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2021.10.20
Essay

いま、建築を知覚することについて

新建築論考コンペティション2021|2等

風間健(KAJIMA DESIGN)

2020年6月、上空にて

昨年の夏、私はシカゴから成田へ向かう飛行機に乗っていた。眼下に広がるフリーウェイや住宅地はみるみる小さくなり、しばしのうたた寝の後に気付くと、そこにはアラスカの氷河に小さく取り残されたようなアンカレッジの街が見えた。

2年間過ごしたアメリカからの帰路。終始心のどこかに「よそ者」としての居心地の悪さを感じ続けた長期滞在だったが、帰国までの数カ月間は、それに輪をかけて「お前はこのアメリカのことを何ひとつ理解できてはいないのだよ」と見えない誰かに正面から拳を叩きつけられるような、空しい日々が続いた。

そのトリガーは、むろん、新型コロナウイルスの流行で、アメリカにウイルスが到来し、世間の風潮が変わっていくのはまさに一瞬の出来事だった。中西部地方都市に住んでいた私は、その年の3月中旬、ニューヨークを訪問する週末の小旅行を計画していた。気になるホテルを(ちょっと奮発して)予約して、現地の設計事務所を見学する約束もとりつけたりして、準備は万端。少なくとも、その段階(1週間前)までは、まったくシリアスなムードではなかったのだ(確か市内の1日の感染者数も200人足らずという情報だった)。しかし、その週の半ば、状況は一変。爆発するように感染者数は増大、買い占めが発生し、ロックダウンとなり、大都市がパニックに陥っていくのを、私はただその情報を追いながら眺めていることしかできなかった。むろん、その週末に行楽目的でニューヨークを訪ねるなど、到底無理であることは明らかだった。

そこから、混乱が地方都市に波及するのもあっという間だった。私の勤め先も早々に在宅勤務を決め、バタバタとPCやらディスプレイを車に積み込んだ社員たちはStay Home生活に突入していった。

結局、次にオフィスへの出社が認められたのは、帰国の約3週間前の5月だった。そこで多少の鎮静化が図られるかと思った矢先、ジョージ・フロイド氏の死を発端とするBLM(Black Lives Matter)運動が勃発した。ミネアポリスから始まったデモは瞬く間に同時多発的な出来事となった。このうねりはすさまじく、そして暴力的だった。アメリカ社会のあまりに複雑に絡み合う問題が、コロナウイルス流行という恐怖とストレスを増幅器として、一気に噴出してしまったように見えた。現に、私の住む町でもデモが過激化し、目抜き通りのストアフロントは破壊され、ニュース映像では、それなりに平和だった街が無残な姿をさらしていた。次の週末には、この暴力の再発のおそれから、主要都市の多くには立ち入り禁止令が敷かれた。スマートフォンの通知画面に、見慣れない「curfew」という単語が連日並んだのが印象的だった。

これが、結果として私の最終滞在日と重なり、自分の街のダウンタウンも、乗り継ぎで訪れたシカゴの街も、最後にこの眼に焼き付けられぬまま、ヘルムート・ヤーン設計のターミナル(「オヘア国際空港ユナイテッド航空ターミナル-1」、『a+u』9209別冊)から、寂しく東京行きの飛行機に乗り込んだのだった。だから、ガラガラの機体の小窓から小さく見える街々も、一見いつも通りのようで、実際は混乱の最中にあったのだった。

視覚偏重の20世紀を再認識する

少しだけ時計の針を戻す。2020年の3月から帰国までの間、Stay Homeを余儀なくされていたのは先述の通りだが、それまでの1年半の期間、アメリカ地方都市ひとり暮らしで特に休日やることもない私は、各都市を巡っては教科書に載っているような建築を訪ねることを繰り返していた。レンタカーを乗り回し、カメラを構え続けるうち、学生時代から「見慣れて」いたはずの名建築が、しばしばまったく違う感覚に訴えかけてくることに気付かされたのだった。例えば、ピッツバーグ郊外に「落水荘」(フランク・ロイド・ライト、『a+u』0106)を訪ねた時。建築を志す者であれば誰でも知るあの外観とは裏腹に、私の心に最も深く残ったのは「音」だった。特に、滝の上にせり出すテラスに出た時に覚えた「せせらぎに全身が投げ出される感覚」は、写真を見ていても絶対に理解することはできず、これなしにはライトがこのサイトを選んだ理由は分からない、と思った程だった(よく考えたら、滝の上に住宅をつくるというのは、居室から滝を眺められないので奇妙なことなのだ)。

「イェール大学・インガルズ・ホッケー・リンク」(エーロ・サーリネン、『a+u』8404臨時増刊)fig.2を訪ねた際も、似たような体験をした。波打つキールが特徴的なこの建物は、しばしば「国立代々木競技場第一体育館」(丹下健三、『新建築』2003)の比較対象となるように、あくまで造形的な作品として20世紀建築史に登録されている。しかし、その内部に一歩足を踏み入れた時、船底のような板張り天井に響き渡るアイスホッケー選手達のぶつかり合う音、その空間に充溢する生々しい若さとエネルギーに、外観の印象など吹っ飛んでしまった。

この事前の印象と実際の体験のギャップは、私(私たち)が日頃建築を視覚偏重に知覚しているために生じていると考えられる。教科書や雑誌を見ても、そこに映るのは写真というメディアに固定された一面的な情報でしかないのに、大部分を分かった気に、知らず知らずのうちになってしまっている。

建築に対するこの知覚構造が20世紀の産物であることは、ほぼ間違いないだろう。それ自体を動かすことが困難な建築は、紙上のイメージとして流通することで、マス・メディアの時代である20世紀に活路を見出した。先のエーロ・サーリネンなどは、この時代の風をいち早く読み、上手に追い風とし、羽ばたき切ったアメリカ建築家であると捉えられる。「イェール大学・インガルズ・ホッケー・リンク」だけでなく、「MIT・オーディトリアム」(『a+u』8404臨時増刊)、コロンバスの「ノース・クリスチャン教会」(『a+u』0311臨時増刊)fig.3、そして「TWAターミナル・ビルディング」(『a+u』 1003)。どれも紙面で容易にoutstandするフォルムを持ち、ヒロイックで全能的な戦後アメリカのムードとも実によくマッチしている。その他にも、アニメーションを駆使した「ダレス国際空港ターミナル・ビル」(『a+u 』1710)におけるモービル・ラウンジのプレゼンテーションなど、現代でも通用しそうな手法を援用し、おそらく『ニューヨーク・タイムズ』の建築クリティークである妻のアドバイスも聞きながら、彼はスターダムをのし上がったのだ。

エーロ・サーリネンが意識的に視覚型マス・メディアに適応した建築を創作していたと逆説的に確信させる作品が、彼が少年期を過ごしたミシガン州のクランブルック・アカデミーにある。ここは彼の父親であり、フィンランドを代表する建築家であったエリエル・サーリネンが渡米後に校長を務め、校舎群の設計を任されたことで知られている。若きエーロもその一部を担当している。そのデザインに通底するものは、手つきの痕跡ともいうべきもので、大変細かな意匠のバリエーションが施設全体に広がっている。例えば、中庭に配された列柱fig.4は1本1本微妙にかたちが異なり、「モダニズム」あるいは「機能主義」以降の批評語彙では説明することができない。エーロはというと、椅子や門扉のデザインを担当したとされ、これも同様に製図版の上で線を描いては消した「手つき」の痕跡が表出するような、理屈では割り切れない意匠となっている。同時にこれが、当時のマス・メディアの解像度では伝え得ないものであったことはいうまでもなく、この時点でのサーリネン父子の念頭には、建築はメディアを通して見るものである、という意識がなかったことも伺える。

つまり、エーロ・サーリネンという建築家は、フィンランド・ナショナル・ロマンティシズムを代表する父親仕込みの「手つき」から(当時の)メディアが補足できる「シルエット」へと、デザインの解像度を落とすことで、見事に当代をリプリゼントする建築家として成功したいう見方ができるのではないだろうか。

ここに、20世紀以降に建築と関わる私たちにとって、建築を知覚することはメディアと不可分で、かつそれはきわめて視覚偏重であったこと、さらに言えば「視覚メディアで捉えられないものは捨象すること」すらも促すような、冷静に考えれば少々居心地の悪い暗黙の了解があるように思う。

リモートワークに気付かされたこと

さて、21世紀の現代、建築とメディアを巡る関係性は、言うまでもなく変化している。建築を消費するメディアは雑誌と書籍だけではなくなり、私たちはディスプレイやスマートフォンの画面の先にそれらの姿を追うことが多くなった。動画が手軽に見られるようになり、建築表現におけるその役割も増してきている。(余談だが、アメリカ滞在中に私が発信したSNS投稿のなかで最も反応が大きかったのも、ほんの数秒、建築内部を見廻した動画であった。)

コロナウイルス流行時点で、インターネットを介して建築の情報を他者と共有できるように既になっていたことは、私たちにとって不幸中の幸いだった。私自身、アメリカ滞在中にいきなり孤立無援なリモートワークを強いられたにも関わらず、実質的な不便がほとんど発生しなかったことには驚いた。実際のところ、オフィスにいても、自宅にいても、サーバ上のBIMセントラルモデルにアクセスして「そこで」作業をするという意味において、やることは何ら変わらなかったのだ。同僚との距離が4フィートでも、40マイルでも、大した差はなかった(逆に、コロナ以前から簡単なコミュニケーションはチャットを使っていた)。帰国してからも、あんなに対面ミーティングを重視していた職場は、あっさりとMicrosoft Teamsを受け入れ、たやすくweb会議をこなしていた。

建築を知覚する方法についても、このコロナ禍の副産物を奇貨として、ますます新たなテクノロジーが登場することになるだろう。動画プレゼンテーションやVRはより高精細になり、実際に行かない(行けない)状況でも困らないだけの物理的情報が得られる日は、そこまで遠くないように思う。現に、3Dスキャンやフォトグラメトリで、かなり精度の高いモデルは生成可能になっている。これが推し進めば、建築家はより自由に世界中のプロジェクトを獲得し、監理もリモートで可能になり、そのワークスタイルも変わるだろう。

「解像度の高まり」に感じる不安

しかし、である。上記のような割合予測が容易な近未来に対して実務者としては受入れ態勢を整える一方で、この「解像度の高まり」がかえって私たちの目を曇らせてしまうような不安も覚えずにはいられない。どんなに高精度なレコーディング技術でVRをつくったとしても、「落水荘」のテラスに立って、せせらぎに全身が投げ出されたあの知覚は、現象してこないような気がするのだ。

もっとも、建築そのものよりずっと早いサイクルで更新され続けるツールや手法に適応しようと食らいついているうちに、こんな不安など掻き消されるのかもしれない。そして、何となく自由にリアルとバーチャルを渡り歩くのが、建築家という職能になるのかもしれない。しかし、コロナ禍という契機がはっきりしている以上、ここで一度立ち止まり、私たちにとって建築を知覚するとはどういったことなのかを、点検してみたいのである。

バーチャルな建築知覚の数と質

まず、コロナ禍が誰の目にも明らかにしたことは、少なくとも数の上では建築はリアルではなく、バーチャルで知覚されるほうが圧倒的に多いということだった。東京オリンピックの開会式は無観客となったが、実際には数千万人が「新国立競技場」(大成建設・梓設計・隈研吾建築都市設計事務所共同企業体、『新建築』 1909)のスタンドを体験していた。イベントを行っても、リアル会場にいる僅かなオーディエンスのバックにその何倍ものオンライン参加者がいるという構造が当たり前になった。

だが、これは先のエーロ・サーリネンの例が如実に語るように、今に始まった状況ではない。建築は、20世紀から「メディアを通して体験されるようにつくられていた」のだ。メディアとの共謀関係がありながら、かたやリアルのみが正当な建築体験であるかのように振舞うという、今までは敢えて指摘されなかったダブルスタンダードのバランスが少し変わったに過ぎない。建築家にとっては、実体・実空間体験に特権性を据えたい心情は拭いづらいだろうし、実務者の立場としては「建築物」の品質確保が引き続き重要であることに変わりはないが、時代の状況は、とっくにリアルの特権性を引き摺り下ろしてしまっている。

次に点検したいのが、情報量である。デジタルテクノロジーは、進歩すればするほど、データ容量という数値に代理された情報量を増大させる。先日、社内でプレゼンテーションするためのVR実行ファイルをコピーしたところ、その容量は7GBあった。それを開くと、リアリスティックな環境で建物の3Dモデルを自由に動かすことができ、バーチャルな世界に没入することができた。実際のところ私はその仕上がりに満足したし、全体的に低調だったその日のプレゼンも、VRのセクションだけは好評だった。

だが、情報量の増大がバーチャルな建築知覚の質と比例するかというと、それは明らかに誤りである。なぜなら、私たちは、きわめて情報量の少ない表現を通して、ありありと建築を知覚できてしまうことを知っているからだ。

歩くにつれて、ふたつの塔のかたちがはっきりしてくる。はじめは、えっ、どこに?と視界のなかを探すほどだったが、だんだん確実に見えてくるようになった。ところが、やっとここまで来たと思ってほっとしたとたん、小指の爪先みたいに小さな二本の尖塔がふっと視界から消えてしまうことがあった。道が低くなると、塔はすがたを消し、すこし坂をのぼると、また現れた。そんなことが、一時間も続いただろうか。私たちは、その塔の幻を定着させたくて、しっかりと天にそそり立たせたくて、その一心だけで歩きつづけた。そして、ある瞬間、まるでこちらの祈りに応えるように、こんどはもう塔だけでなく、あの比類ないカテドラルぜんたいが、しずかに地平線に浮かぶのが見えた時には思わず顔がほてった。(a)

言葉というきわめて限られた表現形式のなかに、ありありとカテドラルの姿を思い浮かべることができないだろうか。のみならず、段々と聖堂に近づくシークエンス、肌にまとわりつく温度、そして筆者達の当時の心の動きまでもが時を超えて伝わってくるようでもある。テキストファイルにして、およそ4キロバイト。データ容量としては175万分の1にもかかわらず、VRでは知覚し得ない生理的感覚までが現象されてくる。

改めて、アンビルト・アーキテクトが教えてくれること

このように、短い断章や一葉のドローイングですら知覚対象としての建築として機能し得ることは、前世紀に当然気付かれていたし、アンビルト・アーキテクトと呼ばれた作家たちは戦略的にそれを利用していた。彼らの戦略は功を奏し、その後実際に建設されるプロジェクトの獲得に結び付いていったが、なかには、アンビルトそのものが建築として持つ理論的可能性を追求し続けた作家もいた。

本稿では、そのひとりとしてジョン・ヘイダック(1929〜2000年)を挙げ、そのアンビルト作品を通して建築を知覚することの意味を最後に点検したい。ヘイダックの作品はいわゆる「ニューヨーク・ファイブ」時代に発表された住宅シリーズ、例えば「ダイアモンド・ハウス」(1962〜66年)や「ウォール・ハウス」(1968〜74年)が有名であるが、今回はその後に発表された作品群に目を向ける。それは、建築デザインであると同時に、都市であり、理論であり、あるいは詩、文学、演劇のシナリオであるような、彼独自の創作領域に到達していた。「Masque」と名付けられたそれらのプロジェクトは、それぞれが冊子にバインドされ、世に問われた。

そのうちのひとつに、「VICTIMS」と名付けられたプロジェクトがある。これはベルリンを計画地として1984年に制作された作品で、67の構築物を60年かけて配置していく構想が掲げられおり、そういった意味ではまったくの架空の計画案であった(結果としては、いくつかの構築物は世界中にバラバラと実現した)。67の構築物のプログラムも、ふつうの用途からは逸脱していて、要領を得ない。例えば、「診療所」「靴屋」「メリーゴーランド」などはよいほうで、「かぎ針編み用の椅子」「囲われた鯰の池」「身分証明書ユニット」などになると、名称からどのようなものか想像することも困難である。これらが、断片的なドローイングとテキスト、そしてサイトプランによって表現されている。テクストも、短文や詩の集積であり、先述のプログラムも相まって普通の意味での説明文からはかけ離れている。例えば、構築物のひとつである「トロリー」に寄せられたテキストは、以下のような調子である。

トロリーの乗務員はフィンランドで生まれた。生まれて間もなくの頃、彼の母は北方のサナトリウムに連れていかれた。7歳くらいのときに電車で母を訪ねていったことを、彼は覚えている。母の涙は凍って、顔の上で固まっていた。彼はそれを数えはじめたが、その涙が彼の人生に積み重なっていくような気がして、途中でそれを止めた。彼は部屋を去る前に、母から涙粒の一つをせがんだ。母は一つを頬から取り、ハンカチで包んだ。彼が叔母に連れられて家に帰り、そっと折り畳まれた布をほどくと、そこに残されていたのは涙の染みだけだった。(b)

冊子は、1986年に出版された。従って、この作品は、もとよりバーチャルに体験することが前提とされた建築であり、にも関わらず、詳細な説明が放棄されることで、情報量は抑制されている。

確かに、これら断片的な情報を参照しても、プロジェクトの詳細を理解することは困難である。実は、先述の「トロリー」のテクストなどはまだ分かりやすい方で、「VICTIMS」には、辞書の引用、暗喩的な詩、さらにはそれにも満たないような言葉の断片なども散りばめられている。

しかし、これらの断片を苦労しながら読み進め、限られたドローイングとの対照を続けることによって、観察者のなかには、断片のつくる全体性とでもいうべきひとつのプロジェクトの像が浮かび上がってくる。実際に建っておらず、情報量としても現代のVRよりはるかに絞られた作品に、私たちは建築を知覚するのだ。ただ、その姿は、楽観的な青写真からは程遠く、不穏さ・悲しみ、さらには死の影さえも漂っている。

実は、このプロジェクトの計画地は、ベルリンの中でもゲシュタポ本部の跡地という、きわめて強い意味を持つ場所だったここは現在も「恐怖のトポグラフィー」として保存されている。。ヘイダックがユダヤ系アメリカ人であったことは知られているが、少年期に第二次大戦を経験した彼にとって、この場所にあえて建築的提言を行うことは、自らの心身を削って創作する行為に他ならなかったと推測する。

そして、提案がなされた1980年代は、冷戦によりベルリンが壁で分断されているさなかでもあった。恐怖の残滓が残る場所で、見えない緊張に対峙することが、この作品のテーマであった。

「VICTIMS」は、一見すると理解されることを放棄したように感じられ、断片的表現も作家の気紛れのようにすら見える。しかし実際は、緊張・恐怖を抱えた場所と時代に対して、建築家独自のアプローチと表現を突き詰めていった結果であったと考えることができるCanadian Centre for Architectureにはこの作品のスタディがアーカイブされているが、彼のスケッチブックには、構築物のリストが何度も書き直され、緻密に構成を検討していた跡が見て取れた。

『VICTIMS』というのは、そうですね、これは1冊の本でして、でも単なる本ではなく、私が残そうとしている仕事のひとつです。どう表現したらよいのか分わからないけれども、私が問題提起として残そうとする単なる仕事のひとつ、いや、問題ではないな。問題というのはふさわしくない。ただ何かを提起する。そんなふうな何かなのですが、『VICTIMS』という本について言いえることは、それが私にとって最も近い恐怖へのアプローチということですね。(c)

コロナを契機として、建築を知覚することについて幾つかの検証をここまで試みた。テーマが散乱し、思わぬ方向に終着してしまった感は否めない。また、今回あえて建築を「知覚(perceive)」するという表現を用いたのは、建築体験を主体の精神現象まで遡ることを半ば前提としたためであるが、「建築物(Building)」と「建築(Architecture)」の実存的差異のような根本的問い(例えば、ジョン・ヘイダックの「VICTIMS」はどこに「ある」のか?という疑問)への答えは、筆者には用意できていない。

さらに付記すれば、今回の検証は、建築家はリアルから撤退すべきだという立場によるものでは、まったくない。リアルの特権は裸の王様かもしれないが、その現実を引き受けた上で、建物を実現させるために苦闘することが、建築家が世界に貢献する術であることに変わりはないだろう。

残念ながら、2021年夏現在、約1年前に私が機上で感じた空しさから状況は改善されているようには思えないし、コロナウイルスという「見えない恐怖」との闘いも続いている。ヘイダックであれば、この恐怖に対してどのような提案を行っただろうか。それを知ることは叶わないから、私たちで考え、表現するよりほかはない。



参考文献
a.須賀敦子『ヴェネツィアの宿』「大聖堂まで」(文春文庫、1998年)
b. John Hejduk『VICTIMS』(Architectural Association、1986年)
c. 『a+u』0912「ジョン・ヘイダック あるいは天使を描いた建築家」(a+u、2009年)



風間健(かざま・けん)
1989年千葉県生まれ/2012年早稲田大学創造理工学部建築学科卒業/2014年同大学院修士課程修了/2014年~KAJIMA DESIGN(2018~20年同社アメリカ法人勤務)

新建築論考コンペティション2021

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エーロ・サーリネン「イェール大学・インガルズ・ホッケー・リンク」/撮影:風間健

エーロ・サーリネン「ノース・クリスチャン教会」/撮影:風間健

クランブルック・アカデミーの列柱/撮影:風間健

fig. 4

fig. 1 (拡大)

fig. 2