新建築 2020年12月号発売となりました !

新建築ライブラリー 第5回:『建築昭和史』その5

当社の96年におよぶアーカイブから、絶版本を中心に紹介する「新建築ライブラリー」。4回に分けてご紹介した『建築昭和史』(1977年、著:佐々木宏)の第1章、「大正14年から昭和5年までの状況」の最終パートをご紹介します。

『新建築』は武田五一をはじめとした京都大学の人脈を基盤としていたため、関東の建築界や一部の建築運動のグループからは嫌煙されており、なかなか建築メディアとして中立的な立場を確立できずにいました。さらに創刊から4年後の1929年には世界恐慌により、取材も難航を極めたといいます。
この状況下で組まれた特集が、1930年7月号「甲子園ホテル」です。1冊ほぼ全ページを使って、1つの建物を紹介するという、当時の雑誌としてはほかに例をみない企画でした。人脈も取材も限られていた状況を逆手にとったともいえる試みは、しかし読者からの反応もよかったとみられ、その後の『新建築』に大きな影響を与えました。東京に本社を移す前の大阪時代の晩年、『新建築』は現代にも通底するかたちを見いだしつつありました。

以下、本文より抜粋

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掲載時には片隅にあるが後に文献資料としてかなり重要な性格をもつのは、さまざまな記録である。人の消息、行事の記録、展覧会の目録などといった小さな記事は編集に手間がかかって省略されがちであるが、しかし、定期刊行物の性格を左右する面ももっている。 「新建築」 では第3巻の後半から、この種の記録が載せられてくる。 それらによって、京大建築会、日本インターナショナル建築会、創宇社などの当時の動向を知ることができるし、また参加した人びとの名前もわかる。たとえば日本インターナショナル建築会の声明文などは、現在そのオリジナルを所有している人はごく少ないはずであるが、「新建築」に発表されたものによって、誰もが容易にその内容をしることができる。

ちなみに吉武東里の後で本野精吾も「新建築」の表紙のデザインをしているが、彼は日本インターナショナル建築会のメンバーでもあった。 「新建築」との関係は彼を媒介にしたものらしいが、会員の作品掲載はかならずしも多くない。岡田孝男の同想によれば、メンバーは伊藤正文、上野伊三郎など早稲田大学の出身者が有力であったので、京大系とみなされていた「新建築」にはかならずしも協力的ではなかったらしい。同様なことは分離派建築会のメンバーとの関係についてもいえる。 石本喜久治のみが特集号*で大きく扱われたため、他のメンバーの反発がかなりあったらしく、当時関西にいたのは森田慶ーと滝沢真弓であったが、京大助教授の森田は楽友会館を発表した程度で、滝沢はほとんど寄稿していない。アウトの特集号でオランダの建築事情に詳しかった堀口捨己の回想記が載せられているくらいである。

このような事情から推察できるように、初期の「新建築」は協力者も限定していたので、かなり苦難の道を歩まねばならなかった。また経営的にもきびしかったようである。 しかし、「新建築」の生長を見守り援助する人びともいた。その人びとが限定されていたため、一方で取材活動も偏向しがちであったのは仕方なかったと思われる。同人誌的なものから脱皮して一般ジャーナリズムの性格をもつようになるのはかなりおくれたといえよう。

皮肉なことに、その偏向のもっともいちじるしい特集が、新しい活路につながってくる。それは甲子園ホテル特集号**である。 全ぺージをほとんどこの建築の紹介に当てている。 ライトにはじまった「新建築」が、そのライトの弟子の遠藤新の作品で大阪時代を終えるのは、偶然とはいえ何か暗示的なものも感じられる。この大胆な編集は注目すべき企画であり、試行錯誤して建築を総合的に捉えようと努力してきた創刊以来の念願が、まったく異なった形式で結実したのである。 この経験が次の東京移転後の「新建築」の歩みに及ぼした影響は大きいものといわねばならない。

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次回から、1931〜1937年を総覧する、第2章「昭和6年から昭和12年までの状況」をご紹介します。

本文注釈:
*『新建築』1929年1月号
**『新建築』1930年7月号

著者略歴(*本データは書籍の刊行当時に掲載された情報です)
佐々木宏
昭和6年北海道に生まれる。昭和30年北海道大学工学部建築学科卒業。昭和32年東大大学院修士、昭和37年同博士課程終了。現在、佐々木宏建築研究室主宰、および法政大学工学部講師。