コモンという概念がこれほどまでに注目されている現代は、僕たちの世代からすると少々こそばゆい。コモンやコミュニティに関する議論は、僕たちが学生の頃にも繰り返されたが、時代の空気としては、コミュニティからの切断こそが新しい建築を生み出す、というものだった。コミュニティを真正面から語ることは、どこか気恥ずかしかったのである。
しかし、2011年の東日本大震災を契機に、コミュニティや「繋がり」は社会的正義となった。繋がることは、建築のあらゆる場面で語られ、正当化され、空間化されている。確かに繋がりは、個人主義が深く浸透した戦後社会からの寄り戻しとして自然な流れだし、災害が繰り返される現代においては、最も信頼し得る社会基盤だといってもいい。しかし、現実に被災地に足を踏み入れてみれば、繋がりを求める人びとがいる一方で、ひとりになる時間の大切さを訴える声も聞こえてくる。人間は、もちろんひとりでは生きていけないが、一方で独りでいる時間も必要だという、人間の生物的、社会的側面がそこでは浮き彫りになっている。
槇文彦の「独りのためのパブリックスペース」(『新建築』0801)は、こうした状況を直接代弁するものではないが、人間の本質を突いた極めて重要な論考だと思う。彼は都市における孤独の重要性を指摘し、「独りのための素晴らしいパブリック・スペースとはまた多くの群衆が集まった時にも素晴らしいスペースであるということであった。」と語る。とかくパブリックスペースが、群衆か、あるいは抽象化された市民像を前提に語られているその短絡を、鋭く批評している。
建築の設計は、仮説のもとに構造化され、空間化されるのが常だが、そこでは分かりやすい仮説は重宝される。繋がりを仮説として掲げて設計していくことには、その点で誰もが反論できない社会的正義に支えられた説得力を持つ。しかし人間は、そもそもそれほど単純ではない。むしろたくさんの矛盾を抱えて生きている存在だ。その矛盾や複雑さを受け止めたうえで建築に何ができるのか、その解像度の高い人間に対する洞察と空間的アイデアこそが、建築家に求められているスキルだと僕は考えている。そして、独りでいることも一緒にいることも祝福するという、概念的には矛盾しているような状況を一瞬にして解決したり同居させたりしてしまう力が、建築の空間にはあるのだとも思う。
もちろん「繋がり」は、建築が取り組むべき最も基本的なテーマだが、一方でその仮説が建築の決定根拠になり、それがひとつの計画論、空間形式として定着していくことには慎重であるべきだろう。槇さんによるこの論考は東日本大震災前に書かれたものだが、今こそ広く読まれて欲しいと思う。