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2021.09.30
Essay

祖父の3つの家

貝島桃代(アトリエ・ワン)

この文章では、記憶に残る情景として、1970年代、私が物心ついた時分に過ごした祖父の3つの家とその周辺について、自身の記憶を紐解き、自身の建築観や世界観の関係について、考えてみたい。ここに記した3つの家の記憶は、小学校低学年までのものである。3つの家を維持し、行き来し暮らしていた祖父は、会社を運営していたこともあり、それなりのお金がかかったろうが、改めて思い返すと、それほど贅を凝らしたものではなく、質実剛健な設えで、むしろ彼の求めるライフスタイルの実現に近い。祖父は私に「都会だけでは人はダメになる。自然のあるところに住むのがよい」とよくいい、田舎の家では、泳ぎや磯遊び、竹割細工を通しナイフの使い方など生活の術を丁寧に教えてくれる一方、自分で責任をもてと、放任もしてくれたおかげで、家もそうだが、その周囲も自由に散策ができた。幼いながらも信頼され、自分の思う通りに過ごせたことが今の自分にとって財産となっている。私はどの家も地域も好きだったが、その後海辺の家以外は壊され、実際に訪れることはできず、ただ記憶の中にあるのみである。

東京、四谷の家

はじめに私の生家でもある四谷の家について思い起こしてみるfig.1。それは、祖父が戦中疎開していた熱海から引き上げ、東京に住むにあたり、空襲で焼け、区画整理された住宅地に宅地を新たに買い求め、1950年に建てたものだと聞いた。比較的大きな区画で、南側に庭、北側に母屋と離れがあった。門の脇に桜が植えられており、そこから敷地に入るとから石で舗装された道に導かれ、円形の噴水池、井戸を抜けて、玄関へ。庭にはモクレン、カリンなどが植えられ、季節折々の花を咲かせていたのを記憶している。母屋は廊下で複数の部屋が連なる平屋の一部が2階建てになっており、中央の玄関から西には畳敷の子供部屋があり、L字についた広縁には洗面台がつき、歯磨きはここでしたものだった。庭がよく見え、日当たりがよい。部屋の隅に2段ベッドがあり、私は下に、妹は上に寝ていた。ほとんど何も置かれていない畳は遊び場だった。複数枚のハンカチを広げ、間取りをつくり、妹とよく人形遊びをした。また、祖父が買ってくれた日本昔ばなしのテープがあり、物語を誦じるほど、毎晩のように寝ながら聞いていた。玄関から東には洋間の応接室、そのさらに東には両親の洋寝室と父の書斎があった。応接室には籐のソファセットがあり、鉄パイプの柱とタイルの壁の間に、踊り場のついた黒い回り階段があり、その周辺にピアノなどが置かれていた。応接間の南側には、石炭ストーブのあるサンルーム、北側には黒い楕円のテーブルの置かれた食堂、さらに北には配膳室のある台所があった。2階への階段の途中には屋根裏の物置があり、上りきると祖父の水回りと前室、奥には広縁のついた和室の寝室があった。祖父は家では和装に下駄、会社には背広で、出かける時はステッキと縁付きの帽子をかぶっていた。朝2階へ上がってゆくと祖父の儀式のような身支度を見ることができた。縁側の流しで熱湯を沸かし、洗面器でタオルを浸し、それに絞って、頭や顔にあて、髭を剃り、髪を椿油で整える。縁側の籐のテーブルと椅子のセットでは余暇にトランプをし、和室の書院の机では硯と筆で書き物をしていた。この縁側は見晴らしがよく日当たりがよかったが、一度目の前を大きな飛行船が飛んでいるのを見て、家が船になったような感覚になったのを記憶している。

ここから小学校へ徒歩で通った。住宅地を抜けると、小さな商店街にぶつかり、それに沿って進むと大学病院の街区となる。大きなモミの木の間に車寄せのついた研究棟が並んでおり、突き当たりを曲がって少し行くと、関東大震災後に開校した鉄筋コンクリート造の校舎の小学校があった。校舎は六角形平面に校庭の中庭のある要塞のようだった。線路を挟んで対岸には神宮外苑があり、体育の時間にはそこまで足を伸ばして長距離走も行われた。通学路の住宅地や商店街は、登下校の道すがら、平屋から2階建ての家、そしてコンクリート造のマンションへ建て変わり、外苑東通りの友人の両親が商う店が立退き、引っ越していくなど、高度成長期の東京の風景は日々変化した。

入間川、台地の家

ふたつ目の家は、天然記念物の立派なコブシの木のある週末住宅であるfig.2。入間川に面する台地の沿道型農村集落の屋敷森と畑に面して、その家は建っていた。田舎暮らしとスポーツが好きな祖父が、1960年にゴルフ仲間友人とつくった洋風ロッジに、和室群が増築されていた。週末は祖父とこの家をよく訪れた。屋敷森を抜けると芝生の庭があり、それに面して切妻入りのロッジの母屋がある。ロッジの東側は吹抜けのある居間で、階段を登ったベランダ状の廊下には、小ベッドと書き机がおかれたコンパクトな客室がついていた。南には石炭ストーブの置かれたサンルームが増築され、西側は2層の寝室群と水回り、玄関があった。そのさらに西には増築された仏間、居間、座敷が並んだ。庭にはコブシのほかにユスラウメ、孫たちの名に由来したモモやネコヤナギなどが植えられていた。コブシの木は大きく、立派で、春になると白い花の甘い匂いが庭いっぱいに広がり、花が散るとあたり一面が雪のように白くなった。屋敷森を抜けて、沿道に行くと小さな商店街もあった。駄菓子屋があり、小遣いをもって、妹と駄菓子を求めたり、子供用のゲーム機で遊んだりした。私はゲームが下手で、妹は上手だった。祖父が荷物カゴ付きの三輪車を買ったので、何度か、これに妹を乗せ、集落や雑木林を抜けて、田んぼを越え、入間川が見えるところまで、ひたすら漕いでいったのを覚えている。

伊豆、海辺の家

3つ目は伊豆半島の漁村の対岸にある砂浜に面した家であるfig.3。半島に列車まだ通っていない1934年に、曽祖父の勤めていた商社系列の不動産会社が開発した別荘が売れ残り、幹部で責任をとることになり曽祖父が買い受けた家の一部を、祖父が譲り受けたと聞いた。庭の南洋樹、赤塩瓦の屋根、茶色い外壁、白い木窓の南国風の外観である。南の玄関のある洋間の応接室には藤のソファーセットがおかれ、東側の石畳のテラスとパーゴラは石炭ストーブのあるサンルームに改修されていた。

応接室の西側には座敷、北側には寝室、食堂が続き、これらが応接間から東と西に繋がる回廊によって囲まれている。東側の回廊は海が見える広縁になっており、ここにも籐椅子が置かれている。西側の回廊には台所や納戸が接し、さらに北に伸びて温泉が引かれた風呂のある水回りがある。夏の海水浴、冬の避寒の長期休暇で利用した。庭や浜でも遊んだが、隣町や、漁村など、周辺の集落へも散策をした。そこでは、神社、小学校、蜜柑のなる段々畑など、漁港から里山の奥深くまで、特段目的地も決めず、クネクネと曲がった集落道から、農業や林業の作道を興味の赴くまま、歩き回った。年末には漁村の神社の餅つき大会に参加した。セイロ蒸しで炊かれた熱々の餅米を、臼に移し、つき手と捏ね手が掛け声と共に餅つきをする。これを丸めて並べた銘々皿に、あんこ、生のノリと大根おろしの醤油だれをかけたものをいただくのである。漁村の美味しく、賑やかな年の瀬だった。

生きられた祖父の家

3つの家には共通点がある。廊下で複数の和室が繋がった間取り、広縁、応接間、籐のソファーセット、庭、サンルーム。実に雑多な要素である。これらはその時代の家の特徴を有すると共に、祖父ならではの暮らしの道具立てであった。近代化する日本社会の中で、日本人はどう振る舞えばいいのか。祖父が戸惑いと楽しみを感じながら暮らしていた様子が見て取れる。私は祖父の暮らしの実践の一部を共にしたのだ。そこでの生活は、今思い返すと混乱しているようにも見えるが、多様性に溢れ、私にとってはそれが日常になった。なぜそうなっていたのか、理由も考えず、祖父なのか、当時の日本人の生活習慣なのか、儀式にも近い振る舞いに支えられた家の空間をとても面白く感じていた。

その後、残念なことにこれら3つの家とは離れてしまった。それゆえにそこで起きていたことの意味を振り返ったり、咀嚼したりする機会もないまま、それらは記憶の中に放ってあったのだ。

そうしたなか、住居学の勉強を始め、大学2年時に授業で紹介され、多木浩二の『生きられた家─経験と象徴─』(1976年、田畑書店)をはじめて読んだ時、難解な文章に翻弄されながらも、その家の定義に共感を覚えた。文章の中に描かれた家の描写が、私の記憶にある祖父の生きられた3つ家の記憶を呼び覚ましたからだ。この文章が書かれた頃と、私が3つの家で過ごした時期がまさに同じ時代にあったからかもしれない。この本が、私の記憶の中にある祖父の家がもっていた混乱や複雑さについて、確かめたいと思う気持ちを後押ししたのだ。それは大学2年生の自分にはすぐには叶わないようにも思えたが、いつかこうした記憶の中にある家や風景の意味や、変化の理由に、真摯に向き合うことのできる力がついたらよいとなんとなく思わせ、それらがもっていた混乱や複雑さに向かおうとする私へのエールとなっていたことを思い出した。その後、建築史や民族学、高度経済成長や産業社会と建築に関する批評論に関する本を自然と手にするようになった。デザインをする時も、暮らしやその場所を取り巻く時間を考えることが常となった。都市や集落が変わっていく理由を知りたいと、大学では建築や都市、集落調査を行い、また自身の設計ではそうした場所での設計に携わるようになったが、そこでも3つの家によって経験できた、平屋からコンクリート造のマンションに高密化する都市、河岸段丘に面した台地の農村集落、リアス海岸の漁村での地理的空間体験は、私の地域への理解を助けてくれた。そう考えると、祖父の3つの家は私の人生に何らかの影響を与えたことは間違いない。今回の文章で祖父の3つの家について考えるにあたり、その背景を調べ、分かったこともあったと同時に、分からないことや調べてみたいことも増えた。どうやら、記憶に残る情景は、終わらない宿題のようである。

貝島桃代

1969年東京都生まれ/ 1991年日本女子大学家政学部住居学科卒業/1992年塚本由晴とアトリエ・ワン共同設立/ 1994年東京工業大学大学院修士課程修了/ 1996〜97年スイス連邦工科大学奨学生/ 2000年東京工業大学大学院博士課程満期退学/2000年〜筑波大学講師/2009年〜筑波大学准教授/2017年〜スイス連邦工科大学チューリッヒ校(ETHZ)建築ふるまい学教授/2012年RIBA International Fellowship/ 2003・2016年ハーバード大学大学院、2005〜07年スイス連邦工科大学チューリッヒ校(ETHZ) 、2011~12年デンマーク王立アカデミー、2014~15年ライス大学、2015~16年デルフト工科大学、2017年コロンビア大学で教鞭を取る/2017年チア・アート副理事長/2018年ヴェネチアビエンナーレ第16回国際建築展日本館のキュレーター/主な建築作品(塚本由晴および、2015年から玉井洋一と共同)に、「ハウス&アトリエ・ワン」(2005年)「BMWグッゲンハイムラボ」(2011年)「恋する豚研究所」(2012年)「もものうらビレッジ」(2017年)「尾道駅」(2019年)など/主な著書に『メイド・イン・トーキョー』(共著、2001年、鹿島出版会)『図解アトリエ・ワン』(共著、2007、TOTO出版)『Behaviorology』(共著、2010年、Rizzoli New York)『コモナリティ−ズ』(共著、2014年、LIXIL出版)『建築の民族誌』(共著、2018年、TOTO出版)など

住宅
暮らし

東京、四谷の家平面スケッチ/提供:貝島桃代

入間川、台地の家平面スケッチ/提供:貝島桃代

伊豆、海辺の家平面スケッチ/提供:貝島桃代

fig. 3

fig. 1 (拡大)

fig. 2