優れた茶室の意匠を生かすため、忠実に、そっくりそのままにつくるのを 「写す」という。でき上がった作品は「写し」である。もとになった茶室は本歌という。
本歌は、和歌をつくるとき典拠にした歌をいう。万葉集の「苦しくも 降りくる雨か三輪が崎 佐野の渡に家もあらなくに」を本歌に、藤原定家が「駒とめて 袖打ち払ふ蔭もなし 佐野の渡の雪の夕暮」と詠んだのはその例である。ただし、和歌では写しとはいわない。本歌取りという。
茶室の場合、写しはあくまでも写しで、けっして真似とはいわない。なぜだろうか。
茶道は芸能のひとつだが、精神性を重視し、動作に美を求める。それはすでに芸能を超え、芸術に近い。茶道のための空間である茶室もしたがって、やはり精神性と美を大切にする。その意味で芸術のひとつと見てよい。芸術なのに、同じものをつくることが許されるのは、さて、なぜなのだろう。
理由は単純ではないが、次の2点を考えておく必要がある。ひとつは、優れた茶室へのあこがれとそれを設計した茶人への尊敬の念、これが優れた茶室を再現させる動機だという点である。写すことの背後に、茶道と茶人への深い理解がある。だから写しが許され、単なる真似とは厳しく区別される。もうひとつは、茶室の設計の難しさだ。4畳半以下の狭さの中に、豊かな空間をつくり出さねばならず、細部にまで精神を行きわたらせ、素材を吟味し、しかも茶事を深く理解した上で茶の空間にふさわしくつくらねばならない。建築家の才能と茶人の才能、その両方が要求される。これは容易なことではない。だから、優れた先行作品を再現することに大きな意義が出てくるのだ。
茶室における写しの意義を考えるとき、忘れられないのが藪内流家元の茶室、燕庵である。京都市下京区にあり、古田織部好みの例として知られている。3畳の客座を中央に、床に向かって左手に相伴席、右手に点前座を設ける。凸形の平面となるが、隅の人り込んだところを土間庇とし、ここに躙口をあける。この平面構成が屋根と天井にも影響し、床前の2畳と点前座は蒲の平天井だが、躙口を入った1畳と相伴席とは化粧屋根裏となって、空問に変化を与えている。
相伴席と客座の間は2枚の襖で仕切られ、その上に板2枚を入れた、取りはずせる欄間がある。襖を取りはずせば客座と相伴席を一体にして広く使える。襖を閉めれば(このとき欄間の板は換気のためにはずす)狭くなる。織部の工夫とされるこの空間の伸縮は、 燕庵の大きな特色である。貴人を招いたときは、襖をはずすだけでなく、相伴席の畳をはずして板の間にし、客座を上段の間に見立てて使うことを織部は考えていた。また、織部はこの広さに13人の客を入れ、茶を振る舞ったという。
台目床(約3/4畳)は、床柱が手斧目を見せた杉、框は真塗(黒漆塗)、そして畳は高麗縁。格調のあるこの構成は、客座を上段の間として使うことを考えた織部の好みにちがいない。床の左脇の壁に墨蹟窓をあけ、下地の竹に花入を掛ける釘を打つ。本来、床に掛ける墨蹟に明りを取り入れるための墨蹟窓だが、織部は花入を掛けることを重視した。花入掛の釘があるため内側に障子が掛けられず外側に掛けているのも織部の好みを反映させた意匠である。床の右手に茶道口をあける。方立は太い竹。ここに竹を使うから床框は黒塗にしなければならぬと織部は述べているという。
このようにあちこちに織部好みの意匠を見せる燕庵は、燕庵形式という言菜さえ使われるほど独特の、そして有名な存在で、藪内家では、こがもし失われたときその意匠を忠実に伝えるために、実に巧みな工夫をした。藪内流の相伝を許した者だけに写しをつくることを許し、しかも、火災などで家元の燕庵(つまり本歌)が失われたとき、写しのうちでもっとも占いものを家元の屋敷に移すことにしたのである。1864年(元治元年)に火災で失われると、摂津の武田儀右衛門が建てていた写しを1867年(慶応3年)に移築した。
これが現在の燕庵で、写しが見事に役立った。このほかにも、燕庵の写しは金沢兼六園の夕顔亭(1774年・安永3年)、尾道浄土寺の露滴庵(建設年代不明、1814年・文化11年移築)などいくつかある。露滴庵の場合、細部意匠に本歌と微妙な違い(天井、床柱、外観など)はあるが、燕庵形式の優れた空間をじっくり味わうことができるのは貴重である。
現代も写しはつくられている。村野藤吾は自邸などに残月亭を写した。石井和絃は「数寄屋邑」(『新建築』9002)の茶座敷fig.2にやはり残月亭を写したほか、座敷棟(邑庵)fig.3を「吉田五十八設計の小林古径邸を丸めたもの」にするなど、写しではなく引用とでも呼ぶべき意匠にしている。石井がなぜそうしたか、あるいはしなければならなかったか、現代の写しを考える上で興味深い。
(初出:『新建築』9209)