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2021.09.06
Books

誰も空気を読まない街、誰も忖度しない街

本を読む1|岡檀著『生き心地の良い町──この自殺率の低さには理由がある』

西沢大良(西沢大良建築設計事務所)

今月から、さまざまな評者による書評の連載をスタートしました。選書に縛りはありません。タイトルの通り「本を読む」ことの魅力を伝える連載にできたらと思います。第1回は西沢大良さんにお願いしました。(編集部) 建築界の若い人びとには、何であれ“考えぬかれた文章”を“大量に”読むことをお勧めします。書き手によって考えぬかれた文章を大量に読んだ時、人ははじめてオリジナルな考察を生み出すからです。逆に、考えられていない文章(SNSやLINEなど)をたくさん読むと、文章を次々と忘れる訓練をしているようなもので、オリジナルな考察力どころか、もはや考えることを放棄する能力が発達します。それでも“考えぬかれた文章”だけは、良質な治療薬のような効果を読み手にもたらすのです。それは読み手の記憶の中枢に入り込み、入り込んだ量が増えるにつれて未知の考察を促すという、不思議な医薬品のように作用します。良質な医薬品を食前食後に服用するように、“考えぬかれた文章”を“大量に”摂取して、オリジナルな考察ができる人間になって下さい。(西沢)

例外的な町

生き心地の良い町──この自殺率の低さには理由がある(講談社)は、2013年の刊行と同時に読書界の話題をさらった好著である。著者は看護学・公衆衛生学を専門とする学者で、自身の博士論文『日本の自殺希少地域における自殺予防因子の研究』(岡檀著、2012年、慶應義塾大学大学院健康マネジメント研究科博士課程学位論文)。論文の梗概は本著の巻末に収録。をもとに本著を上梓した。建築関連の書籍ではないが、この本には今後の建築界にとっての課題と教訓が満載である。まずは本の概要を説明しておこう(以下の「 」内は著書からの引用)。
著者によると看護学や公衆衛生学、心理学や社会学の分野では、今日の日本社会のもつある特徴──旧G7諸国のうち自殺率1位の日本では年間3万人ペースで自殺し続けていること──をめぐって多くの研究がなされてきた。ただし本著は次の点で、それらの先行研究とは異質である。先行研究の多くは“自殺をもたらす要因”を突き止めるべく「自殺多発地域」を重視してきたが、本著は“自殺を予防する要因”を明らかにするべく「自殺希少地域」に注目したからだ。このコロンブスの卵のようなオリジナルな発想から、著者は全国の市区町村のうち自殺率の低い町を比較検討し、注目すべき町──徳島県海部町──海部町は2006年の市町村合併により海陽町の一部となったが、本文では著書にならって海部町と記す。を発見する。人口2,600名強の海部町は、本土において突出して自殺率が低く、年齢別の自殺率も中高年から少年少女までの全年齢層で低く、その傾向は過去30年間(1973〜2002年)変わらない。高度経済成長期(好況期)でもオイルショック期(不況期)でも、バブル経済期(好況期)でも就職氷河期(平成不況期)でも、常に自殺率が低いこの町では、ほかの多くの町のように失業や病苦やいじめによって自殺率が高まることがないのである。しかも海部町の隣にあるA町は、日本有数の「自殺多発地域」に該当している。同一地域にかくも異質な町が接している以上、地域性や県民性によって海部町を説明することも難しい。ではなぜ海部町だけが、今日の日本の中で、まるでそこだけ重力が消えたように、常に極少の自殺者しか出さないのか。この“海部町の謎”を解明するべく現地調査に向かった著者は、ほかの町にはないオリジナルな特徴を目の当たりにする。そして住民の生活行動や集団形成、町の歴史や立地、医療や福祉や政治などの調査を通じて、海部町の人びとのもつ驚くべき特徴が明らかにされる(それらの特徴は「自殺予防因子」と名づけられ、A町に代表される「自殺誘発因子」と対比される)。以上がこの書物のあらすじである。すなわちこの本は、学術論文を下敷きにしていながらも、“海部町の謎”をめぐる壮大な推理小説のような魅力をもっている。

海部町の人びと

海部町の人びとの特徴を紹介すると、彼らは基本的に「おしゃべり好き」であり、周囲の出来事や人物について「興味津々」である。ただし他人の噂話に陰湿にこだわることがなく、話に熱中したかと思えば「同じ速度で冷め」たり、話の途中でいきなり「飽きる」といった、一種の“空気を読まない”会話を盛んに行う。しかも近隣付き合いはもっぱらそうした「立ち話程度」であり、相手の生活には「深入りしない」という「淡白な」付き合いをする(隣のA町のように日常的に生活を支え合うような緊密な人付き合いをしない)。もともと海部町の人びとは、相手が隣人でもよそ者でも「大きく態度を変えない」が、それは彼らが「よそ者に慣れて」いるからであり、よそ者から見ても「人なつこい」というほど「排他的な傾向が少ない」からである(よそ者や異分子と付き合う場数を踏みすぎて、ついに相手が誰でも“同じ人間”として振る舞うに至った)。
世代ごとの集団形成においてもよそ者や異分子を排除せず、しかも「個人の自由」が“自他共に”保たれている。江戸時代から続く「朋輩組」(15〜28歳までの若者が4歳幅ごとに小集団に所属し、町の行事の準備作業を分担する)は、多くの町では入会条件が厳しく閉鎖的な傾向をもつが、海部町では「よそ者・新参者であっても入会可能(退会も)」で、女性の入会や退会も「拒まれず」、退会者も不参加者も「不利益を被ることがない」というほどの開放ぶりである(単に行事の作業をしたい者だけ参加させようとすればこうなる)。新参者が不慣れな集団作業に失敗しても、町の慣用句である「1度目はこらえたれ」を誰もが口にして、叱責や処罰などのパワハラ行為を行わず、失敗の挽回も当人の「自由」に委ねられる。つまり“やりたい者だけがやる”という「自由」の理念が細かいところまで浸透しているため、この集団では強制も支配も「いじめもない」。
もちろん海部町にも鬱病や失業などの困窮はあるが、それらはひとまとめに「病」と呼ばれ(精神病や大病、借金苦や失業などは、どれも自力で解決できないため同じ言葉で呼ばれている)、まるで落雷事故のように電光石火で処理される。たとえば鬱気味の困窮者がいると聞けば、海部町の慣用句「病は市に出せ」(困ったことは素早く公開して他者に引き取ってもらえという意味)を誰もが口にして、困窮者を「見にいてやらないかんな!」という声が多勢を占め、家に押しかけていって困窮者に向かって「あんた鬱になっとんとちゃうん?」という大胆な質問を発するという、“空気を読まない”介入を電光石火で行う(おそらく困窮者が自ら心療内科に行くまでこの介入が連日続く)。海部町で鬱病の受診率が高い理由は(罹患率でなく)、こうした「鬱の早期発見と早期対応」がどの町よりも盛んだからであり(ゆえに「軽症者が多い」)、またそもそも誰も「弱音を吐くという行為を恥とは思っていない」からである。
さらに海部町の人びとは「政治参加に意欲的」だが、それも多くの市区町村とは異質な性質をもつ。たとえばもっとも盛んな「首長選挙」において、海部町では「長期政権の歴史がない」という。ということは、日本の多くの政党が行ってきた組織票の動員(各地の団体や企業のトップを通じて、その職員や社員に対して減給をチラつかせるなどして投票行動を支配するというパワハラ行為)が、昭和の頃から海部町には通用しなかったのである(おそらく国政選挙も同様)。なにしろ海部町では町の有力者さえ「投票は個人の自由や」といい切るほどで、人の投票行動に口を出す者がいれば「野暮なやつだ」とレッテル貼りをされ、老人も青年もそれを「ダサイ」と公言して憚らないからである。もともと彼らは「統制されるのが嫌い」であり、「他人と足並みを揃えることにまったく重きを置いていない」という、一種の自由主義的で個人主義的な資質をもっている(ゆえに世間の“空気を読まず”、目上の人間にも“忖度しない”)。こうして「個人の自由意志が最大限尊重」されている海部町では、日本において例外的に、「健全な民主主義が根付いている」。
その結果、海部町では意外な政策決定やサプライズ人事がしばしば生じるが、それについて町民へ意見を求めると、「無駄のない答え」を「淀みなく述べ」る「賢い人」が多いという。これも自由主義的で個人主義的な資質の現れなのだが、なぜそうした回答を瞬時にできるかといえば、普段から自力で“考えぬいている”からだろう(身の回りの出来事についてその人なりに“考えぬいて”行動している。逆に世間の“空気に従う”人間は、何も考えなくても行動できるため、考察力も観察力も衰える)。海部町の人びとの多くが「人間観察に長けて」いて、「世事に通じており」、物事を「合理的に判断」し、「文句言い」が多く、「損得勘定が早い」わりには「執着心がない」ことも、各自が“考えぬいている”からだろう。 

海部町とA町

以上のような海部町の人びとは、今日の日本においては奇跡的な存在だろう。一般用語でいえば、彼らは自由主義的であって専制主義的でなく、個人主義であって集団主義でなく、放任主義であって管理主義でなく、人物本位であって肩書き本位でなく、開放的であって閉鎖的でなく、多様性を好んで同質性を警戒し、健全な民主主義があって不健全なそれがない。ひとことでいえば、“誰も空気を読まない町・誰も忖度しない町”、それが海部町である。そしてこの特徴は、国内の多くの町や組織にとって、実現したくても実現できずにいる当のものにほかならない(十数名の小グループで実現した例はあっても、海部町のように数千人の生活集団で実現した例がない)。
本著で対比的に描かれるA町は、逆の意味で衝撃的である。なにしろA町の人びとには、日本人の美徳といわれてきたすべてのものが備わっているからだ。勤勉さ・忍耐強さを備え、思いやり・おもてなしにあふれ、日常的に助け合い・絆を重んじ、他者に礼儀正しく接し・迷惑をかけぬように振る舞い、知人や恩人の気持ちを“忖度”し、世間や親族の“空気を読む” 。にもかかわらず、いやそうであるがゆえに、A町の自殺者は膨大だこの段落に列挙した“日本人の美徳”の数々は、元首相・安倍晋三氏が主張した“美しい日本”の目指すところと重なる。ゆえに彼の首相就任以降(またその官房長官であった現首相・菅義偉氏の就任以降も)、官僚や行政法人の中から自殺者が相次いでいる{国有地払い下げ(いわゆる森友問題)の根拠資料の改竄を強要された官僚の自殺、日本オリンピック委員会の経理部長の自殺、など}。
しかも建築界にとってA町は、別の意味でも衝撃的である。建築界で長らく唱えられてきたコミュニティ論は、ほとんどA町のような人付き合いを目指してきたといわざるを得ないからだ。1960年代から提唱され、2011年の震災を契機に盛んに唱えられたコミュニティの必要性は、A町のような人の繋がり・日々の助け合い・絆の重視をモデルに据えている。だがそれは、想定モデルを間違えていた可能性が高い。もちろん震災で家屋を失った被災者にとって集団生活(仮設住宅や復興支援住宅による)は不可避だが、その計画者・設計者が目指すところはA町でなく海部町のような集団生活を想定した方がよい(さもないと災害をようやく生き延びた被災者に、そのつもりはなくとも自裁をそそのかす羽目になる)。本著が丁寧に描き出した海部町とA町の違いは、その意味で建築界にとって必読だ。

町の生成

評者は本著を読んで、なぜ日本において海部町のような集団生活と住民気質が成立したのか、そして今日においても持続するのかについて、完全に理解することができた。豊富な事例と考察を著者が示してくれているからだ(海部町の歴史調査や空間調査、「自殺予防因子」の具体的な抽出)。であれば、それをほかの町に応用できないものか、と考える読み手は多いだろう。著者はそれに対する回答として、ほかの街は海部町の“すべて”を取り入れようとするのでなく、それぞれの事情にあわせて海部町の“一部”を「いいとこ取り」したらどうか、と提案している。なぜなら、もともと海部町自身が「いいとこ取り」の本家本元だからだという。つまり「江戸時代の初期」に「この地に集まってきた移住者たち」は、異なる郷里からさまざまな「いいとこ取り」をもち寄って、今日の海部町を形成していったと推定できるのだ、と著者はいう。著者によるこの推理は非常に秀逸で、評者もまったく同感である。
本著終わり近くに記されたこの推理を読んだ時、評者ははじめて“海部町の謎”が解けたと思った。評者が付け加えるとしたら、もともと海部町は“集落”ではなく“都市”だったということで(近世都市のひとつ)、しかも多種類のよそ者だけが定住した“都市” だった。そしてその移住は“巨大な被災の後(戦後)” に、“一挙に”なされたのである本著によると、海部町は「江戸時代の初期」に「材木の集積地」として始まったそうである。「大阪夏の陣の後、焼き払われた城や家々の復興」のため「大量の木材の需要」があったからだという。するとそれは1615〜28年の13年間である(大阪城落城と城下焼き払いは1615年、大阪城再建は第一期着工1620年・第三期着工1628年)。この時期の木材需要のうち、大阪城再建は空前絶後の巨大事業であり、ゆえに「この地に集まってきた移住者たち」とは西日本一帯の商工業者たちである{回船業者、山林業者、馬喰・地回り、職人(棟梁・大工・石工など)、商人(金融業者・博徒)、および各集団の宗教}。海部町はその起源において、異なる生業とスキルをもった多数の集団が定住した“都市”であり、よそ者だらけの“植民都市”として始まったことになる。そしてこの移住は、前述した13年間に“一挙に” なされたはずである。またそれは1615年の後(大阪城落城と城下焼き払いによる戦災の後)でなければ生じなかったという意味で、“巨大な被災の後(戦後)” の新たな定住である。
ただし、この13年間に匹敵するような木材需要は、その後の江戸期においては発生していない。定住前に期待されていた需要の継続{瀬戸内一帯では石山本願寺が焼き払われた1580年以降、その巨大な跡地開発である秀吉の大阪城建設(1583年竣工)やそれに続く各国の天守閣建設ラッシュのため、築城のための材木・石材等の需要が続いていた}は、定住後には続かなかったことになる。ゆえに海部町に定住したさまざまな職業集団は、おそらく1630年代には兼業や転職を余儀なくされただろう(これも“戦後”に特有の現象)。そして著者が推理しているとおり、互いに情報とスキルを教え合い、窮地を脱するという成功体験を何度も積んでいったはずである。海部町の慣用句にある「市」「病」「こらえたれ」といった独特の言葉使いは、この時期のものである(ゆえにどことなく戦国武士のような血なま臭い響きを留めている)。
海部町にある宗教施設が多種多様であること(神仏あわせて全宗派がそろっている)も、移住集団の職業や出立地がいかに多様だったかを示す物証である。さらに、いくつか寺の境内が町民にとっての「サロン機能」をもっている(通りすがりの町民が「立ち話」を盛んに行う広場として機能している)という事例は、17世紀に一部の仏教宗派が行なっていた“探題”(今日のディベートのような審判付きの公開討論会。日本における“democracy”の起源ともいわれる)を思わせる。1630年代に困窮を極めた職業集団たちが互いの意思疎通に成功したのは、それぞれが奉じる宗派の僧侶同士が“探題”の形式を借りて、職業集団(宗派)の垣根を超えて、境内で公開の議論と利害調整を始めたからだろう(そして聴衆である職業集団のメンバーたちは、対外的に通じるロジックや用語をそのディベートから学び取った)。海部町の人びとのユニークな「立ち話」の起源はそこにあり、「市」「病」「みせ」といった言葉の意味が意外にロジカルである理由もそこにある。ゆえにそれらが続いている限り専制主義に後退することはなく、話せば話すほど“democracy”に行き着く。
。かつて“democracy”を日本語にはじめて訳す時、“民主主義”でなく“下克上”が訳語として検討されたという有名な逸話があるが(明治期)、その意味での“democracy”が海部町のように鮮やかに実現されて継続している例を評者は聞いたことがない。この町は、ありえたかもしれないもうひとつの日本の姿を示している。と同時に、これから多くの町でさまざまなかたちで転用されて再生しうる可能性も示している。建築界の専門家が海部町の「いいとこ取り」を行なう場合も、この意味での“都市の可能性”を念頭に行われた方がよい。
本著は専門用語を避けて平易な言葉で書かれており、住民自身が「いいとこ取り」を行うことを念頭に出版されている。建築と都市を学ぶ学生にも、被災地や過疎地で市民集会を行う若い人びとにも、復興計画に携わる年長者にも、本著はすべからく読まれてほしい。

西沢大良

1964年東京都生まれ/1987年東京工業大学建築学科卒業/1992年~西沢大良建築設計事務所代表/2013年~芝浦工業大学教授

生き心地の良い町──この自殺率の低さには理由がある

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岡檀著『生き心地の良い町──この自殺率の低さには理由がある』(2013年、講談社)

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