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2022.08.26
Essay

「カワイイ」は建築の計画論にまで昇華され得るか

「カワイイ」ど真ん中世代からの再考を受けて

真壁智治(エム・ティー・ビジョンズ)

新建築.ONLINEで再掲した連載「カワイイ建築パラダイム」(『新建築』0710、0712、0802、0804)を受け、大村高広さんに現代の視点から「カワイイ」論を再考していただきました。今回は、連載の執筆者である真壁智治さんが大村さんの論考に応答し、大村さんの指摘から見えてくる「カワイイ」の現在地と、次の世代における「カワイイ」が展開され得る方向性について考察していただきました。(新建築.ONLINE編集部)

私が『新建築』2007年10月〜2008年4月号に、4回にわたって寄稿した連載「カワイイ建築パラダイム」で指摘したものは、共立女子大学家政学部建築・デザイン学科の建築コースの学生たちと取り組んだ「カワイイ研究」が、原広司の『空間〈機能から様相へ〉』(岩波書店、1987年)の文脈に位置付けられるとの認識を前提としていた原は、著書の中で近代建築の機能と現代建築の様相を対照させ、前者における「フィジカルな身体」への関心から、後者における「意識」への関心として建築の新たなパラダイムを論じた。
原が提唱した、多層の図像を重ね合わせた多層構造モデルは、感覚に還元されているメタフォリックな曖昧さを生むことを特徴としており、「曖昧な尺度が社会的に共有されているところに私たちは着目すべきではないだろうか」「メタフォリックな曖昧な尺度は直感的にいって、様相論が将来において展開される可能性を暗示している」とした。「カワイイ研究」は、こうした原の言説の文脈に位置付けられる。
。そして、槇文彦が「漂うモダニズム」(『新建築』1209)において「すべての意見、価値が相対化」し「なんでもありの時代に突入」したと述べたうちでの、建築思潮の極めて希薄な時代に発信され、これまでのモダニズムが「キッチュ」として遺棄し、正対してこなかった地平を示すものだった。その後も、建築における「カワイイ」の有用性を議論し、カワイイデザインの技法となるべき構成原理までを提起してきたカワイイ研究はこれまで、『カワイイ・パラダイムデザイン研究』(平凡社、2009年)、『ザ・カワイイヴィジョンa 感覚の文法』(鹿島出版会、2014年)、『ザ・カワイイヴィジョンb 感覚の技法』(鹿島出版会、2014年)として展開されてきた。
そこではまず、『「かわいい」論』(四方田犬彦著、筑摩書房、2006年)で扱われている社会文化、風俗としての「かわいい」と建築・デザインにみる「カワイイ」との感覚的差異を読み解き、規定することから研究を始め、モダニズムが運用してきた感覚と「カワイイ」との差異を概観する「カワイイ感性領域」、「カワイイ感覚」が生起する「カワイイ臨界」や「ほほえみ誘導」、「カワイイ」が媒介性として生む「カワイイ自分効果」や「カワイイ他者効果」、そしてつくり手と使い手との「カワイイ感覚共有」など、「カワイイ」を論理的に推論していくうえで必要となる概念や感性及び仮説について極力言語化を図ってきた。
fig.1

当時の連載が新建築.ONLINEにアーカイブとして再掲され、自身を「カワイイ」ど真ん中世代と称する大村高広さんが、「『いったん保留』のワイルドカード──カワイイ建築パラダイムを振り返って」と題し、再考・検証してくれている。そこでは、大村さんの世代及びその下の世代では、「カワイイ」という言葉で建築を評価することが、とりわけ設計段階において常態化していると明かされ、それが一過的なものでないことが語られる。私は、この15年で生じた建築思考を巡る環境の変化における、若い世代の「カワイイ」の把握の仕方に関心が向いた。パースや模型、ダイアグラムといった、実際の「大きさ」を失った状況での建築の受容が加速したことで、建築に対して「カワイイ」というステータスが与えられ、「寸法に対する認知の機会が失われつつある」との指摘に注目した。

私は「カワイイ研究」の中で、「せんだいメディアテーク」(伊東豊雄建築設計事務所)、「ふじようちえん」(手塚貴晴+手塚由比/手塚建築研究所)、「神奈川工科大学KAIT工房」(石上純也建築設計事務所)、「SIA青山ビルディング」(AS)、「ROLEX ラーニング センター」(妹島和世+西沢立衛/SANAA+Architram SA)などを「カワイイ建築」として分析し、その設計者らを「カワイイ建築」の第1世代と呼んでいるfig.2。この世代の大きな特徴は、現寸部分模型を前に、実物スケールが生み出すであろう感覚の媒介性(効用・効果)を「カワイイ」という観点から探査してゆくスタディの態度だと分析した。「カワイイ」の資質は、その身体性・感覚性・抽象性に依拠し、他者との感覚共有化を生むその媒介性にある。彼らの態度は、つくり手と使い手との距離を近付け、新たに建築を身近に引き寄せる抽象性を求めていく営為でもあり、私にはそれらの営為がモダニズムの超克と映った。

ここで大事な点は、リアルサイズの事物のスタディから、言葉になる以前の「カワイイ」感覚の余地を体感し得たこと、そこに事物(環境)からの「アフォーダンス」も感得し得たことだ。その一方で、建築のスケールのリアリティを持たずに建築を受容する機会が多い次世代が、果たして「カワイイ」が生起するアフォーダンスにどのように至れるかは極めて悩ましいところではないだろうか。

大村さんの「カワイイ建築パラダイム」再考の核心となる「おそらく『カワイイ』は設計プロセスにおける内在的な問題であり、一種の方法論なのだ」とする推察は、建築につくり手と使い手との感覚共有を希求する態度が前提としてあるだろうし、彼ら世代の体験則から把握されたものだろう。だとしたら、次世代ならではのカワイイに求める、設計プロセスでスタディされるべき新たな抽象について期待したい。そこでの「カワイイ」の変わらない抽象と変わっていく抽象について理解を及ばせたいからだ。それらを通して第1世代とその次の世代との「カワイイ」への向かい方の違いが多少分かるかもしれない(そのこと自体が何を示すものであるかは別にしてだ)。

「カワイイ」は最終的に、設計プロセスの中で建築に情報として織り込まれるものになり、計画上の「アフォーダンス」としてのつくり手と使い手との距離を近付ける建築計画論に余地をもたらす方法になろうか。その点について、「カワイイ建築」の次世代と議論し、考察する場を持ちたいと思っている。

ところで、「カワイイ研究」の当時、設計スタディ中に発された「コレッテカワイクナイ!?」という問いこそは、大村さんが「カワイイ」のラディカルな資質として気付いた「いったん保留」にするためのワイルドカードにほかならないものだった。
従って、「いったん保留」だからこそ「ナゼカワイイノ?」とか「ドコガカワイイノ?」などの疑問は不問に付され、そこにカワイイ感覚共有が生じるか否かが最重要な指標になっていたのだった。そうしたスタディの先に、大村さんが指摘する「予感が未来へと滑り込むような、内在的実験がここから始まる」ことになり、ここに身体的シミュラークルの探査が建築の計画的課題として浮上してくる。これこそが建築の様相論が立ち向かい、切り拓くべき地平なのではあるまいか。そして、そこに「カワイイ」から計画論が立ち上がれるかは、「カワイイ建築」を巡る2代にわたる挑戦があってのことになる。

真壁智治

1943年生まれ、静岡県育ち/1969年武蔵野美術大学建築学科卒業/1972年東京藝術大学大学院建築専攻修了/同大学建築科助手を経てプロジェクトプランニングオフィス「エム・ティー・ビジョンズ」主宰。都市、建築、住宅分野のプロジェクトプランニングに取り組む/2006年建築家と取り組む「くうねるところにすむところ」シリーズで第2回武蔵野美術大学建築学科「芦原義信賞」受賞/2021年日本建築学会文化賞受賞/主な著書に「アーバンフロッタージュ」(住まいの図書館、1996年)、「カワイイパラダイムデザイン研究」(平凡社、2009年)、「臨場 渋谷再開発工事現場」(平凡社、2020年)など

    真壁智治
    新建築
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    これまでのカワイイ研究の成果をまとめた3冊の書籍。左から『カワイイ・パラダイムデザイン研究』(平凡社、2009年)、『ザ・カワイイヴィジョンa 感覚の文法』(鹿島出版会、2014年)、『ザ・カワイイヴィジョンb 感覚の技法』(鹿島出版会、2014年)。/撮影:新建築.ONLINE編集部

    「ROLEX ラーニング センター」(右上、妹島和世+西沢立衛/SANAA+Architram SA)は、勾配によって生まれる身体性によって、「SIA青山ビルディング」(左、AS)と「神奈川工科大学KAIT工房」(右下、石上純也建築設計事務所)は、ポツ窓と細い柱という新たな形式によって建築を抽象化し、「カワイイ効果」を創出している。/撮影:新建築社写真部

    fig. 2

    fig. 1 (拡大)

    fig. 2