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新建築ライブラリー 第2回:『建築昭和史』その2

当社の96年におよぶアーカイブから、絶版本を中心に紹介する「新建築ライブラリー」。

第2回は、『建築昭和史』(1977年、著:佐々木宏)の第1章「大正14年から昭和5年までの状況」の1/4をご紹介します。 『新建築』が創刊された1925年から1930年の6年間を概説するこの章では、住宅に特化した雑誌として始まり、新建築社が当時大阪に事務所を構えていたため関西の建築界を軸に、建築家の紹介や吉岡賞(現・新建築住宅設計競技)へと展開するコンぺの開催などへ徐々に幅を広げていった過程に着目しています。

以下、本文より抜粋

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新建築の創刊号は1925年(大正14年) 8月に出版された。発行人は吉岡保五郎、発行所は大阪市内であった。新しい雑誌の発行の意図は吉岡の「創刊の辞」に述べられているが、刊行の背景には京都帝国大学教授武田五ーの示唆と援助が大きな力となっていた。「新建築」という誌名の命名は武田であり、副題の〈住宅之研究雑誌〉というのは吉岡自身によるものであった。

「新建築」はF.L.ライトではじまった。創刊号の冒頭の記事は武田教授による萊都氏*の住宅の紹介である。武田は早くからライトに注目し、文通による親交を通して知己の間柄であったので外国建築の紹介としてライトの作品を選んだのであろう。これは次号の山邑邸の伏線でもあった。山邑邸はライトが日本に残した数少ない作品の中のひとつであり、ライトの基本案が遠藤新と南信によって実現したものである。 口絵写真や図面とともに、直接現場を担当した南信が解説を書き、設計仕様や設備のデータまで詳しく載った。「新建築」の本格的な作品掲載はこの第2号の山邑邸にはじまったといえよう。

住宅の紹介にはじまった編集は、〈住宅之研究雑誌〉というサブタイトルの上からも当然のように、住宅作品を主な取材対象とした。初期の掲載作品は笹川慎一の小倉邸、武田五一の小川邸、竹腰健造の山本邸、南信の菅野邸、藤井厚二のM博士邸、石本喜久治の平賀邸、長谷部鋭吉の自邸、佐藤功一の自邸などであり、他には南信設計の商店と医院が新築作品として紹介されている程度である。

一方で1926年11月号の安井武雄特集を最初にして、建築家の特集が企画されたのが注目される。それらは長谷部鋭吉、宗兵蔵、石本喜久治、平松英彦、渡辺節、大林組住宅部などである。作品にしろ建築家にしろ、関西が中心になっているのは、編集所が大阪であった制約によるものであろう。石本の場合は、大阪在勤中に吉岡と親交があったためらしい。

このような作家特集とは異なって、ひとつの作品に多くのページを当てて詳細に紹介したのは、武田五一自邸と藤井厚二の大沢邸である。 ともに1929年10月号に掲載された。これによって当時の「新建築」が京都帝国大学の建築学科といかに深い関係にあったかが知られよう。武田、藤井両教授は建築界の有力な指導者であり、そのふたりの作品をならべて掲載したのは異例のことであった。

これらをはじめとして、この頃に掲載された住宅は富裕階級の大邸宅がかなり多く、その富裕度の水準は現在よりもはるかに高いものであった。しかし、デザインの上では非常に多様であり、純和風、和洋折衷、洋風など、建築家が意図したものか施主の好みに合わせたものか判別のつかないものが多い。

一方で、計画案ではあるが、小規模の合理的なプランに基づく小住宅もかなり掲載されている。これは、住宅に対する新しい視点の設定として注目される。広範囲な取材をめざす兆しであった。デザインの上では、まだ新しいものはとくに現われていないが、経済性をふまえた上での素朴なアプローチによる作品は、近代建築の進む路線につながる要素をもっていた。

住宅を中心とした編集方針は、読者のより強い関心をひくためもあって〈小住宅設計図案懸賞募集〉を企画した。これは現在も年1回「新建築」が行なっている〈住宅コンペ〉のはじまりである。最近では海外からの応募者も少なくなく、 それらの中には上位入選者も出ているが、興味深いのは第2回目の応募者の中にバウハウスの学生だったマックス・ビルが3等に人選していることである。聞くところによると当時バウハウスにいた水谷武彦が助力したらしい。投書などの形式ではなくこのようなコンペによって読者の誌面参加というのを企画したのは注目される。

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*本文注釈:
フランク・ロイド・ライト氏の意。

著者略歴(*本データは書籍の刊行当時に掲載された情報です)
佐々木宏
昭和6年北海道に生まれる。昭和30年北海道大学工学部建築学科卒業。昭和32年東大大学院修士、昭和37年同博士課程終了。現在、佐々木宏建築研究室主宰、および法政大学工学部講師。