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2022.05.24
Essay

独りのためのパブリックスペース

槇文彦(槇総合計画事務所)

*本記事は『新建築』2008年1月号で、「三原市芸術文化センター」と共に掲載されたものです。

1.都市の孤独

都市の孤独という言葉は近世以後、多くの文学にしばしば現れる。その孤独とは決して「さびしさ」あるいは「ひとりぼっち」といった感情をさしているのではない。むしろ「群れる」というもうひとつの都市の本質の対極にある、都市に住むものが持つ根元的な欲求なのである。にも関わらず、なぜ建築において、都市の孤独が文学や他のジャンルの芸術ほど追求され、語られてこなかったのであろうか。
昨年、東京大学の安田講堂で各大学から選抜された卒業設計作品の中から優秀作品を選ぶ一種のコンクールがあった(2006年度卒業設計合同公開講評会:東大×藝大×東工大/2007年3月3日)。その審査員のひとりであった私が特に感じたことは、集合住居をテーマにしたものの中では圧倒的にキャスバ的構成が多かったという事実である。それは今日の味気ない高層のマンション群に対する批判を込めた若い彼らが都市に対して持つ潜在的願望の現れであったと見てよいだろう。また一方キリコの「イタリア広場の引越し」の絵に見られるような、沈黙と静寂が支配する情景を描き出そうとするパースがあったのも印象的であった。現在、われわれは都市を「美しい」とか「醜い」とか修辞的な言葉で語られることはあっても、本来都市に住む人びとのこうした願望についてはあまり話題にならない。

シカゴのアート・インスティテュートに行くと印象派のコーナーに、ジョルジュ・スーラの代表作のひとつ「グランド・ジャット島の日曜日の午後」fig.1という絵が部屋の壁全面に1枚かかっている。一見、パリから訪れたブルジョアの家族たちがそれぞれ休日を楽しんでいる風景が描かれている。しかしよく見るとどのひとりも、そして犬までも、お互いに目線を交えることなく、まったく異なった方向を見つめているのを発見する。スーラは既に19世紀の華やかなパリに住む彼らの姿の背後にある近代都市人の孤独を見事に描き出していたのである。
確かに集団としての精神の高揚を目指した意図からパブリック空間の歴史の始まりがある。そして建築をめぐる壮大な、内外のパブリック・スペースは建築史の中核を彩ってきた。
そして安定した都市コミュニティの中での二項対立的なパブリック・スペース対プライベート・スペース、あるいは市民と個人という構図が都市の近代化の中で急速に崩壊していったことを今さら述べる必要はないだろう。しかし都市のパブリック・スペースとはその場所、規模、性格のいかんに関わらず、独りの人間にとって、時に安らぎを、また時に感動を与えるものでありたいという願望は常に存在し続けているという認識を放棄してはならない。
かつてある知人は美術館で優れた作品と静かに対面している時、本当のプライバシー、つまり誰にも侵されない自分だけの世界が存在することを感じると語っていたことがある。孤独感を愛するということはそうした経験を指すのである。

最近どこに行ってもシネプレックス流行りである。かつて映画館へ行くということは、独りの人間がある一時ではあるがまったくの異なった体験と向かい合うことであった。その体験と感動の余韻を、見知らぬ人びとと無言のうちに分かち合う場所としてのホワイエ、エントランス、そして眼前の都市も含めた総体としての空間体験があった。シネプレックスに行くと、まず同じような箱と配列の劇場、座席をもらった番号を頼りに探し当てなければならない。映画を終わって出てくればまったく別の映画を見に来た人びとの雑踏に揉まれながら帰路につく。
こうした資本の論理はあらゆる施設に拡大しつつある。六本木の「国立新美術館」(設計:黒川紀章・日本設計/『新建築』0701)に行く。美術の鑑賞を終えれば、まず巨大な吹き抜け空間に、向かい合わなければならない。ホワイエのエッジに設けられた休憩用のベンチに止まり木の烏のように人びとが座っているが、多くは鑑賞の後の一時を寛いでいる姿ではない。表参道の巨大なショッピング・モールについても似たような風景が展開されている。ベルト・コンベヤーのようなパブリック・スペースはビジターに独り佇む余裕を与えない。そして自分たちが設計した「テレビ朝日」(『新建築』0307)のアトリウムに行く。かつて開館当時(2003年)最も静かで寛げたパブリック・スペースには山積みされたグッズから宣伝用の巨大な垂幕、そして舞台装置などが所狭しと並べられている。建築家にとって悲しい風景である。今、日本中にこうした風景が至るところに展開している。
本来、パブリック・スペースとは人を集め、流す道具立てだけではないはずである。つくる側の、設計する側の、そしてそれを利用する人びとのこうした現象に対する批判能力が停止した時、われわれの都市から「優しさ」が次第に消失していくのではないだろうか。

昨年10月、セントルイス・ワシントン大学のキャンパスに視覚芸術学部(Sam Fox School of Design and Visual Arts)が完成した(『新建築』0707)。そして既存の建築と新しい建築群の間に新しい外部空間も生れた。このfig.2はオープニング・セレモニーの前日われわれが撮ったものである。完成したばかりの広場には既にふたりの学生が楽器を持ち込み、ひとりの女子学生は階段の中央に寝そべって本を読んでいる。米国人は日本人よりも場所に対する身体的反応が大胆である。おそらく日本の学生であれば通り抜ける人に遠慮して、階段の隅に腰掛けて本を読むに違いない。この学生は最も心地よい場所を発見し(と彼女は思っている)独り読書に耽っている。いかにも楽しい情景ではないだろうか。
もう1枚のfig.3はシンガポールのリパブリック・ポリテクニーク(シンガポール理工系専門学校キャンパス/『新建築』0709)のアゴラで私が撮ったものである。既に『新建築』の2007年9月号で、アゴラについて述べているように、ここは数千人の学生が勉強したり、寛いだり、1日の大半を過ごす240m×160mの巨大な空間である。しかしこの写真にあるように、そこここのスペースの一隅で学生たちは自分とラップ・トップ・コンピュータだけの世界に浸っている。ここでは冒頭に述べた「孤独」と「群れる」という都市の基本的行動が毎日のように展開されている。

私はこの半世紀の間、世界のさまざまなところで素晴らしい独りのためのパブリック・スペースに出会ってきた。そしてそこから得た結論のひとつは、独りのための素晴らしいパブリック・スペースとはまた多くの群集が集まった時にも素晴らしいスペースであるということであった。その例を2、3紹介してみよう。

1959年の初夏、私はアテネの中心部からそれほど遠くないパナティナイコの野外劇場の前面広場に佇んでいたfig.4。小高い丘を馬蹄形に刳り貫いたこの野外劇場は丁字路の突当りに設けられている。おそらく競技場が人で埋まった時、まったく異なった光景がそこに展開するに違いない。イベントを無料見するような人をどうするのだというような主催者側のセコイ声はここでは聞こえてこない。文句なしに見事なアーバンデザインである。
イランの古都イスファハンのコメイニ広場に近いところに長さ約2kmのチャド・パックというブルバードがある。このブルバードの道幅は約100mで両側には店舗と歩道がある。このブルバードの最大の特徴はその中央にもう1本幅広い歩道が貫いていることであるfig.5。夕暮が近づくと、多くの市民たちが思い思いの散策を楽しんでいる。物を買ったり、せわしく帰路につく人たちと交わることもなく、ここではひとりひとりの世界が、そしてその行動の尊厳さが見事に保証されているのだ。
リナ・ボ・バルディ(イタリア生れ、1914〜92年)は20世紀のブラジルが生んだ最も優れた建築家のひとりである。その彼女の遺作ともなったサンパウロにあるコミュニティ・センターはコンクリート造の一見ブルータリズム風の素朴な作品なのだが、積層の運動施設の窓はあたかも洞窟の入口を思わせるfig.6。気候が1年中よいサンパウロで、しかも内部は運動のグラウンドとあって、この開口にはサッシもガラスも入っていない。
英国の地理学者ジェイ・アップルトンはかつて「Refusee and Prospect」という論文の中で、動物が自分の棲家として選ぶ場所は敵からは見え難く、一方常に敵を見張ることができる場所だと述べている。原始人にとって洞窟の開口は危険に満ちた外界と安全な内界の境界であり続けた。都市に住むものにとって都市は常に不安と希望に満ちた場所である。バルディはこの開口によって、彼らが都市に対して抱く両義的な感情を見事に照射しているのだ。

2.三原市芸術文化センター

それまで同じ場所にあった旧文化センターと武道館に替わって、新しく建設されたこのセンターは三原市中心から、それほど遠くない宮浦公園の一隅に建てられている。この公園は野球用グラウンドも含めて地域の住民によく使われ、センターの近くには小さな子どもの遊び場もある。どの中小都市にも見られる普通の公園である。一方、1,200席の多目的ホール、それにリハーサル、練習室等本格的な支援施設を持ったこのセンターはボリュームだけでもかなりの大きさを有する。与えられたこうした環境とプログラムの中で私がまず第一にイメージしたのは公園の中のパビリオン的な佇まいを持った建築の姿であった。三原市は人口10万の都市である。1,200人の席が一杯になり、ホワイエが講演の前後人で溢れるといったことは年間を通じて常時あることはない。しかし一方、市はリハーサル、練習室、そして本舞台も常に市民の利用に積極的に利用してもらいたいという意図の下に、設計の当初から市民の有志、アドバイザーを含めたワークショップを何回も重ねてきた。こうした状況の中から、従来どちらかというと観客席と一体となった壮大なホワイエを避け、大きなイベントがない時は、市民や公園に遊びにきた人たちも気軽に休んだり、時折、予定されている展示も含めたさまざまなイベントに参加できるような、もっとヒューマンなスケールを持ったホワイエの方がよいのではないかと考えるようになった。当然そのコーナーには小さなカフェもある。そしてホワイエの独立性を高めるために中庭を設け、天気のよい時はここを開放し、大きなイベントにも対応できるようにした。

こうしたパビリオン型のシアターを構想化した時、次のデザイン課題は背後のフライ・タワーと前面のホワイエの間にどのように建築的、機能的に均衡の取れたボリュームを持ったシアター部分をつくっていくかにあった。われわれは「藤沢市秋葉台文化体育館」(『新建築』8411)から「霧島国際音楽ホール」(『新建築』9411)まで多くの経験を持っている。この設計が始まった頃、多摩川に時折出没するタマちゃんという愛称を持ったアザラシが都民の話題を賑わしていた。ちょうどあの頭のように、どこかユーモアのある形を探し求め、結果的にはさまざまな球体の複合曲面体をCGのソフトウェアを駆使しながらつくり上げたfig.7fig.8。アイコニックには、日本の正月を祝う鏡餅のように少し球体を押し潰した形になった。
また、南側2階に置かれたリハーサル・ホールと練習室のボリュームの壁面を少しずらして低層の部分のスカイラインを強調している。劇場部分の曲面体、直方体のフライタワー、低層のパビリオン、そしてこの斜めのウィングがそれぞれその明確な個性を形態、材質を持ちながら、総体としてひとつのアンサンブルをつくることを目指した。

10月の中旬、オープニングの前日の夕方、われわれ事務所の数人は東面に広がる芝生の端部に立って、次第に濃さを増していく空、なお輝きを失わないステンレスのルーフ、そして明かりが灯され始めたホワイエ空間が徐々に変わっていくその対比を楽しんでいた。
すぐ近くの遊園地からきた子ども連れの家族たちだろうか、ホワイエの前面に張り出されたテラスの上をゆっくりと彼らは歩いていく。いつこんな大きなものができたのかという訝しさも驚きの気配もそこにはなかった。独りのためのパブリック・スペースをつくりたいという願いと努力が、この日までの3年半の歳月に凝集されていたことをあらためて感じた。

(初出:『新建築』0801)

槇文彦

1928年東京都生まれ/1952年東京大学工学部建築学科卒業/1953年クランブルック美術学院修士課程修了/1954年ハーバード大学修士課程修了/ワシントン大学、ハーバード大学准教授を歴任/1965年槇総合計画事務所設立/1979 ~89年東京大学工学部教授/現在、槇総合計画事務所代表取締役

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ジョルジュ・スーラの代表作のひとつ「グランド・ジャット島の日曜日の午後」。/Georges Seurat (French,1859-1891), "A Sunday on La Grande Jatte " (1884,1884-86), Oil on canvas, 207.5×308.1cm, Helen Birch Bartlett Memorial Collection,1926.224,The Art Institute of Chicago. Photography©The Art Institute of Chicago

セントルイス・ワシントン大学視覚芸術学部。/提供:槇総合計画事務所

シンガポール理工系専門学校キャンパス。/提供:槇総合計画事務所

パナティナイコの野外劇場。/提供:槇総合計画事務所

イランの古都イスファハンのチャド・パックというブルバード。/提供:槇総合計画事務所

サンパウロにあるリナ・ボ・バルディのコミュニティ・センター。運動施設の窓はあたかも洞窟の入口を思わせる。/提供:槇総合計画事務所

どこかユーモアのある形を探し求め、結果的にはさまざまな球体の複合曲面体をCGのソフトウェアを駆使しながらつくり上げた。/提供:槇総合計画事務所

日本の正月を祝う鏡餅のように少し球体を押し潰した形になった。/提供:槇総合計画事務所

fig. 8

fig. 1 (拡大)

fig. 2