2022.12.28
Essay

未来は終わらない

中銀カプセルタワービルでの5年5カ月とそれから

藤野高志(生物建築舎)

2000年10月〜2006年2月、中銀カプセルタワービルB棟803号室を借りて住んだfig.1。清水建設(2000年4月〜2001年9月)、はりゅうウッドスタジオ(2001年10月〜2005年12月)を経て生物建築舎設立(2006年1月)という就職から独立までの時期、生活の2拠点目としていた。あの頃の感覚をいい表すなら、カメラの内側に暮らしている心持ちだった。絶えず移ろう東京の姿を、丸窓レンズを通して住まい手の記憶として結像する装置。私にとってのカプセルは、都市のダイナミズムを写し込むカメラ・オブスキュラだった。

クラシックカー選びのようなカプセル探し

カプセルに住む動機となったのは、東北大学の都市分析学講座でメタボリズムの研究をした卒業論文だ。1997年の京都議定書の採択と共に、世界が持続可能社会へと舵を切り始める時代に、かつて日本で建築の持続性を掲げた思想を振り返ろうとした。その過程で浮かんだ疑問が、新陳代謝されていないメタボリズム建築の実情だった。いつかメタボリズム建築に住まい、その可能性と向き合いたいと思っていた。
もっとも、使命感だけでカプセルに住んだのではなく、そこには必要に迫られる理由があった。当時は浜松町にあった清水建設の設計本部に、横浜市内にある日吉寮から通勤していたが、満員電車にさっぱり馴染めず、入社後半年で徒歩通勤できるカプセルタワーの一室を借りたのである。 カプセル探しの際は、会社の休み時間に図書館でカプセルタワー関連の資料を読み漁った。多くの雑誌がカプセルタワーに住むクリエイターの特集を定期的に組んでいて、多様なカプセルの改造事例を知ったfig.2。茶室、オフィス、ギャラリー、倉庫、住居、ミーティングスペースなど居住者によって手を加えられたカプセルが多い中、オリジナルに近い個体を求め装備品と状態を精査する。不動産というより、クラシックカーを探しているかのようだった。 私が借りたB803ユニットは、オリジナルの空調機、棚、冷蔵庫、浴槽、洗面、トイレが備わっていたfig.3。すでに何度か補修工事を経ていて、壁側のデスク、リールデッキ、流し台、卓上電子計算機、電話機、テレビ、収納机、ベッドはなくなっていた(といっても、カプセルは購入時に車のようにスーパーデラックス/デラックス/スタンダードと3グレードの設定があり、オプションで内装や設備を選択できたので、個体の初期装備を完全に特定するのは不可能)。窓ガラスは嵌め殺しタイプで、ガラスの円の中心には金属製ブラケットが残っていたが、有名な扇型ブラインドは失われていたfig.4。家賃は65,000円と銀座8丁目では破格だった。なにしろカプセルタワーの前の駐車場が月5万円なのだから。家賃以外の経費は電気代のみで、水もお湯も、全館空調の冷暖房も24時間使い放題だ。とはいえカプセルは6面が外気に面し断熱性能は乏しいので、入居時に大家さんから「冬は寒いから使って」とオイルヒーターをプレゼントされた。

穏やかな連帯と、都市に剥き出しになる自由と

カプセルタワーでは、銀座で飲んで終電を逃した友人が泊まりにきたり、朝は近くの築地市場に市場飯を食べに行ったりと、都心暮らしを楽しめた。1階ロビーにはオールバックの紳士の管理人がいて、いつも居住者を見ていてくれる安心感があった。そのロビーでのんびり本を読んだりしていると、会社員、デザイナー、ギャラリスト、学生、弁護士、銀座で働く女性、外国人などさまざまな住人が出入りしていて、自分も都市の多様さの一部に思えた。たまに新たに越してきた住人がカプセルの模様替えをすることがあり、お宝(オリジナルの備品)が出てこないか、と改修現場をそれとなく覗き、一度オリジナルのベッドを強面のおじさんから貰ったこともあった。ゴミ出しや洗濯(カプセル内に洗濯機が置けないので勝どきなど近隣のランドリーを使う)の際にほかの入居者と話すこともあったが、街で他人とすれ違うのとは異なり、多くを語らなくとも互いに小さな秘密を共有しているような不思議な連帯感があった。
部屋への昇降にはなるべく階段を使った。A棟、B棟の2本の螺旋階段室は左右対称である以外は同じ構成で、窓もなく薄暗い。カプセルへの扉が規則的に並び、見た目は均質だがそのぶん耳が澄んでくる。遠のく足音や鉄扉の開閉が揺らす空気の揺らぎが、螺旋構造の空間を上下に伝播し、見えない他者との距離を耳や肌で感じる。螺旋空間を淡々と12回転し一歩一歩身体を上に運ぶ行為は、聖堂の尖塔を上るような、ある種の修行のようにも思えた。 開かない丸窓を隔てて眼前の都市空間から距離をとり、巻貝のような階段室に響く音で互いの存在を確かめ合う。そんな目に見えない糸で住人同士が緩やかに繋がる関係性が心地よかった。 一方で、眼前の都市の荒々しい息づかいにもっと近づきたいとも思っていた。その思いから私を解放したのが、2層の基壇から生える2本のタワーの麓に広がる屋上だった。水圧の強い給湯管の継ぎ目の数カ所から絶えずシューと音をたてて水が漏れ、10層を超える高さから2階屋上に降り注いでいた。アスファルト防水に溜まった水面には東京の夜景の明滅が反射し、カプセルの隙間に巣を構えるハトの白い羽毛が揺れ、水面から立ちのぼる湯気の向こう側の首都高速C1を赤いテールランプが行き交う。リドリー・スコットのブレードランナーや九龍城のような混沌とした風景が眼前に広がり、都市に野生が息づいていた。船乗りが一艘の船で運命共同体として暮らしながら、時に甲板で海原の風に吹かれたくなるように、私も時々この屋上を訪れては都市に剥き出しになる自由を楽しんだ。

前衛建築の住みごたえ

竣工から約30年が経った建物はあちこちが壊れかけ、年中改修工事が行われていたfig.5。私の部屋は風呂の排水の調子が悪く、お湯を溜めるよりも抜くのに時間がかかった。浴室のコンセントも素朴なつくりで、何かの拍子によく感電したfig.6。これらの不具合は私にとって欠点ではなく、カプセル生活の重要な一部だった。この前衛的で、それゆえに発生するバグも抱えた建築作品を住みこなすには住み手の対応力と想像力が必要で、機嫌の悪いクラシックカーを乗りこなす感覚に似ていた(カプセル生活と時を同じくしてプジョー505という古い車に乗っており、どちらも手のかかる愛すべき存在だった)。
就職して建築のディテールや法規を学び始めた私にとって、カプセルは現実世界の思考実験としても刺激的な観察対象だった。すぐに感じ取れる建築空間の異質さだけでなく、建築計画、構造、納まり、施工方法、所有区分、防災計画、空気・温熱・音環境、販売方法といった建築を成立させているさまざまな仕組みが常識から逸脱している。たとえば避難経路はA棟とB棟を屋外ブリッジで連結することで2方向避難をクリアしている。当時としては珍しい避難計画書を作成し、螺旋階段のコアシャフトにカプセルが取り付いていることを逆手にとったギリギリ階を跨がない解釈として、3層ごとに1本の屋外ブリッジで済ませている。区分所有の範囲も特異で、通常の集合住宅であれば外壁は共有物だが、ここではカプセル単体に個々の所有権がかかるため、条件が許せば自分のカプセルの外壁に穴を開けることもできる。現に窓が増設されたカプセルも存在した。 住みごたえのある建築は、住み手の中に新しい価値観を育む。いつしか2拠点生活のほぼすべての時間を、カプセルで過ごすようになっていった。

カメラに穴を開ける/カプセル新陳代謝計画

都市と生のまま地続きの2階屋上とは対比的に、カプセルの開かない丸窓はまるでカメラのように私にとっての都市空間を対照化した。B803ユニットでの生活の中で、向こう岸にある静かで映像的な都市と、もっと繋がりたいと思うようになっていった。
西向きに突き出たB803ユニットからは、借りた当初は東京タワーや富士山まで見えたが、ほどなくして目の前の汐留エリアで本格的な工事が始まり、「電通新社屋」(『新建築』0212)などいくつもの高層ビルが雨後の筍のようにぐんぐん伸び、あっという間にカプセルタワーを追い越したfig.7。昼は会社で日常業務を粛々と行い、夜カプセルで眠る生活によって私の建築の物差しは揺さぶられ、徐々にバランスを欠いていく。会社で触れる建築設計の作法、中銀の特異さ、丸窓の向こうの都市、これらの断片を繋ぎ合わせるため、独自の「カプセル新陳代謝計画」を進めることにした。設計行為を通じて思考を整理しようとしたのだ。 カプセルの付け外しはできなくとも、カプセル単体を新陳代謝することはできる。メタボリズム建築によって生じた所有範囲のバグを利用し、銀座に小さな庭付きの住まいを計画する。タワー最上階のカプセルを買取り、屋根に潜水艦のようなハッチを設け、屋上に出られるようにするfig.8fig.9。閉鎖したカメラという箱に穴を穿つのだ。24時間休むことなく眼下の首都高を流れる車の音を、海辺の波音のように聴きながらお酒を楽しみ、昼寝する。そんなイメージで検討を進めたfig.10。最小限のカプセルに効率よく生活をパッケージングするために、持ち物の寸法を細部まで計測しfig.11fig.12、内装をつくり込むfig.13fig.14。丸窓からも都市との一体感を感じられるよう、内壁の造形をつくり込むfig.15。当時の最上階のカプセルの金額相場は600万円程度で、就職したばかりだったがローンを組んで買う算段も立てていた。だが、計画は暗礁に乗り上げる。カプセルには壁内にアスベストが使われており、それが急速に問題視され始めたことで新規購入が難しくなり、結局計画は実現を見なかった。

ダイナミズムを感受する装置

2006年、故郷の群馬県高崎市に「生物建築舎」を開き、カプセルタワーを去ることにしたfig.16。カプセルでの暮らしはその後の私に影響を与えた。丸窓越しにひとつの都市が生まれる様子を眺め続けながら、ハトの身震いや、高層ビルの赤色灯の明滅、眼下の首都高のさざなみと共にあった日々。小さな自分自身が大きな都市の流れの中に浮かび、片隅からぼんやりとその千変万化を眺めている。はりゅうウッドスタジオに勤めた時もカプセル生活の心地よさを求め、3畳の小屋を自作し暮らしたfig.17fig.18。大きな自然の中の小屋と大きな都市の中のカプセル。自然と人工という違いはあれど、空間の小ささゆえに、それとは対比的な外の世界の大きさとダイナミズムに包まれることができた。
一方独立当初、高崎は環境の変化に乏しいと感じ、かつての銀座や会津での変化に富んだ環境が恋しかった。環境の微差を日常的に感じていたいと思い、つくったのが「天神山のアトリエ」(『新建築』1103)fig.19である。2011年の竣工以来、この環境を感受する装置のような建築の中で、日々の設計活動を行なっている。

カプセルの門出

カプセルタワーに暮らしたことで、カプセルに魅せられたさまざまな人との縁ができた。独立後もカプセルタワーとの関係は続き、レクチャーをしたりfig.20、カプセルでの生活をモチーフにした展覧会を開いたりとfig.21fig.22さまざまな機会をいただいた。
2022年秋、カプセルタワーは解体されたが、いくつかのカプセルは補修のうえさまざまな場所に運ばれ、再び使われるという。黒川紀章のメタボリズム思想は、建築に実装された時点では未完成だったが、解体される段になり実行に移されたのだ。50年前、未来をアイコニックに示した前衛建築にたくさんの人が惹かれ、暮らし、手入れし、愛してきた。カプセルタワーが魅了した人びとの力によって、カプセルは未来へ繋がれていく。メタボリズムを駆動させるのは人の強い意志だと、黒川紀章は知っていたのだろう。2022年9月10日、私は解体現場を訪れ、かつてタワーが存在した中空を見上げ、すがすがしい気持ちになったfig.23。この場所に実存した未来に魅了された一建築人として、カプセルの新たな門出を祝したい。

藤野高志

1975年群馬県生まれ/1998年東北大学工学部建築学科卒業/2000年東北大学大学院都市・建築学博士前期課程修了/2000年清水建設本社設計本部/2001〜05年はりゅうウッドスタジオ/2006年生物建築舎設立/2012〜14年東北大学非常勤講師/2012年〜前橋工科大学非常勤講師/2017年〜東洋大学非常勤講師、武蔵野大学 非常勤講師/2018年〜お茶の水女子大学非常勤講師/2020年〜成安造形大学客員教授/2022年東北大学准教授/2019年「S市街区計画」(『新建築』1702)「園」(『新建築住宅特集』1603)で日本建築学会作品選集/2020年「鹿手袋の蔵」(『新建築』1609)で日本建築学会作品選集/2020年「ケーブルカー」(『新建築住宅特集』2009)でWADA賞 2020 受賞/主な著書に『地方で建築を仕事にする』(共著、学芸出版社、2016 年)『卒業設計で考えたこと。そしていま3』(共著、彰国社、2019 年)『c-site.3:Other 他者』(共著、da大 in print、2021年)

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藤野高志
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『日経アーキテクチュア』(1987年4月20日号)の誌面。当時はさまざまな雑誌でカプセルの改造事例が取り上げられていた。/提供:藤野高志

居住時の様子。モノで溢れかえる中にオリジナルの空調・棚・冷蔵庫が見える。/提供:藤野高志

カプセルの丸窓には、中心にブラケットと周辺部にガイドレールが残っていたが、扇型ブラインドは失われていた。/提供:藤野高志

2001年3月、カプセルとコンクリートシャフトの継ぎ目から漏水を止めるための補修工事で職人さんが来てくれた時の様子。/提供:藤野高志

カプセルの水回りユニット内部は照明にセロファンフィルムを貼り赤色の空間としていた。左下のコンセントからよく漏電した。 /提供:藤野高志

当時汐留エリアはまだ工事中で視界が開けていた。極小空間の中に所狭しとさまざまなものが積み上げられている。/提供:藤野高志

カプセルの天井にハッチをつけ、屋上に庭をつくるイメージ。/提供:藤野高志

「カプセル新陳代謝計画」のイメージパース。/提供:藤野高志

カプセルの内部に置かれていたモノたち。/提供:藤野高志

カプセルの内部に置かれていたモノの計測図。計画は眞田井良子氏との協働で進められた。/提供:藤野高志

「カプセル新陳代謝計画」の内部模型。さまざまなモノを合理的に格納するアイデア。/提供:藤野高志

内部展開図での検討。/提供:藤野高志

カプセル内壁の検討。/提供:藤野高志

2006年2月にカプセルタワーを去る時、モデルルームで弟(左)と祖母(右)と撮影した記念写真。/提供:藤野高志

会津で自作した小屋。/提供:藤野高志

セルフビルドでつくった小屋を、季節ごとにフォークリフトで最適な場所に持ち運びながら暮らした。/提供:藤野高志

「天神山のアトリエ」。トップライトを見上げる。環境を感受する装置として設計した。/提供:藤野高志

「空間を感じるということ」にて展示した「カプセル新陳代謝計画」の模型。/提供:藤野高志

2016年6月、カプセルタワーでカプセル生活での体験談を話した。/提供:藤野高志

2016年10月、銀座奥野ビル306号室で開かれた展示「空間を感じるということ」会場風景。/提供:藤野高志

居室にはカプセル新陳代謝計画の検討模型が積み重なっていった。/提供:藤野高志

中銀カプセルタワービル外観。赤く示したカプセルがB803号室。/提供:藤野高志

2022年9月10日のカプセルタワー解体現場。/提供:藤野高志

fig. 23

fig. 1 (拡大)

fig. 2