7月24日、HASEKO-KUMA HALL(東京大学本郷キャンパス)で、アメリカを中心に活躍する建築家のアンドリュー・コバック氏によるレクチャー「Andrew Kovacs──From Chicago to Shodoshima」が開催された。SEKISUI HOUSE - KUMA LABが2021年度に実施したコバックスタジオの参加学生による講評会と合わせて、コバック氏の取り組みと近作について知る貴重な機会となった。
ロサンゼルスを拠点に活動するコバック氏はUSCなどで教鞭を執りながら、自身が主宰する事務所Office Kovacs(O.K.)を通して実験的な作品を多数発表している。『a+u』2017年5月号の「米国の若手建築家」特集では、アンビルドの作品が中心だったが、それ以降、コーチェラ音楽祭のパヴィリオン「Colossal Cacti」(2019年)やジョージア州の公園内パブリックアート「Rainbow Forest」(2021年)fig.1などの実作も発表しており、アートと建築の双方を股に掛けて活動の幅を広げている。
彼の作品の特徴は、既存のモノ(=レディメイド)をひたすら「収集」し「収集癖」を作品に昇華させる文脈はアートや建築でも前例が多数ある。ジョン・ソーン自邸やクルト・シュヴィッタースの「メルツバウ」、マデロン・ヴリーゼンドープのアートコレクションなどが挙げられる。建築の文脈で収集癖(=Hoarding)を分析した論考に「Architecture in Extremis」(Sylvia Lavin、2011年)がある。、それらを場当たり的に組み合わせたり繋ぎ合わせたりすることで即物的に新たなモノをつくる、身体を介した「制作」の態度この互いに無関係な既存の部品を組み合わせて新しいモノをつくる模型製作の手法は、一般的に「キットバッシング」と呼ばれている。この手法を用いる建築家として、同じアメリカ出身の建築家、マーク・フォスター・ゲージなどが挙げられる。にある。レクチャーではこの「収集と制作」を軸に、初期から現在までさまざまなスケールの作品が紹介された。収集されるモノは、例えばドールハウスの部品や建物のフィギュアから、そこら辺のおもちゃのように建築とはおよそ無関係のモノにまで及び、さらに2次元のモノであれば著名な建築家の平面図や誰かの殴り書きのスケッチなど、その対象は多岐に渡る。収集の判断基準は彼自身の個人的な好み、すなわち「Affinity」である。プリンストン大学在学中から継続されているプロジェクト「Archive of Affinities」(2010年〜)は、彼自身の収集の記録であり、好みの総体でもあるfig.2。スキャンされ、無分別に羅列された収集品は、すべて彼の「制作」の一部として使い回されるfig.3。ここで重要なのが、「著名な建築家の平面図」と「誰かのスケッチ」が対等に扱われることで、建築デザインの専門的な側面が意図的に消去されている点だコバック氏はこのように建築という専門領域の中で注目されてこなかったマイナーなモチーフを「建築的B面(Architectural B-side)」と呼ぶ。マイナーなモチーフが研究・参照の対象として浮上した背景として、ネットによる画像検索と膨大なデジタルアーカイブによって、多様なイメージや作品の共有が可能になったという点が挙げられる。。「FLOOR PLANS」(2012年)では、既存の平面図から抽象的で匿名の図形といったさまざまなモチーフが縫合され、新たなプランが描かれるfig.4。よいものがあれば、それが平面図であろうとなかろうと、使ってしまえばいい。建築家にしか共有できない専門性の文脈ではなく、「これ面白いじゃん」という個人的な好みを気軽に信じることアメリカ国内の教育の場面では、「パッと見て美しい、面白いと思えるか」という個人の直感を元にスタディや議論を進める傾向が近年は特に強い。これは1980〜2000年代までに流行した複雑な理論中心の建築の言説に対する反省の意識が反映されていると筆者は考える。は、自身の感性を大衆のそれとパラレルに置き、誰でも面白いと思えるものへと歩み寄ることでもある例えばInstagramなどのSNSは、大衆の興味関心が反映されたイメージの宝庫である。アメリカの建築家ユニット・Besler & Sonsは、近著『Best Practices』(ORO Editions、2021年)において、Instagramの公共性とそのタイムライン上で構築される知識の大衆性に着目することで、建築的視点からは説明のつかない都市空間のリアルに迫ろうとする。。「Colossal Cacti」では、アメリカの子ども番組に登場するサボテンのイメージを参考に、皆が親しみを持てるユーモラスなパヴィリオンを設計したfig.5。そのカラフルでポップな構造体は格好のインスタ映えスポットとなり、とある音楽番組の舞台セットとしてコピー品が流通する始末となった。コバック氏はこの経緯を嬉しそうに語る。インスタ映え、コピーされることはすべて、彼にとっては大衆にどれだけウケたかを測る成功の物差しなのである。ここでは建築家然とした作家性や、オーセンティックなものにこだわる態度はまるで見られない。
筆者がコバック氏と会った時、彼は次のように話した。「僕は建築を設計するのがうまくないから、うまい人がつくったモノや面白いと思ったモノを使っているんだ」コバック氏は「でも建築って全部そうやってつくられてきたよね」と続ける。すなわち、この発言には設計が得意ではないコバック氏と、レファレンスを実直に集め続けるコバック氏が同居している。参照という優等生の手つきをラディカルに推し進めたのが彼の作品のルーツとも言えるだろう。。これを聞いた時、彼の取り組みは建築を大衆に開くだけでなく、建築家という職業を民主化建築のプラットフォームがデジタル技術やSNSなどのツールを通して大衆へとさまざまな方向に開かれていく動きは、近年特に顕著である。しているのだと感じた。専門的な建築設計の知見がなくとも、デジタルにレファレンスやデータが共有され、動画サイトでさまざまなハウツーを見ることができる今、それらを「収集」することで誰でも建築家になれるかもしれない。収集の基準はあなたの好みでいいし、制作にはあなたの身体があればいいコバック氏の取り組みの核心がこの点にあると筆者は考える。すなわち、彼のラディカルな態度そのものが、アートや建築の専門的な文脈でしか理解されないのではないか?というトートロジーを、好みによる「収集」と身体による「制作」という手法によって乗り越え、大衆一般でも反復可能なものとなる可能性が示唆されているからだ。。彼の作品は専門領域としての建築家像の終わりを示唆すると同時に、誰でも建築的に何かをつくれるかもしれないという、恐怖と希望の入り混じったアンビバレントな期待感を私たちに持たせる。
また、今回の来日に合わせて、彼がシカゴ建築ビエンナーレ2017に出展した作品「Proposal for Collective Living II (Homage to Sir John Soane)」の再組み立てが東京大学の学生によって行われた。組み立て後、小豆島の「新建築社 小豆島ハウス」(『新建築』2207)に移設・展示されている。ぜひ足を運んでみてほしい。