言葉の正しい意味で住まうということは、いまや不可能である。わたしたちが育ってきたところの伝統的な住居は、なんともやりきれないものになってしまった。住居のなかの快適さのひとつひとつとひきかえに、認識を犠牲にしてきたのであり、家庭という古色蒼然とした避難所には、家族の利害の調整という黴臭い契約がしみついている。
(中略)家は過去のものになった。……こうしたもののうちで実際に最善の態度とは、いまもなお、とらわれないこと、宙吊状態をまっとうすることのように思われる。……自分の家でくつろがないことが道徳の一部なのである。
テオドール・アドルノ著『ミニマ・モラリア』(1951年)
快適さについて
住宅に限らず、何を設計していても、僕にはいつも引っかかる問題がある。まずその問題を整理しておきたい。当たり前のことだが、建築をつくることは、生活のための物理的な環境を整備することである。したがって建築家の仕事は、クライアントの要求条件を満足させるような物理的環境を設計することだと考えられている。しかし本当にそうなのだろうか。建築家として自己否定することになるのかもしれないけれど、僕はいつもこの点に関する疑念がぬぐえない。早い話が、住み手の要望を完全に充足していることが住宅の理想的な条件なのか。たとえそれが実現不可能であっても、それをめざして努力することが建築家としての最終目標なのか。僕にはどうしてもそのようには思えないのだ。むしろ住み手の欲しいものすべてがそろっているような住宅を見ると、住み手も建築家も、あまり尊敬できる人ではないなと勝手に考えてしまう。さらに住み手の欲望があからさまに読み取れるような住宅や、それに安住しているような住み手に出会うと、嫌悪感をさえ感じてしまうのだ。
たとえば、僕はいつもこんなシーンを想像する。寒風吹きすさぶ海岸にそそり立つホテルのラウンジで、風呂上がりにビールを飲んでいる人がいる。外は猛烈な寒さだが、巨大なガラスで包まれたラウンジの内部は暖かく、浴衣1枚でも暑いくらいである。見下ろすと、荒波が打ち寄せる岩場で磯釣りをしている人がいる。ガラス1枚で隔てられているが、ふたりは同じ景色を眺めている。しかしふたりの眼には、景色はまったく異なる意味をおびて見えるだろう。前者は人工的にコントロールされた快適な環境の中で、荒れ狂う自然を、一幅の絵画のように眺めている。一方、後者は厳しい自然の中で、それに包まれ、その一部となり、それと闘っている。前者は自然を外から観察し、後者は自然と対話している。
この違いは、建築にとって快適さとは何かという問題にかかわっている。快適な空間をつくることが建築家の仕事だとしても、上で述べたようなまったく異なる快適さがあり得るはずなのである。しかし前者のような快適さだけが求められてはいないだろうか。僕たち建築家は、前者のような人間をつくることばかりに加担してはいないだろうか。住み手の要求を固定的にとらえ、それに合わせて快適な空間をつくることを目標としてはいないだろうか。しかしながら要求は住み手のそれまでの経験によって形成されたものであること、それは変化し得るものであり、変化させることによって住み手の世界を広げることも、住まいの設計の仕事であることを忘れてはいないだろうか。
住まいの快適さは、物理的環境から一方的にもたらされるのではない。それは物理的環境と住み手との緊張をはらんだ相互作用のなかにあるのだということを、再度確認しておきたいと思う。
立体最小限住居 1950
池辺陽の設計したこの住宅は、ほとんどの彼の住宅がそうであるように、まったくてらいのないストレートな建築である。これは池辺の実質的なデビュー作品であり、戦後の小住宅時代の代表的な作品のひとつと考えられている。現在では、池辺というと、必ずこの作品が取り上げられる。
正直にいえば、僕はこの住宅があまり好きではない。下見板の外壁がバラック的で、現在の感覚からは安っぽく見える。しかも開口の少ない壁的なデザインであるため、後の池辺の作品に一貫して見られる軽快感がない。だから、僕はこの作品によって池辺を語ることには反対である。彼には、No.17(池辺自邸)、No.38(石津謙介邸)、No.66、No.94など、もっとエキサイティングな住宅がたくさんあるし、彼のデザイン思想はむしろ鹿児島宇宙空間観測所施設(KCセンター)の建築群に集約されている。僕はNo.3(立体最小限住居)の歴史的な評価によりも、No.66、No.68、No.76、No.94やKCセンターの未来的なデザインのほうに、ずっと大きな可能性を感じているfig.1。
にもかかわらず今回の「箱の家」を設計しているあいだは、いつもこの「立体最小限住居」が頭から離れなかった。その理由は、その極限的に切り詰められた寸法システムと、吹抜けを利用した完全に一体の室内空間にあった。吹抜けによる空間の立体化は、単に表現的な効果だけをねらったものではない。それは住まいの機能分化を進めながら、それを整理し、立体的に組み立て直すための手法であった。最小限の容積(延床面積47.05m2)の中に、最大限の機能を集積させるには、空間の一体化は必要不可欠であった。
僕はこの池辺の住宅と共に、増沢洵の自邸である「最小限住居」(1952年)も参照したが、両者を比較すると、機能と空間のとらえ方の違いがよくわかる。増沢の住宅も吹抜けをもつ一体空間だが、機能分化はそれほど追求されていない。それよりもむしろ構造システムの一貫性や空間的な効果のほうが優先されている。一方、池辺の住宅では分化した機能の独立性を優先させるために、平面と構造のシステムが犠牲になっている。もっとも異なる点は、屋根勾配と室内空間の方向性である。池辺は東西方向にやや急な屋根勾配を取り、増沢は南北方向に緩やかな勾配を取っている。これによって、池辺の住宅では南側のテラス窓から入る光と吹抜けの方向とが交錯し、室内空間がやや複雑になっている。一方、増沢の住宅では、両者の方向が一致しているために、単純で透明な空間が実現されている。僕が池辺の「立体最小限住居」に疑問を感じる最大の理由は、実はここにある。おそらく現代の僕たちには、増沢の空間のほうが新鮮に見えるだろう。
しかしながら、池辺のめざした機能分化の重要性を忘れてはならないと思う。池辺はこの住宅の設計思想について、こう書いている。
方法としては、一部に試みられた生活の極端な単純化や移動によるスペース節約の方法は、かえって実際の生活を複雑化し、家事労働を増すものとしてとらず、平面の機能分化を尊重し、空間の節約、断面による独立性の確保に努めた。
「立体最小限住居の試み」(『新建築』5007)
現代から振り返れば、この住宅における機能分化は、いかにも不完全に見える。というよりもむしろ上にも述べたように、あまり機能分化していない増沢の住宅のほうが現代的にさえ見えてしまう。
しかしそれは歴史のトリックである。
終戦後から1950年代にかけて、建築家たちが集中的に取り組んだテーマは、畳を中心とする生活様式を、椅子を中心とする生活様式へ転換させることであった。それはどんな用途にでも転用できる畳部屋という「均質空間」から脱却することであり、多目的な畳部屋が温存させている封建的な生活様式を解体して、近代的で合理的な生活様式に機能分化させることであった。しかもその機能分化は最小限の面積で可能であることを証明しなければならなかった。でなければそれは一般大衆の生活様式として受け止められないからである。つまり池辺がこの住宅でやろうとしたのは、当時の畳式住宅と同程度の面積で、椅子式の機能分化した住宅が可能であることを示すことだったのである。そのために平面、断面の両方で徹底的な寸法スタディが行われ、最小限の寸法が選択された。そして空間のあらゆる部分で、機能分化の可能性が追求され、限られた面積の中で、機能は複雑に重なり合うことになった。このような視点から見れば、増沢の住宅の単純で透明な空間は、むしろ畳式に近いといえるかもしれない。
池辺はこのような問題を追求した動機について、こう書いている。
「最小限」に「立体」をつけたのは、1920年当時、ヨーロッパで最小限住宅へのアプローチが、ほとんど平面計画によって進められていたことからもきている。空間は立体であり、平面はそれを二次元に翻訳したものにほかならず、したがって、もう一度二次元のものとして空間を把握することはできないかということであった。
同時に、立体を問題にしたのは、高さ方向の次元を一定にし、問題を二次元に置きかえて追求する方法が、標準化の方向には非常にアプローチしやすい方法であることを工業生産の中で経験し、それを否定しようという立場からでもあった。
池辺陽著『デザインの鍵』(丸善、1979年)
ここで述べられている池辺の建築思想は、その後もずっと変わっていない。
一般に池辺は住宅の工業生産を推進した建築家だと考えられている。しかしそれは表層的な理解にすぎない。確かに池辺は住宅の工業生産についてさまざまな研究を試みている。しかし池辺にとって、それは住まいの機能条件を明確に組織化することを前提にした研究であり、工業生産はあくまで機能のレベルアップのための前提条件であった。その後も彼はさまざまな新しい機能的問題を提出し、住宅の工業生産の可能性を検証している。したがって、池辺は技術主義者というよりも徹底した機能主義者であった。それは立体最小限住居について述べた最後の文章にもはっきりと示されている。
住居が家事労働を減少し、衛生条件を高める限り、生活様式の改革は少なくとも婦人の側から反対されることは絶対にないと思われる。以上の意味でこの研究設計は婦人の解放のために捧げられるべきものである。
『立体最小限住居の試み』(『新建築』5007)
この住宅において、池辺がもっともエネルギーを注いだのは、台所回りのデザインであった。ここにも機能主義者としての池辺の真骨頂が現れている。そしてそれは後の一連の住宅やキッチンユニットの開発に引きつがれていく。
機能と空間
池辺や増沢の最小限住居をはじめとする1950年代の一連の小住宅は、それまでの畳を中心とする生活様式を解体し、近代的な椅子式の生活様式に再編成することをめざしていた。そのために空間はいったん開放され、そこから新たな機能分化がスタートした。したがって、これらの小住宅に共通して見られる一体的な空間は、機能分化へ向けての出発点であった。同時に、それは民主的な空間、民主的な家族、民主的な社会に向けての出発点でもあった。つまり畳式の生活空間の解体は、それまでの封建的な家父長制度の解体を意味し、それに代わる開放的な一体空間は、平等で民主的な家族制度を意味していたのである。さらに婦人の解放は開放的で明るい台所の設計に反映され、子供の自立は個室の確保へと展開していく。そしてその先に出現するのがnLDKという住居タイプなのである。
最近、このnLDK型の住宅と、そこで営まれる家族生活とのズレが注目されるようになり、ステレオタイプ化したnLDK型住宅の再検討が叫ばれるようになった。そしてそれと平行して、1950年代の小住宅がふたたび注目され、建築家の設計する住宅に開放的な一室空間に近いものが多く見られるようになった。あまりにも豊かで機能的に複雑化してしまった住宅に対する反省から、生活の近代化がスタートした1950年代の原型的な住宅を見直そうとする動きが出てきたのである。確かに当時の小住宅は単純でのびのびとしており、現代の住宅には見られない、すがすがしさを湛えている。そこにはまた民主的な家族生活に向けての若々しい決断を読み取ることもできるだろう。1950年代の小住宅の再評価は、つまるところ戦後モダニズムの「清貧の思想」を通した現代住宅批判なのである。
1950年代の開放的な小住宅と、現代の開放的な住宅とは、一見すると同質の空間をめざしているように見える。しかし両者の空間的な意味は基本的に異なっている。先にも述べたように、1950年代の住宅の開放性は、機能分化が始まる前の初源的な開放性である。それはこれらの住宅の極限的な狭さにはっきりと表れている。池辺と増沢の最小限住宅や広瀬鎌二の「SH―1」(1953年)は、どれも延床面積が50m2(約15坪)以下であり、比較的広い清家清の自邸(1954年)でもせいぜい70m2(約20坪)である。しかもそれは広い敷地に守られた開放性であり、家族の未分化によって支えられた開放性であった。この点において、1950年代の日本のケーススタディ住宅は、その手本となったアメリカのケーススタディ住宅とは根本的に異なっている。
一方、現代の住宅の開放性は、機能分化が進行しnLDK型に固定化してしまった住空間を、もう一度解体する方向へと向かっている。そしてそれは近代的な家族制度の解体を伴っている。前者も確かに旧来の家族制度の解体を前提としてはいたが、家族と住まいの近代的な再編成という明確な目標をもっていた。しかしながら、現代のnLDKの解体は、何か新しい制度や空間システムヘと向かうような解体ではない。この意味で、両者が向かう方向はまったく逆だといっても過言ではない。
僕の考えでは、現代の住宅に見られる開放性は、機能と空間、生活とプラン、家族と住宅といった、建築におけるソフトとハードの必然的な対応関係が解体したことによってもたらされたのである。それは別の新しい対応関係へと再編成するための解体ではない。むしろ生活のアクティビティと空間のシステムとの関係が不確定になってしまった一種の拡散状態なのだといってよい。したがって現代の住居デザインのテーマは、そうした生活と空間の不確定な関係をできるだけ限定しないような、最低限の機能分化を探し出すことにあるのではないか。
住居デザインの社会的意味
1950年代の半ばになると、日本はようやく戦後の混乱期を終え、徐々に高度成長期へと移行していく。これに伴って建築家の仕事の中心は、小住宅からより大きな住宅やオフィス、公共建築へと移行していく。そのような時期に、池辺はあらためて自らのテーマを位置づける文章を書いている。「住居デザインの社会的意味」と題されたこのエッセイは、建築家が一戸建住宅を設計することの社会的意味を問うたものである。
池辺が主張する次のような前提は、現在でも通用する。
はっきり言って住居デザインの仕事はどんなに苦心しても住宅問題の解決に直接役立つものではない。空間の節約も構造の経済性も同様である。私は住居デザインの仕事はまずこの住宅問題の解決には役立たない、という前提の上に、その社会的意味を考え、確立してゆかなければならないと思う。この前提に立たない限り、社会的存在としての公営住宅や個人住宅などの意味とデザインの意味が混乱して、真の住居デザインの発展を望むことができなくなる。
「住居デザインの社会的意味」(『建築文化』5401)
では、住居デザインの社会的意味はいったいどこにあるのだろうか。池辺はまずデザインの最低限の役割は、与えられた予算で可能なかぎり住まいの質的な向上を図ることだと主張する。これはとりわけローコスト住宅の場合に重要な条件である。ローコスト住宅は、安価であること自体に特別な意味があるわけではない。そうではなく、ローコストであるにもかかわらず、一般的な水準以上の居住性と空間性能が実現されたときに、はじめて社会的な意味をもち得るのである。寸法システムや住宅の工業生産化に基づく住まいの機能研究は、すべてこの問題に結びついていた。池辺が決して公営住宅の設計を手がけようとしなかったのは、そこではこの関係が逆転していたからである。
住まいの質的向上は、最終的に住み手の住意識を喚起することによって社会的な意味を獲得する。池辺はこう結論づけている。
住居は建築家が完成するものではなく、居住者が完成し、発展させていくものである。(中略)住居がその居住者に生活を発展させていくための端緒を与えるならば、そのデザインは成功である。逆に居住者をその住居の中の人形にし、何事も建築家に相談しなければ手がつけられないようならば、そのデザインは失敗である。デザインの社会的意味は居住者の発展に対する積極的意欲を燃え上がらせることにあり、それのみを通じて住宅問題に結びつき得るのである。
「住居デザインの社会的意味」(『建築文化』5401)
箱の家
このふたつの住宅は、いずれもきわめてローコストである。特に「箱の家―Ⅰ」fig.2は、僕がこれまで手がけた住宅の中で、もっとも工事単価が安いものである(家具、台所、設備、電気を含めて約52万円/坪である)。しかし決して空間性能を犠牲にしてはいない。吹抜け部分には床暖房を組み込み、床、外壁、てんじょう裏にはすべて100mm圧の断熱材を入れ、夏期の換気と冬期の結露防止のための通気層を取っている。外壁は中空セメント板、屋根はガルバリウム鋼板、鉄部は亜鉛ドブづけメッキ仕上げとして、メンテナンス・フリーを図っている。深い庇は夏の直射日光を遮り、冬の日光を導き入れる。コンクリートのテラスは冬期の昼間の太陽熱を蓄熱し、夜間に放熱して巨大なガラス窓の熱負荷を軽減する。
こうした空間性能を実現するには、さまざまな条件を整理する必要があった。まず第1は、容積を最小限に抑えたことである。平面はできるだけ正方形に近づけ、階高を抑えて、外装の面積をできるかぎり削減した。屋根勾配も鋼板はぜ葺きが可能な最小勾配(1/12)としている。吹抜けを取ったのは、通常よりも高い天井の空間を確保して、それ以外の部屋の天井高を抑えると共に、風通しのよいのびのびとした内部空間をつくるためである。
第2の条件は構法の単純化である。スパンは1.8×3.6mをモデュールとして、仕上げパネルの割付けを効率化し、構造材の種類をできるかぎり標準化した。さらに仕上げの種類も単純化し、開口の種類も減らした。内装仕上げや家具造作はすべて大工工事としている。工事の種類を減らすことは、同一性能を保ちながらコストダウンを図るための、もっとも有効な方法である。
そして第三の条件は、空間構成の単純化である。これは室内の間仕切りをいかに少なくするかという問題である。これは生活の仕方に直接かかわることなので、クライアントと十分な話し合いが必要であった。その結果、「箱の家―Ⅰ」ではほとんど一体的な内部空間が実現され、「箱の家―Ⅱ」fig.3はそれよりも機能分化が進んだ内部空間となっている。
「箱の家―Ⅰ」には子供たちの個室はなく、すべて半開放的なベッドアルコブになっている。子供たちのプライバシーについて、どう考えるのかという批判があるかもしれない。しかしこれはクライアントの家族による住まい方の実験的な試みである。間仕切りは構造体とは切り離されているから、それを変更することは技術的にはいつでも可能である。それよりも、間仕切りのない住まいの中で交わされる、無意識の空間的コミュニケーションを大切にしたいと考えたのである。
しかし上述したように、これはかつて考えられていたような運命共同体としての家族の一体性を想定した空間ではない。そうではなく、家族のメンバーが同意する一定のルールのもとに「家族ゲーム」を演じるための、一種の舞台空間なのである。前面道路に開放された空間は、通過する人たちまでも役者や観客に引き込むだろう。実際に、巨大な机の回りに座って外を眺めていると、通過する人たちの表情の変化が手に取るようにわかる。それは都市の中で久しく忘れられていた種類のコミュニケーションである。
今後、住まいはどこまで開放的になれるだろうか。過度に機能分化した住空間はどこまで解体され、流動的になり得るだろうか。そしてそれはどこまで都市空間に対して開放的になり得るだろうか。これがこれから追求すべき住居デザインの最大のテーマではないかと考えている。
(初出:『新建築住宅特集』9508)