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新建築ライブラリー 第6回:『建築昭和史』その6

当社の96年におよぶアーカイブから、絶版本を中心に紹介する「新建築ライブラリー」。『建築昭和史』(1977年、著:佐々木宏)の第2章「昭和6年から昭和12年までの状況」を4回に分けてご紹介します。

1930年秋、新建築社は大阪から東京へ本社を移します。当時の東京は関東大震災復興のための建設事業が活発であり、取材対象も豊富であったといいます。1931年1月号からは文字を横組みに変更するなど誌面の体裁を一新し、建築の作品紹介を軸に置いた雑誌としての性格を強めていきました。

佐々木氏は、この時期に誌面に登場した作品の多様さから当時の建築界の混沌とした様子が読み取れると述べ、特に「東京帝室博物館(=現・東京国立博物館)」のコンペ入選案を紹介する記事で落選した前川國男の応募案を掲載するなど、編集側も議論のきっかけを生むような誌面を意図していたと言及しています。

以下、本文より抜粋

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編集と発行の本拠を東京へ移した「新建築」のもっとも大きな目的は、やはり地方誌的性格からの脱皮であったといえよう。東京は日本の首都であるばかりでなく、当時は震災復興のための建設活動もさかんで、取材対象も豊富であった。したがって雑誌が生長し飛躍するためには、東京進出は当然の布石であり、関西のローカルな雑誌からの転身もやむを得なかった。しかし、このことによって、関西とまったく縁を断ったわけではなく、築かれた交友関係は維持され続けて行く。とくに東京進出に当って武田五一の示唆は重要で、彼はかつての教え子で、当時大蔵省に勤務していた安田清を編集協力者として推薦した。安田は大阪時代の岡田同様に献身的な協力を続け、「新建築」の発展に大きな功績を残している。

東京へ移って3号目の1931年1月号から、誌面は体裁を一新した。判型は大きくなり活字組も横組となった。これによって専門誌的性格が現われ、その内容もかつての啓蒙的記事はほとんど姿を消し、作品紹介が中心となってくる。
この時期の「新建築」の誌面に登場した作品の多様さは、日本の建築史の上で、もっとも興味深いものである。当時の日本の建築家の混乱や悩みがかなりよく誌面に反映されている。様式折衷主義もあれば伝統的なデザインもあり、また新しい東洋的様式もあり、インターナショナル・スタイルもある。混然とした建築界の様相が誌面からうかがわれるのである。

こうした状況をもっとも象徴的に示しているのは、東京帝室博物館のコンペであろう。入選案の紹介の他に、落選した前川國男の応募案の紹介もしている。ここには明らかに編集者たちの意図が現れている。こうした誌面構成によって、論争が起こり、前川案が歴史的に重要な意義をもつようになったことはいうまでもない。後に東京帝室博物館が竣工した時の紹介は、同じ号に山田守の逓信病院と並べて行なわれ、編集者の寸評として山田の作品の方を評価しているのが注目される。

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著者略歴(*本データは書籍の刊行当時に掲載された情報です)
佐々木宏
昭和6年北海道に生まれる。昭和30年北海道大学工学部建築学科卒業。昭和32年東大大学院修士、昭和37年同博士課程終了。現在、佐々木宏建築研究室主宰、および法政大学工学部講師。