東京都現代美術館でジャン・プルーヴェ展が開催されている。2004〜2005年にかけて鎌倉─仙台─名古屋─東京を巡った、本邦初のプルーヴェ展「20世紀デザインの異才 ジャン・プルーヴェ──『ものづくり』から建築家=エンジニアへ」以来の大規模な展覧会である。前巡回展に合わせて発行された『ジャン・プルーヴェ』(日本語版監修 : 山名善之、TOTO出版、2004年)によって、はじめて多面的な情報をもったテキストが人口に膾炙し、日本でもいよいよプルーヴェ読解の気運は高まったが、この書籍は現在入手が困難なようだ。オリジナルの家具やプロダクトが、時に数千万から数億円で取引されるようになってしまった今、実物を一時に見られるこの機会は無二のものとなるだろう。
応力の可視化
今回の展示には「椅子から建築まで」という副題がつく。組立/分解が可能な「カフェテリア」チェア No.300(1950年)に関する全履歴が実物展示される様は圧巻だfig.1。戦後の鉄不足に呼応したほぼ木製で同タイプである「組立式ウッドチェアCB 22」(1947年)は分解展示もなされ、プルーヴェの家具はその建築同様、極めて構築的であることが示される。2002年にVitra社が復刻したことで注目された「スタンダードチェア」のオリジナルモデルである「メトロポール」チェア No.305(1950年)も多くのバリエーションが並び、ディテールの改良やコストの相関などを読み解くパズルのようだfig.2。最初の展示室にあった「食堂テーブル」(1939年)の天板下に付く6連シリンダーの用途はナプキンホルダーであるが、プルーヴェの自邸である「ナンシーの住宅」(1954年)などに使われた丸窓を連想させて興味深い。またメトロポール・チェアとセットで製作された「カフェテリア」テーブルNo.512(1953年)や、分厚いガラスの天板が特徴的な「ヴィシャード医師のためのテーブル」(1944年)など、椅子と建築の中間体と見なせるテーブル群も数多く展示され、来訪者はひとつの家具と対峙してはその下を覗き込み、各所の納まりと力の流れを確認する作業に追われることになる。
プルーヴェの家具や建築の最も大きな特徴は、その肝となる部材において既製のパイプや型鋼に頼らず、自らの工場で鋼板を折り曲げて製作したことにあり、プルーヴェ自身以下のように述べている。
「私は筒状のスチールパイプでは満足できない。私にインスピレーションを与えたのは、折り畳まれ、型打ちされ、湾曲され、溶接することのできるスチール板である。」引用:『ジャン・プルーヴェ』(TOTO出版、2004年)。原文:『Jean Prouvé : une architecture par l'industrie』(Artemis、1971年)。
後脚に折り曲げ薄鋼板を用いた椅子の原型である「チェア No.4」(1934~35年)の製作当時、丸パイプを曲げてつくる家具が流行していた。マルセル・ブロイヤーによる「ワシリー・チェア」(1926年)を筆頭に、1929年のサロン・ドートンヌで発表されたル・コルビュジエらによるソファや寝椅子は、いずれも既製の丸パイプでつくられていた。体重程度の荷重しか受けないため、水平材でも鉛直材でも同じ径のパイプを曲げてつくられた家具は、今までにない目新しさはあったものの、エンジニアリング的な観点からは疑問符がついた。もちろんミース・ファン・デル・ローエによる「MRチェア」(1927年)などのように、そのしなり具合が座り心地そのものを担保するような椅子はまた異なる論点が必要となるのだが。プルーヴェは後脚に体重をかけ、椅子を傾けて座る自らの性癖にまで言及し、後脚に掛かる応力を受け止めるかたちの合理性を主張したが、「新しい技術には新しい造形が必要である」という自らのオブセッションが滲んだ逸話であるとも解釈できよう。
建築への展開
一方建築の展示では、「組立と分解」という軸で捉え得る作品に焦点が当てられている。老境に入って自らの理念と作品を体系的にまとめた『ジャン・プルーヴェ:工業化による建築』(『Jean Prouvé : une architecture par l'industrie』、Artemis、1971年)という著作の中でプルーヴェは、9枚のスケッチと共に「構造のアルファベット」という概念を改めて示した。「ポルティーク」タイプ(門型フレーム)や「ベッキーユ」タイプ(杖型)をひとつの「型」とするならば、その型を横架材で結んでできる最小のオブジェクトが椅子となり、スケールを変えて連続させれば「メトロポール」住宅(1949年)のポルティークや「エヴィアンの鉱泉飲場」(1956〜57年)を支えるベッキーユとなるfig.3fig.4。家具の製作と建築の建設には違いがないとするプルーヴェの面目躍如であろう。
立ち後れていた建築の生産性を嘆き、革新的な建築を求めていたプルーヴェは、常に進歩的であることを志向した。進歩的な建築の対極にあるのはたとえば古典建築や古民家であるが、その中心には、オーダーや大黒柱に連動する構造形式がある。一方で、プルーヴェが携わった建築の中心には大黒柱のような構造は存在しない。そこにあるのは切り裂かれたオーダーとしてのポルティークであり、偏芯し巨大化した方杖としてのベッキーユだ。空間の重心からは構造が排除され、ぽっかりとあいた空間は人間が使う場所となっている。ストラクチャーを換骨奪胎して人の居場所にしてしまうこと。このことへの嗜好は、スチールの骨組みを外部に露出させ、膜を支える支柱を取り払ったオンヴィルの「テント」(1939年)にもっとも純粋に表れている。
展覧会の最後を飾るのは、ピエール・ジャンヌレと協働した「F 8×8 BCC組立式住宅」(1942年)の実物展示だfig.5fig.6。当時プルーヴェが4mや8mというモジュールを多用したのは、所有するベンダーの働き幅が最大400.5cmで、加工する鋼板の長さをそれ以下にするという物理的な制約があったからだ。戦中の鉄不足を背景に、スチールではなく総木造となったBCCが相変わらず4mモジュールであるのは、数名で組み立てが可能というコンセプトが要請する梁の重量のためだろう。経年とたび重なる組立/解体のためか各部材端は丸まり、どことなく昭和の時代の海の家を彷彿とさせる懐かしさも感じた。今回の展示では屋根材と天井材は省かれているが、勾配天井と垂直の間仕切り壁が、実際にはどのように取り合うのかを想像しながら観察すると、壁には天井材を引っ掛ける納まりがあり、梁にも天井材を水平に留める仕掛けがあることが確認できた。ただこれらは入口から入って奥側半スパンの仕様で、手前半分の天井は屋根勾配なりにせり上がって納まる仕様になっている。つまりこの住宅は、入口を入ってすぐは家型の気積をもった空間で、奥に水平な天井をもった寝室があるようだ。ラフスケッチでは3LDKまで想定されていたようだが、図面では2LDKとされた理由はおそらくこのためで、コンパス型のポルティークが居室を間仕切る壁から逃れてメインの空間に居残る。これによって空けられたこの家の中心はまさに人の居場所となり、ポルティークの真下に暖炉とベンチが配される。
鋼板製のポルティークと木製の外壁パネルとの混構造で計画された戦争罹災者のための「6×6組立式住宅」(1944年)においても、間仕切り壁はポルティーク部分でクランクする。この部分には部屋への入口も炉もなく、純粋にポルティークを際立たせるための窪みとなっている。また、ふたつの門型ポルティークによって3スパンに分割される「6×9住宅」(1944年)では、中央の空間に炉を置きながら周囲に居室を配置し、ポルティークをふたつとも露出させながらうまくプランを解いている。「構造のアルファベット」という概念は、間仕切り壁との相性という側面で捉え直しても面白そうだ。
次なる世界へ
プルーヴェは1971年に行われたポンピドゥー・センターの設計競技において審査委員長を務め、レンゾ・ピアノ、リチャード・ロジャースらの提案を最優秀案に選出した。梁の荷重を支柱と引張り材に伝える巨大な鋳鉄製のガーブレットは、コンペ後に提案されたアイデアでありながらこの建築の核心になっている。柱を外に追い出し、巨大な無柱空間を連続させる構造計画を担ったピーター・ライスは、「主要な連結部に鋳鉄を用いることで、部品内部の力をそのままかたちにすることが可能になり、構造の形態が標準的な工業言語から解放された」と述べた。コンペ案の可能性を見極めたという直接的な意味ではもちろんのこと、折曲げ薄鋼板によって応力を顕在化させながら機能と空間を創出してきたプルーヴェという存在がなければ、ポンピドゥー・センターは二重の意味で存在し得なかった。
プルーヴェは1960年代初頭にアメリカを訪れるが、施工性と大量生産のためだけに標準化され、エスプリを欠いたカーテンウォールにはまったく興味を示さなかった。「クリシー人民の家」(1937〜39年)において、工場生産された世界初のカーテンウォールを生み出したプルーヴェが夢見た世界は、実現されたかのようでいてそうではなかったのかもしれない。漸進的な進歩に貢献するものにしか関心を示さず、無自覚な惰性や習慣こそが真の障碍であるとしたプルーヴェの仕事のただ中に身を置きながら、あり得たかもしれぬ世界とのギャップを窺うこともまた、この展覧会の楽しみ方のひとつには違いない。