン部品によってプロも素人も誰もが部品を同じ値段で買って住宅をつくれるように規格構成材方式を提示しましたが、それらは同じく民家の地平に立ってると思います。
そして名前の付け方ですね。僕は世田谷村と「村」を付けたことは、当時は気恥ずかしくも、自分にとって重要なことだったと今では思います。誰もそれをおかしいといわなかったというのもある。問題は中谷さんが「高床」としたところですね。浮いた部屋でもあるけれど、1階がないともいえる。近代の高床の名作は菊竹清訓の自邸「スカイハウス」(1968)、丹下健三の自邸(1953年)、スタイルは違うけれど前川國男の自邸(1974年)。その中でも前川自邸に通じる原理的な無骨さがあると思いました。

藤村 なぜ高床なのかもう少しご説明を聞いてみたいと思いました。石山さんのいう「浮いた部屋」から中谷さんが「田んぼの風景を眺めたい」というのは、桂離宮の笑意軒のような、庶民の田んぼを耕す風景を眺める、いわゆる公家住宅のような感覚もありました。実践しているというよりも、対象化された「村」の風景があって、それを眺める別荘のような住宅にも見えてしまう。

中谷 人間の生活も含めて、地球の環境の変わりようを暮らしの中から常に見ようとすると、遠くにある山も空も見えなくてはいけない。そしてもっとも重要なのは大地を具体的に眺めることなのです。でも住宅を大地にそのまま建ててしまうとそれらの差は0度だから、その角度では大地は見えなくなるんですね。人間の出来事ばかりが見えすぎてて、大地のありようは空間としてはまったく見えない。また3階だと俯瞰が強くなりすぎる。それで床高2,650mmを決めたんです。これで大地の移り変わりが本当によく見えるようになった。朝起きて外を何気に眺める度に、ハッとすることが多いです。

中山 対象を見ようとした時に、アングルをもたないと奥行きとか距離が分からないですよね。たとえば船に乗って河から東京を見ると、いつもとは異なるアングルから別の都市像が浮かび上がってきます。
世田谷村が高床なのは、真下に木造の平屋があったままつくったからではありますが、このふたつの家にある不思議なレベルから見る風景は、どこか河面から都市を見ることに近いように感じました。普段自分たちが属している平面に立っていると、自ずとそこにある水平の関係性が希求してくる社会ばかりが見えます。俯瞰というほどではないアングルに視点を置くと、その社会と自分との距離感みたいなものを相対的に把握することで、操縦できるようになるということでしょうか。

民家というルーズさの正体

中谷 「幻庵」(1975年)の時にあった極めて結晶的な魅力が「世田谷村」にはなかった。その結晶的強さを意識的に捨てたのが世田谷村だったのでしょう。初めて訪れた時、天才的な農家だったらつくれるかもしれないという、何か変な可能性を逆に感じました。それは柔軟なルーズさではないかと思います。幻庵は遅れてやってきた20世紀のロマンチシズムの結晶なんだけど、世田谷村には21世紀を拓こうとするかのようなルーズさがあった。僕が自分の家を自由につくれるのだと思い始めた時に、世田谷村での体験は確実に効いていた。そして、世田谷村での芸術と技術は二項対立ではなくルーズに融合している。つまり芸術が技術になる可能性もあるし、技術が芸術になる可能性を、世田谷村のジョイントなどの詳細は如実に示しているのだと思います。

石山 世田谷村はいちばん僕に密着してると思うよ。背伸びしてないし、たしかにルーズですね。

中山 ピロティに一歩足を踏み入れて涙が出ました。ルーズを冗長性をもったシステムといい換えると、それって完璧なプログラムですよね。デザイン言語としての冗長性が列記されている、ある種のカタログなんですよね。そして、冗長性としてのルーズさは民家にもある。

石山 日本の建築家が普通の民家を設計できないけれど、地方の工務店の方ができていますよね。民家は農家の副業として少し余裕があった人が半農半大工をしてあれだけのものができた。百姓のもっている高度なテクノロジーが民家をあれほどのものにしました。でも僕には百姓の粘り強さがないからできなかったけれど、本物の民家は職人と百姓とが混じったようなものをつくっている。今社会に、本当は民家がもっている伝統的なもの、保守的なものが人間に必要であることは自明の理なのですがね。

中山 石山さん、十分百姓そのものに見えますよ。それは中谷さんもそうだと思います。実際、高床の家に着いた瞬間中谷さんの姿を見て「ファーマーのようですね」といったら、「それは百姓に失礼だ」って仰っていましたけど、おふたりの中にある百姓性がこの住宅に民家性をもたらしていることは間違いない。

石山 中山さんがいう冗長性をもったシステム、つまり高度なルーズさに繋がるかもしれないけど、それには建築のどの部分を取ってもここは誰の仕事でどんなものでできてるか、ここから先はこれだと自覚しているものでないと駄目だと思うんです。それは論文の書き方みたいなところがある。論文というのは必ず索引があって、積み上げているから非常に共有されやすいものです。まずはこの部分はこう構成されているんだということを、作家たる建築家が正確に書ききる姿勢が必要だと思います。
『新建築住宅特集』を読むと、今の建築家が今なすべきことは何かというような、建築家論になっていることがあります。しかし月評も含めた批評、そして建築家の概要文は、われわれはどうすべきかっていう問題ではむしろないところにあると思う。建築家の位置が相対的に低下してみんな悩んでいるからそういう視点になりやすいけれど、やはり建築はその成立背景に真摯ではないといけないと思うのです。
建築は物体だからその組み合わせにしか過ぎないし、それの面白さがあるわけじゃないですか。それを丹念にやっているものとそうでないものとでは、歴然とした差がある。それをみんな、直感的に密度とかいうんだろうな。

中山 一方で、建築家である自分を主語に話すっていうことが、最近かなり減っているなとも思います。インターネット上でのプログラミングを含むハッキング文化は、70年代とはまた違ったDIYカルチャーを生み出していますが、こうした文脈に近い、システムとそのハッキングとしての建築語りが今はとても多い。お化けのような資本主義や終末的な気候変動のような対象を前にしてしまうと、確かに自分の話は置いておきましょうとなってはしまうのかもしれません。ただ、「このシステムは」とか「この環境は」といった自分の外にある対象を語りの中心に置いて「私」を消すばかりなのも、なんだか違う気がします。石山さんがおっしゃったことは逆になるかもしれませんけれども、もっと「私」という生身の人間が明言しないといけない瞬間というのは建築家にはあって、僕は石山さんと世田谷村にはそれがあると思うんです。世界中のカタログを閲覧することなら今はもっと簡単だし、そうした創意工夫は建築雑誌の中でもかなり洗練されてあります。中谷さんのいう、現代はひとりでも田舎で住めるようになったというのも、あるところまでは水平の関係性のお話しですね。水平の人間。それに対して、くるくる回る地球という球体に、寿命のある人がいて、そこから何かを見て、考えている。2階の書斎にいる中谷さんは、垂直の人間だと思うんです。「垂直な人間」だなんて定義のない言葉では全然上手に説明できないのですが、隣の家がこうだからこの家のかたちはこうなりました、みたいなこととはまた違ったところから、あるいは社会の状況がこうだから、というような地点からではない主体から語られる建築というものを、僕はこのふたつの住宅に強く感じました。

藤村 集落の家を装いながら安易なコンテクスチュアリズムを拒否する高床の家と、生産システムや材料を語りながら地面から高く持ち上げられて世界を見渡すような世田谷村には共通した水平と垂直の二重性があるという感じがしました。

これからの住宅に希望はあるか

石山 少しこれからの住宅の話をしましょう。人間は商売をして利鞘を稼がないと生きていけない。それを認めるのと共に、設計者への利鞘が少なすぎる。設計図に書いているすべての線は、部品とそのあり方すべてを決定しています。それはとても強い力です。その自覚がないと、部品の販売を握って統括している大企業だけが強い構図は続く、オリンピックが終わって、建築家はそこを本格的に攻めていかないといけませんよ。そこに光があるともいえます。
僕は10年前の2011年の正月に、これから住宅にできることがあるのかと思い絵を描きました。簡単にいうと、アパートメントハウスと個人住宅が混ざったようなものを群にしていくような住宅に道があるのではと考えた。この共同住宅をつくるには、120万円ぐらいで個人エレベーターが200基くらいできると前に進む。これを自分で申請して、工業デザインとして生産したいと思ったんです。つまり中量生産です。大量生産でもなく少量生産でもない。これは最初は東北で、どうしたら農業団地がつくれるかを考えていた時に、計算していくとひとつの農家で、自家生産の野菜を売る相手が30軒あってそのうちに1件食堂があるとうまくいくことが分かった。ここからこの共同住宅の案に派生したんです。設計図を書くことはモノの流通を支持することだから、建築家はそこに関わっていかないと先はないと思うんです。極論すれば、建築家は建築村では異邦人の眼を時にもった方が生きるうえで楽でもあるんですよ。

中山 石山さんが徹底的にモノから話を進められることに今回驚きました。この中量生産という発想は、今でいうクラウドファンディングに近いですね。欲しい人が一定数集まったらそれをつくれる仕組みです。作家の塩野七生さんが、ローマの公共建造物は個人の借金でつくられていて、だからいい男の条件は借金が多いこと、要はそれが人望の証だったのだ、と書いています。たとえば今の国家という仕組みでは、たぶん宇宙エレベータのような建造物を実現させることはできないように思います。むしろ、志ある個人がクラウドファンディングのような方法で実現させるシナリオの方があり得るのではないでしょうか。石山さんがいう中量生産のお話しは、僕にはローマ時代や、少し先の未来のシナリオのように聞こえました。

藤村 しかしそれが極端に進むと、人望がある人ばかりが理想を追い求めるという社会になるとも考えられませんか。企画が共感を集めれば出資できるというのはある側面では少し危ういと思います。中量生産には、クラウドファンディングのようにインターネットで情報も金も流れる開放的なものというよりは、「コミューン」とか「村」という少し閉鎖的なニュアンスの方が合っているような気がして、その輪の中で生産するから調達できる、という方が可能性があると思います。

石山 第2次大戦直後のイギリスにクラスルーム・システムというものがあった。学校復興期に財政、物資が厳しい中で、鉄骨造のシステム構法を開発して教育空間として柔軟性が高く、かつ面積効率のよいプランの追求が行われて、それを用いた小学校を100単位で量産しました。もうひとつ、ロシアにもダーチャという郊外住宅のシステムが18世紀から現代まで続いています。都心から60kmくらい離れた別荘で、20世紀以降は労働者階級にも供給されるようになって、食糧不足の時代も今もここを夏季の家庭野菜や果物づくりに利用している。ロシアの人たちは今でも多くの人たちが自分たちで食料をつくっている。そこが面白く可能性があると思いますよ。
僕が大学の教員だった頃、学生のうちに120万貯めて卒業したら土地を買えといっていました。特に太平洋のベルト地帯は津波があるから土地の値段がゼロに近いところがある。若いうちに土地を買って、建築をやりたい人は自分で建てて、商才があるやつは意見広告を出したらいいと。そういうことをするべきだと今でも思っています。剣持昤の「規格構成材方式」とは少し異なり、村のように共同化しているシステムです。

藤村 村というと、コミュニティとか人間関係のことから論じられることが多いですが、物から考える村には、建築の可能性を広げる力がありそうですね。

中谷 こんなに建築家がいるのに日本の住まいの風景がダメなのは、建築家が量産的プロダクトを手中にしていないということですね。その具体例として中規模生産、中規模なブランドを構築していくことにこれからを見ている。

石山 ひとつの住宅でできることは何もないと、一度割り切ってみる。でもそれは捨てきれない人もたくさんいるでしょう。自分のキャリアとして、自分の才能として、何よりもひとつの住宅をつくることが好きであることで。だったら、連なりを意識するしかないんですよ。住宅をつくることになったからってそこだけをつくっていては、自分から関係を切断していることと同じです。だから、建築家は建主に「頼まれて設計する」という意識は捨てるべきです。自分から建てたいと動く勇気は、いつまでももっていないといけないと思います。fig.9fig.10

(2021年11月17日、高床の家と世田谷村にて。文責:新建築住宅特集編集部/初出:『新建築住宅特集』2201 巻頭座談会)

石山修武

1944年生まれ/1966年早稲田大学建築学科卒業/1968年同大学大学院修了、同年建築設計事務所開設/1988〜2014年早稲田大学建築学科教授/2014年〜早稲田大学名誉教授、同年STUDIO GAYA設立/1985年「伊豆の長八美術館」で吉田五十八賞/1995年「リアス・アーク美術館」(『新建築』9410)で日本建築学会賞作品賞/1996年ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展金獅子賞/1998年日本文化デザイン賞/1999年織部賞/2002年「世田谷村」(『新建築』9609)で芸術選奨文部科学大臣賞

    中谷礼仁

    1965年東京都生まれ/1987年早稲田大学理工学部建築学科卒業/1989年同大学院修士課程修了/1989〜92年清水建設設計本部/1992〜95年早稲田大学大学院後期博士課程/1994〜97年早稲田大学理工学部助手/1999年大阪市立大学工学部建築学科建築デザイン専任講師/2005年同助教授/2007年早稲田大学理工学術院創造理工学部建築学科准教授/現在、同大学教授

    中山英之

    1972年福岡県生まれ/1998年東京藝術大学美術学部建築科卒業/2000年同大学大学院美術研究科建築専攻修士課程卒業/2000~07年伊東豊雄建築設計事務所勤務/2007年中山英之建築設計事務所設立/現在、東京藝術大学美術学部建築科准教授/2004年「2004」(『新建築』0612)でSDレビュー2004鹿島賞、2007年第23回吉岡賞受賞/2014年「My Thread - New Dutch Design on Films DESIGNEAST 04」会場構成でRed Dot Design Award best of the best受賞/2019年「石の島の石」(『新建築』1612)で第17回環境・設備デザイン賞優秀賞受賞/2019年「弦と孤」(『新建築住宅特集』1706)で日本建築仕上学会学会賞作品賞・住宅部門受賞/主な著書に『中山英之|1/1000000000』(LIXIL出版、2018年)『中山英之/スケッチング』(新宿書房、2010年)『建築のそれからにまつわる5本の映画, and then: 5 films of 5 architectures』(TOTO出版、2019年)

    藤村龍至

    1976年東京都生まれ/2000年東京工業大学工学部社会工学科卒業/2002年同大学大学院理工学研究科建築学専攻修士課程修了/2002~03年ベルラーヘ・インスティテュート(オランダ)在籍/2005年~藤村龍至建築設計事務所(現・RFA)主宰/2008年東京工業大学大学院理工学研究科建築学専攻博士課程単位取得退学/2010~16年東洋大学専任講師/2016年RFAに改称/2016年〜東京藝術大学准教授

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    「高床の家」の広間から主室を見る。/撮影:新建築社写真部

    縁からは田園の風景を見通せる。/撮影:新建築社写真部

    座談会は2001年の第1期完成から20年経った「世田谷村」で行われた。/撮影:新建築社写真部

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    現在の「世田谷村」全景。/撮影:新建築社写真部

    鉄骨の螺旋階段を見上げる。/撮影:新建築社写真部

    「世田谷村」屋上。風力発電機が回っている。/撮影:新建築社写真部

    「世田谷村」での座談会は夜まで続いた。/撮影:新建築社写真部

    左から石山修武、中谷礼仁、中山英之、藤村龍至。 /撮影:新建築社写真部

    fig. 10

    fig. 1 (拡大)

    fig. 2