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2021.07.01
Interview

「建築」は何を展示するのか【鼎談】

第17回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館展示

吉村靖孝(吉村靖孝建築設計事務所)×保坂健二朗(キュレーター)×門脇耕三(アソシエイツ)

新型コロナウイルス感染症の拡大により1年間の延期を経て、2021年6月に開幕した第17回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展。日本館は、日本の木造住宅「高見澤邸」を別のかたちに置き換え、ヴェネチアで再構築するプロジェクトを展示しています。今回キュレーターを務めた門脇耕三氏によるプロジェクト解説を踏まえ、キュレーター・保坂健二朗氏と建築家・吉村靖孝氏をお招きして情報技術の時代に建築展として何を展示し得るのか、議論していただきました。

門脇 2021年5月から開催されている第17回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館展示(主催:国際交流基金)では、日本の一般的な住宅「高見澤邸」をヴェネチアに持っていって再構築しています。建築展として実際に建物スケールの展示を体験してもらいたいという思いがあり、従来のように作家をキュレーションしてそれぞれの活動を発表するのではなく、さまざまな職能の方に入ってもらい、みんなでひとつのプロジェクトを進めることにしました。ある時参加作家の長嶋りかこさんから「半年の展示のためにものすごい量のゴミが出ますが、建築家の方は廃棄物の問題をどう考えているのですか?」と問いかけがありました。日本では、未だに年間約81万戸(2020年度)ほどの新築住宅が建設されていますが、一方で人口は減少していて空き家率は13.6%に上ります。このことから、いわゆる都市のゴミとなっている空き家をヴェネチアに持って行くことでゴミを出さない展示をしようということになりました。ただ、歴史的に価値のない一般的な住宅をそのまま復元しても、住む人がいなければ死んだ住宅の展示になってしまうので、再構築を通じてヴェネチアで生きながらえさせることを目指し、住宅を全体でなくエレメントに切り分け、別のものに読み替えることを考えました。機能主義的なエビデンスによって再構築したというよりは、コンテクストが異なる日本から来たオブジェクトになるので、その場所に馴染むようにつくるというのが僕から建築家の方々に与えた課題で、それは今回かなり上手くできたのではないかと感じています。
このプロジェクトのひとつの大きなポイントは、そのままの姿で復元するわけではなく、かといって材料に還元してまったく新しいものに組み直すわけでもないということです。高見澤邸は1954年に竣工してから2019年に解体されるまでの間に4回の大きな増改築が行われています。この高度経済成長期に行われた増改築では、最初は木でできていた住宅に、プラスチックやアルミ、鉄などでできた部材が足され、最終的に住宅自体の姿が大きく変わっています。部材ひとつひとつが非常に重要な時代の証言になっているため、元の高見澤邸の姿や部材の情報を3Dスキャニングやフォトグラメトリの技術を使って保存することにしました。建築家は、このプロジェクト自体が高見澤邸の長い歴史の中の1ページに過ぎないということをかなり意識しています。これまで建築家は、ある意味では世界の造物主のように振る舞ってきましたが、ここではそうした態度はとらず、さまざまなコンテクストや歴史を踏まえた上で、たくさんの職人や研究者と一緒に創造していくことを重視しています。部材には、ひとつひとつに組み立ての指示を新しく入れて、どう組み立てればいいか第三者でも分かるようにしています。
もうひとつのポイントは、コロナ禍で現地に行けない人が多いと予想されることでした。そこで、プロジェクトにおけるウェブサイトの役割を増やし、展覧会はエモーショナルな体験を提供することだけに特化して、ウェブサイトはこれまで収集してきた情報と全体の流れを見せるものとして位置付けました。このプロジェクトでは、建築はものすごい雑多な情報に溢れているということに気づかされました。建築家の職能はこうした雑多なものを捨象してひとつのシンプルな構造を与えることにありますが、今回は建築家が捨ててしまっていた情報の豊かさに打ちのめされました。そして、建築の持つ雑多さ、整理のできなさをむしろ大事にしようという議論をしてきました。展覧会でもウェブサイトでもその雑多な情報をシャワーのように浴びせることを意識しています。ウェブサイトでは収集した情報を整理せずにすべて載せ、その情報に対して自由にズームイン/ズームアウトができるようにオンラインホワイトボードを使っています。引いた視点から見ると大きな時間の流れが見えますが、それに寄っていくことでユーザーが自由に構造を紡いでいくことができるのです。fig.1

知性主義と反知性主義の両立

門脇 このように膨大で掴みどころがないことそのものが、今回のプロジェクトの主題のひとつですが、実際にご覧になっていない中でおふたりにはどう映りましたか?
吉村 2014年の第14回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展で、総合ディレクションを務めたOMAのレム・コールハースが「Fundamentals」をテーマに掲げたのを皮切りに、リサーチベースのプロジェクトが多かった一時期と比べると、今回は展示を現場で施工していて、かなり身体的で建築としての喜びが想像できるプロジェクトです。一方で、日本の典型的な住宅をヴェネチアで圧倒的な解像度で眺め直すと別のものに見え始めるというのは、ケビン・リンチが『廃棄の文化誌』(1994年、工作舎)で述べていた「ゴミはサイクルの一部でしかない」という思想を地で行くものだと思いました。各材料のもっている性質を現場で即興的にアレンジする反知性主義的な操作がありつつ、解像度を上げることで膨大な情報を生産し、それらを知性主義的な態度で建物を分析していく姿勢も同時進行しています。また、コロナ禍になる前から情報技術の活用が積極的に行われていますが、そこにはコミュニケーションの不可能性があらかじめ織り込まれているようにも見えます。たとえばグリッチアートのような、情報が欠落してしまうことを歓迎している側面があり、それを創作の手掛かりにするところは、A地点(日本)とB地点(ヴェネチア)でまったく同じ完成を目指す情報技術万能主義とは違うアプローチな気がしました。つまり、反知性主義的だと思えば、一方で知性主義なところもあるし、単純なサステナビリティや情報技術の活用ともいえない、さまざまな切り口で語れる厚みのあるプロジェクトで、それぞれが逆向きの引力を活用しています。
門脇 確かに、チームにはリノベーションを主軸としている人とデジタルを主軸にしている人が混在し、互いにリスペクトをしつつも違和感を感じている部分があって、それがそのまま現れているのだと思います。

展覧会の倫理性

門脇 保坂さんはいかがでしたか?
保坂 展覧会とは何かということを考えさせられるプロジェクトでした。日本館で外を使った展示はこれまでもたくさんやられてきましたが、その際には主従が逆転してて、外が大きくつくられて内側は空っぽな構成が多かった印象です。今回はそのバランスがよいですね。また、今までは日本館に多量の情報が持ち込まれた場合、それは人海戦術的なリサーチに基づく歴史的情報だったわけですが、今回はそれとは違う一見ありふれた情報です。でもよく考えると、実際僕らは無数の多様な情報に囲まれていないと生きていけないはずで、そのことを気づかせてくれるような、軽いけれど無数の情報が今回の日本館の中にはあります。fig.2 そのうえで、それなりの住宅の歴史をもった物理的なエレメントが、スクリーンやベンチなどへとかたちを変えて屋外に置かれていることが示唆的です。fig.3fig.4fig.5 それは歴史的な重みを持つ展示というよりは、軽やかなデザインによる設置であるわけですから。また、展示自体が全体の流れの中で輸送やその後のプロジェクトとヒエラルキーのないフェーズとして扱われていて、それをよく表現しているのがウェブサイトによる全体のマップです。キュレーターの立場からすると、展示というのはひとつのピークで、ほかのフェーズとなかなか等価に扱えないのですが、それが少なくともあのマップの中では等価に見えましたし、今のお話を聞いていてもそう捉えるのが妥当なのだと思います。
また、環境問題に対する議論は、建築展をやる上で常についてくる課題です。僕が2017年に東京国立近代美術館でキュレーターとして担当した「日本の家 1945年以降の建築と暮らし」展でも、清家清の「斎藤助教授の家」の原寸大部分模型を制作する際に議論になりました。その時は、再利用できるようにすることを考えると途端にコストが跳ね上がることがあって展覧会が終了したら壊すことにしました。このように、プロパーのキュレーターは全体の流れの中で抑揚を付けつつ、諦めるべき部分を決めているというところがあります。そう考えて見ると、今回はプロのキュレーターではないからこそ等価に扱えたのだと思いました。いい換えれば、全体を通して、倫理的であるにはどうするべきか非常によく考えられていると思います。ヴェネチア・ビエンナーレは、美術展の場合、出展されている作品が実はその場で売買されていたりして、コマーシャリズムの中にどっぷり使っていることが指摘されています。それに対して、今回の日本館で、再利用の形で使われた部材が、さらに別の場所で再利用されることまで計画されているというのは、建築展はどう振る舞うのか、あるいは建築に関わるキュレーターや展覧会として、どう振る舞うことが正しいのかというヒントを示してくれたと思います。美術展も非オブジェクト的なものが増えている中でここから得られるものがきっとあるはずです。fig.6

建築展における真正性

門脇 建築の展覧会の宿命的なテーマとして、何を展示するべきかという問いがあります。模型や図面は建築を間接的にしか伝えられないけれど、実物をそこにつくればいいということでもない。本当に建築そのものを伝えるにはどうすればいいかという問いに対する私たちの答えがこのかたちであるといえます。こうなってくると、展覧会という空間的・時間的な枠組みは高見澤邸が生きた時空間の部分に過ぎないので、その枠組みを越えた展示をしたいと考えていました。吉村さんも以前から建築展が抱えるこの問題について言及されていますが、どうお考えですか?
吉村 アルベルティ・パラダイムじゃないですが、建築より図面が先行するから図面がオリジナルであり建築がコピーであるという発想からすると、建築展で図面や模型が展示されることをありがたがるのは当たり前でした。しかし、だんだんとその前提が変わってきています。あるいはたとえ原寸大の建築を建てたとしても、コンテクストにまったくマッチしていない原寸大の建築とは何なのかという疑問が生じてしまう。従って本当の意味で実物は展示することができないという宿命を背負っていました。けれども今回の建築展は、建築家が高見澤邸と現地に運ばれた部材に向き合う過程そのものが展示物なので現物を展示し得ました。工房になっているピロティで生み出されるモノたちは現物としかいいようがないというところが、これまでの建築展と違うところだと思います。fig.7
門脇 レオン・バッティスタ・アルベルティ的にいえば、これまでは図面が真正だったわけですが、情報技術が発達して図面が容易にコピーできるようになると、その真正性が揺らいできます。情報技術時代の展示のあり方としてはどのように感じましたか。
吉村 確かに情報技術をフル活用しているのですが、完全に同じものを転送できてしまうことに価値を置いていませんよね。情報技術を使うことで、モノが複製されること、移動すること、さらにはモノを再現する表現まで、そのレイヤーやメディアが変わると何が起こるかということそのものを問うてることに価値がある気がします。情報技術を使いながら技術の限界にも可能性を見ているようなところが面白いと思いました。
門脇 何が本物なのかという問いは、現代美術の展示でも問われることなのではないでしょうか?
保坂 美術でいうと、例えば映像は何をもって本物であるか、どのように同一性を確保するかを決めるのが難しいメディアです。同じ作品であっても空間ひとつ違えば見え方も変わってきます。ストーリーは変わらないものとしてありますが、それだけを見るのは無理で、映像の色味やそれが展示されている部屋のかたちなど、すべての合成物として映像作品を見ているはずですよね。このように、実は同一性や真正性が極めてあやふやな中で僕らは映像作品を見ています。一方、絵画は、額や照明が違えば見え方は違ってきますが、キャンバスのようにモノとして変わらないエレメントはある。このように映像作品の同一性をどのように定めるのかが極めて難しい中で、最善のこととして何ができるかを、アーティストもキュレーターも考えています。モニターの場合、プロジェクターの場合、個室が与えられる場合、部屋が小さい場合、いろんな状況を仮定して、それぞれにおける最適解を予め用意しておき、作品の同一性を保とうとするわけです。そこから建築展を考えると、一体何を展示すればお客さんは建築展を見たと感じた上で満足するのか、そもそも何を展示すれば建築展と呼ぶことができるのだろうかということが、常に問われる非常に奇妙なフォーマットです。僕が2010年に東京国立近代美術館で企画した7人の建築家による新作インスタレーションを展示する展覧会で、最初「楽しい建築」と題していたのを最後の局面で「建築はどこにあるの? 7つのインスタレーション」とタイトルを変えました。それはその時の率直な感想で、展示の仕方によって展示しようとしているところの建築の意味は変わってくるし、逆に建築展というフォーマットが発達すれば、みんなが考える建築もまた変わってくると思うのです。建築展が、思考の触媒の作用を持つものとして機能すれば、それはとてもよいあり方で、ひょっとすると今回のプロジェクトはそうなっているのではないかという気がします。正直今回のプロジェクトが選ばれた時は、あんな凡庸な住宅を展示することに一体どのような意味があるのかと思いました。しかし、今日話を聞いて、そこに情報というファクターが入ることで、小さな家でも無数の情報と物の集積体であるんだということが分かった。モノそのものの情報のネットワークが家そのものにあって、しかもそれを解きほぐすことでほかにも繋ぎ得ると提示できたことが、建築とは何か、あるいは、今建築とはどういう意味を持ち得るのかということを考え直すきっかけになるのではないかと感じました。モノを展示するという大前提を、プレゼンテーションの場として読み替えたのが、情報化時代の展覧会の変更点な気がします。

情報の膨大さはアウラに関係するのか

門脇 岸政彦さんの『断片なものの社会学』(2015年、朝日出版社)の中に、社会学の調査で行ったインタビューの途中で、インタビューを受けてくれた男性の犬が亡くなってしまうエピソードが出てきます。その出来事はとても印象的なものですが、主題と関係ないのでインタビューには絶対載らない。しかし、そうした記録されることのない断片的なものこそが世界をつくっていると岸さんは書いています。僕はこの話にとても共感するのですが、建築家がこれまであまり扱ってこなかった、断片的で、雑多で、些細で、取るに足らない、しかし膨大なものの集合体こそが建築なんだと、このプロジェクトをやって気がつきました。その気づきから出来上がったのが、あの館内展示でありウェブサイトです。
吉村 情報の膨大さというのは、ヴァルター・ベンヤミンのいうアウラと何か関係していますか。高見澤邸は、凡庸な家ではあるけどいわゆる郊外の量産住宅とは違うと感じていて、長い時間あの場所にあることによってある種の一回性みたいなものを備えています。今回の展示は、ある意味では高見澤邸が持っている固有性、一回性に依存している部分があるような気もするし、膨大な情報の生産が可能であったことと無関係ではない気もします。
保坂 すべて把握することを望んでないくらい拡散的な膨大さに向かっていて、少なくともウェブサイトにおいてはアウラを感じている瞬間はないと思います。また、それをキュレーターが感じさせようとしたかどうかが重要なポイントになってきますが、きっとそうではないのではないかと感じています。
門脇 高見澤邸は日本の戦後の住宅の歩みと時代的に完全に符合していたり、ものすごくアドホックな増改築が積み重ねられているという点で、学術的には確かに貴重なサンプルです。ただ、高見澤邸に一回性があるとしたら、そうした特殊さではなく、普通の営為の積み重ねそのものが関係しているように思えます。おそらく一度も増改築されていないもっと陳腐な郊外住宅を持ってきても、生活の営みによってそれなりの情報の膨大さは感じられるはずで、それがある種の特別性に繋がったと思います。一方で展示の上で何かそれを演出したかというと、むしろ特別性を演出しないように心掛けていました。
保坂 都市の問題を扱おうとすると、それは同時に遊びの場や公共住宅といった人の生活を扱うことになりますし、ヴェネチア・ビエンナーレではそうしたテーマがむしろ主流ですが、日本館はそこを長年扱ってこなかった気がしています。例えば山名善之さんがキュレーターを行った第15回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展の「en[縁]:アート・オブ・ネクサス」は、タイトルに「エン」という日本語を使ったということもあって、日本の特殊性や若手建築家がそれに対してどのような特殊な解を与えているのかに焦点が当てられ、共有性に結びつきづらいのではないかという印象を僕は持ちました。今後、日本館は、どうやって人の生活の拡がりを扱っていくのかが課題だと思います。人の生活を扱うという意思を持つことによって初めて、公共建築から住宅建築まで、大きな都市の問題から小さな公園のことまでを、等価に扱うことができるのではないか。これまでは、公共建築の方が規模が大きいため、個人住宅より優れているもの、見るべきものとして語られがちで、住宅はそのヒエラルキーの差異を補って余りあるほどの特殊な造形の解を出した場合に、価値を与えられてきました。そんな中で高見澤邸のプロジェクトが面白いのは、住宅だけどそこに伴う情報量が膨大であることを見せようとした点です。つまりその意図においては、公共建築と住宅建築を分け隔てて見る必要がないんだということになるからです。今回のプロジェクトではとにかく情報がキーワードになっている気がします。
門脇 ごく普通の建物も膨大な情報量によってアウラを持ちえて、したがってそれは人に見せるに値するというのが私たちにとっての発見でした。
吉村 美術の世界で言われてきたアウラというのは、作品から2m離れた視点から得られる一回性です。一方で今回は、『パワーズ オブ テン─宇宙・人間・素粒子をめぐる大きさの旅』のように、解像度を変えてチューニングし直すと量産品にもすべてにアウラが備わっているような、俗にいわれるアウラとは少し違うステートメントかもしれないという期待もあります。例えば高見澤邸が建てられた時は、近所で取れる材料でつくられていたのが、ある時期から世界中のあらゆるところから材料が運ばれてひとつの住宅にアッセンブルされる。そうゆうモノの記録の精度を上げていくと、単なる量産といえなくなるような性質があらゆるものに備わっている気がしました。それを可視化したことが今回の成果であり、解像度を選び取ることによってまったく違う見え方をする点は、今後建築を語る方法として可能性がありそうです。

「モノ」の「コト」化

保坂 高見澤邸の情報から移動、展示、その後も含めてアーカイブ化されていますが、展覧会についてのアーカイブと、展覧会で展示されるモノのアーカイブが一体化しているのは珍しい例ではないでしょうか。今アーカイブはその意義を絶対視されているところがあって、アーカイブが何のために機能するのか、それにどんな意味があるのかということは、あまり議論されてこなかったように思います。一方、ここ最近「モノ」の消費から「コト」の消費へと変わったといわれていますが、その価値観の変化に展覧会としてどう向き合うのかという課題があります。通常は、技術を駆使してさまざまな体験型の展示をつくることで「コト」の消費に対応することを目指しますが、今回の展示はまた違ったかたちでの「コト」の消費への対応なのではないかという印象を受けました。かつての場所で営まれていた生活、各部材に染み込んできた何かを感じることも、「コト」の消費と呼べるだろうと。このことは相当示唆的で、というのも高見澤邸は特殊と凡庸が重なった非常にユニークなケースですが、そういう絵画作品も相当あるわけです。例えば壁に掛けられている何の取り柄もないといいたくなるような絵にだって、さまざまなコトが染み付いているわけです。それを感じられるような展示をつくれないか。モノを見ることとモノの背景を知ることが一体化するような方向に美術展も移っていけるのではないかと感じました。美術館は、常にモノを収蔵する可能性を考えながら、新しいタイプの展覧会を切り拓いてきましたが、今や、まったく新しいことをすることはできないくらいにやり尽くされた感があると同時に、世界中の収蔵庫がパンパンになってきてコレクションすることが物理的にできなくなっているという、飽和状態にあります。そんな中で、今回の日本館のプロジェクトからは、体験のあり方を変えることによって展覧会というフォーマットに変化を起こせる可能性があるのではないかと教えられました。
門脇 僕は構法が専門ということもあって、このプロジェクトでは当初、高見澤邸を単なるモノの集まりとしてドライに捉えていました。その態度は今でもあまり変わってはいませんが、数十年という時間的スケールで眺めると、高見澤邸を構成しているモノは集合と離散を繰り返していて、そこには動きがあることが分かってくる。保坂さんがおっしゃるように、これが「モノ」を「コト」として捉えるということなのかもしれません。また、この住宅がダイナミックに変化しているその一瞬の「コト」にはさまざまな人が関わっているのですが、この展覧会では、そうした過去の時間の中にいる人たちと、「モノ」である住宅を通じて一緒にいるような感覚がつくれればと考えてきました。時間という視点を導入することで、建築は静的なものではなく、動的なものであるという感覚が芽生えてくる。今回は「情報」や「コト」というキーワードが浮かび上がってきましたが、そこにはもっといろいろな可能性があるのかもしれません。fig.8

文責:オンライン編集部

吉村靖孝

1972年愛知県生まれ/1995年早稲田大学理工学部建築学科卒業/1997年早稲田大学大学院理工学研究科修士課程修了/1999〜2001年文化庁派遣芸術家在外研修員 としてMVRDV在籍/2002年〜東京大学大学院、早稲田大学、東京工業大学の非常勤講師を歴任/2005年吉村靖孝建築設計事務所設立/2013〜17年明治大学特任教 授/2018年〜早稲田大学教授/2014年「窓の家」で第1回AP賞受賞/2014年「中川政七商店新社屋」で日本建築学会作品選奨/2012年「TBWAHAKUHODO MEDIA ARTS LAB」で日経ニューオフィス賞ニューオフィス推進賞受賞/主な著書に「ビヘイヴィアとプロトコル」(2012 年、LIXIL 出版)「EX-CONTAINER」(2008 年、グラフィック社)「超合法建築図鑑」(2006 年、彰国社)

保坂健二朗

1976年茨城県生まれ/1998年慶應義塾大学文学部卒業/2000年同大学大学院修士課程修了(美学美術史学)/2000年~東京国立近代美術館研究員/2011年~同館主任研究員/企画した主な展覧会に、「建築が生まれるとき ペーター・メルクリと青木淳」(2008年)「建築はどこにあるの? 7つのインスタレーション」(2010年)「フランシス・ベーコン展」(2013年)「Logical Emotion: Contemporary Art from Japan」(2014年)、「日本の家 1945年以降の建築と暮らし」(2017年)/2021年〜滋賀県立美術館ディレクター(館長)

門脇耕三

1977年神奈川県生まれ/2000年東京都立大学工学部卒業/2001年同大学院工学研究科修士課程修了/東京都立大学助手、首都大学東京助教などを経て、2012年~アソシエイツ設立・パートナー/現在、明治大学准教授、東京藝術大学非常勤講師/博士(工学)

第17回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 日本館展示「ふるまいの連鎖:エレメントの軌跡」

  • 会場

    日本館(ビエンナーレ会場ジャルディーニ地区内、ヴェネチア)

  • 会期

    2021年5月22日〜11月21日

  • コミッショナー・主催者

    国際交流基金(JF)

  • キュレーター

    門脇耕三

  • 参加作家

    長坂常、岩瀬諒子、木内俊克、砂山太一、元木大輔、長嶋りかこ

  • 特設WEBサイト

    https://www.vba2020.jp

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第17回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館展示

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鼎談映像vol.1

日本館館内の展示風景/撮影:Alberto Strada

元木大輔による屋根を再構築したベンチ/撮影:Alberto Strada

岩瀬諒子による看板建築のファサードを再構築したスクリーン/撮影:Alberto Strada

砂山太一+木内俊克によるファサードと階段を再構築した展示壁/撮影:Alberto Strada

鼎談映像vol.2

会場の一貫性をもたせる役割を担う長坂常によるブルーシートと単管足場を組み合わせたデザイン/撮影:Alberto Strada

鼎談映像vol.3

fig. 8

fig. 1

fig. 2