ジャンルレス化する建築
清野 本日なぜ宮崎さんをゲストとしてお呼びしたのかを、説明させていただきます。ご存知の通り、高度経済成長期から現在まで日本の実質経済成長率は凋落・停滞傾向であり、それに応じて建築家のあり方も大きく影響を受けてきましたfig.1fig.2。丹下健三さんをはじめとして戦後間もなくご活躍された世代を第1世代、槇文彦さん、磯崎新さんらをはじめとする1920〜30年代に生まれた建築家を第2世代、安藤忠雄さん、伊東豊雄さんらをはじめとする1940年代生まれを第3世代とすると、第1世代が活躍した時代は終戦から1964年の東京五輪に向かう希望に溢れた時代であり、以降の第3世代までは経済成長の恩恵を受けてきた世代といえます。しかし、1950〜60年代生まれの第4世代が活躍し始める1980年代頃には、景気が後退フェーズに入り、国内の大型プロジェクトが減少したことで活躍の場を世界に広げざるを得ない状況になり、生き残りにはそれに耐え得るタフネスと戦略が求められるようになりました。今活躍されている建築家はそういう困難な時代を切り拓いてきています。
これまで建築家は設計にさえ集中すればよかったのかもしれません。ただ今後は、設計に加えて企画、運営までを三位一体にできないと、マーケットに求められない時代になっていくのではないでしょうか。こうした建築家像の先例をつくった方が宮崎さんだと考え、今回お声がけをしました。先ほどのお話にもあったように、設計・企画・運営を一体でやるには、今はまだかなりのリスクを取る必要がありますし、バランスシートや企画書を書き、銀行のような他業種の人とも渡り合わなければいけない。建築家=設計をする人と定義されていた時代とは、明らかに求められているものが変わってきています。
宮崎 そうですね。高度経済成長期は職業が分業化していった時代なのだと思います。プロフェッショナルとは、そうした分業を極めた先にいる人たちだととらえることもできます。ただ、経済も人口も縮小していくこれからの社会においては、ひとつの分野だけで生きていく人がたくさんいるという状況は現実的ではないようにも思います。僕は建築をやりながら企画・運営をしていて、建築界の中の動きとして見れば職能を拡張しているように見えますが、逆にいえばそれは他分野と同じフィールドで競い合う、群雄割拠の時代になっているともいえます。他分野には僕と同じように企画・運営をやる人はたくさんいるし、たとえば料理家でもいい空間をつくっていたりします。建築自体がどんどんとジャンルレスなものになっている。
清野 建築の裾野が広がった分、戦いも激しくなってきているんですね。
宮崎 これまで建築家は難解な言葉で専門性を保ち、アマチュアと差をつけて優位性を担保していた。ただ、誰でも情報が得られるこの時代に、その専門性だけで報酬を得るのはもはや難しいです。当然専門性は大事だし、そのために僕らは建築を勉強し続けますが、実際の設計の際にはその専門性を一旦忘れ、「ひとりの人間として何ができるか」ということを考えないといけません。今は誰もが建築をつくる喜びを享受できる時代です。実際、たとえばリノベーションは建築家でなくてもできてしまいます。その時代に、建築家がプロフェッショナルとして社会と距離を保つのか、あるいはそこへ飛び込むのか、人によって選択を迫られているという局面なのだと思います。
清野 時代背景を踏まえると、宮崎さんのように多層的な人格をもっている方が、社会的には受け入れられやすくなっているのではないかとは思います。
都市を経験する人の脳みそをリノベーションする
清野 企画や運営の考え方が設計に活かされるということはあるのでしょうか。
宮崎 やはり設計の中にも企画、運営の経験からのフィードバックが生きる部分があります。そのひとつとして、僕の故郷・前橋市の「しののめ信用金庫 前橋営業部ビル」(『新建築』2211)があります。敷地に元々ある建物は1964年に建てられたSRC造でしたが、耐震診断では問題ありとされており、当初は建て替えやむなしの方針でした。ただ構造設計者に改めて相談したところ、既存の構造に致命的な欠陥は見当たらず、バランスを取り戻せば十分に使えるということでした。また、信用金庫の運営を規定する信用金庫法を調べてみると、新築する際は信用金庫業以外の用途を入れてはいけないけれど、改修を含む既存の建物を活用する際は、窓口以外の部分を貸し出してもよいという要件があることが分かりました。このような背景があり、しののめ信金さんには既存建物の改修と、余剰スペースの貸し出しを提案しました。
清野 「HAGISO」の時と同じように、実現に向けて理論的な根拠を導かれていますね。
宮崎 エフエム群馬という地元のラジオ局の敷地内への移転が決まり、コンセプト設計が始まりましたが、谷中で培った、建物が建つ部分だけでなく地域の中で建築がどのような役割を担うか考える目線は、ここでもかなり活きました。周辺には「白井屋ホテル」(『新建築』2101)や「アーツ前橋」(『新建築』1301)のあるアートエリア、遊園地のある行楽エリア、商店街エリア、官公庁エリアがあるのですが、設計対象の敷地はどのエリアにも属さない空白地帯でした。ただ、裏を返すと周辺の主要エリアの中心に位置し、それぞれを繋ぎ留める場にも見える。信用金庫もラジオ局も、”中継”するのが仕事なので、地域を繋ぐ場というコンセプトで事業全体の方向性を提示しましたfig.3。
元々この敷地は大半が駐車場で国道側のみにエントランスがある状態でした。そこで、敷地の中央に屋外広場と街路を計画し、さらに各方面に行けるアプローチを設け、エントランスは広場側に移動しましたfig.4。街路を敷地内に引き込むことによって内外を反転させ、これまで裏としてあった面がファサードになった。街区と街路の関係性を反転することで、都市の見方も反転させる。このように、ひとつの建築を起点に都市の見方を変える操作を行う、ということを大事にしています。
清野 その意味では、谷中でやられてきたことと通じていますね。
宮崎 そうなんです。いい映画を見た後って、その余韻で普段歩いている街が全然違う風に見えることがありますよね。それと同じように、ひとつの建築があることでその周りの都市に何も手を付けてなくても、その見え方が変わる可能性がある。その建築を通してどうその都市を見るかという見方をデザインすることで、経験する人の脳みそをリノベーションするようなイメージです。
清野 脳みそのリノベーションという表現はいいですね。本来建築はそういうものであるべきですよね。
宮崎 1階には銀行窓口とコーヒースタンドがあり、2階にはよい選書がなされたライブラリーがありますfig.5。しののめ信金さんは太っ腹で、ライブラリーは銀行窓口が開いていない時間も含めて、遅くまで無料解放されています。フリーWi-Fiも飛んでいるので、たとえば中高生などが自習室として使ってくれたらと想定しました。そうして培われる「自分たちの街って捨てたもんじゃないな!」という気持ちが、彼らがいずれ東京や海外に出ていったとしてもまた戻ってくる時のきっかけになるかもしれないし、将来住宅ローンを組む時に、しののめ信金を思い出してくれるかもしれない。その時ライブラリーの投資を回収できればよいと考えてくださったんですね。
清野 前橋の懐の深さを感じます。
宮崎 はい、幸運な出会いでした。3階には大会議室を改修したホール、4階にはテナント用エリアがあり、いずれも高稼働で売り上げを生み出しています。屋外広場では、エフエム群馬とプロジェクトチームを組み、イベントを企画・運営しています。ラジオ局は企画力も発信力も強いですし、車社会の群馬ではみんな車でラジオを聞いてくれているので、集客力のあるイベントが開催できています。結局のところ、建築の格好良さはもちろんですが、それ以上にその建築があることで周りの街がどう見えるか、機能するかが本丸だと思っています。そして、こうした考えのもと街のためにすることが、ゆくゆくクライアントの利益として返ってくることもあるのだと思います。それは谷中での活動を通して学んだことであり、設計姿勢に活かし続けています。
清野 コストの回収方法に、当事者意識と説得力を感じます。「クライアント様にお金を出していただいてつくる」というこれまでの建築家のあり方とは全然違いますね。
宮崎 クライアントを強引に説得すればやはりどこかで無理が生じるので、事業構想によって自然にモチベーションに働きかけるようにしています。
都市の文脈の中で建築をつくることの難しさ
清野 谷根千は戦前の古い町並みを残すとても魅力的なエリアですが、同時に谷根千の素晴らしさを周縁部が消費し始めているという、危ない事象も起きていると感じます。
宮崎 谷根千の魅力的な部分が明らかになっていくにつれて、周囲の開発意欲が高まってしまうというジレンマは確かに感じます。ただ、だからといって何もせず手をこまねいていれば、今の素敵な街の風景や記憶もあっという間に失われていってしまう。一方で、「HAGISO」をはじめとする事業を成り立たせるためには、それなりにポピュラリティを獲得しなければいけません。すごく難しい状態にあります。
清野 特に現代は都市の文脈というのも非常に移り変わりやすいので、その対応もとても難しいですね。普段使い慣れているアプリの仕様が、ある日何の予告もなく変わるというように、見慣れた都市がある日突然変わる、ということが容易に起こっている。
宮崎 スクラップ・アンド・ビルドを東京の個性と読み替えることもできますが、僕は都市の風景や記憶を継承することもとても大切だと考えています。東京は一度空襲によって破壊され、現在残された風景には数十年ほどの歴史しかないものも多いですが、それでも僕らがこれからの都市を再考するには、まずはその都市の姿を原点として始めなければならないのではないでしょうか。それすらしないと、都市のアイデンティティが完全に失われてしまいます。
清野 海外の建築家から見ればスクラップ・アンド・ビルドが盛んなTOKYOは、建築家の稼働機会が多くて羨ましい部分もあるかもしれません。そのジレンマの狭間を葛藤しながら生き続けなくてはならないのですね。
宮崎 谷根千以外のエリアにもやはり「都市の痕跡」というものは、どこかに必ず残っているのだと思います。先日、古地図をもって川崎を歩いた時にも思いましたが、目を凝らせばどんな街であっても、昔の姿を辿ることができます。そうして時間を超えて残ってきた痕跡を大切にしていかなければ、本当にどこでもいい都市になってしまう。ここでなくてはならない理由を、今あるものから見つけて活かすことができれば、谷根千以外でもその土地に暮らす意味を見出せる都市をつくれるのだと思います。
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(2023年10月13日、新建築書店にて公開収録。/文責:新建築.ONLINE編集部)