美しいものと優れたデザインは万人のものだ。富む者が資源を無駄にしてよい道理がないように、もたざる者が建築を享受できない道理もない。
子ども時代、身近にある建物のデザインをしてばかりいた。窓から射す光が屋根や壁に描きだす影の線を、頭の中に描き続けるのだった。通った小学校の暑くて仕方のない教室で、どうしたらこの環境をよくすることができるのかと考えた。いまその頃を追憶し、建物の外にある何もない空間こそが創造を刺激するのだと思う。誰もが、あるかたちの描く線を自分で伸ばしていき、頭の中の像を完成させることはできる。この創造の力こそが原動力となり、私は建築設計という道を選び、本特集で振り返っていく経路を辿り、いまこの素晴らしい地点にある。そして、先へと進み続ける力ともなってくれるだろう。
建築設計の道を選んだのは、自分の属する共同体へ返すべきものがあると感じたからであった。私を育て導いてくれたブルキナファソ、ガンドの人々のおかげで、彼の地ではまだなかった水準まで教育を受け、自分の可能性を開花させることができた。初期に多くたずさわったのが不足地域に教育保健施設を建てるプロジェクトであったため、私の設計はよいデザインのためではなく、貧困地域の環境改善としてのみ見られることがしばしばある。この考え方には賛同できない。資源を大切に使った優れたデザインは決して贅沢ではないはずで、社会基盤や福利は特権階級だけのものではなく、基本的欲求を満たしたのちにのみ与えられるものではないはずだ。
狭く暑い教室で授業を受ける毎日で、8才になる頃にはよりよい教育施設を熱望するようになっていた。当時の環境は物理環境というだけでなく、何かを学ぶための環境としてもとても適したものではなかった。私は窮乏とされるような環境にあったにもかかわらず、制約の元にあったとしても、よい環境を設計し建てることはできるのだと信じて止まなかった。
今となっては、もたざることの中からこそ真の創造力は生まれると確信している。「現状をもってして、どうしたら最善の建物をつくれるのか」と問いさえすればよい。いついかなる時も、資源素材の無駄をいかに減らすか、その場所にあるものを使って身にも心にも快適な環境をどうつくるのかと、問い続けるべきである。質の高い空間と新たな空間の質をつくることが私の原動力である。見過ごされてきた素材の可能性を追究したいと思う。素材に関しては日和見主義的なところがある。地産の素材とそれを扱うことのできる技術者を毎度見極めて、反復可能な解を導きだすのである。建築解とは転用や反復が可能であるべきだ。
現代社会では何事においても、容易に転用でき、規格化され、持続可能な手法を発案することが重要課題となっている。私は、この課題にたいし遊び心をもって立ち向かい、構想・建設をしていく。座って紙や画面に向かい絵を描き理論を立てるのではなく、スケッチからすぐに実践に向かう。設計の実用可否をみるのに最善なのは試作─原寸でが望ましい─の繰り返しである。今日、アイディアと実践の間にギャップを感じることが多いが、私にとって両者は一つである。手で考え、頭で行う。この技をもって、一見すると境界のように見えるものを試してみることが可能になる。石に刻まれた制約なのか、1mmずつ押し広げられる弾性をもった境界なのか。
考えてみれば、この能力は私が経てきた専門教育によるものなのかもしれない。建築へと舵を切る以前、13才から17才になるまで、ブルキナファソのファダ・ヌグルマにある専門学校で大工の勉強をしていた。しかし木がほとんどない国で大工になることに意義を見出せなかった私は、奨学金をもらってドイツに渡りさらに修行を積むこととした。若い専門家を2年間育成し、その後出身国で知識を広め、能力を高めることを目的としたプログラムであった。ボツワナ、ジブチ、レソトからも集められた大工たちとミュンヘンへ渡り、6ヶ月のドイツ語特訓を経て、ベルリンに向かった。いつか帰国して、同胞のためのよりよい学校建設の一翼を担いたいという思いが消えることはなかった。大工という職業を超え、建築を学べば、ブルキナファソの子供時代に思い描いたような建物の設計ができるはずだと気づいたのだった。
そうして私は踵を返し、プログラムを修了した後も祖国には戻らなかった。20代の日中ほとんどは引っ越し、建設業、新聞配達、書籍販売など様々な仕事に、そして夜7時から11時まではドイツの高校卒業資格を得るための夜間学校に費やされた。その後ベルリン工科大学へ進み、建築を学んだ。
ベルリン工科大学の卒業設計として始まったのがガンド初等学校(『a+u』2205、p.12〜19)の設計であった。この作品をもって学業を終え、建築の道が始まった。この道を30年近く歩んできたが、今ここで改め、これまでつくり上げてきたものを振り返り、さらに多くのアイディアが実現されてゆく未来を覗くことは、素晴らしい機会であった。特に日本のデザインにはいつも刺激され、畏敬の念を抱いてきたため、ここで私の情熱を『a+u』の読者と共有できることを嬉しく思う。我々がアイディアや設計手法を共有することで、それぞれの地域の建築を豊かにすることができればと願ってやまない。
(2022年4月ベルリンにて、初出:『a+u』2205)