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2022.06.28
Essay

日常と非日常のあわい

オープンハウスに代わる語りの試行としての展覧会

門脇耕三+湯浅良介

2021年12月号『新建築住宅特集』に掲載された「FLASH」で、2022年1月16日に開催された展覧会「HOUSE PLAYING NO.1 “VIDEO”」。従来のオープンハウスという枠組みを問い直し、展覧会形式での建築の語り方を試行した企画です。本記事では、展覧会の訪問者である門脇耕三氏によるレビュー(左)と展覧会当日の記録(右)を同時にご覧いただけます。雑誌への掲載、動画公開、展覧会開催という一連の活動の中で、さまざまな人の思考・想像力を媒介にどのように建築が語られたのか、見ていただきたいと思います。(新建築.ONLINE編集部) *スマートフォンでご覧の方は、▼ボタンより展覧会当日の記録をご覧いただけます。

民家が時に得体の知れないものを受け入れてしまうことと、展覧会「HOUSE PLAYING NO.1 “VIDEO”」について

門脇耕三

民家はきのこである──篠原一男(1925〜2006年)によるこの有名なアフォリズムは(篠原一男著『住宅建築』紀伊國屋書店、1964年)、農家や漁家といった、その土地に根差して暮らしを営む人の住まいが、あたかも自然発生したかのように、自生的に成り立っていることをいいあてたものだった。もちろん、茅などで葺かれた大きな屋根をいただく民家のかたちそれ自体が、キノコに似ていることとも無関係ではないだろう。しかし、僕はこの言葉を聞くと、傘を押し上げながら柄を伸ばして大きくなる、キノコの生長の過程をどうしても想像してしまう。
民家は竪穴式住居の系譜に連なっているといわれていて、竪穴式住居がそうであるように、ずっと大昔には屋根しかない建築だった。篠原が言及したような民家は、その屋根だけの建築に、垂直の柱と水平の横架材からなる軸組が追加されてでき上がったものだ。何百年も前につくられた古い民家の中には、身を屈ませないと通れないくらい軒が低いものがあるが、そうした民家を見ると、まだまだ柄が伸びている途中だな、などと思ってつい目を細めてしまう。
民家は、つまり後世に成立した水平垂直の空間の上に、歴史が書かれるようになるはるか以前の世界から引き継いだ、古くて、その成り立ちもよく分からない空間を載せたものだ。かつては家そのものだった民家の屋根は、水平も垂直もなく、空間としてはひどく曖昧だが、この曖昧さが文明化した人間の感覚には合わなかったためか、人間は屋根裏では日常的な時間を過ごさなくなった。民家の屋根はもぬけである。すなわち、屋根は太古の人たちの家の抜け殻なのだ。
このことを知ってか知らずか、お話の中などでは、その家の正統な住人以外の存在が屋根裏によく住み着く。それはかわいらしい妖怪だったり(宮崎駿『となりのトトロ』、1988年)、恐ろしいお化けだったり(京極夏彦『いるのいないの』、2012年)、時には浮浪児だったりすることもあるのだけど(こうの史代『この世界の片隅に』、2016年)、屋根はいずれにせよ、人間社会からつまはじきにされたものたちを秘かに受け入れてきた。それは実際に起きたことではなかったかもしれないが、少なくともひと昔前の人たちは、人間の世界の外側と、そこに息づくものたちの存在を感じていて、建築は、特に屋根は、彼らと人間を媒介するものでもあった。
しかし現代の建築は、そんな役割をすっかり失ってしまったように思う。軒を目一杯に上げて、申し訳程度に屋根を載せた住宅を街で見かけるが、こうした現代の住宅は、人間の世界が極限まで肥大化したことをよく表している。今では人間の世界の外側など、想像することさえ難しい。あるいは、もはや外側の世界は、そこの住人もろとも消滅してしまったのかもしれない。

話は変わる。というより、ここからが本題である。
2022年1月16日に、1日だけの展覧会「HOUSE PLAYING NO.1 “VIDEO”」を観に神奈川県・大磯へ行った。この展覧会は、オープンハウスに代わる建築の語り方についての実験でもあり、この試み自体に「HOUSE PLAYING」という名前がつけられている。「VIDEO」はその第1回目で、湯浅良介が設計し、2021年7月に竣工した「FLASH」(『新建築住宅特集』2112)が舞台だった。
「VIDEO」の出展者は、湯浅に加えて、高野ユリカ、川越健太、大村高広、梅原徹、成定由香沙、堤有希、植田実。建築家や美術家だけではなく、写真家、音楽家、テキスタイルデザイナー、編集者など、出展者の職能は多岐にわたっている。だから展示物も、ドローイング、写真、立体、音楽、映像、テキストなど、あらゆるジャンルに及んでいるのだが、その多様な展示物が、壁面に貼られ、テーブルに置かれ、洗濯ばさみで吊り下げられ、床に転がされ、バスタブに投影され、トイレに隠される。要するに、この家のあらゆるところに展示物がばらまかれている。しかも、住人の決して少なくはない所有物と、境目なく入り混じっている。あの場には、おそらくビジターが置いた荷物なども混じっていたのではないかと思うのだが、それを区別する手立てはない。
だからビジターは、あらゆるものに注意を払わなくてはならなくなる。窓辺に立てかけられたサーフボードをまじまじと眺め、キッチンに並んだ調味料を検分し、冷蔵庫にマグネットで留められた手紙を読み込み、ハンガーに吊された衣装の並び順について考えたりする。それらは展示物だったり、そうでなかったりするのだが、ビジターはそこから意味を読み取ろうとすることが止められない。あらゆるものが、何らかの意味を潜在させたものに見えている。ここに置かれたすべてのものが、意味を発する可能性の塊で、この家にはその塊が過剰に溢れている。意味はそこから時折、静かに泡立つように沸き立ってくる。「VIDEO」はそんな展示で、僕はそこであらゆるものに目をこらしながら、何となく大きな屋根をいただいた民家のことを思い出していた。

「FLASH」は、どことなく民家のような家だと思う。そもそも姿かたちが民家っぽい。屋根は大きく、軒はぐっと低い。しかし「FLASH」の民家らしさは、もう少し別のところにもあると思う。
この建物を訪れると、しばらくするうちに不思議な違和感を覚えはじめる。よくよく探ってみると、この違和感は、外から見た時と中から見た時で、空間の印象が微妙に異なっていることが原因だと気がつく。より正確にいうと、外観から想像していた内部空間の大きさが、いざ入ってみると実際とは違うのだ。この現象は1階で顕著に起こるが、それは1階の空間がフカされていて、軒裏や天井裏がたっぷりとしていることによる。しかし軒裏や天井裏が、何のためにフケているのかはよく分からない。ダクトや配管の経路でもなさそうなので、得体のしれないものが潜んでいるところなどをつい想像してしまう。表層の裏側へと想像を向かわせる装置はほかにもあって、たとえば2階の柱から分かれて、平らな天井へと消えていく方杖も、そのひとつである。しかしその先に何があるのかはやはり判然としない。ここには、民家の屋根裏と共通する感覚がある。
また、そこに身を置いてみると、遠巻きに見ていた時の印象が裏切られるという現象は、外から中へ、あるいは中から外へ移動した時以外にも起きる。部屋から部屋へと移動したり、ただ単に部屋の中を移動した時に、印象がかすかに変化する。このことはおそらく、455mmをモデュールとする立体格子状の指標線を駆使して、そこから生成されたたくさんの領域を、幾重にも折り重ねるようにして空間がつくられていることと関係している。
この建物では、部屋の大きさはいずれも、そこに正円を内接させることで決定されている。一方で建物の外形は、各室の正円とは中心を共有しない、別の正円によって決まっている。そのため、たとえば1階にいると、部屋を律している秩序を感じながら、ガラス張りの欄間越しに、部屋の秩序とは異なる外形の秩序を感じる、などということが起こる。場所の印象は揺れ動き続ける。
しかし、ここで同時に感じた複数の秩序は、それぞれが違った図形に依拠するものでありながら、根本的にはすべてが同じ455mmモデュールの幾何学のもとにある。この幾何学は、部屋の大きさばかりではなく、あらゆる細部を決定するものとして位置付けられているから、建築全体の基底として、この家のすべての場所に響き渡っている。同時に、この幾何学的な秩序は、建築を生成するための可能性の塊のようなものでもあって、物理的な建物それ自体は、この幾何学の一部を、われわれのいる世界へと差し当たってすくい上げた結果ともいえる。「FLASH」の内部や外部に見られるどこか表層的な装いは、この世界に現れた建物それ自体が仮設的なものに過ぎないという感覚を補強している。
つまり「FLASH」においては、物理的な存在としての建物と隣り合わせに、ひとつの秩序をもった別の世界が設計されている。家の役割を取り急ぎ果たしている建物のその裏側に、別の世界が隠されているといってもよい。建物は、したがってその別の世界の位相と、われわれがいる世界の位相を媒介する存在でもある。「FLASH」に感じた民家らしさは、おそらくこうした点にあるのだと思う。

ここまで来て、改めて「VIDEO」を振り返ってみると、あの場にあった展示物たちは、「FLASH」が媒介するふたつの位相の間に居場所を見出していたようにも思えてくる。それらはいずれも、暮らしという日常の世界にも、展覧会という非日常の世界にも、完全には属しきらないものたちだった。また、日常に属するはずの住民の所有物も、ビジターによるまなざしによって、日常を逸脱するものへと転化しかけていた。実際、「VIDEO」の光景は日常とも非日常ともつかないもので、そこにはどこか白昼夢じみたはかなげな美しさと不気味さがあった。
ちなみに、ここでいう不気味さとは、いうまでもなくジークムント・フロイトやマルティン・ハイデッガーが論じた「unheimlich(ウンハイムリッヒ)」に通じている。
ドイツ語の「hiem(ハイム)=家」に接尾辞「-lich=~的な」がつくと「heimlich(ハイムリッヒ)」となり、「慣れ親しんだ」や「秘密の」「隠された」といった意味を発するようになるが、そこに否定接頭辞「un-」がつくと、「不気味な」「得体のしれない」といった意味に転じるという。この議論にしたがえば、「VIDEO」は日常と非日常のあわいにあって、heimlich=家的なものが、unhimlich=非-家的なものへと転化する、その力学の中に現れた展覧会だったといえる。
同じことは、日々のくらしが営まれる空間の上に、もぬけの家としての屋根をいただいた民家にもいえるだろう。もぬけの家は、非-家である点でunheimlichであり、だからこそ得体のしれないものたちを引き寄せた。あるいは、物理的な建物としての家の裏側に、幾何学的な秩序の世界を公然の秘密として隠している「FLASH」にも同様のことがあてはまる。「FLASH」のフカされた仕上げは、幾何学が纏った家という形象が仮設的なものにすぎないことを暗喩していたが、それはheimlichのあやうさをも含意している。日常の中に一瞬だけ現れた非日常としての「VIDEO」は、このような意味で、「FLASH」を正しく語り直すものだったと思う。
「VIDEO」と「FLASH」は、したがって双子のような関係にあるといってよい。また、家で展覧会を行うという「HOUSE PLAYING」の形式それ自体が、「FLASH」の性質に深く根差しているということもできるだろう。だとすると、別の作品で、ふたたび「HOUSE PLAYING」は可能なのだろうかという当然の疑問が湧いてくる。それとも、近いうちに、まったく別の「HOUSE PLAYING」を見ることができるのだろうか?

門脇耕三

1977年神奈川県生まれ/2000年東京都立大学工学部卒業/2001年同大学院工学研究科修士課程修了/東京都立大学助手、首都大学東京助教などを経て、2012年~アソシエイツ設立・パートナー/現在、明治大学准教授、東京藝術大学非常勤講師/博士(工学)

湯浅良介

1982年東京都生まれ/2010年東京藝術大学大学院修了/2010〜18年内藤廣建築設計事務所/2018年〜Office Yuasa主宰/2019年〜東京藝術大学教育研究助手/2022年〜多摩美術大学非常勤講師

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新建築住宅特集 2021年12月号
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湯浅良介設計「FLASH」(2021年)と、そこで開催された設計者の企画による展覧会「HOUSE PLAYING NO.1 “VIDEO”」の記録。展覧会の記録写真と竣工写真によって構成され、正順では展覧会の様子から、逆順では建築や暮らしの風景から辿ることができる。

展覧会の様子を記録した映像「HOUSE PLAYING NO.1 “VIDEO”」。/制作:成定由香沙

ROOM3の冷蔵庫に、給食の献立表や引換券などと一緒に貼られる「私信」(植田実、2022年)および写真家によるスナップ「Lights, lights, lights」(高野ユリカ、2021年)。/撮影:徳山史典

ROOM2よりROOM3方向を見る。平面・断面共に455mmのグリッドをガイドとした比率によって構成されている(各比率の詳細は『新建築住宅特集』2021年12月号参照)。/撮影:千葉顕弥

ROOM3からSTAIRSを見る。STORAGEと共に建具で仕切られる。/撮影:千葉顕弥

ROOM3よりROOM2方向を見る。「BPX」(梅原徹、2022年)がCARPORTと対になって展示される。壁面には、高基礎部分に「Lights, lights, lights」(高野ユリカ、2021年)が、その上部には「Paper relief 20-1-4(Bodegón in inverted position)」(川越健太、2021年)が展示される。/撮影:徳山史典

展覧会に訪れた人が集うCARPORTには「BPX」(梅原徹、2022年)が展示される。/撮影:徳山史典

「FLASH」の竣工時に撮影された映像素材から新しく制作したビデオインスタレーション『Suddenly in the Dark』(成定由香沙、2021~22年)が寝室の壁面やカーテンに投影される。2階のトイレ内に投影された映像作品の本編は、新建築.ONLINEで公開されている。/撮影:徳山史典

BEDROOM。/撮影:千葉顕弥

WASHROOMに洗濯バサミで吊るされる湯浅良介による「こんにちはだれか」(湯浅良介、2022年)とそのテキストの中で触れられている修士制作や「FLASH」の図面、展覧会告知ビジュアルのスタディなど。「こんにちはだれか」の全文はここから読むことができる。/撮影:徳山史典

BEDROOMからWASHROOMを見る。壁面には「Lights, lights, lights」(高野ユリカ、2021年)が貼られ、その奥には「こんにちはだれか」(湯浅良介、2022年)が吊るされる。/撮影:徳山史典

BEDROOM。/撮影:千葉顕弥

UNITBATHに投射される「Dwelling of Spirits」(大村高広、2022年)。/撮影:徳山史典

ROOM2に展示される「Lights, lights, lights」(高野ユリカ、2021年)。「FLASH」の室内で「FLASH」の写真を見る体験。/撮影:徳山史典

外から窓越しに見る「Lights, lights, lights」(高野ユリカ、2021年)。/撮影:徳山史典

GARDENが展覧会の受付として使われた。正方形の窓とRC壁の目地を合わせている。/撮影:徳山史典

「Paper relief 19-1-3」(川越健太、2020年)/撮影:徳山史典

階段を下りながら見る「Paper relief 19-1-3」(川越健太、2020年)。/撮影:徳山史典

ROOM2からROOM1方向を見る。カーテンは「しまとしま」(堤有希、2021年)。/撮影:徳山史典

ROOM3からSTAIRS方向を見る。/撮影:千葉顕弥

「しまとしま」(堤有希、2021年)越しに展覧会を覗く。/撮影:徳山史典

ROOM3のテーブルでは、「しまとしま」(堤有希、2021年)の制作過程における思考が綴られたテキストや展覧会告知ビジュアルのスタディなどが閲覧でき、来場者がテーブルを囲う。/撮影:徳山史典

建具を閉めた時のROOM1。/撮影:千葉顕弥

南東側外観。/撮影:千葉顕弥

1、2階平面図。/提供:湯浅良介

fig. 34

fig. 1 (拡大)

fig. 2