2021.09.30
Essay

現れては消える、儚くも力強い場所

樫村芙実(テレインアーキテクツ)

真っ暗な教室、低く美しい声で紡がれる厳選された言葉、スライドを括る小さな機械音。壁に投影される深い影を孕んだ写真はどれも魅力的で、15人には少し大きい教室の中は、まるで映画を見ているような雰囲気に包まれていた。私が大学1年生だった時、金曜日の昼前にあった「建築概論」という必修の授業だ。空間の成り立ちの奥深くを探ろうとするこの授業は、見た目の派手さを求める浅はかな若輩には大人びていて、気がつくと心地よい眠りに落ちていたものだ。とある先輩は、大人になってから聞いていなかったことを後悔する上質な授業ですよ、と言っていた。そんな不真面目な私にも、記憶の片隅に引っかかった1枚の写真があって、あの授業から20年余り、知らぬ間に徐々に存在感を増してきて、遠いアフリカでそのことに気づかされることになった。記憶を辿り、書籍化された益子義弘先生の言葉を探し求め(とても後悔していた)、再び出会った写真は「緑陰」といったfig.1。運動会の昼休み、木陰の下でお弁当を食べる家族たちの情景は、目を凝らすと実に多くの驚きがあり、示唆に富んでいる(私も大人になったものだ)。太陽と、陰を落とす木、その場所をちょっと借りる私たち、そんな素朴な空間のあり様が建築の原点ではないかと問いかけてくれる。

ウガンダにはそんな情景がそこここにある。たとえば、切り株で一息つく兄弟と、彼らのためだけに落ちてきたような小さな木陰や、果樹の茂った葉の下で濃い影に包まれて休む牛や山羊。赤道直下でありながら標高の高い高原のような気候は、ああ、人も動物だな、と感じながら風通しのよい木陰を楽しむのに適している。腰掛けるのにちょうどよい大きさの切り株は、その場所を求めた人に発見されたとも見えて、自発的に場所を探す人間の能力をも考えさせられる。あと1時間もすればこの木陰はまるっきり移動して、切り株の切り口は暑く乾いてしまうかもしれない。現れて消える、儚くも力強さを感じさせる場所だfig.2

誤解されるといけないので少し補足をすると、そんな素朴な景色が広がっているのは、未開拓地の貧しい田舎だから、というわけではない。人びとはスマートフォンをもち、デジタルで金銭のやりとりをし、冷蔵庫で冷やされた飲物を飲みながらSNSをチェックしているfig.3。住まいも、気候がよいからといって開けっぴろげでもない。私がよく知る郊外地は目に見えて人口が増えてきており、外部からの人の流入もあって、治安は悪くなってきている。夜のひとり歩きは難しくなり、境界壁には侵入を防ぐ針金と、窓には鉄格子がついていて、夜は格子窓外の窓ガラスを少しだけ開けて風を入れて、蚊帳を吊ったベッドで眠る。門番を雇う人も珍しくなく、彼らは銃や毒矢をもって入り口脇の小さな「ハウス」にいる(見回りの足音は寝室にも近づくので慣れるまでは怖かったものだ)。多くは開口部の取りにくいレンガの組積造ということもあり、その閉じた暗い内部は開放的な木陰のあり様とは対照的で、決して快適な住まいとはいえない。

しかし、彼らの日々の生活がどこか魅力的に思われるのは、彼らが「家」と考える範囲が、閉じた室内に止まらず近隣に広く繋がっていて、それを当たり前に思っているからかもしれない。高いフェンスに囲まれた庭付きの一軒家をもてるのはごく少数の特権階級のみだけれど、庭がなくても、道路に鶏や山羊などの家畜を放牧し、洗濯物を干し、近くの木陰で談笑に興じる。自由に居場所を移動し、時々の居心地を享受しながら暮らすことができているようだfig.4。たったひとりで独占できる空間を「家」というなら、蚊帳に囲まれたベッドの中のみかもしれないけれど、誰かと共有する緩やかな「家」なら、どこまでも広くあれる。それは豊かさだろうと思う。

「緑陰」が18歳の私を魅了し、長い年月を経て私の中で改めて存在感を増しているのは、「木陰のような建築」という雲を掴むようなイメージが抱かせる淡い憧れや夢心地だけではない。ウガンダの生活の情景に触れる中で、木陰が弱々しく移りゆくものではなく強い太陽の光に相対して力強いこと、それがないとヘタってしまう人間の弱さ、そして、安全で開放されていることは当たり前ではないことを肌で感じたからだ。それから、現地の建築が、経済の発展と共に益々閉じていくことへの反発でもある。空調機器の普及と共に機密性のよいアルミサッシが流通し始め、外部の方がずっと心地よいのに、人も空気も室内に淀み始めているようだ。それ、本当に必要?と突っ込みを入れられるのは、気候や文化の異なる場所からやってきたわれわれだからできる重要なことだと思う。

われわれが携わった「やま仙/Yamasen Japanese Restaurant」では、屋内外を問わず心地よさそうに使われているのを見ると嬉しく思う。意図したのはごくごく素朴で、環境に寄り添う空間であること、場所が主役で建築は脇役ということ。敷地が日本であっても同じことを考えていて、周辺環境の違いが建築の装いを変えはするけれど、根本的なありようは変わらずありたいfig.5

建築の設計を生業としている人たちは、生まれてから無自覚に経験したことに始まり、教育の中で自覚的に育んだことを実務や研究を通して醸成し、あるいは崩し、それぞれユニークな価値観を成しているのだと思う。私にとっては、大学卒業までまったく関わりのなかった場所で最初の設計を行なったことが、図らずも大きなきっかけとなり、私のこの価値観やこの能力、通用するかしら?と、何度も問うた。ウガンダに行き始めた頃は、馴染みない場所で設計を行うということに気負い、圧倒されていたのだろう。そこでの「普通」「当たり前」を踏襲することが謙虚で正しい姿勢だと思い込み、根本を問うことから逃げていたのかもしれない。そのことに気づいたのは一旦現地を離れ、東京に戻り平面図を描いていた時だった。

当時、私は都内アパートの2階に住んでいて、南側の窓は農業高校の広い校庭に向いており、樹木が間近まで葉を茂らせていた。床に座り込んで描いていた平面図は、どう線を描いてもうまくいかない。薄いグレーの絨毯にチラチラと踊る木漏れ日をぼんやり見ながら、頭の中ではウガンダの赤い土の上に落ちる影を思い、そこで感じていた暑さと涼しさの強い対比が伝えられていないのだということに気がついた。同じ太陽からの光が、異なる場所をつくっている。この時、ふたつのことを決めた。樹木の影を強く塗りつぶすこと、影を最大限つくり出す壁で空間を構成すること。つぎはぎの紙に描いた汚い平面図だったが、やっと、頭の中のイメージが紙面に現れたように思えたfig.6。土地にある光や影、風と共に土地の環境を描けなければ自分のつくりたいものが描けなかったのだということに気づき、巡り巡って大学1年生の時に見たあの写真、「緑陰」に通じたのだった。この時から、敷地がウガンダであってもどこであっても、そこに影を落とす光がある限り、建築を介して思考を巡らせることができるようになった気がする。

目指すべき「素朴な空間のあり様」とは、使う人が移り変わっても、健やかな時も病める時も、抗わず時を重ねる建築であるのではないか、と思いながら、今、目の前の設計に向かっている。

樫村芙実

1983年神奈川県生まれ/ 2005年東京藝術大学美術学部建築科卒業/ 2007年東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了/ 2007年八島建築設計事務所、Boyd Cody Architects 勤務/ 2011年テレインアーキテクツ共同設立/現在、東京藝術大学准教授

樫村芙実

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「ナンサナの木陰」/撮影:Emi Kabayama

軒下で勉強する子供たち/提供:樫村芙実

工事中に携帯電話をいじる人/撮影:Timothy Latim

「AU dormitory」の平面スケッチ。第一期工事を2013年、第二期工事を2015年に行った。/提供:樫村芙実

土屋昭撮影「緑陰」/出典:『毎日新聞』1990年5月9日

fig. 5

fig. 1 (拡大)

fig. 2