2021.12.28
Essay

そとをたてる

石上純也(石上純也建築設計事務所)

『新建築』2021年1月号建築論壇に掲載された記事を新建築.ONLINEでも公開いたします。(編集部)

人と建築。

人がどういうふうに集まることができるかを考える。
そのためには安全でなければならない。 人間を自然から守るために、 建築が生まれる。 建築が増える。 建築が集まる。 都市が生まれる。 都市が膨らむ。 都市が都市を呑み込む。 都市が都市に呑み込まれる。 より安全に人が集えるように、 都市が自然を排除する運動体になる。 人間も自然である。 このように仮定した時、 建築とは一体何なのだろうか。

森。

森のなかでは不思議と動物に出会うことは少ない。深々と生い茂る薄暗く湿った空気のなかに、さまざまな鳴き声が交互に響きわたり、確かな気配は感じる。でも姿は見えない。赤外線カメラを定点で設置する。すると、実に数多くのさまざまな動物たちがそこに姿を現す。その状況を多重露光し1枚の写真に収めたものを見たことがある。とても高密度に、本当に、たくさんの動物がそこに存在し、そこで生活をし、さまざまな活動を行っていることが分かるのである。ある小動物は、倒れた老木と地面との間にできたトンネルをいつも潜り、別のある動物は、その同じ大木の幹の上を歩いて渡っていく。毎日同じ時間に。それぞれの動物がそれぞれの空間をひとつの森のなかに構造として構築しているのである。その写真のなかでは無数の空間が重ね合わせられたとても不思議な光景を眺めることができる。しかしながら、実際には、森のなかではそのような空間が同時に存在することはない。動物たちが、森のなかでお互いに遭遇するということは、被食される側の動物にとっては、死を意味するからである。だから、それぞれの動物は時間をずらし、他の動物に出合わないようにして、生活している。森のなかは、いつも一見何もいないかのように見える。気配はたくさん感じるのに。森という環境の深淵の中で、巨大な空洞を余白として保ちながら、高密度に存在する動物たちが共存している。
そこには、空洞を空洞のままに保つための空間的構造が存在している。

都市。

僕たちが日常生活を営む人間の社会では、みんなが規則性のあるリズムのなかで生活をしている。もちろん、人それぞれ、また、職種によって、年齢層によって異なることはあるけれど、大きく見れば、同じような行動を同じ時間帯に規則的に行うことが多い。それは当たり前と言えば当たり前だ。都市という環境は人間に特化し、自然を排除してきた場所だからだ。自然が排除された環境の中で同じ種としての人間が同じ時間帯に行動を共にすることは当然とも言える。異物としての自然を排除しその環境を純化していく運動、それ自体が都市である。そこではヒトやモノが加速度的に高密度化していく。それが人間にとって安全で便利で快適だからである。

1年前。

1年ほど前から状況が変わった。感染症の拡大によって、都市が安全で便利で快適な場所ではなくなった。とても危険な場所となった。本当に危険かどうかは分からない。でも、社会的には危険だと定義される場所となった。感染症という自然現象が都市を占拠したとも言えるかもしれない。その結果、今までと同じように、都市自身が危険だと感じる自然を排除する動きを取ることになる。常に自然を排除してきた都市が、今度は人間という自然を排除する方向に傾いた。それは何を意味するのだろう。

1年前まで。

現代における社会の繋がりは地球規模である。
物理空間を介さなくとも、世界のさまざまな地域のさまざまな文化のさまざまな人びとと複雑に繋がり合う環境が広がっている。これは、ITなどに代表される現代テクノロジーの恩恵だ。それだけではなく、世界のさまざまな場所に移動しながら活動することが、ある種、日常的に行われていた。ひとつの都市で生活が完結しているわけではなく、いろいろな交通手段を利用し、とても長い距離を常態的に移動し生活していた。その移動の過程で、都市を離れ、都市ではない場所を通り過ぎ、森を抜け、山や海や砂漠を越え、また、都市になる。星座のように繋がる世界の都市をジャンプするようにして生活していた。物理空間としても、僕たちは、地球規模で繋がっていた。 仮想的にも物理的にも地球規模で関係し合う社会のなかで、多元的な時間軸と多元的な価値観と多元的な場所を共有し生活していることが、1年前までは、世界そのものだと思っていた。

現在。

依然として感染が拡大するこの状況の中で、今までと同じように地球規模のスケールの社会を保ちつつ、どのように適応していくことができるか。世界中の人たちが試行錯誤し、生活を続けている。少しずつ改善されてきてはいるものの、家の外に出ることも友だちと集まることも簡単ではなく、ましてや、遠くまで、特に海外に自由に移動することなどは、事実上、不可能に近いくらい難しい。かろうじて、ITなどを利用し、以前のコミュニケーションの規模を維持しているのが現状だ。それは遠い国とのコミュニケーションだけではなく、同じ都市のなかでのコミュニケーションですら、多かれ少なかれ、同様の状況にある。現代テクノロジーの便利さを以前にもまして実感したのは、確かに事実だ。
しかしながら、同時に、みんなが今のこの状況を息苦しく感じ、不満に思っていることも事実なのだ。それはある意味、現代テクノロジーのみでは、新しい生活様式を前提とした社会を成立させることの難しさの裏返しではないか。

不満。

その不満の原因のひとつは、今僕たちがこの状況のなかで生活している物理的環境の不快さからくる。ライフスタイルは大きく変わりつつある。それは先に述べた通り、今の状況を乗り切る手段としてITなどに支えられたものである。しかしながら、物理的空間は今まで同様、何の変化もなく、その既存の空間のなかでなんとか新しい生活様式を試みている状況である。そこに無理があるから、不満が生じる。事実として、都市は僕たち人間を排除しようとしているかのようにも感じる。仮に、都市の外に追い出されなかったとしても、都市にいながらにして、家のなかに閉じ込められている。家という建築の内側が都市の外側であるかのような錯覚さえ生まれる。

未来。

この先、この世界的な惨事がいつまで続くかは不明である。しかしながら、少なくとも、変わりつつある価値観や生活のスタイルはもう完全には元に戻らないだろう。一方で、この先、この状況が収束した時には、再び、世界各地との往来が再開されることは、みんなが分かっている。そう考えると、今僕たちが感じている不満は今だけの問題ではない。地球規模で繋がる社会を前提としつつ、僕たちが、今不満と感じること。つまり、新しい生活様式の中で、毎日、どのように人と交わるか、どのように人と集まるか、どのようにひとりになるか、どのように移動するかなど、物理的空間への不満。それらを解決することを考えるべきではないか。

事実。

今のこの状況に陥る前から、僕たちが生活する物理的な環境は、既に、現代的ではなかったのかもしれない。建築の進歩は、ITなどの最先端技術の進歩に比べるととても遅い。だから、目まぐるしく高速に変化していく世の中に付いていくためには、既存の都市や建築は、最先端技術を機械として装着し、擬似的に、仮想的に空間を刷新し、社会的欲求を満たすしかなかった。それがいちばん、手っ取り早い方法であったのかもしれない。だから、いつの時代からか、建築自体が未来を提案することをやめ、どちらかというと、インフラとして空間やフロアを量産していくか、既存の建築の内装を変えたり、たまに、モニュメントとしてアイコニックな存在になればよいと考えられるようになっていった。それが現代社会に適合した建築であるかのように思っていた。
しかし新しい生活様式のなかでは、ただ単に、現代テクノロジーを装置として機械的に既存の物理空間に装着するだけでは、快適性は満たされなくなりつつある。不謹慎な言い方かもしれないけれど、このような時代になって、ようやく、物理的に空間のあり方を捉え直す必要が、みんなの共通認識のもと生まれてきたように思うのである。 たとえば、今この状況下で住宅を考えることはとても興味深いことだ。今住環境を考えることは、住まいを考えるだけではなく、働き方を考えることにもなるし、そこに住む人の生き方を考えることにもなり、また、社会との繋がりを考えるという意味で都市との関係性を新しく考えることにもなる。これは本来の建築のあり方だ。物理的生活空間としての建築を考えることの必要性がとても重要だとみんなが認識するようになりつつある。

世界の見方。

建築にはその時代の世界観が反映されるべきである。その時初めて、生きた社会が物理空間と結び付く。人間の生活は常に時代と共にあり、その時代のあり方はみんなが社会を俯瞰する世界観そのものだ。先述の通り、現代の僕たちの生活は地球規模の価値観と共にある。そういう観点から考えると、現代的な建築の姿とは、世界観として地球の概念が含まれるべきではないだろうか。建築の集合体である都市も、当然、地球の概念が織り込まれるべきだ。そのことを考えるのが、現代の建築家に与えられた新しい可能性のようにも思うのである。
それはモダニズムにおいての世界観とは大きく異なる。当時の社会の世界観は都市のスケールと一致していた。だから、20世紀に提案された都市は建築のようでもあるし、建築は都市のようでもある。当時の世界観として都市を捉え、その概念を建築に取り込もうと考えていた。それはみんなが知っている。でも、もう過去のことだ。

そと。

それでも、世界がこのような状況に陥るまでの長い期間、いまだに、都市のことを、やはり大きな建築のように捉えていた側面があったのかもしれない。建築の延長に都市があり、都市の延長に建築があるかのように思っていた。だから、世界中の都市で盛んに行われていた大きな再開発も僕たちの生活が便利に発展していくためには必要不可欠であり、また、その結果として巨大な建物が生まれることも建築の進化にとっては重要なフェーズだと、多かれ少なかれ感じ、俯瞰していたように思う。しかしながら、一方で、それらがもう僕たち建築家が目指すべき本来の意味での建築ではないことも心のどこかでは思っていたことではないか。建築のなかに都市がものすごい勢いで流れ込んできて肥大化していき、建築が建築でなくなり、建築が都市そのものとなっていくような感覚さえ覚える。その時、都市が自然を排除する運動だとの仮定に基づくと、建築のなかにいる僕たち人間はどうなってしまうのか。自然の一部である僕たち人間の居場所は一体どこになるのだろう。現在のこの状況の中では、オフィスビルにある職場に出勤することさえも難しい人が多いだろう。それは、オフィスビルが都市の一部だからだ。オフィスビルのなかでさえも、都市だからだ。だから、この惨事の根源である人間という自然を排除する。僕たちは、唯一の居場所となった家という建築のなかに閉じ込められることになる。家の内側は都市の外側である。都市に居づらくなった状況で、都市の住人たちにとっての都市の「そと」は、家の内側となった。
でも狭すぎる。窮屈で不快で退屈だ。まるで牢獄だ。だから、都市から離れて、遠くに家を持ちそこを職場とする人も少なからず現れてきた。居場所としての「そと」を広げるために、都市の外部に住居を求める。今は「そと」を広げるためには都市を離れる以外に方法は少ない。でも、本当の意味で都市を捨てることなど僕たちにできるのだろうか。

庭。

人間が過ごしやすい「そと」を考えることが、僕たちの生活の場としての物理空間を現代的に快適に具体的に変えていくことにも繋がるのではないか。地球という概念を考えることにも繋がるのかもしれない。とはいえ、人間が過ごしやすい外部的環境を都市のなかに見出していくことは、特に新しいことではなく、そのこと自体は、とても昔からさまざまなかたちで考え、実現されてきたように思う。公園や広場。公の場としての都市の外部空間と言ったら、まずこれらを想像する。でも、今となっては、それらもとても居づらい場所になってしまった。もちろん、他の都市空間に比べるとだいぶよい方ではあるけれど、それでも、以前と比べたら過ごしづらい。それらはやはり都市の内側としての外部なのである。都市の外側としての「そと」とは何であろうか。そのひとつの可能性としては、今僕たちが都市の外側だと感じる家とも通じる何かであるべきだ。たとえば、庭である。生活空間の延長としての「そと」だ。昔は、民家などで土間のことを「にわ」とも呼ぶことがあったし、今でも自分たちのテリトリーのことを「にわ」と呼ぶこともある。その意味においても庭とは生活空間の一部としての「そと」なのである。それだけではない。庭とは、概念としての世界を表す場として存在することもある。世界中に今でも残る庭園などは、その類のものも多い。実用的な生活空間の延長であると共に世界を概念的に示すところまで幅広く存在している「にわ」とは何なのだろうか。

庭とインテリア。

誤解を恐れずに言うと、驚くべきことに、モダニズムにおいて、庭について語られたことはほとんどない。ル・コルビジュエも屋上庭園などは提案をしているけれども、それ自体に理論があるわけではない。屋上に庭をつくろうということをみんなに勧め、自分でも実行はしている。でも、それは、ピロティや水平連続窓などと同様、建築の要素の一部であり、それ自体が単体で建築となるわけではない。もちろんランドスケープアーキテクトもランドスケープデザイナーもいる。また、20世紀においても都市公園の提案などはあったけれど、どちらかというとそれ以前の西洋庭園の延長であるか、広場の延長であるかのような印象を受けるし、それも19世紀までには型のようなものはある程度でき上がっていた。近代から現代に至るまでの間に、モダニズム以降に、今僕たちが必要としているような外部空間としての庭を建築や都市と同じレベルで考えたことはあっただろうか。つまり、社会を大きく変えていくために必要な外部空間を建築や都市と同じレベルで提案されたことはあっただろうか。先に述べたように、都市や建築の要素としての庭はあったのかもしれない。それは外構であり建築や都市の付属物としての扱いが強かったように思う。モダニズム以降現代に至るまで、庭には、建築や都市と同レベルの思想が存在しなかったように感じるのである。それはなぜか。おそらく、庭と呼ばれる外部環境が、都市計画や建築計画のなかでは、インテリアなどと同じ概念で捉えられていたからではないか。つまり、ある領域を内部と定め、ある領域を外部と定める。そのフレームを計画する方法には理論を与えるけれど、そのなかで起こることは、コントロールするべきではないという考えがあったからではないか。つまり理論がない。その意味において、モダニズムの都市と建築においては、極端に言うと、外部空間の計画は、インテリアの計画と同次元であったように思うのである。インテリアに家具を並べ装置を取り付け、住みやすくしていくように、外部空間に植物を植え、池をつくり、ベンチを置き、街灯を設置し、過ごしやすくする。それらは今後の利用の仕方や状況などによって、変わっていく要素であり、予測不能なものとして、都市や建築と同じ次元では触れてはならないものと考えていた。

そととしての庭。

庭を建築と同レベルで語るべきだと思う。今、そのことを強く実感する。ではなぜモダニズムにおいては、庭はそのようには語られなかったのか。なぜインテリアと同次元の位置付けであったのだろうか。それは先に述べた理由と共に、庭にもインテリアにも、その当時のテクノロジーの先端がなかったからではないか。モダニズムと機械は密接に結び付いている。建築は、飛行機や船や車と同様、その当時の最先端テクノロジーの結晶としての機械であるべきだった。それらの総体として都市があった。だから、最先端技術の直接的な結晶ではなかった庭やインテリアは、次元としては下位だとみなされた。
現代ではどうか。テクノロジーの最先端はもはや建築や都市にはない。それらの受け皿のようなものだ。そのように考えると、現代においては、都市も建築もインテリアも庭も、捉えようによっては同じ次元である。だからその理由で昔のように未来が求められなくなったとも言える。それでも、それらが同次元で捉えられるようになったこと自体は、ある意味では進歩ではないか。今、新しいライフスタイルを成立させるために物理空間そのものを変化させる必要性がある。それはみんなの気持ちだ。その中でも、都市の「そと」の概念として、庭を考えることは重要だと思う。建築と同次元に庭の可能性を考える。そうすることで、既存の庭の成り立ちを超え、僕たちが求める「そと」のあり方を考えるきっかけにもなるように思う。

都市のなかに地球を。

都市のなかに、地球という概念を取り込むこと。このことは、僕たち現代人が、地球のスケールで社会を感じていることを考えると自然な成り行きなのかもしれない。その時に、都市の「そと」の概念をどのように扱うかが鍵となる。
事実として、人類の「文明圏」を人間が社会や経済などの活動を行う範囲であると定義するならば、人類文明圏は既に地球のスケールである。また、一方で、「生態圏」を太陽エネルギーをもとに引き起こされる生物と非生物の活動に起因する循環が行われる範囲だと定義すると、その範囲も当然、地球規模となる。つまり、人類文明圏はスケールとしては生態圏と等価になりつつある。一方で、それらをシステムのヒエラルキーで考えるならば、人類文明圏は、生態圏の下位システムであることは明確だ。文明圏が生態圏の下位システムでありながら、スケールとしてはほぼ重なり合っている。それは奇妙なことであると共に興味深いことである。 仮定として、文明圏が生態圏に比べて十分に小さな範囲のスケールに限られる場合、その対比としては、生態圏という大きな平面上の小さな点のようなものが文明圏だと見ることもでき、そうすると、文明圏の内側の活動がどうであれ、その点からの出力として外側に現れてくる影響のみが生態圏という平面に関わり合うものとして捉えてもいいのかもしれない。しかしながら、別の仮定として、生態圏という大きな平面に対して文明圏もそれと等規模の平面として重なり合っていると考えると、前の仮定のように単純化して考えることは難しくなるだろう。当然、文明圏のなかに生態圏の概念も含まれてこなければならなくなる。 前の仮定は過去の都市と地球との関係である。けれども、後の仮定はこれからの都市と地球との関係ではない。なぜなら、モダニズムで仮定されていた段階では、人間の活動の日常的なスケールと都市のスケールが等規模であったから、「文明圏=都市」であるとも言えていたけれど、現代では、人間の活動の日常的なスケールは都市の規模をとうに超えているからだ。「文明圏=都市」ではない。都市の概念のみで、人間の活動を全体として捉えることはもう難しく、都市は人間の世界のすべてではない。文明圏のスケールが都市のスケールを超えているという意味で、都市は人工的産物の唯一の集合場所ではないのである。 文明圏と生態圏を重ね合わせて考えると、文明圏にも自然の概念が含まれ、生態圏にも人工の概念が含まれるようになる。依然として文明圏のなかで大きな役割を果たすそれぞれの都市にも、自然の概念が含まれるべきである。「そと」が都市の概念の一部になるべきだ。

地球、自然、庭、そと。

たとえば、次のように仮に定義してみる。
「地球」とは、自然や人間、生態圏や文明圏、すべてを含む無数の多次元世界の総体である。 「自然」とは、人間の意思がない、もしくは、より少ない現象や産物である。 「庭」とは、人間の意思で生み出される自然である。人間の意思によって人間の意思から自由になる現象や産物になる。人間の意思によって人間の意思を超えた概念世界を描く風景ともなる。 「そと」とは、既存のある世界(環境)を前提に、そこから切断される、あるいは、そこから距離を保つ異なる世界(環境)である。短絡的に外部環境のみを意味するのではない。 このように考えると、地球には無数の世界が多元的に存在するのだから、そこには無数の異なる世界があり、それぞれの世界は常に無数の「そと」を併せ持っていることになる。また、自然と庭を個別に観察すれば、自然の「そと」に庭が生まれ、庭の「そと」に自然があるというふうになるけれど、別の視点として、人間の意思によって強くコントロールされた人工環境としての都市の「そと」を考えると、そこには、自然も庭も同じ次元で存在することになる。人為のないもの(自然)、人為を持って人為をなくしたもの(庭)は裏表ではなくなり、都市を起点に考えた時には、同じように「そと」に属するようになるのである。だから、都市の「そと」を考察していくことは、人為と天為をハイブリッドに考えることになり、地球という多次元世界を考えることにも繋がるように思う。その結果、人為から天為までがグラデーション状に変化するやわらかな環境を考えるきっかけにもなるのではないだろうか。そうすることで、今まで自然を排除する運動体として完全なる人為を求めていた都市は異なる姿になるはずだ。

そとと建築。

では、都市に「そと」を取り込むにはどうしたらいいのか。
それには、都市の構成要素である建築を考えるべきである。建築によってどのように「そと」をつくることができるかを考えるべきである。庭と建築を同次元で考察することもその方法のひとつだ。建築をつくると、そこにはたくさんの建築理論が生まれることになる。だから、建築の大きな役割のひとつを、その都度、異なる「そと」をつくることだと考えるようになれば、無数の「そと」の理論や思想が生まれることになり、その結果、人為と天為のハイブリッドとしての多種多様な自然が都市のなかに現れてくることになるのである。そのバリエーションが増えていけば、多元的な「そと」の概念を併せ持つ地球の価値観が都市のなかにも生まれてくることになるのではないだろうか。 その時には、都市という建築の集合形式ではなく、もっと異なる建築の集まり方が出現するはずだ。それはつまり、僕たちが、心地よく受け入れられる新しい人の集まり方にも繋がるのかもしれない。

人と建築。

もう一度最初の問いに戻る。

人がどういうふうに集まることができるかを考える。
そのためには安全でなければならない。 人間を自然から守るために、 建築が生まれる。 建築が増える。 建築が集まる。 都市が生まれる。 都市が膨らむ。 都市が都市を呑み込む。 都市が都市に呑み込まれる。 より安全に人が集えるように、 都市が自然を排除する運動体になる。 人間も自然である。 このように仮定した時、 建築とは一体何なのだろうか。

今ならこう言えるのかもしれない。
そもそも建築とは、人間のために快適な「そと」をその内側につくり出す魔法の箱だったのだ。 元来、建築にはいろいろな環境がいろいろな工夫によって備わっていた。それはそれぞれの地域のなかで、また、それぞれ異なる文化のなかで、その都度、その場に適した「そと」を計画してきたからだ。 建築の内側の環境が都市化され、また、機械装置によって均質化された時に建築の内側に「そと」がなくなった。「そと」のない均質な環境は、頑丈で重々しい物質で満たされた躯体のようなものである。建築から空洞がなくなり、人間はその中で埋もれ苦しむことになる。だから、建築の内側に「そと」を取り戻すことが必要なのだ。建築の内側に「そと」を取り戻すことができるのならば、建築が都市に地球を取り戻す原動力となる。その時、僕たちが今、日常生活の中で感じている、窮屈な不快感が開放されると思うのである。都市の本質が、変わる。少なくとも自然を排除する運動体ではなくなる。

これから先、どのように人が集まることができるのか。先述したように、建築が無数の「そと」になっていった時には、都市というかたちを取らずとも、建築同士の密接な関係を保てるような新しい集合のあり方を考えられるようになるかもしれない。たとえば、建築の集合の密度が高いところが都会で、低いところが田舎というような単純な構図にはならないだろう。あるいは、密度の高いところが便利で、低いところが不便だというようにはならないだろう。なぜなら、その場所の「そと」をつくることが建築の大きな目的になるならば、今、都市であると捉えられている領域の「そと」であっても、それだからこそ、都市的ではない都市の「そと」側こそが、今、僕たちが都市だと認識しているような文明圏の重要な領域ともなり得るのである。また、今、都市である領域であっても、その考えから先に進むと、重要な生態圏ともなり得るのである。もちろん、それらを成立させるためには、物理空間を生み出すための建築のみならず、最先端のテクノロジーも必要になるだろう。それらが共存して初めて成立するはずだ。自由に、多元的に、多種多様な「そと」をその都度選択できる世界では、人が集う方法も多次元で多様であり、とても自由だ。
集まっているのに離れているような、離れているのに一体感を覚えるような、さまざまな距離感や密度をつくり出すことができるようになる。それは、開放性と快適さに自由を与えることである。

そとのもり。

森は、無数の環境が、それらの無数の「そと」と共にある世界である。
その世界では、ある環境は対称としての「そと」と裏表で原理を共有しつつ異なるそれぞれ事象を導き出す。それらの対称性は多次元的に絡み合い、重なり合わされ、複雑な世界が形成される。ある環境には必ず「そと」があり、その「そと」にもさらに「そと」があり、それら複数の「そと」を包含する環境の「そと」もあり、さらにその「そと」もあるというような感じだ。ひとつの「そと」を取り出し、独立した理論を組み立てたとしても、その理論によってすべての「そと」を説明できるわけではない。また、統合的に説明しようとしても、すべての「そと」はその他の「そと」との無限の関係性と無限の絡み合いでできているのだから、全体を把握することはできず、それも失敗に終わるだろう。 「そと」のあり方は、並行して存在することにこそ意味があり、そのことが世界をかたちづくる。把握できない世界をそのままのかたちで、巨大な空洞として残しておくことに意味がある。だから、同じ環境を複製し続けて、ひとつの環境で世界が満たされてしまうと、対称としての「そと」が生まれなくなり、空洞が失われ世界全体の関係性が崩れていく。異なる価値観で「そと」を多様に考え、他の「そと」との関係を築きながら常に「そと」を生み出していくことが重要だ。その手段のひとつは、「そと」を建築として考え計画し建てていくことである。そうしてでき上がる建築の集合体は森のような意味合いを帯びてくる。それは、地球の遠く「そと」まで続き、宇宙をかたちづくる環境の縮図である。 秘密に満ちた森の広がりは、僕たちの住処の未来なのかもしれない。

(初出:『新建築』2101 建築論壇)

石上純也

1974年神奈川県生まれ/2000年東京藝術大学大学院美術研究科建築専攻修士課程修了/2000〜04年妹島和世建築設計事務所/2004年石上純也建築設計事務所設立/2010〜12年東北大学大学院特任准教授/2014年ハーバード大学デザイン大学院客員教授/2015年プリンストン大学大学院客員教授/2016年メンドリジオ建築アカデミー客員教授/2017年オスロ大学大学院客員教授、コロンビア大学大学院客員教授

    新建築
    石上純也

    RELATED SERVICES

    RELATED MAGAZINE

    新建築 2021年1月号
    続きを読む

    『新建築』2101掲載誌面

    fig. 1

    fig. 1 (拡大)

    fig. 1