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2023.11.28
Interview

拡張される建築

レクチャーシリーズ「アーキテクチャの存在価値を更新する」 #1-1

宮崎晃吉(HAGISO) 聞き手:清野由美(慶應義塾大学システムデザイン・マネジメント研究所研究員)

建築業界における紙の書籍の価値を再定義する、建築とアートの領域をまたぐ専門書店として発信を行ってきた新建築書店|Post Architecture Books。その場を建築を媒介に社会と繋がるプラットフォームとするべく、ジャーナリストの清野由美さんと共に、レクシャーシリーズ「アーキテクチャの存在価値を更新する」を始動しました。10月13日にはゲストスピーカーに宮崎晃吉さんを迎えて第1回を開催。設計、運営、企画まで一体的に取り組まれるなど、建築家のあり方をアップデートしてこられた宮崎さんの活動を軸に、レクチャーとディスカッションを行いました。その模様を2回に分けてお届けします。(編)

谷中発で「世界に誇れる日常を生み出す」

清野 宮崎さんは設計から運営、企画まで一体的に取り組み、従来の建築家のあり方をアップデートしているように思います。そのアクションを通じて、建築家はこれからどのような役割を果たせるかということについて、さまざまなヒントを伺いたいと思います。

宮崎 建築設計の仕事だけではない、いわゆる少し変わり種の建築家だと思っているので、僕がゲストで大丈夫かなと思いました(笑)。

清野 私はそのあり方にこそ新たな建築家像を見出しています。まずはご自身の活動から紹介いただけますか。

宮崎 僕は「HAGISO」という、設計・企画・運営を手掛ける会社の代表をやっています。アルバイトまでを含めると約80人の従業員がいるのですが、うち設計スタッフは5人ほど、あとはグラフィックデザイナーやまちづくりの企画担当スタッフなどがいます。しかも皆バックグラウンドが異なるので、「世界に誇れる日常を生み出す」というのを社訓的なキーワードにしています。直径数メートルの関係性から地球規模までを一緒に考えるのは建築的だし、ローカルを掘り込んでいくことで世界と繋がれるのではないかという意識をもって、谷中を中心に活動しています。

谷中は上野台地と本郷台地の間にある谷に位置することから、その地名になっているそうです。大戦の時に焼夷弾があまり落ちなかったのと、お寺が多かったので延焼も少なかったためか、都市の骨格は戦前のものを残している、東京では結構珍しいエリアです。僕たちは谷中で空き家を改修して拠点をつくり、運営するということを主にやっていて、これまでに8件を手がけてきました。谷中を活動拠点とするきっかけとなったのは、最初のプロジェクト「HAGISO」からです。前身の萩荘は、1955年に竣工した木造2階建て、6畳1間の部屋が14部屋ある、トイレ共同の風呂なしアパートで、宗林寺というお寺の住職と奥様によって管理されていましたfig.1。戦後このようなアパートはたくさんできたのですが、2000年頃から空き家になってしまうことも増え、萩荘も空き家として取り残されていました。

僕が東京藝術大学に通っていた頃、ひとつ下の後輩が、宗林寺の門前でタバコを吸って住職の奥様に叱られたことをきっかけに、なんだかんだと可愛がられるようになり、萩荘に住み始めました。不動産マーケット的にいえば価値の低い物件ですが、建築学生にとっては大学が近く、家賃も安いとなると魅力的で、自分たちで改修していいともいわれていたので、壁を壊すところから始めて、6畳2間を12畳の1間に変えるとかそういうことを勝手にやっていました。当時は男5人で住み、毎日いろいろな人たちが出入りして勝手に飲み会をやっている、たまり場のようなアパートでしたfig.2

清野 なるほど。大学生当時から、萩荘のリノベーションはすでに始まっている。

宮崎 当時、谷中ではほかにもプロジェクトをやっていました。大学院では六角鬼丈さんの研究室に所属していたのですが、そこで谷中の玉林寺というお寺の境内に通っている細い私道を美術館にするプロジェクトをやらせていただきました。染織専攻の学生に染めてもらった暖簾で路地を仕切って、一連の道を7つに分割した部屋の連続に見立て、それぞれに作品を置いて展示空間化するというプロジェクトでしたfig.3

都市空間でプロジェクトをする際の現実的な問題についても、たくさん学びました。この私道は、実は地域の方の生活動線でもあったので、プロジェクトを開始する前に、町内会の会合に出席してプレゼンしたりしました。そうするうちに、その何気ない通りに関連している人たちがだんだん炙り出されてくるんです。逆にいうと、そういった障壁がむしろこの道のリアルを浮かび上がらせてくれるのが面白かった。都市にアクチュアルにハプニングを仕掛けていくことで都市に表情をもたせるという、1960年代のクリスト&ジャンヌ=クロードやハイレッド・センターなどの活動にも通ずるところがあった気もしています。

建築を残すための事業計画

清野 大学卒業後は、どのような進路に進まれたのでしょうか。

宮崎 2008年から2011年までは磯崎新アトリエで設計の仕事をしました。当時の磯崎新アトリエはすでに海外のビッグプロジェクトを中心に扱う事務所で、新卒でしたが貴重な経験をたくさん積ませてもらいました。ただ、こういう大きな仕事には政治家の立身出世が絡んでいたりと、建築への愛がなかなか感じられなくて、なんだかなあと思っていました。そんな時に、東日本大震災が起きました。いよいよ海外の仕事をやってる場合じゃないと思い、退職して萩荘に戻り、そのまま震災ボランティアに行ったんです。でも、建築で学んだことが急には役に立たず、無力感を抱えて東京に帰りました。
そして、萩荘の大家さんから、次に大地震が起きて倒壊したら責任が持てないから萩荘を駐車場にすると伝えられました。それも寂しいので、萩荘に住んでいた仲間と飲み屋で話している時に「最後に萩荘のために葬式でもやろう」というノリになりました。

それでやったのが「ハギエンナーレ」という、建築やアートをやっている人を20人くらい集めて、萩荘に死化粧を施して看取るというアートイベントです。萩荘に落ちていたビスや釘を壁に打ちまくったり、柱に彫刻したりして作品を展開しました。僕の部屋は、文鳥を棲ませていたので、ベッドが文鳥の糞まみれになっていくという作品に仕立てましたfig.4。最後はパーティもしたのですが、3週間で約1,500人の人が来てくれて大盛り上がりでした。来てくれた人も萩荘の思い出を語ってくれたり、萩荘の貴重な建具の話をしたり。そんな様子を見て、大家さんの奥様が「(駐車場にするのは)もしかしたらもったいないんじゃないか」と口走りました。僕もすかさず「もったいないですよ!」と伝えました(笑)。

ただ、萩荘を改修して残すのにも、当時の僕は設計コスト管理以上の建築にかかるお金についてはまったくの門外漢でした。そこを解決しないと大家さんも改修に納得できないだろうということで、建築の事業計画について、広瀬郁さんの『建築プロデュース学入門──おカネの仕組みとヒトを動かす企画』(彰国社、2002年)を読み、本腰を入れて学び始めましたfig.5。そうして事業的な見通しを立て、取り壊して駐車場にした場合、新築を建てた場合、今の萩荘をリノベーションした場合の利回りを計算したところ、どうやらリノベーションがいちばん利回りが高いということが分かりました。とはいえ改修したところで誰が借りるのかという意見も出てしまったので、それなら僕がアパートを丸ごと借り、家賃も今までの倍にして、初期投資も一緒に出すのでやってみましょうと提案しました。途中頓挫しかけながらも半年くらいすったもんだし、最終的に萩荘あらため「HAGISO」(『新建築』1601)のリノベーションプロジェクトをしてみようとなったのです。

清野 資金はどのように工面されたのでしょうか。

宮崎 最初、金融機関に話をしにいった際は、事業の経験がまったくないので融資のエビデンスが取れないといわれてしまいましたが、3週間で1,500人を集めたイベントをオーガナイズしたことを話すと銀行の担当者が面白がってくれて、結果的にある程度まとまった金額を貸していただくことができました。クラウドファンディングでも集めましたし、施工については大工さんと一緒に汗をかきながら、1年くらい解体したり塗装したりしながら施工費を浮かせたりもしました。

街に支えられる営み

宮崎 萩荘の改修にあたっては、「最小文化複合施設」というキーワードを考えましたfig.6。根底となるのはふたつの考えです。まず建築家にとって、公共施設を設計するのはある種のゴールのようにいわれますが、僕らみたいな独立したての人は到底そんなプロジェクトには関われないから、自分で公共施設をつくったらいいんじゃないかという発想。もうひとつは、公共施設は数多くあるものの、毎年赤字で誰も使ってないものもたくさんあるので、それよりももう少し身の丈にあった私営の施設をつくれないかという発想です。先ほど1960年代に起こったアート活動についての話をしましたが、そうした動きはその後、前衛的な批評だけに止まらず、都市の仕組みにそれらをどのように実装するかという、より実際的な動きになっていきました。振り返ってみれば、私たちの活動もこうした文脈を踏まえたものだったような気がします。

開業当初は1階にカフェ、ギャラリー、レンタルスペース、2階に設計事務所、アーティストアトリエ、美容室が入っていましたfig.7。収益は基本、カフェで立てる仕組みになっています。カフェでは色んなイベントが行われていて、藝大音楽科の居間theaterというユニットによる「パフォーマンスカフェ」ではお客さんがメニューの「パフォーマンス」を注文すると、2階に待機しているメンバーの誰かが降りてきて、3分間パフォーマンスをするようになっていますfig.8。もちろんただケーキを食べに来ただけの人は最初戸惑うと思いますし、悪いレビューを書かれてしまう可能性もあります。ただ今の社会ってすごく予定調和的で、お金を払えば何でも期待したものが手に入るけど、その代わり偶然の出会いや自分の興味の外にあるものに出会う機会を失っている。だから、時に迷惑がられながらもこうした活動を続けることで、ただケーキを食べに来ただけの人もこれをきっかけに何かに興味をもつかもしれないと、そんなことを期待しています。

そういうことをやっているうち、お寺の檀家の娘さんが「HAGISO」で結婚式をやりたいといってくれました。せっかくの結婚式なのでただやるのではなく、パフォーマーたちが谷中の公園やお花屋さんの店先など、いろいろなところに待機して、地図を渡されたゲストが街を歩いていくと、先々でパフォーマーがギフトをくれて、最後に「HAGISO」で新郎新婦が待っているという内容にしましたfig.9。これが「HAGISO」の敷地から初めてはみ出て行った企画です。それまでの僕は街というテーマにまったく興味がなく、ただ「HAGISO」で実験的なことをしたいと考えていたのですが、この企画を経て、当たり前のことですが自分たちは谷中の街に支えられているし、街に出ていくほうがやはり面白いということに気づくようになりました。

竣工から始まる建築の人生に、運営で寄り添う

宮崎 「HAGISO」のプロジェクトは借金をして始めたので、事務所にしているところに折り畳みベッドを敷いて今の妻となる彼女とふたりで住んでいました。台所はカフェの小さなキッチンのみ、風呂もない状況だったので、普段は外で食事をして銭湯にいくという生活をしていました。ただ、街全体が僕の家というように見方を変えると、実は街というめちゃくちゃリッチで大きな家に住んでいるともとらえられます。そういう生活は少し前までは当たり前だったのに、今はせっかく都市に集まっている人もそれぞれのユニットの中にこもって暮らしている。そこで、街の空き家を宿泊施設に、銭湯を大浴場に、飲食店を食堂に見立てると、谷中が「HAGISO」をハブにした大きな宿泊施設になるのではないかと考えましたfig.10

まずは宿泊施設の物件探しからはじめ、「HAGISO」から100mぐらいのところに第二丸越荘といううってつけの空き家を見つけました。ただ、大家さんの情報がまったくなかったので、法務局の登記簿で住所を調べました。元のオーナーはおばあちゃんでしたが、孫の男性が相続していました。第二丸越荘の窓には型ガラスという表面がでこぼこしたガラスがはまっているのですが、そのガラスに部屋ごとに違う柄が入っていてとても素敵なんですfig.11。きっと当時の大家さんのおばあちゃんが「この部屋にはこの柄にして」と選んだんだろうと思います。手紙をしたため、ダイアグラムと共に提案を送ると、大家さんが新幹線に乗って東京まで会いにきてくれて、僕が10年分の家賃の一部を先に払い、それを元手に大家さんに工事を発注してもらうというやり方で始めることにしました。大家さんとしては借金をせずに工事ができ、僕は残りの家賃を10年かけて支払いますが、支払い総額としては相場の6割に抑えられる。最初にリスクを負う代わり、やり切ればお互いに得があるというやり方です。こうして、第二丸越荘は2015年に宿泊施設「hanare」(『新建築』1601)として生まれ変わりました。

お客さんにはまず、「HAGISO」の2階にあるレセプションで20分ほど街の紹介を受けていただきますfig.12。「hanare」には型ガラスを活かした個性のある部屋が5部屋あり、重箱に詰められたアメニティなどが準備されています。また、宿泊料には谷中の銭湯で使える銭湯チケットが含まれているので、外の銭湯でお風呂に入っていただき、その後は辺りの飲食店で一杯やってもらう。朝は「HAGISO」の1階で、「旅する朝食」という半年ごとに切り替わる日本各地の食材を使った朝食を楽しんでもらいます。僕らは街への入り口と寝る場所だけ用意し、後は自転車屋さんでレンタサイクルを借りたり、ギャラリーでアーティストと出会ったりというように、谷中でいろいろな生業をしている方たちと一緒にネットワークとしての宿泊施設を生み出そうとしました。

そんな風に街と交わるように活動していると、地元の地主さんも次第に「こっちにも空き家があるよ」と声をかけてくれるようになってきました。地方の生産者の食材を仕入れてお惣菜や定食を提供している「TAYORI」(『新建築』2206)は、そうやって紹介を受けて空き家を改装した店舗のひとつですfig.13。そのほかにも焼き菓子を提供する「TAYORI BAKE」(同)、棚貸しの本屋さんや立ち飲み屋が入居している「西日暮里スクランブル」(同)、時々地元の子供たちが珈琲店などを運営することもあるジェラート屋「asatte」(同)など、今ではおよそ10箇所の場所を開いていますfig.14

ただ、2020年の新型コロナ拡大の時期は、かなり追い込まれました。緊急事態宣言がいよいよ出されるという話になった時、谷根千エリアの店舗と協力して、「谷根千宅配便」をやろうというアイデアが出ました。当時Uber Eatsなどの配達サービスはすでにありましたが、登録に約3ヶ月かかる状態だったので、「谷根千宅配便」は緊急事態宣言が出される前に始めようということで、僅か3日で急いでサービスをローンチしました。いつもは料理をつくっている谷根千エリアの飲食スタッフが、自転車を漕いで自分たちの店以外の商品も届けることを始めたのですfig.15。普段から事業を通してお互いの関係性をつくっておいたのがよかったのだと思います。

私たちは元は建築設計をする会社です。ただ、建築の人生で考えると、竣工は終わりではなく始まりですよね。そこから長い建築の人生が始まって、そこに運営というかたちで寄り添っていくと、運営で培ったことが企画に活きることも本当によく出てきます。設計・企画・運営の3つが揃うからこそできることは、実はとてもたくさんあるのではないかと思っています。

清野 僅か3日で「谷根千宅急便」のサービスをデザインされたというお話がありました。これは普通の人には出来ないことで、このさまざまな要素を整理・統合する力こそがアーキテクトの本領なのだと思います。2次元3次元の建築設計のみならず、その周辺の流れも含めて、多くの関係者を巻き込みながらシステムを成立させる。宮崎さんの活動を拝見すると、このようなことをごく自然にする世代の建築家がついに登場したんだと実感しました。
fig.16fig.17

(2023年10月13日、新建築書店にて公開収録。/文責:新建築.ONLINE編集部)
(後編はこちら。)

宮崎晃吉

1982年生まれ/2006年東京藝術大学美術学部建築科卒業/2008年同大学大学院美術研究科修了 /2008〜11年磯崎新アトリエ/2013年HAGISO、HAGI STUDIO設立/2016年HAGI STUDIO法人化/2022年株式会社HAGISOに改称、同社代表取締役。現在、東京藝術大学建築科非常勤講師、一般社団法人日本まちやど協会代表理事、富岡まち繰るみ舎取締役

清野由美

1960年生まれ/1982年東京女子大学文理学部史学科卒業/2017年慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科修了、在学中英ケンブリッジ大学客員研究員/草思社、日経ホーム出版社(現・日経BP)勤務を経て92年からフリーランスジャーナリスト/現在、慶應義塾大学システムデザイン・マネジメント研究所研究員、城西国際大学大学院非常勤講師

    宮崎晃吉
    清野由美
    アーキテクチャの存在価値を更新する

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    改修前の萩荘外観。宗林寺境内の角地に立っている。/提供:宮崎晃吉

    改修前の萩荘内部。/提供:宮崎晃吉

    MACHI-YATAI PROJECT 2007「めくるめくろじめくり」。大木が道を塞ぐように植わっている道を展示空間化する。/提供:宮崎晃吉

    文鳥が棲みついた萩荘の自室で制作した作品「最後の住人」。2階の床をぶち抜いて、吹抜け空間とした。/提供:宮崎晃吉

    『建築プロデュース学入門──おカネの仕組みとヒトを動かす企画』(彰国社、2002年)。財務諸表の読み方など、建築事業を基礎から学べる。

    OMAをオマージュした”最小文化複合施設”のダイアグラム。/提供:宮崎晃吉

    「HAGISO」外観。/撮影:新建築社写真部

    「パフォーマンスカフェ」の様子。/提供:宮崎晃吉

    居間theaterのパフォーマーからギフトを受け取るゲスト。/提供:宮崎晃吉

    「HAGISO」を起点としたコンセプトダイアグラム。/提供:宮崎晃吉

    プライバシーを守りつつ日照を確保できる型ガラスは、過密都市東京ならではのプロダクトともいえる。/提供:宮崎晃吉

    地域の銭湯や飲食店などの見どころが収められたオリジナルマップを提供する。/提供:宮崎晃吉

    「TAYORI」の店内にある食の郵便局では、利用客と食材の生産者が手紙を通してやり取りすることができる。/提供:宮崎晃吉

    「asatte」。店を経営することを街の中で実践を通じて学ぶ子供たち。/提供:宮崎晃吉

    谷根千宅配便メンバーの集合写真。谷中の路地は狭く、出会い頭に挨拶せざるを得ないアフォーダンスがある。非常時に住民が協力し合える都市を形成するひとつの条件かもしれない。/提供:宮崎晃吉

    宮崎晃吉氏。

    清野由美氏。

    fig. 17

    fig. 1 (拡大)

    fig. 2