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2023.05.09
Interview

東京と黒部、ふたつの重要拠点から本社ビルとワークプレイスを考える

𠮷田忠裕(YKK代表取締役会長CEO)×亀井忠夫(日建設計代表取締役社長)

*本記事は『新建築』2015年9月号にて、「YKK80ビル」と共に掲載されたものです。原文のまま再掲いたします。(編)

本社ビルとは何かを考え直す

──旧本社ビルを建て替えられました。本社建て替えにあたりどういうことを考え、目指されたのか教えてください。

𠮷田忠裕(以下、𠮷田) 1934年に先代(𠮷田忠雄)が創業したYKKは、日本橋蠣殻町、日本橋馬喰町、浅草雷門と転々とした後、1963年に秋葉原駅すぐの神田和泉町に旧本社ビルを構えました。以前大名屋敷が建っていたこのエリアは、徒蔵エリアと呼ばれ(御徒町-蔵前-浅草橋)、繊維関係の問屋がたくさんあり、今もモノづくりの会社が集まっています。私は1972年に入社した頃から、本社をどうしていくべきかずっと考えてきました。先代はメーカーとしての会社の位置付けをとても大事にしていて、大きな本社はいらない、その代わり工場に投資すべきという考えでした。われわれは、開発や製造は富山県黒部市の工場で行っています。そうした時に、本社とは何なのか、どこにあり誰がいれば本社なのかと思考を繰り返しました。

──建て替えに至るまで、どのような道のりでしたか?

𠮷田 先代がつくった旧本社を建て替えるにはまだ早い、けれども建材部門のショールーム的役割がほしいというせめぎ合いの中で1993年につくったのが、両国の「YKK60ビル」(旧YKK R&Dセンター・『新建築』9308)でした。でも時が経ち、さすがに本社が手狭になり、また海外からの来賓も招けるようにしたいと考えました。最初に亀井さんにお会いしたのは1999年と随分前のことでした。新本社の設計を正式にお願いしたのは、旧本社が竣工してから45年以上が過ぎた2011年です。その間に亀井さんは「日建設計東京ビル」(『新建築』0308)や「東京スカイツリー」(同1206)も手掛けられていました。

亀井忠夫(以下、亀井) 最初にお目にかかった時はまだ敷地も確定せず、ケーススタディを行いました。それと同時に、本社とはどうあるべきか、何が必要かという議論に、多くの時間を費やしましたね。

𠮷田 そうしてスタートしましたが、基本設計途中の2011年に東日本大震災が起こり、一度計画を中断しました。その上で地震や浸水にも耐えられる、技術的にいちばん高いレベルの建物をつくりたいとお願いしました。旧本社同様、新本社も新しい時代に合い、かつ長期的に使える強い建物をと考えたのです。

亀井 𠮷田会長は経営者であると同時に建築に造詣が深く、本社のあるべき姿が思想だけではなくハード面でもイメージされていました。だからわれわれはコミュニケーションが取りやすく、同時にハードルも高かったですね。基本計画の頃から月に1度という早いペースで会長と打ち合わせさせていただき、本社ビルとは何かを追求していきました。

会社の思想を反映する自社ビル 

──新本社「YKK80ビル」では、どのような設計を意図されましたか?

亀井 私が企業の本社ビルの設計を手掛けるのは、「JTビル」(『新建築』9507)、「日建設計東京ビル」に続いて3つ目でした。本社ビルは、それぞれ会社の思想が結果的に反映されるという特徴があります。「JTビル」は当時日本たばこ産業が日本専売公社から民営化したばかりで、そのメッセージを示そうとして、ビルの足元回りをパブリックに向けオープンにしました。「日建設計東京ビル」は、着飾らない実質本位の建築とするため、ワークプレイスは天井を貼らずに構造・設備を露出させ、省エネを考慮して電動外ブラインドを採用。完成後もワークスペースの実験的レイアウトなどにチャレンジしてきました。「YKK80ビル」は、長く使える強いもの、そして社員が安全に快適に働ける場という思想を受けて、BCPとエネルギー、快適性を主眼に据えました。免震構造を採用、十分な容量の非常用発電機や備蓄倉庫も設置しました。またミニマムなエネルギーで快適な執務空間をつくるため、西面の昭和通り側の外装はアルミの型材を新たに起こし、すだれ状のスクリーンで日射を遮っています。また内側のダブルグレージングの間にクライマー・ブラインドを設けて、熱と音をコントロールしています。屋上緑化も盛り込み、一般的なビルに比べてエネルギーのランニングコストを約60%削減しました。空調は輻射冷暖房にすると共に微気流をつくり出し、より快適で効果的なものにしています。

𠮷田 空間については、社員のコミュニケーションを促すためにも人の動線は非常に重視しました。エレベータは当然必要ですが、そのほかに普段使いの階段がほしかったのです。執務室内の階段は食堂や役員階、屋上まで貫通させることで、セキュリティ内は自由に動けるようにしたかったのです。

亀井 テナントビルでは効率を重視してコアを一カ所にまとめ、その回りにオフィスを最大に確保します。しかし「YKK80ビル」では、フロアの中心と外周部に階段があります。これにより人同士がとても繋がりやすくなりました。われわれの「日建設計東京ビル」は、自社ビルとはいえ、テナントビルとしてフロアごとに貸せる可能性を残そうと各階を明確に分断したため、フロアを超えて協働しにくいのです。経営側の考えを取り入れた上でも、もう少し繋げる方法を考えておくべきだったと反省しています(笑)。

𠮷田 1階の車寄せは思い切って貫通させたり、昼食時以外も一日中コミュニケーションができる社員食堂など、執務空間以外もテーラーメイドならではの特徴を盛り込み充実させました。社員食堂では屋上の菜園で育てた野菜も出す予定で、今朝も食べてきましたが、なかなかよかったですよ(笑)。

亀井 その意味で、「YKK80ビル」は余剰性(redundancy)がある点もポイントです。共有部がテナントビルに比べて余裕があることで、人の居場所や繋がりが生まれることを期待しています。もちろん先ほどお話したBCP面などでの余剰性も重要なファクターです。

──企業にとって、テナントビルを借りるのではなく、あえて自社ビルを建てる意義は何でしょうか?

𠮷田 建て替え期間中は近くのテナントビルに移転していました。執務空間やエレベータ、トイレ回りをはじめ空間が明快で、先進都市型のオフィスビルを体感したいへん勉強になりました。しかしわれわれがすべきことは、少し違うのかなとも同時に思いました。経営者としてはリスクヘッジとして売りやすく貸しやすいビルを考えるべきで、その意味ではテーラーメイドのビルは価値が下がる可能性があり、よい選択ではないのかもしれません。ただせっかく建てるならば、社員が安全で快適に、働きやすいことを最優先に考えるべきだと思ったのです。

亀井 この10年ほどは、自社ビルを持つよりも大きなテナントビルを借りて本社とするケースが多くなり、われわれもそうしたビルの設計が増えてきています。しかし自社ビルを持つことによって、オンリーワンのテーラーメイドのオフィスができますし、役職員にとっても精神的な意味があると思います。

東京と黒部──二拠点体制を支えるもの

──本社のある場所についても、さまざまな検討をされたそうですね。

𠮷田 実は建て替えが具体化する何年も前から、建築空間以外にも知見を広げるため、企業の立地を探る実験を数年にわたり行っていました。工場は黒部にある上で、企画や営業の担当者が人と交流するには空港に近い羽田がよいのか、鉄道の便がよい品川や新宿がよいのか、立地面からもわれわれに必要なオフィスとは何かを学ぼうとしたのです。海外から訪ねてくる顧客に対応する営業担当者も含め、彼らはどこにオフィスがあれば働きやすいのか、社員に希望の場所を考えさせました。そこで得た知見としては、社員が望むオフィスとは駅のそばにあり、人の出入りが自由にできること、そして何より住まいとの関係性がよいという意味で、どの沿線に位置するか、だったのです。確かに「YKK60ビル」は両国にあり、秋葉原を基準に考えていた社員の自宅からは通勤が大変という意見が多く、駅からも遠いので不便でした。今回秋葉原の同じ敷地で本社を建て替えたのも、交通も便利で駅から近い場所に本社があるのはよいと改めて分かったからです。

亀井 オフィスはやはり必然性のある場所に立地する必要があります。利便性はプライオリティの高い判断基準でしょうし、その土地と企業との歴史的な関係性なども重要なファクターでしょう。

𠮷田 2015年3月に北陸新幹線が開業し、工場近くの黒部宇奈月温泉駅に停車するようになりました。インターネットの普及や鉄道の利用により、これまでも東京と黒部の二拠点で連携していました。しかし天候の影響も受けず、東京・黒部間を最短2時間14分で繋ぐ新幹線は隔世の感があり、新たなステージに入った気がします。先代の頃は、月の前半は東京、15日頃に黒部へ移動して取締役会などを行い、月末にまた東京へ戻ってくるやり方でしたが、私の場合は週の前半が東京、後半が黒部で、用事があれば日帰りも簡単です。

──本社機能も一部黒部に移す取り組みをされ、230人の社員が東京から移られます。つくる現場を超えて、距離や機能を生かしながらどういう働き方をされようとしていますか?

𠮷田 北陸新幹線の開業により、新たな連携と働き方が生まれようとしています。YKKは海外71カ国/地域に展開していますが、その際に海外のオペレーションが連携を取るのは黒部で、東京は経由していません。富山県は先代の生まれ故郷で、戦時中東京の工場が焼失した時に、魚津に工場をつくったのが始まりです。現在約6,200人が働いていて、改修した黒部の「YKK50ビル」(1984年竣工、『新建築』0612)と東京の「YKK80ビル」、「YKK60ビル」で、3つの建物を頻繁に行き来できるようになりました。東京に地震などの災害があって止まってしまっても、黒部にも本社機能の一部を移しているのでリスクヘッジにもなります。どの建物で何のミーティングをするのか、スケジュールやルールを事前に決めておけば移動の無駄もなくなります。東京と黒部、企業の機能と社員が各所に分散している。それらと海外の事業所を結び、ネットワークと交通網を利用しながらコミュニケーションもできる、新しい時代はそうしたやり方が必要かなと思います。各所を「繋ぐ」ことで、より一層連携を強化し、YKKグループのシナジーの最大化、つまりはメーカーとしてのもうひとつの生産性=効率が生まれることを目指しています。

亀井 先ほど建物の余剰性(redundancy)の話をしましたが、拠点にも同じことが言えるかもしれませんね。今は東京を経由せずとも、地方から世界へダイレクトに繋がることができます。こうした働き方が出てきた時に、デュアルやトリプルをキーワードにすることが大事かと思います。

二拠点体制がもたらすもの

亀井 今、日本ではさまざまなものやことが東京に一極集中していますが、これは世界的にも珍しい現象です。地方の発展にはやりようによってはまだ可能性が多くありますし、それには企業をきっかけとした働きかけがとても有効だと感じています。アメリカのインディアナ州のコロンバスという小さな街では、エンジンをつくる会社のオーナーが建築家に頼んで、公共建築を含めて街の資産となる建物をつくっています。これにより働く場ができ街にも活気が生まれるという、企業による街おこしの先駆的事例と言えるでしょう。日本でも、長野県上田市に日置電機の研究所をつくらせていただいたことがありますが、ここも上田という場所にこだわり、さまざまな面で街おこしを行っていました。地方に仕事が生まれ発展すれば、ワークプレイスも東京とは違う自然に触れる職場ができるかと思います。建築家も各地域を生かした魅力的なオフィスの提案ができるでしょう。そのためにはまず産業がないといけないので、𠮷田会長のような活動を先導される方の存在がたいへん重要だと思っています。

𠮷田 二拠点体制を打ち出したことで、会社だけでなく地域社会への責任も今まで以上に感じています。本社機能一部移転に伴い、東京から黒部へ現時点で110人が、これから120人が転勤するのですが、社員と家族が黒部で幸せな生活を営めるよう企業としてサポートすることが、ワークプレイス以上に難しい問題だと感じています。
富山県は持ち家率も家の大きさもトップクラスで、住宅面で非常に豊かな県だと言われています。しかし東京からきた家族にとって手頃な家が近くになく、移動も車が中心で一家に2〜3台必要になることもあり、天気も冬は不安定です。こうした東京とは生活環境が大きく異なる中で、生活面の課題をどう解決できるかが鍵となってきます。新幹線の乗降率がよいと喜ぶだけではなく、東京からきた人もきちんと暮らしていける、そのために地域に何をしなければいけないかを考え、動き始めることが重要です。

──具体的に始められている取り組みはありますか?

𠮷田 黒部で「パッシブタウン黒部モデル」(マスタープラン:小玉祐一郎、宮城俊作)に取り組んでいます。これは自然エネルギーを活用した集合住宅と商業施設によるまちづくりで、未来に向けた地域の暮らしを提案するプロジェクトです。第2期街区新築工事としている賃貸集合住宅(設計:槇総合計画事務所)では、快適な生活を維持しつつ省エネに挑戦していて、今、他の地域からも入居したいと手が挙がっている状況です。またわが社は海外赴任する者、赴任を終え帰国した者も多いので、日本の生活にとらわれず、富山の地で自分たちのライフスタイルをつくっていくことができればよいと思います。住まいについても2カ所で家を持つことが、これからの可能性として出てくるのかもしれません。

これからの本社ビルとは

──最後に改めて、「YKK80ビル」に込められた二拠点の考え方、「本社ビルとは何か」の考えをお聞かせください。

亀井 海外のグローバル企業の本社は、必ずしも都市に立地するわけではなく、地方都市に本拠地を構えている場合もあります。YKKの場合、「デュアル拠点」ということでさらに新しいあり方を示されたのではないでしょうか。本社の精神性とも言うべきものが今後ますます重要になり、その時には、ハードとしての建築デザインの重要性も高まるのではないかと思います。

𠮷田 「YKK80ビル」を建てて、改めて本社とは企業のアイデンティティを表す場所なのだと感じました。秋葉原にはフォーマルな本社、黒部は少しアットホームな本山のようなもの、と考えています。YKKグループの本社はここ、技術や開発部門は黒部という拠点を持った上で、グローバルかつモビリティ型の企業として捉えてほしいと思います。
東京にももちろん魅力はありますが、富山にはほっとできる地方のよさがあります。今後日本の人口が減っていったとしても、地域にとっても企業にとっても有効なのは、働く場所や住む場所を多拠点にして、行き来するスタイルなのではないでしょうか。
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(2015年7月22日、YKK80ビルにて。文責:新建築編集部)

𠮷田忠裕

1947年富山県生まれ/1969年慶應義塾大学法学部卒業/ 1972年ノースウエスタン大学経営大学院(ケロッグ)でMBA取得、同年吉田工業(現YKK)入社/YKKおよびYKK AP代表取締役社長・代表取締役会長CEOを経て、現在両社相談役

    亀井忠夫

    1955年兵庫県生まれ/1977年早稲田大学建築学科卒業/1978年ペンシルバニア大学修士課程修了/1979年H.O.K. ニューヨーク事務所勤務/1981年早稲田大学大学院修士課程修了、日建設計入社/2015〜2020年同社代表取締役社長/2021年同社代表取締役会長

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    YKK80ビル」(『新建築』1509)/撮影:新建築社写真部

    𠮷田忠裕氏。/撮影:新建築社写真部

    亀井忠夫氏/撮影:新建築社写真部

    fig. 3

    fig. 1 (拡大)

    fig. 2